第20話 解読依頼
宿に戻った
そして、大河は部屋の前に到着するなり、ノックをするでも、声をかけるでもなく、入口の引き戸を勢いよく開け放つ。
「おい静穂、ちょっと調べて欲しいものがあるんだが――ぶふっ!」
ためらいなしに部屋の中へと入ろうとする大河であったが、それは顔面に向かって一直線に飛んできた枕によって見事に防がれ、それとほぼ同時に静穂の罵声が響いた。
「ちょっと、何勝手に入ろうとしてるんですか! 着替え中だったらどうするつもりなんですかっ!」
「着替え中って、晩飯も出てないこの時間に何に着替えるってんだよ」
枕がぶつかった箇所を手で押さえつつ、大河は反省した様子もなく言い返す。
しかし、それは静穂の怒りを買う以外の結果を得るには至らなかった。
「時間の問題じゃなくて、デリカシーの問題です!」
「別に見たわけじゃないだから問題ないだろ。それより――」
「当然ですよ! 着替えを見られたら、その時点で警察に突き出してますよ!」
「わ、わかった。わかったって。次からは入る前に声掛けるから。だからそんな怒るなって……」
静穂の剣幕に、さすがの大河も気おされ、どうにかなだめようと試みる。
そして訪れる、沈黙の時間。
互いの呼吸音すら聞き取れそうな静寂に、口を開くタイミングを逸してしまい、時間のみが惰性に過ぎていく。
それは、窓から伸びてくる夜の気配が主張を強めてもなお、続いていた。
そんな気まずい空気の中、先に折れたのは静穂の方であった。
「……わかりました。私が大人げなかったです。大河さんですものね。それで、私の部屋に何の用ですか? あと、部屋の電気つけてください」
「お、おぅ……これだな」
静穂に言われるまま、壁に設置されている照明のスイッチを押す。
すると、蛍光灯が室内の明度を一気に引き上げ、今が夕刻であるということを実感させられる。
だが、そんなセンチメンタルな感情に浸っているわけにもいられない。
大河は足元に落ちている枕をひょいと拾い上げると、そのまま部屋の中央のテーブルに着いて座っている静穂の元へと足を進めながら、用件を切り出す。
「それで、静穂にお願いしたいことなんだが……この資料の解読なんだが、できそうか?」
「資料って、どんな感じの資料ですか? さすがにラテン語だとかフランス語は専門外ですよ?」
枕を受け取りながら、静穂は怪訝そうな顔で大河を見上げる。
対して大河は膝をつき、静穂と目線が合う位置まで腰を落とすと、おもむろに自らの携帯電話を取り出し、
「多分外国語じゃないと思うんだが、俺にも読めないから何とも言えん。とりあえず日本語だとは思うんだが……」
自信なさげな大河の言葉に、静穂は落ちかけた眼鏡を直しつつ、携帯電話の画面を注視する。
そして、画像に記された文面を精査すること数秒後、自問自答をするように細かくうなずき、顔を上げた。
「大丈夫……ですね。多分いけると思います。それで、いつまでに仕上げればいいですか?」
「なるべく早い方が助かるが、この村にいる内にはもらいたい」
「わかりました。それじゃあ、後でその写真送っといてください。そうしたら私の方で解読しておくので」
「あぁ、頼んだ」
そう言い残し、立ち上がろうとする大河であったが、静穂の言葉がそれを引き留める。
「あの、大河さん……ちょっと臭くないですか?」
「えっ、臭うか? 確かに今日は結構動いたが、そんな汗だくになるほどじゃ……」
静穂のしかめた表情に、大河は飛び上がるように立ち上がり、自らの袖の臭いを確認してみる。
だが、自分の臭いが故か、別段キツイといった印象はない。
そこで、とある可能性が大河の頭に浮かんだ。
「……もしかして、加齢臭?」
恐る恐るといった様子で静穂に確認する大河。
すると、静穂はそっと目を閉じ、落胆とも見える表情を浮かべる。
途端に現実味を帯びてきた、自らの老いという現象に、まだまだ若いと自負していた大河の心境が、圧を掛けたガラスがごとく、ひび割れていく。
だが、そんな不安に顔を青くする大河に対し、静穂は吹き出して大笑いをする。
静穂の行動に理解が追い付かず、間の抜けた顔をする大河。
その様子に、更に静穂はお腹を抱え、笑いを加速させる。
そんな状態が十秒ほど続いた後、笑いが治まった静穂は、目元に涙を浮かべながら事実を大河へと伝えた。
「大丈夫です。臭いっていうのは、冗談ですって」
「冗談?」
「はい」
冗談という言葉に安堵し、大河はほっと息を吐き、脱力する。
「おい、焦らせるなって。本気で気にしちまったじゃねぇか!」
「レディの部屋にいきなり入ろうとした仕返しですよ」
してやったりという顔で見上げてくる静穂に、大河は再度ため息を吐く。
その後、大河は苦笑を浮かべたまま踵を返すと、軽く手を上げ、背後にいるであろう静穂へ、宜しく頼むとあいさつを送った。
静穂も、そんな大河のサインに対し、声に出すことこそなかったが、意図を読み取り、口元を緩める。
そして、部屋を出る瞬間の大河の表情は、疲れの色が見えながらも、どこか楽しそうでもあった。
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