第2話 屋敷探偵事務所
朝の通勤ラッシュが終わってもなお、大型のビルが立ち並ぶ駅前の大通りは人が途絶えることがなく、都心の動脈と呼ぶにふさわしい賑わいをみせていた。
ただ、それも路地を3つほど抜けると賑わいも鳴りを潜め、低層のビルが立ち並ぶ閑静な通りにたどり着く。
通りの幅は自動車が一台ようやく通れるかという程度で、道行く人も片手で数えられる程度しかいない。
というのも、この通り一帯の大半のビルが夜の店で占められているからというのが原因であるからだった。
そんな事情もあって、昼を迎えるまでのこの時間帯に限っての話ではあるが、穏やかに過ごすには、この上ない好立地であるともいえる。
そして、この通りの中央にぽつんと建っているひときわ古めかしいビルの、さらにその3階――通りに向けて『
事務所内はビルの外観ほどの古さは感じられない内装であったが、それでも白かったであろう壁紙は変色し、床を覆う青かったであろうタイルも若干緑味を帯び、場所によってはひび割れすらしている始末で、否応なしに物件の劣化が散見される。
ただ、来客用に用意されているのであろうソファやテーブル、鉢に植えられた大き目の観葉植物は上質で、この部屋には不釣り合いではないかと思えるほどであった。
また、事務所内に机は二か所あり、壁際に位置する事務机は、書類や文房具がきれいに整頓され、背後の書類棚には可愛らしい字で名前がつけられたファイルが整然と並んでいた。
もう片方の机は窓際に置かれており、その上には食べかけの酒のつまみであったり、破かれた馬券であったりといった、明らかに業務に関係ないような品々ばかりが、乱雑に散らかっており、さらには靴を履いたままの足までがドンと乗っかっている。
そして昼寝中の主――屋敷大河はろくにアイロンもかけていない、よれよれの黄色いシャツに黒いスーツ姿のまま、革張りの椅子に深々と腰掛け、黒い帽子をアイマスク代わりに顔に乗せて、なおも眠り続けていた。
そんな優雅な昼寝の時間に終焉をカウントダウンするかのように、カンカンカンと事務所の入り口に続く鉄骨階段が奏でる足音が徐々にその存在を強め、その後一拍の休息すらも許すことなく、勢いよく扉が開かれた。
「大河さん、いつまで寝てるんですか! もうすぐ約束の時間ですよ!」
大砲のように響く女性の声が事務所内の空気を震わせる。
「ん、んぅ……」
衝撃波のように飛んできた第一声に、大河は一度身をよじるも、顔に乗せた帽子をとるまでに至らず、再び就寝の体勢へ入ろうとする。
「あっ、ちょっと! 大河さんっ⁉」
胸元に紙袋を抱えながら、事務所に入ってきた黒髪のロングヘアをした丸眼鏡の女性――屋敷探偵事務所のもう一人の従業員にして探偵助手――
「お・き・て・く・だ・さ・い‼」
ニワトリも顔負けの気迫ある静穂の大声。
その圧力に、大河は目蓋を持ち上げ、もっさりとした動きで伸びをしながら、大あくびをする。
「なんだよ、人が気持ちよく寝てたってのによ……」
「なんだよじゃないです! 今日は依頼人が来るんですよね、だったらちゃんと身支度して出迎えてください。あと、机の上はちゃんと片付けて! 足を上げない!」
ラッシュ攻撃でも仕掛けてくるかのような静穂の指摘に、大河は渋々といった様子で机から足を下ろす。
「相変わらず口うるさいなぁ、お前は俺の母ちゃんかよ」
「大河さんがだらしないのがいけないんです! 仕事ってのは信頼が大事なんですから、そんなんじゃいつか仕事なくなっちゃいますよ」
静流は掛けていた丸眼鏡をクイッと持ち上げると、鋭い眼光を大河へと向ける。
「いいんだよ。それに、仕事を受けるかどうかは、俺が決めることだ」
大河は静穂の圧から逃げるように、背を向けると、負け惜しみともとれる言葉を返す。
だが、探偵事務所の事務作業の大半をこなしている静穂には、藪蛇にしかならなかった。
「そうですか。私は構いませんけど、お給料はちゃんと払ってもらいますからね。最悪の場合、法的手段にも出ますから、そのつもりでお願いします」
「おっ、お前……」
言い返したいが、言葉が出てこず、結局ぐぬぬぬとうなり声をあげるだけの大河を後目に、静穂はドンと帽子を机の上に乱暴に置くと、そのまま背を向けて応接テーブルに向かった。
そのまま、静穂は紙袋から買ってきた茶菓子やら掃除用の雑貨やらを取り出し、来客の準備を始める。
黙々と作業を続ける静穂。
その背中をぼんやりと眺めながら、大河はぼそりとつぶやく。
「黙ってれば、イイ女なんだけどな……」
大河にそう言わしめる静穂の格好は、白いブラウスに、淡い桃色のロングスカートに、同系色のパンプスを合わせたものであった。
それでいて髪は黒のストレートロングヘアで、丸眼鏡をかけているのだから、何も知らない男性は大人しいお嬢様のような性格と思い込んで、実際の性格とのギャップに撃沈することは想像に難くない。
ただ、そんなことを指摘しても、そんなファッションの人間に何を言われても説得力がないなどと言われるのは目に見えているので、結局大河はこれ以上静穂を刺激してしまわないよう、自らの仕事に取り掛かることにした。
「……はぁ、しゃーない」
大河は大きくため息を吐くと、観念したという様子で机の上に散らばったゴミの数々を搔き集め、足元に置かれたくずかごの中へと落とす。
それだけの所作にも関わらず、大河は一仕事終えたという雰囲気を出しながら、再び背もたれに寄り掛かり、天を仰いだ。
視界の淵に見える、役所などによくありそうな丸い壁掛け時計の長針からは、もうすぐ約束の10時を回ろうとしているのがわかる。
「あぁ、もうこんな時間か……」
誰にとなくそうつぶやくと、大河は寝ぐせがないか、頭に手を当てて寝かしつけ、次いであご回りを撫で、ひげの具合を確認する。
「ちょっと伸びてるけど、依頼人がいつ来るかわからないし、別にいいだろ」
指先に伝わる無精ひげの感触は決して心地よいとはいえなかったが、いつ来客がくるかもわからないこの状況で剃り始めるわけにもいかないと、自分に都合の良いように言い訳したところで、大河は再び大あくびをする。
「大河さん、お客さん来たみたいですよ」
「はぇ?」
上手く聞き取れなかったこともあり、大きく口を開けた間の抜けた表情のまま、大河は静穂に聞き返す。
「ですから、お客さんが――」
静穂がそこまで口にしたところで、ガチャリと音を立て、事務所の扉が開かれた。
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