第5話
*
今思えば不思議というよりもホラーな体験だな。
三ヶ月前、目黒区にある住宅街での出来事だ。あの日も保険の契約のために営業に励んでいて、次のターゲットの家に向かう途中だった。その家は現在地から少し遠い場所にあって、歩くと三十分はかかるから時間短縮のために車で移動しようと思ってたんだ。
駐車場まで歩いていた時だ。住宅街にしては大きめの十字路を通り過ぎ、駐車場が見えてきたところで車の鍵を出そうとしたんだけど、尻ポケットに突っ込んでた鍵がなかったんだよ。そりゃもう慌てたさ。会社の車だったし、鍵をなくしたらなんて言われるか……。
その場でスーツのありとあらゆるポケットを捲っても出てくるのは名刺やゴミばかり。周辺にも鍵が落ちてなかったから、これはもういよいよまずいと思って社用のガラケーを取り出した。こういうのは早めに報告するのが良い。報告してすぐに見つかったら笑い話にもなる。
電話をかけようとした瞬間――。
「これ、あなたの鍵ですよね」
背後で若い男性の声が聞こえた。この場に自分以外の人はいないと思っていたから、心臓が跳ねるほど驚いたよ。振り返って見ると、男の手の平には『君と私の生命』と書かれた鍵が乗っていた。間違いなく会社の車の鍵だ。
男性は鍵を僕の手に握らせると、男は野球帽のつばを顔の前に下げて「それでは」と一礼して足早に十字路を右に曲がっていってしまった。僕は鍵を胸ポケットに入れて、お礼を言うために追いかけたんだ。
でも、男はいなかった。
男が曲がった道は一本道で、隠れるところなぞまったくところだ。すぐに追いかけたから見失うことはないだろうと思っていたのに、最初から存在していなかったかのように忽然と消えてしまったんだよ。もしかしたら側に建っている家の住民なのかと思って、近隣の家を訪ねて聞き込みをしたが、平日の午後二時に野球帽を被った若い男性を見たという人はいなかった。
不気味だなと思いつつも、いい加減仕事に戻らないとノルマが達成できないので駐車場に向かうことにした。
しかし、ここでも僕は足止めを食らってしまった。
遠くから「すいませーん! そこのスーツのひとー!」って、大声を上げながら走ってきた女性に引き止められてしまったのさ。
どうしたのかと問うと、息を整えた彼女は「これ、あなたの鍵ですか?」って聞いてきた。僕はすぐに「違う」と言おうとしたが、鍵に書かれていた『君と私の生命』を見て出かかった言葉を飲み込んだ。
ちなみにその時の会話がこうだ。
「これをどこで?」
「藤井さんの家の前で。私、藤井さんの隣に住んでいて、買い物の帰りに見つけたんです。この『君と私の生命』って社名ですよね? 会社の車の鍵だったから落とした人は困ってるよねって思って探したんですけど……ああ、見つかって良かったです」
「……いやぁ、ありがとうございます。ちょうど鍵をなくして困ってたんですよ。人探しは大変だったでしょう。お時間を取らせて申し訳ございません」
「いえそんな、暇してる主婦ですし大丈夫です。それに、あなた以外の人はいませんでしたから、探す手間はありませんでしたし」
「そうなんですか? 一人や二人ぐらい歩いてそうなものですけど」
「いつもは誰かしらいますが、今日はどの道を見ても誰もいませんでした。おかげですぐに落とした人が見つかりましたけど、珍しいこともあるもんですよねぇ」
「ハハハ、そうですね」
藤井というのは先ほど訪問していた家で、どうやら敷地を出た時に落として、数分後に買い物帰りだったこの女性が拾ったらしい。そして、鍵の落とし主を探していたところ『一人』で歩いていた僕を見つけたということだ。
女性の話に嘘は見えなかった。嘘をついている人間は目線が泳いだり、逆に微動だにしなかったりと、不自然な動作が多くなるけど、女性の仕草に不自然なところはなかった。この女性が嘘の手練ではない限りな。
では、先程の男性は幻だったのか?
