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はじめて彼に気づいたのはいつのことだったろう。つい先日のような気もするし、一ヶ月前のような気もする。
いきつけの書店で同じ男の人をよく見かけるようになった。私と同じような年ごろで、私服のときもあったし学ランのときもあった。どうやら私と趣味が近いらしく、何度もニアミスした。
最初は小さな親近感を覚えただけだった。些細な、たとえば電車のなかで自分の好きな作家の本を読んでいる人を見つけたときにすこし嬉しくなるみたいな、そんなものだった。
そのうちに彼が小人をよく手に取っているのを見るにつけ、私の気持ちは少しずつ変化していった。書店に入ってまず彼の姿を探している私がいた。そして見つけると心が弾んだ。
冷静なった今思い返してみると、あれは恋だったのかもしれない。否定できる自信はない。
そうしてそんなことを何回か繰り返しているうち、あるとき私はおかしなことに気づいた。
それは、彼の異常なまでの小人への執着だった。何度も何度も、それこそ尋常じゃないほどの回数、彼は小人を手に取っていた。
私だっていちおうファンだから、その気持ちは理解できないこともない。他の本を求めて書店に来ていても、好きな本が目に入ったらその存在を確かめるようについ手に取ってしまう。
だけどその光景はやっぱりどこか異常だった。そして、まるでテレビのブラウン管の走査線の綻びを発見したときのように、一度それに気づいてしまうともうだめだった。彼の姿が他のコーナーにあるだけで逆に違和感を覚えるほどだった。
その綻びを、私は必死になって取り繕おうとした。彼はきっと買うお金が無くて立ち読みで済ませているんだとか、ああもしかして重版のたびにどこが改稿されているのか見つけようとしているんじゃないか、とかそんな感じで。
そんなふうに自問自答を繰り返していたときのことだった。
先週の金曜日。今から数えて五日前の出来事。
学校で彼の姿を見た。
そのとき、私は放課後の廊下をあてどもなくぶらぶらと歩いていた。その日はよく晴れた日で、すこしずつ日が長くなってきたことを実感しながら気分が浮かれていたのを覚えている。
だからその声が聞こえてきたときに私は立ち止まってみる気になったのだと思う。
声は階段の上のほうから聞こえた。この上には閉鎖された屋上への扉だけしかないどん詰まりで、彼らはその扉の前の段差に腰掛けて話しているのだということがすぐにわかった。声は少なくとも男子ふたりぶんで、その会話のなかに「小人」という言葉が含まれていたのだ。
私は傍にある掲示板を眺めるふりをしながら耳をそばだてた。
「……発売日は来週の水曜日だろ?」
「ああ。出版社によって決まってる。水曜日だ。買うのか?」
「もちろん、買わせてもらうよ。感謝しろよ?」
私の口から、ふふっ、と小さな笑いが漏れた。感謝しろよ、だって。私だったら感謝する。どうやら彼らのうちのひとりが小人の熱烈なファンみたいだ。嬉しい。
「感謝してるよ、十分」
その言葉とは裏腹に、彼の口調はぜんぜん感謝しているものとは思えなかった。声がぼそぼそとこもっていて低く、聞き取りづらい。
「それ、ぜんっぜん感謝してるように聞こえないぞ」もうひとりの彼が言った。詰問調ではなかった。それだけでその人の気のよさがわかるような、そんな声だった。
「あれか、あれだな?」その明るさを含んだ声がもう一度聞こえた。「八千草正晴の書評を気にしてるんだろ?」
その名前には見覚えがあった。とある大手の雑誌で小人のことを痛烈に批判していた書評家だ。いわく――あんなものを好んで読んでいるのは精神年齢が低い者に違いない、とか。
「いや、そうじゃないよ。あの人の言っていることはなにひとつ間違っちゃいない」
「それじゃああれか? この前の連載の出来。小人っぽくないっつーか、なんていうか。あれを気にしてるんだな?」
その明るい響きに、私は確信的に何度も頷いた。確かにあれは小人っぽくなかった。でも、長く連載してたら出来の悪い話のひとつやふたつ混じってしまうものだ。ファンだったらそれくらい大目に見たってバチはあたらない。優しい彼のもの言いにあてられて私もそんな気になってくる。
「違う。違うんだって、岡倉。そういうのじゃない」
ああ、なるほど、優しくて明るい彼のほうは岡倉くんっていう名前なのか、と思った次の瞬間――
「俺は、もう二度とあんな幼稚なものは書かない」
言っている言葉の意味自体は認識できた。しかしなによりそれは出来の悪い芝居の台詞みたいに宙に遊離していた。
「お前、なに言ってんの?」
「冗談じゃない。俺は本気だよ」
「冗談でなければなんだ? 嘘か? 夢だったんだろ、お前の。作家になることが」
芝居だ。どこまでも芝居じみている。
「夢だったよ、確かに。でも気づいちゃったんだ。しょうがないよ」
「なにに。なにに気づいたって?」
「お前には言いたくない」
「本気で言ってるのかよ、それ。なにかあったのか?」
彼は答えない。そのまますっと沈黙が降りてきた。
気づけばさっきまでちらほら見えていた生徒たちがこぞって姿を消している。なんておあつらえ向きなセッティングなんだろう。なにもかも、すべてがふざけすぎている。
「お前についているファンはどうするんだよ、このまま辞めて。登場人物たちの思いはどこにいくんだよ」
青臭いせりふ。これが三文芝居だとするなら、それに引きこまれている私はきっと安い客だった。
「そんなもの、犬にでも食わせればいい」
センスのかけらもない酷い言いざまだった。
「桜井!」
いきなり放られた乱暴な言葉に体がびくっとした。続けて階段を下りる足音が聞こえてきて、緊張して硬くなっていた体がもっと硬くなる。背後から急ぎもしない足音が聞こえ続ける。気配がじくじくと背中を揺さぶり、平行感覚がなくなったみたいに立っているのさえ億劫になる。堪えきれなくなって傾く体を脚で踏ん張って立て直す。そのときに階段のほうをほんの一瞬だけ見た。
それがあの背中だった。
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