第6話
松末と再会して朝まで飲んだ日から二週間が経とうとしている。宗一郎は相変わらずぶらぶらしており、時々ワッと泣き出す母を慰める毎日をおくっていた。
明日土曜日は松末と飲む日だが、前回で持てる話題は全て話し尽くしてしまっていた。これでは明日は松末の話にただ相槌を打つだけで終わってしまう。
何かしらの話題がないと会話がままならない自分に嫌気が差す。二週間前は二年ぶりの再会だから話題は腐るほどあったが、昼から翌日の朝までの間にすべて語ってしまった。こんなことならお開きのタイミングを早めにすれば良かった。
このままでは聞き続ける自分も苦痛だが、話しっぱなしの松末も辛くなるのは火を見るより明らかだ。なんとか話のネタを見つけなければ。宗一郎は一つでも良い話題はないかと、SNSで繋がった人が投稿した内容を眺めはじめた。
かれこれ一時間、顔も知らない人達の何気ない日常、美味しそうな料理の写真、共感できる仕事の愚痴など、様々な書き込みが頭に入っては抜けていく。どれもこれも自分の役には立たないしょうもない内容ばかりだが、お菓子を食べながら眺めるにはちょうどは良い。
それに、こんな石ころの中にも宝石はある。滅多に見つからないが、非常に興味を惹かれるものに遭遇することがある。これがSNSの醍醐味だ。そして今日、久しぶりに光る投稿を見つけた。
松末と出会わなかったら気にもとめなかっただろうソレは、宗一郎の関心をひどく惹いた。普段なら最後まで読まないどころか、一行目さえも目を通さない短編小説――『消えた鍵』と題された小説は、松末が語った不思議体験を彷彿とさせるには十分だった。
*
『消えた鍵』
三年前、名門と呼ばれる大学に入学したばかりの頃、入学祝いに親戚からお小遣いを貰った。せっかくだからそのお金でパーッと遊ぼうと、友人が住む神奈川へ遊びに行った時に体験した奇妙なお話だ。
友人が住むアパートはボロく、何人も泊まれるスペースはない。俺はお金を持っていたから無一文の友人たちに譲り、自分はホテルに泊まることにしたのだ。ホテルの名前は伏せておく。真相を確かめに行っても、おそらく同じような体験はできないと思うし、ホテル側にも迷惑をかけたくないからだ。
ホテルに到着した俺は、カウンターにいるスタッフから部屋の鍵を受け取ろうと、一人でにこやかに佇んでいる男性に声をかけた。
「すいません。予約していた清水です」
ニコニコと笑顔で遠くを見ていた男性は、話しかけられて初めて俺の存在に気付いたかのようにこちらに目を向けた。
「清水様ですね、お待ちしておりました。こちらがお部屋の鍵となります」
「あの……名簿に名前書かなくて良いんですか?」
「……ああ! すみません。こちらにご記入をお願いします」
男性は慌てふためきながら宿泊台帳を取り出して記入を促した。
不慣れな様子からきっと新しく雇われたスタッフなんだろうと思った。ベテランならこんなことで慌てないと思うからね。新人をほったらかして、他のスタッフはどこに行ったんだと心の中で憤慨しつつも、宿泊台帳に記入した。
兄が新人イジメにあって精神を病んでしまって以来、スタッフの様子を観察するようになった俺からしたら、ここのホテルは新人スタッフを育てる気がないダメなところという印象だった。
こんなところに泊まるのか、せっかく高めの部屋を取ったのにと、ホテルに対して不信感を抱いたけどもう予約をしてしまっているし、今更変えるのも面倒だ。宿泊するのは今日だけだし、多少の粗は目を瞑ることにした。
「はい、ありがとうございます。改めまして、こちらがお部屋の鍵となります」
「あ……は、はい」
男性スタッフは男の俺でも見惚れる笑顔で鍵を差し出してきた。照れを隠すように小さく「ありがとうございます」と呟いてから、本日の俺の部屋となる【307】号室へ向かった。
道中、他のスタッフとすれ違うことはなかった。今日は休みが多いのかと思いつつも、何故か部屋に近付くにつれてゾワゾワとする背中が気になって仕方ない。べつに寒かったわけじゃない。むしろ空調がよく効いてて気持ち良いぐらいだった。
その妙な感覚は部屋に鍵を差した瞬間に強くなった。
『この部屋を開けてはいけない』
頭の中で響く静止の声。ゾゾゾっと全身に鳥肌が立つ。
何者かに導かれるように鍵を右に回すと、カチャッと軽快な音を立てて部屋のロックは解除された。
荷物が重たい。早く何もかもおろしてしまいたい。
何もかも?