もちろんそれはありえません。たしかに口を開けて話していた記憶はあるし、何より鍵を触った感触も残っている。僕は女性の話に適当な相槌を打ちながら、胸ポケットに入っている鍵を探した。予備の車の鍵は会社にあるから、この場に同じ鍵が二つあることはない。どちらかが偽物だ。
するとどうだ、入れたはずの鍵がなかったんだよ。入れた物が落ちるほどの浅いポケットではないし、当然穴も空いていない。異常に気付いて忙しなくポケットの中を探る僕に、女性は「どうしました?」と聞いてきた。明らかに変な動きだったから不審に思ったんだろう。僕は慌てて「何でもありません。鍵、ありがとうございます」とお礼を言って女性と別れた。
その後、急いで駐車場に行って女性から受け取った車の鍵を使った。もちろん鍵は開いたし、エンジンもかかったよ。変なところは一切なかった。
では、消えてしまった鍵を使ったらどうなっていたのか。僕はですね、あれもちゃんと使えたと考えています。傷、汚れ具合……どう見ても本物だったからな。
*
「その日はなんとも奇妙なことだと、もやもやしながら仕事したよ。成果に関しては……まあ、察してくれ」
松末は照れくさそうに笑っているが、彼のことだから成果なしというのはないだろう。精々いつもより一件か二件少ないぐらいだ。松末は自分の失敗は許さない男だった。あの頃と変わってなければ、時間を数分ロスしても意地で一つは契約を取ってきたはずだ。
それはそうと今の話、本当に現実に起きた出来事だろうか。仕事人間だから疲労で幻でも見て、それを現実だと勘違いしたんじゃないのか。
「ちょっと質問いいか?」
「現実味のない話だとは思っているから遠慮なく聞いてくれ」
「じゃあまず、尻ポケットに入れていた鍵を落とした時、本当に気付かなかったのか? 普通は音が鳴ったり、鍵の感触がなくなったりとかで気付くと思うんだが」
「まったく聞こえなかったな。でもそれにはちゃんと理由があるんだ。藤井さんとの話が終わった後、ちょうど旦那さんの車が車庫に入ってきたんだ。つまり、エンジン音のせいで聞こえなかったんだよ。尻ポケットの感触は……そうだな、ちょっとこの鍵を入れてみてくれないか」
松末から例の車の鍵を受け取ってズボンの尻ポケットに入れる。中に入っている感触はあるが、気になるほど存在感を主張していない。ストラップが付いていたらなくなったことに気付くだろうが、これでは仕事に夢中になっていたら落としても気付かないのではないか。
「あー……落としてもわからんかもなぁ」
「だろう? こんな昔ながらの鍵、なくしたら一巻の終わりなのに、ストラップの一つも付けるなってうるさいんだ。せめてキーケースぐらい欲しかったよ。ドアを開ける時もいちいち鍵穴に入れなきゃならないし、窓だって手動だぞ。まったく、社長の古い車好きにも困ったものだ」
「ハハ……なんだか大変そうだな」
松末はワインの入ったグラスを勢いよく置き、グチグチと会社の不満を吐露しはじめた。宗一郎は適当に話を聞いている間に焼酎を飲み干し、松末と同じワインを注文した。間もなくやってきたワインを片手に松末の愚痴に付き合っていると、二十分ほどぶっ通しで喋って満足したのだろう、落ち着いた口調で「すまない」と謝ってきた。
「いや、気にするな。働いていたら愚痴ぐらい出てくるさ。それより、さっきの不思議体験の質問に戻るぞ」
「ああ」
「野球帽の男なんだけど、顔はどんな感じだったんだ」
「そういえば言ってなかったな。目が細くて、こんな感じで笑っていたよ。僕みたいに人が良さそうな笑顔でした」
薄目で白い歯を見せる松末。ニンマリとした作り笑いはあまり似合ってない。
「なんか不気味だな。怖いぞその顔」
「そうですか? 女性受けが良いんですよこの笑顔」
「お前の笑顔は見慣れてないからかな」
「じゃあこれから慣らしていきましょう。数ヶ月後には気にならなくなりますよ。それはそうと他に質問あるか?」
「いや、ないかな。小説のアイデアとしては悪くないし、その体験を元に書けば初めてにしては良い感じな物語が書けると思うぞ。素人意見だがな」
「ジャンルは……」
「ホラーだろ。それ以外思いつかん」
「ですよね。あー、あー……いっぱい喋ったら喉が渇いたな。今度は荻田さんが何か話してくださいよ」
「んー、そうだなぁ……じゃあこんな話はどうだ」
再びお酒を注文し、今度は宗一郎が語り手となって武勇伝や失敗談を話し始めた。本当は松末みたいな不思議体験を話したいところだったが、あいにくそういうオカルト系とは無縁な生活だったから話せるものが一つもない。
それから二人は一晩中飲み明かし、話題が尽き始めた頃にお開きとなった。
「また奢らせて悪いな」
「次に奢ってくれたら良いので気にしないでください」
「そうだ、これからも会うんだから連絡先教えてくれよ」
「あー……今は自分用の携帯持ってないんです」
「前は持ってたじゃないか」
「会社の人としか話さないから解約したんだ。今は支給された携帯電話しかない。さすがに仕事用を私用で使うわけにはいかないから勘弁してください」
「不便じゃないか?」
「実は会社の寮に住んでまして、休日は基本的に引きこもってるんですよ。だから誰かと連絡するのは今の会社に就職してから一度もないんです。会社の同僚はあくまで一緒に働く人って認識だから、わざわざ連絡する理由がない」
「意外と出不精だったんだな」
「休日ぐらい誰とも会わずゆっくりしたいんだよ。あ、でも荻田さんと話すのは楽しいからそれは別腹ですよ」
「じゃあ毎週飲むか?」
「それは疲れるから勘弁してほしいですね。二週に一回でお願いします。僕は土曜日が良いんですが、荻田さんは?」
「俺はいつでも大丈夫だ」
「では、再来週の土曜日にまた会いましょう。待合わせ場所は居酒屋街の入り口で良いですね?」
「ああ」
「携帯は今年中にできたら契約しとくよ」
「今年中とは言わずに明日にでも契約しといてほしいんだがな」
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