第4話
デザートを食べた後も話は盛り上がり、ふと外に目をやればすっかり暗くなっていた。長居をしてしまったと店主に詫びれば「本日は人の出入りが少なかったので大丈夫ですよ。またお待ちしています」と、微笑まれてしまった。
怒るのではなく許されてしまうと、悪いことをしたと思って申し訳ない気持ちになって、何かお詫びをしなければと思ってしまう。とはいえ、客である自分に出来るのはまた来店して食事をするぐらいだろう。宗一郎はカフェの場所と名前をしっかり脳に刻み込んで、近いうちにまた来店しようと心に決めた。
外に出ると、疲弊しきったサラリーマンたちが重い足取りで帰路についている姿が目立った。時刻は十九時を過ぎているから彼らのほとんどは残業帰りだろう。
そんなサラリーマンたちとは対象的に、宗一郎と松末は見せつけるように大きく闊歩する。
目的地は居酒屋だ。カフェを出てすぐにお酒を飲もうという話になったのだ。この近くには居酒屋が立ち並ぶエリアがある。大人数用もあればお一人様用の居酒屋も存在する――お酒を嗜むすべての人のためにあるような場所だ。
焼き鳥の匂いが漂う路地裏に入り、適当な居酒屋を探す。どのお店も素晴らしいお酒を用意しているから迷ってしまう。
「あっ、あそこはどうだ? 贔屓している居酒屋なんだ」
「ええと……『きよめ』か。変わった店名ですね」
「奥さんの名前なんだとよ。親父さんの惚気話が凄くてなぁ。会ったことないのに詳しくなっちまった」
「愛妻家なんだな。でも今は惚気話を聞きたい気分じゃないんですよねぇ。そうだ、ちょっと歩くけど贔屓してる居酒屋あるんです。良かったら今日はそこに行きませんか」
松末のおすすめか。せっかくだからたまには新規開拓するのも良いかもしれない。
「そうだな、俺も惚気を聞く気分じゃない。それに既婚者の男の話は独身にはきついしな!」
「同意を求めるな。僕はけっこう好きですよ。ターゲットになる奥さんの情報を集められるからな」
「仕事人間だなぁ」
他愛もない話をしながら路地裏の奥へ歩く。徐々に明かりが少なくなり、周囲の景色が黒に塗りつぶされて何も見えなくなる。眠らない街と言われている新宿にこんな暗い場所があったのかと、ちょっと薄気味悪さを感じながら進む。
「あ、見えてきました。あれです」
松末が指差した先に、ぼんやりと浮かぶオレンジ色の明かりが見える。あまり目立たないから、松末がいなかったら見逃していただろう。
近づいてみると平屋の一軒家を改造した小さな店だった。暖簾に『おつかれさま』と書いてある。居酒屋が集中している場所を抜け、わざわざ暗いところまでやってきた客に対する労いの言葉だろうか。
「荻田さーん、早く入ってきてくださいよー」
暖簾に書かれた言葉の意味を考えているうちに松末は店内に入っていたようだ。早く早くと手招きしている。慌てて店に入ると、ひょろっとした、居酒屋には似つかわしくない青年がやってきて「こちらへどうぞ」と言って、トイレに近い個室に案内してくれた。
「この部屋は常連特権なんです。どうせたくさん飲むだろう? それならトイレに近い方が良い」
「今は悪酔いしない程度にしか飲んでないよ。……たぶん。飲みすぎだって色んな人に怒られたからな。ところで特権使って部屋を選べるとは……トイレが近い人もいるだろうし、なんだか悪いことした気になるな」
「そんなの早いもの勝ちだから気にしなくて良いですよ。それにトイレが遠いくらいで怒るような心の狭い人なんてめったにいないでしょう」
「まあ、たしかに」
「ほらほら、早く入りましょう。お腹空きましたよ」
靴を脱いで部屋に入る。空調がよく効いていて心地良い。思い切り食べて飲んだらすぐに寝てしまいそうだ。
「何にします?」
「そうだなぁ……ってそうだお前、弁当どうすんだよ」
「あー……朝食にする」
「そして今度は昼食になるのか?」
「そこまでいったら捨てる。そういう荻田さんも同じだろ。その袋には今夜のおかずが入ってるんじゃないか?」
「あー……朝食にするって、そうだ! おふくろに連絡しておかないと。すぐに帰る予定だったから何も連絡してない」
急いで母のメールアドレス宛に「松末と飲むことになったから朝に帰る」と、短いメッセージを打って送信ボタンを押す。母は昔から過保護だったから家にいないとわかった途端、警察に行方不明届けを出すに違いない。特に今はちょっとしたことでも騒ぎを起こしかねない。
成人式の後に「宗ちゃんは大人なんだから放っといてほしいって思ってるかもしれないけど、私とお父さんにとってはいつまでも可愛い子供なんだから、心配かけちゃ駄目よ」と言われたことがあるから連絡をしておくのは大事だ。父を亡くして傷心の母にいらぬ心労をかけさせるわけにはいかない。
「そういや松末、明日は仕事じゃないのか?」
「ホワイト企業だから毎週土曜と日曜は休みなんだ。だから今日はたくさん飲めますよ」
「へぇ、それは羨ましいことで」
「荻田さんはフリーだから毎日が休みみたいなもんじゃないか」
「その代わり金がないんだよ。それより早く注文しよう。俺はビールが飲みたいんだ」
メニュー表を覗き、ビールの他におつまみになりそうな料理を探す。お酒だけで腹を見たそうとするのは良くないと重々承知しているが、居酒屋に来るとどうしてもメインがお酒になってしまう。体の健康より心の健康だと、よく言い訳をしている。
注文してしばらくすると、先ほど案内してくれた従業員がビールを運んできた。二人の再会に乾杯をして、グイッと一気にビールを煽る。豪快に「プハーッ」と息を吐くと、今までの疲れが吹き飛ぶようだ。やはり一発目はビールに限る。
続いてやってきた鶏の軟骨に手を伸ばし、ポリポリと音を鳴らして噛み砕く。お互いお腹が空いていたのだろう、あっという間にビールがなくなり、次のお酒を注文することになった。次は宗一郎が焼酎、松末はワインだ。
お酒を飲みながら職場で起きたハプニングを面白おかしく語ると、松末は腹が捩れるんじゃないぐらい笑い転げる。そして、お返しとばかりに上司のとんでもない失敗談を話してきた。最近は母の世話ばかりだったし、気兼ねなく話せる友人は仕事が忙しくてなかなか会えなかったから、こうして話せるのはとても楽しい。酔いも手伝ってか、平素であれば笑えない話であっても大笑してしまう。
「ああそうだ、実は小説書いてるんですよ」
笑いが落ち着いてきた頃、松末は思い出したように言ってきた。急な話の転換にほんの少しだけ酔いが覚める。
「へぇ。なんでまた」
「単に受賞したいだけですよ。深い意味はない」
「まあ、自分の作品が受賞したら嬉しいもんな。それで有名になったら最高だ」
「厄介事が増えるから有名になりすぎるのも困りますけどね。ほどほどが一番やりやすいですよ」
「で? それを俺に話すということは、もしかして行き詰まっているのか」
「ええ、その通りです。ちょっと自分のアイデアに自信がなくて……」
「お前でも悩むことあるのか」
「ありますよそりゃ」
「それで、どんなアイデアなんだ?」
「アイデアというか、自分の不思議な体験が元になってるんだ。ちょっと長くなるけど、聞いてもらっても良いか?」
「もちろん。夜はまだ始まったばかりだからな」
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