第17話
翌朝。朝からジリジリと焦げるような晴天の中、宗一郎は新田の家に来ていた。朝の九時はさすがに早すぎたかと思ったが、新田は「老人は朝起きるのが早いんだ。気分はもうお昼だよ」と晴れやかに笑っていた。
書斎に通され、毎日の楽しみだという玉露を淹れてもらいゆっくり啜る。味はもちろん、香りからも高級感が漂うせいで零してはならないと妙に緊張してしまう。
「すまないね。こんなところまで来させてしまって」
「いえ、俺としてはありがたかったですよ。手がかりがなくて行き詰まってましたから。もしかしたら社長の話で何か掴めるかもしれませんし」
「おっと、社長はよしてくれ。今はただの落ちぶれた老人なんだ。……わたしは、大勢の社員を路頭に迷わすところだった。そんなやつが社長だなんて肩書き、分不相応だ」
当時を思い出して震える新田。彼は生涯を終えるまで後悔の念に苛まれ続けるのかもしれない。慰めようにも、元社員である宗一郎が言葉をかけたところで、新田の心には響かないだろう。逆に傷口を広げる恐れもある。
新田に紹介された職場を退職してしまったのもまずい。わたしのせいだと自分を責めてしまう前に、さっさと本題に入ったほうが彼のためだろう。
「では新田さん、松末のことなんですけど、最後に話したのはいつですか?」
「松末くんの再就職が決まった時だ。一年半ぐらい前かな、彼はなかなか職が決まらなくてね。きっとムスッとした顔が印象良くなかったのだろう。書類審査は通るのに、面接で落とされることが多かったんだ」
「それでよく保険の営業が受かりましたね」
「実はあの保険会社はわたしの親戚が経営していてね。無理を言って松末くんを雇ってもらったんだ。最初はこんな無愛想なやつが営業できるのかって訝しんでいたけど、段々成績を上げて、ついにはトップになったと喜んでいたよ」
『親戚経営』か。これは、もしかしたら紹介してもらえるかもしれない。
「どうして成績が上がったんでしょう?」
「まずは敬語を身に付けて、笑顔の練習をしていたと聞いてる。毎朝鏡に向かって作り笑いをして口角を上げていたのが実を結んだらしい」
どうやら敬語と笑顔の練習は本当のことだったようだ。語っていたことは全て嘘だと思っていたが、笑顔と敬語は本物の松末が努力して手に入れたものだった。その事実に嬉しくなる。
「そうだ、親戚に会ってみるかい?」
「良いんですか」
「わたしはあまり松末くんに関する情報を持ってないからね。職を斡旋した後は連絡してなかったしな。近くで仕事ぶりを見ていた人の方が有益な情報を得られるだろう」
願ったり叶ったりだ。これだけでも新田に相談して良かった。
「あ、新田さんはキーマンについては何か知ってることありますか?」
「いいや。怪談については興味がなかったもんだから、何一つ知らないんだ。キーマンの元になった殺人鬼? の事件も、実際にあった事件とはいえ自分とは関係ないし、わたしが生まれる前のことだから調べたこともなくてね」
確かにそれが普通だ。自分だってキーマンに関わりのない怪談や事件は毛ほども興味がない。やはりこの辺はオカルト好きな人に聞くのが一番だろう。ちょっとだけ期待していた昔の新聞の切り抜きも、この様子だと所持してなさそうだ。
「それじゃあ親戚に電話するからちょっと待っててくれ。飲み物はここにあるものなら自由に飲んでいいからね」
新田が出ていくのと同時に二杯目の玉露を淹れる。滅多に飲まないからこそ今のうちに堪能しておきたいのだ。袋を見ると福岡県産と書かれているから、きっと八女地方だろう。再就職する前に気分転換に行ってみようか。
玉露が入った袋を眺めはじめて五分、新田が部屋に戻ってきた。
「気にいったのかい?」
「ええ。玉露はあまり飲まないのもあって、本当に美味しくて」
「まだ余っているから帰りに持っていくと良い」
「えっ、良いんですか。ありがとうございます!」
「貰い物なんだがたくさんあるからね。わたしと妻だけでは消費しきれないんだ。いくつか賞味期限切れになるかもと思ってたから、むしろいくつか貰っていってほしい」
戸棚から未開封の玉露を十個取り出して机に並べる。
「ここにあるのはこれだけなんだが、下の台所には五つほど玉露が入っているダンボールがあるんだ」
「どうしてそんなに……」
「さっき電話をかけた親戚がね、数を間違えてしまったんだ。酷く酔っていた時に思い切って注文してしまったらしい。酒を理由にキャンセルするのは失礼だから全部お金払って、一人では飲みきれないとわたしの家にダンボールを置いてったんだ」
「間違えて買った商品を返品せずに買うなんて珍しい人ですね。俺だったら謝ってキャンセルしちゃいますよ」
「昔から少し変わり者だったんだ。でも良いやつだよ。初対面の人に対しては礼儀正しく接するはずさ」
「はぁ、そうですか……」
奇人変人と呼ばれるたぐいの人とは話が合わなそうだからお近づきになりたくないが、親戚筋である新田が「良いやつ」というのなら踏み込まなければ、おそらく普通の人と変わりないと信じるしかない。
「おっと話が逸れたな。明日、昼休憩の時なら空いてるって言ってたんだが、荻田くんは大丈夫かい?」
「はい。俺は今はちょっと暇してるんで大丈夫ですよ」
「そうかい? 飲食店だから忙しいと思ってたんだが」
「有給を取得したんです。だいぶ溜まってましたから」
「なんだ。そうだったのか」
すでに退職していると勘ぐられてはいないようだ。
「ああ、そういえばチラッとキーマンのことを話したら食いついてきたよ。荻田くんさえ良ければ話してあげてほしい。彼はオカルト好きなんだ」
*
翌日の昼、宗一郎は再び松末が働いていた会社の前に来ていた。新田は妻とお出かけをする予定で付き添えず申し訳無さそうにしていたが、会社で一番偉い人に繋げてくれただけでも宗一郎としてはありがたかった。
「どうも、荻田宗一郎さんですね。僕は新田啓治と言います」
「本日はお忙しい中ありがとうございます」
「いえいえ、最近はマスコミがうるさいから仕事を減らしていて暇なんです」
新田啓治と名乗った男性は新田と相貌がよく似ており、親戚というより兄弟みたいだった。
「似てますね」
「そうでしょう、よく言われます。兄弟ではないのに不思議な話ですよね。あ、おすすめのお店があるので、そこで話しませんか」
「わかりました」
おすすめのお店――キーマンも毎回自分のお気に入りのお店を紹介していた。この人も同じように紹介するから、きっと社風だったのだろう。松末の真似をするキーマンが腹立たしい。
「ここです」
地下鉄に乗り、連れてこられた場所には見覚えがあった。ここは松末と再会したその日に入った――『Cafe 古き良き友』だ。スーパーの近くにあったからという理由で入店したが、なかなか美味しかったし、男性客が多いからまた来たいと思っていたのだが、まさかこんな形で再び来店するとは。
「いらっしゃいませ」
低い、耳に心地良い低音に出迎えられる。以前来た時と変わった様子はない。あの明るいアルバイトも健在で、忙しく動き回っている。
啓治は慣れた様子で一番奥の席へ行く。宗一郎はそれに着いていき、先に料理を注文することになった。
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