赤端村

一飛 由

第1話 序章

 日暮れを迎えた山は、それまでとはまた別の姿を見せ、世界を暗闇に染め上げつつあった。


 外灯などといった人工の明かりなども一切なく、かろうじて視認できるのは数メートル先にある木の幹程度で、あと数十分もすれば、木の影すら確認できないほどの宵闇が訪れるのは想像に難くはない。


 そんな悪条件であるため、時間帯に山を訪れる者などまずおらず、いたとしても、それは入念に準備を行った上で足を踏み入れる者たちだ。


 だが、現在この山道を進んでいる若者は、前者とは明らかに違う存在だった。


「来るなよ……来るな、来るなっ!」


 息も絶え絶えといった様子で、大学生――泉山いずみやまさとしは、しきりに背後を気にしながら、木の間を縫うように走り続ける。


 首元を開いたワイシャツに、下半身はスラックス、足元にはスニーカーを履いてはいるが、とても山歩きに来たという格好ではない。


 さらに両手はがら空きで、明かりになるようなものを持っているわけでもない。


 傍目にも、彼が何者かから逃げているというのは明白であった。


 しかし、その背後に見えるのは吸い込まれるような暗闇のみで、追ってくる者が男なのか女なのか、どれだけの背をしているのか、人間なのかそうでないのか、一切が確認できない。


 それどころか、周囲に響くのは大学生の荒い呼吸と、おぼつかない足音のみで、本当に追手がいるのか、疑わしい静けさであった。


 だが、当の本人は鬼気迫る表情を崩すことなく、時折ずれた眼鏡を直しつつ、また悪路に足を取られながらも、懸命に前進を続ける。


 そして、スニーカーを片方脱ぎ捨てながらも、泉山智は偶然視界に飛び込んできた小さな山小屋の前で、ようやく足を止めた。


 暗さから状態は判断がつかなかったが、それでも屋外を走り続けるよりはマシと、智は手の感覚を頼りに、入口となる扉を探す。


「よかった、鍵はかかってない」


 十秒ほどで見つけた扉を、ためらうことなく開けて中へ入ると、智は後ろ手で素早く閉めた。


「……ここまでくれば、大丈夫だろ」


 自分に言い聞かせるようにつぶやくと、智は呼吸を整えながら、ゆっくりとした足取りで小屋の奥へと足を進めた。


 小屋の中は家財や什器といった類の品は一切なくがらんとしており、一歩足を踏み出すごとに埃が舞い上がって思わず咳き込みそうになるが、智はシャツの袖で口元を覆ってなんとかこらえる。


「それにしても、ひどいな……何年使ってないんだ?」


 無論、智の問いに答える者はいない。


 代わりに、智が一歩足を踏み出すたびに、木製の床が軋み、音を上げる。


 木の軋む音だけが不気味に響き、智は逃げ切れたという安心感が不安で上塗られていくのを感じていた。


 ……一歩。二歩。三歩。四歩。


 言いようのない緊張感の中、リハビリ中の患者のような牛歩で壁際まで到達したところで、ようやく智は安堵の息を吐いた。


「はぁ、疲れた……ホント、何なんだよ、アイツ……」


 背中や尻が汚れることを気にするよりも、走り続けることで生じた疲労を何とかしたかった智は壁に寄り掛かるようにして、その場に座り込む。


 そして、埃っぽい空気のせいもあって、大きく息を吸い込むことはできなかったが、それでも智は心に生じたわずかな余裕から悪態をつき始めた。


「あのバケモノめ、醜い形してるくせに、何様のつもりだよ。絶対にただじゃおかねぇ……明るくなったら警察を呼んで始末してもらうからな……」


 素直に感情を吐露したことで落ち着きを取り戻した智であったが、落ち着いたことで、ふと疑問を抱く。


「あっ、そういえば……あやかのやつ、大丈夫か?」


 離れ離れとなった仲間の安否が気になった智は、おもむろにポケットからスマートフォンを取り出した。


 幸い画面が割れたりしている様子もない。


「映画だとこういう時壊れてるんだろうけどな、残念ながら現実は使えちゃうんだよなぁ……」


 スマホに視線を落とし、画面をタップする智。


 瞬間、ディスプレイが発光して、周囲に光が漏れる。


 そして、通話用アプリの連絡先からあやかこと大西おおにしあやかを選択しようと指を伸ばして、智はそのまま固まった。


 理由は明白だった。


 下向いた視線の端――煌々と光を放つスマホの向こう側に、泥と血で汚れた何者かの足と、鮮血を垂らした刃渡りが50センチはあろうかという、もはや大刀とも呼べそうな巨大な鉈が見て取れたからだった。


 強張る身体。


 恐怖と驚きで、声を発することもできず、智はただゆっくりと視線を上向けることしかできない。


 泥のついた裸足から膝、腿、そして赤黒い血がこびりついた、布切れに包まれた胴体。


 見てはいけないと警告をするように、智の身体が震え始める。


 しかし、それでも智の目線は止まることなく、相手の全貌を確認しようと動き続けた。


 その結果、智の網膜へと焼き付けられる、到底人間のものとは思えない、大鉈へ続く異様に発達した血だらけの右腕と、あらぬ方向へ折れ曲がった左腕。


 歯がガチガチと音を立てて鳴り始め、頭蓋骨に振動が広がっていく。


 それでも、まるでからくり人形にでもされてしまったかのように、智の視線は止まることはない。


「あ……あぁ……あっ……」


 ライトに照らされたことで、智はその顔を、はっきりと視認してしまう。


 ぼさぼさの髪とハンマーでたたき続けたかのように歪んだ鼻と口、そして布切れでぐるぐる巻きにされた目元……。


 そして、その異常ともいえる存在の顔に智がくぎ付けにされていると、その異形たる存在の目元を覆っていた布が不意にずれた。


 異様に大きい、ぎょろりとした目玉と目が合う。


「――っ!」


 ――ガシュッ。


 智が悲鳴を上げる前に、果実を研ぎたてのナイフで切り飛ばしたかのような音が響いた。


 噴水のように液体が飛び散る音が流れる中、真っ赤に濡れた眼鏡が埃だらけの床に飛び、周囲を黒く染める。


 その数秒後、まるで役割を終えたとでもいうかのように、智だったものの手からスマホが抜け落ち、ガタンと音を立てると、周囲は何事もなかったかのように、再び暗闇に溶け込んでいった。

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