おろすのは荷物だけで良いはずだ。
部屋に入りたいのは山々だ。しかし、手はドアノブを掴んだまま動こうとしない。
『部屋に入ると取り返しがつかないことになるぞ』
俺に語りかけてくるこの声は誰なんだろう。
ぐるぐると思考が回転しはじめ、俺はその場から動けずにいた。
そうだ、ドアノブを回す前にいったん鍵を引き抜こう。そう思った時だ、エレベーターホールから誰かが降りて、慌ただしく俺がいる方へ向かってきた。
「あ! お客様、お部屋の鍵を……!」
駆け寄ってきたのは五十代ぐらいの女性スタッフだった。彼女の手には俺が泊まる部屋の番号が書かれた鍵が握られていた。俺はどういうことだと、鍵に視線を向けたが――。
たしかに差し込んだはずの鍵は、なくなっていた。
最初からそんなものはなかったかのように消え失せていたのだ。鍵の硬質な感触があったのはしっかり覚えているのに。
俺は困惑した。跡形もなく消えるなんてありえない。今が夜なら寝惚けてたんだろうなって思えたかもしれないが、あいにく昼前だ。一番目が冴えている時間帯で寝惚けてたことは、俺の人生の中で一度もない。
「席を外しておりまして、大変申し訳ございません」
美しく、流れるように謝罪する女性スタッフ。洗練された動きで誠心誠意謝る彼女に、俺を騙そうとする悪意は感じられない。本当に心から非礼を詫びている、そう感じた。新人に一人で受付をやらせるホテルだから態度は最悪だろうなって思っていたのに、正反対の謝罪をされて愕然とした。
どうにも腑に落ちない俺は「すいません、カウンターで男性従業員から鍵をもらった気がするんですが……」と、自信なさげに濁した言い方で聞いてみたが――。
「本日、この時間帯に受付業務をしている男性スタッフはおりませんが……」
と、女性は首を傾げた。
「では、こんな感じの素敵な笑顔をした男性スタッフはいますか? 新人ぽい感じの。あ、出っ歯ではないです」
俺は女性受けしそうな優しげな笑顔を作り、指で口角を限界まで持ち上げて男性の真似をした。出っ歯を見せつけるのは恥ずかしかったが、そんなことよりも男性スタッフの行方のが気になるから、羞恥心なんかに負けていられない。
「いえ……そのような方はございませんが」
「そ、そうですか。じゃあ疲れてたから勘違いしてたのかな……すいません変なこと聞いて」
「こちらこそ申し訳ございませんでした。以後、気を付けます」
お互いにペコリとお辞儀をし、仕事に戻る女性スタッフを姿が見えなくなるまで見送る。周囲に誰もいないのを確認してから、受け取った鍵を鍵穴に入れると、今度はまったく寒気を感じられなかったし、警告のような声も聞こえなかった。もう大丈夫だ。そう確信してから扉を開くと、ホームページで見たのと同じ部屋が広がっていた。
忽然と消えた鍵と笑顔の男性スタッフ。会話した記憶はあるし、鍵を受け取った感触もしっかり残っている。疲れて勘違いしてましたとは言ったが、まったくそうとは思えない。
気分が晴れないまま部屋に荷物を置き、最低限の物を持って友人と遊ぶためにホテルを出ることにした。
その際、チラッと受付カウンターを見たが、鍵を持ってきてくれた女性スタッフしかいなかった。
ホテルに帰ってきた後も男性スタッフの姿は見ていない。
どうしても笑顔の男性スタッフが気になった俺は、チェックアウトギリギリまで探すことにしたが、終ぞ見つけることは出来なかった。
ちなみに友人に俺の体験を話したら嘲られた。馬鹿にされた俺は憤慨し、絶対に正体を突き止めてやると宣言してしまったのだが、冷静に考えればたしかに鍵が消えただなんて信用してもらえない。作り話としても面白くないだろう。
それでも宣言してしまった以上探し回るしかない。俺はホテル内を歩き回り、時には迷い込んだふりをしてスタッフしか入れない場所まで足を踏み入れた。しかしそんな努力も虚しく、これだという成果は得られなかった。
落胆し、重たい荷物を背負ってチェックアウトの手続きをする。もちろん例の男性スタッフはいない。
俺が見たのは幻覚だったのかもしれない。ホテルを出る頃にはそう思うようになっていた。
*
似てる、と思う。松末から聞いた話にも鍵が出てきて、消えた。両方とも本物の鍵が出てきた後に跡形もなく消えている。笑顔の男性から鍵を受け取っているのも共通点の一つだ。
違うと言えるのは男性と会ったシチュエーションだ。松末は落とした鍵を探している時、この小説を書いた――ハンドルネーム『清水』という人はホテルの鍵を受け取る時。
笑顔の男性の出現条件はわからない。宗一郎も鍵をなくしたりホテルに泊まったりしたことは何回かあるが、印象に残るほどの笑顔が特徴の男性とは出会ったことがない。松末と清水に共通点があるのではとも考えたが、まったくの赤の他人だし、お互い会ったこともない二人の共通点を探すのは至難の業だ。
そうだ、この話を松末にも読んでもらおう。小説の参考になるかもしれないし、この笑顔男の正体も少しはわかるかもしれない。ついでに進捗が芳しくないようなら相談にも乗ってやろう。
宗一郎は明日のネタが出来て浮かれていた。これで松末だけが話し続けることにはならないはずだ。一仕事を終えたような気持ちでゴロンとベッドに寝そべり、すぐに小説を見せられるように短編小説を保存するために手を動かした。
ネットに投稿されたものはいつ消されるかわからないから、保存しておくのは大事だ。特に新しい作品は一日たったら恥ずかしくなって消してしまうことが多い。お気に入りは一分一秒でも早く保存するのが宗一郎の流儀だ。
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