第2話

「は? え、もしかして松末か?」

「そうですよ。別人に見えますか?」

「お前……笑えたんだな。それに敬語も使えたんだな……」

「失礼ですね。僕だって人間なんですから笑えますし、敬語だって話せますよ。ま、以前の僕を知っている人だったらそう思うのも無理はありません。今の会社に就職してからこの笑顔と敬語を身に付けましたので」


 開いた口が塞がらない。宗一郎が知っている松末は常に無愛想で、上司であろうと敬語を使わない、敬遠されるのが普通な人間だったはずだ。

 それが今や人好きのする笑顔に、初めて耳にする敬語ときたもんだ。人間って変われるもんだなと感心する以前に、知っている人物と違いすぎて見た目は変わらなくても別人としか思えない。


「荻田さん? ボーッとして、大丈夫ですか?」

「あ、ああすまん。ちょっと頭が追っ付かなくてな。ところで俺が言うのもなんだが、真っ昼間から何してるんだ。こんな女の人ばかりなスーパーで昼食でも買いにきたのか?」

「ええ、弁当を買いにきたんです。さっきまで営業してたんですよ。この保険良いですよーって。なかなか頷いてくれない手強い相手でしたが、なんとか契約にこぎつけました」

「へぇ。保険の営業マンやってるのか」

「いやぁ最初は苦労しましたよ。荻田さんが知っている通り、昔の僕はいつもムスッとした顔で、更に傍若無人な態度でした。おかげでお客さんが怖がっちゃって……契約が取れないもんだから、会社設立以来の落ちこぼれって影で囁かれていましたよ」

「ということは再就職も苦労したんじゃないか? 正直、一緒に働いていた頃はどうして新田社長は無口で無愛想なやつを雇ったんだって思ったぞ」

「ははは……誰にも言ってなかったんですが、これじゃあ一生就職できないんじゃって心配されて雇われたんですよ。とんでもないお人好しですよね。実は今の会社に就職できたのも新田社長の推薦なんです」

「なんだ、コネか」

「返す言葉もありません」


 松末がばつが悪そうに顔を背ける。こういうところも変わったと思う。以前の松末ならコネだなんて言われたら相手を打ち負かす勢いで反論したはずだ。たった二年ではあるが、年を取って落ち着いたってことだろうか。


「それより、こんなところで立ち話もなんですから、どこか落ち着ける場所に移動しませんか? さっきから奥様方の視線が痛いです」

「そうだな。ずっと立ち話をしていたら通報されちまいそうだ。昼間から買い物してる不審者が二人もいますよーって」


 冗談っぽく言ってみたが、すれ違う人全員に視線を投げられるからいつか本当に通報されかねない。やはりこのスーパーの『男性立ち入り禁止』的な雰囲気はよくない。


「じゃあ出ましょうか」


 そそくさとスーパーから出て新鮮な空気を吸う。東京の空気は美味いものではないが、店内の化粧臭さよりは随分とマシだ。


「あ、あそこの昭和みたいな雰囲気の建物はどうだ。珈琲の絵が描かれた看板があるからたぶんカフェだぞ」


 スーパーを出てすぐ、一昔前にタイムスリップしたのではと思わせる建物を見つけた。昨今の甘く、お洒落なカフェとは違い、暗いブラウンベースでレトロな雰囲気を漂わせているのはなかなかポイントが高い。腰を落ち着かせるには丁度いい佇まいだし、あれぐらい古風な感じだと女性客はあまり寄りつかないだろう。男二人が入店しても違和感はないはずだ。


「確かに古臭い感じが良いですね。気に入りました、あそこにしましょう」


 近くに寄ってみるとカフェ特有の珈琲の香りが鼻孔を擽った。店の前に置いてある木製の立て看板には『Cafe 古き良き友』と、丸く可愛らしい文字で書かれている。

 ウィンドウから中を覗くと、やはり女性客より男性客の方が多いようだ。だいたいの席にコーヒーカップが置かれている。そして、何よりも目を引くのが大きなレコード。リクエストをしたら音楽を流してくれるサービスもやってるのかもしれない。


 重厚なドアを開き、店内に足を踏み入れると、ゆったりとしたクラシック音楽が流れていた。ここでゆっくり珈琲を飲みながら読書をしたら至福の時間になりそうだ。


「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」


 店主と思われる男性の低く渋い声に迎えられ、最奥にある二人用の席に腰を落ち着かせる。メニュー表を開き、当店オススメと表記されている珈琲を頼もうと即決する。特別珈琲が好きというわけじゃないが、初めて入るカフェに来るとまず珈琲を飲みたくなるのだ。


「じゃあ僕は激辛ハヤシライスでも頼みましょうか。飲み物は水だけで」

「軽食を頼むのか? その袋には昼食の弁当が入ってるんだろ」


 ビニール袋からスーパーで購入した弁当が透けて見える。白米に乗っている梅干しと思われる赤い色が食欲をそそられる。これを残すのはもったいない。


「せっかくカフェに来たんですから、美味しいの食べたいじゃないですか。弁当は夕食にします」

「ご注文はお決まりでしょうか」


 注文の品が決まったタイミングで若い女性従業員がやってきた。ネームを見るとアルバイトと書かれているから学生だろうか。もしかしたら立て看板の文字は彼女が書いたのかもしれない。

 メニュー表を指差しながらゆっくりと注文する。間違いがないかしっかり確認を取り、恭しく「ごゆっくり」と頭を下げられるのは悪い気はしない。この不慣れな感じは見てて微笑ましい。


「荻田さん、顔、ニヤついていますよ」

「え、そうかな。気のせいだろ」


 ドキッと音を立てて心臓が跳ねる。


「あの子が気になるんですか? 駄目ですよ、年の差がありすぎます。僕たちは社会人の括りだと若造と言われますけど、女子高生にとってはおじさんなんですから」

「べ、別に邪な思いを抱いたわけじゃないぞ。初々しいから俺にもあんな時代があったなーって思い出に浸っていただけだっ」

「そんなに慌てるとは……怪しいですねぇ」

「そんなことより! お前のその敬語、なんか気味が悪いから普通に喋ってくれ」


 咄嗟に話題を変える。からかわれるのは好きじゃないし、松末に敬語で話されるのはそわそわしてしまう。以前のようにタメ口で慇懃無礼な態度の方が話しやすい。


「えー、んん……わかった。久しぶりにタメ口で話すから、時々敬語が出ちゃうのは勘弁してくれよな」

「少しぐらいなら我慢するさ」


 本音を言えば笑顔も薄気味悪いから戻したかったが、それは営業の武器だから仕方がない。せっかく習得したのだから、笑顔くらいはこちらが慣れておこう。


 ほどなくして「お待たせしました」と、注文した激辛ハヤシライスと珈琲が届き、松末は待ってましたと言わんばかりに破顔する。声には出さないがやはり不気味だ。

 松末は相当お腹が空いていたのか「いただきます」と言ってすぐにガツガツと勢いよく食べ始め、宗一郎が珈琲を飲み終わる前に完食してしまった。

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