話の内容は、雑誌連載時のそれと変わりはなかった。

 椅子の上で伸びをして机に落としていた目を上げると、思いのほか室内が暗くなっていた。五月に入ってすこしは日が長くなったとは思っていたけど、一旦暮れるとあっという間だ。そう考えたら急に寒気を感じた。このぶんだと上からもう一枚なにか羽織っておいたほうが良かったかもしれない。風邪を引いてしまわなければいいけど。

 とりあえず部屋着の上からカーディガンを羽織り、たった今読み終えたばかりの小人を本棚に収める。すると、私の目線とちょうど同じ高さに赤、青、緑の三色の背表紙が並んだ。三人の小人たちのイメージカラー、赤、青、緑。だとしたら次の巻の色はどうするんだろう、とぼんやりと思う。

『親がいるかいないかなんて、当の子どもにとってはなんでもないものさ』

 登場人物のひとりの台詞が頭に甦る。

 小人というのは、そのカバーの色使いからも想像できるとおりに、比較的ほのぼのとしたものだ。ミステリー仕立てではあるものの、陰惨な殺人事件が出てくるわけではないし、一部の本格ミステリのようにあと味が悪くなるものでもない。いわゆる「日常の謎」を扱っていて、それを小人たちが密かに解決するという、あの有名な「靴屋の小人」をミステリーにつくり変えたような話になっている。連作短編形式で、毎回さまざまな理由で事件の渦中に置かれた人を、さまざまな方法で救っていく。ときには小人間で意見を違えることもあるが、それでも三人の小人は「被害にあった人を幸福にする」という一点で団結していた。

 しかし第三巻に収められていた短編のひとつだけは、違った。いや、違うと言いきるだけの自信はない。ただ、過去すべての話に共感し、ハッピーエンドに胸を撫で下ろしていた私は、その話に違和感を覚えた。

『考えてもみろ。子どもにとってなにが最良の選択なのかなんて、俺たちに決められるはずがないだろう?』

 雑誌掲載時と一言一句変わっていなかった。もしかしたら単行本収録にあたって大幅に改稿されるかもしれない、という淡い期待は簡単に裏切られた。

 どう考えてもおかしい。

 ある日突然まだ幼い子どもを残して失踪した母親。子どもは帰りの遅い父親を待ち、長い時間ひとり家で待つという生活を余儀なくされる。父親は母親のことを気にせず、子どもが行方を聞いても言葉を濁すばかり。

 やがて母親が家にいないことが学校でもばれ、子どもはいじめられる。それでも子どもは母親が必ず帰ってくることを信じつづけるのだが――

 子どもの声にならないSOSを聞きつけて独自に調査を開始した小人たちはしかし、簡単に真実に辿り着いてしまう。それは余りにも救いのない、冷酷な現実だった。

 母親は、自らの意思で家を出ていった。外に男をつくり、子どものことなんてすっかり忘れてそいつの家で幸せそうに暮らしている母親を、小人たちは見つけたのだ。

 いつもの小人たちならここで母親を改心させる方向に持っていくはずだった。だけど小人は言った。

『今回の僕らの役目はここまでだな』

 そして、ほかのふたりの小人も簡単に追随した。

 冗談だと思った。読者を騙すためのミスリードかとさえ疑った。

 しかし物語はそこからあっけなく終局を迎えてしまう。最後には子どもの担任が「夢を見る時間は終わりだ」などと最悪のコメントを残して幕が閉じる。

 そこに至って、私はやっと違和感の正体に気づいた。小人たちには、まるで最初から子どもを救う気などいっさい無いかのようだったのだ。すっかりオチが割れてしまっているお笑い芸人のネタのように、それは退屈で嫌悪感を催す予定調和だった。

 私はもう一度、小人第三巻を本棚から引き出してみた。背表紙の上を支点にし、てこの原理を使って慎重に。

 カバーや帯はおろか、中身にも汚れひとつない。軽く捲ってみると、糊の利いた固い感触でパラパラと小気味いい音がする。

 もうわからなくなっていた。

 ぐっと握って思いっきり撓ませてカバーにしわを作りたいと思った。それからカバーを上側にはみ出させて内側に折り込んだり、本を開いたまま伏せて上から踏みつけることを夢想した。

 それでも意思の疎通が図れていないみたいに、私の手はそんな動きをすることはない。諦めて本を戻す。口から自然にため息が漏れた。

 そして書店でぶつかった彼のことを考えた。

 たぶん、あのとき彼の手で本なんか割れてしまえばよかったんだ。そしたらこんな思いをすることもないのに。

 いや、違う。すぐに気づく。あのときに本が傷んでしまっていたら、私はすぐにまたレジに並び、恥を忍んでもう一冊購入している。そしてまっさらな本と傷ものの本、見た目が歴然として違う、けれども内容はまったく同じな二冊の本を前にして今よりもっとみじめな気持ちになるのだ。

 もうだめだ、と思った。いい加減、ぐちゃぐちゃだ。五感のすべてをシャットアウトして、泥のように眠ってしまいたい。

 自分が泥のようになったことを想像して、デロデロとした感じで脚を引きずってベッドに向かう。そうしてみるとほんとうに体全体から力が抜けたような気になって、私はベッドに倒れこんでそのまま毛布のなかに潜りこんだ。両脚を引き寄せて、丸くなって目を瞑る。

 なのにそこまでやっても、瞼の後ろにはある映像がこびりついたように離れない。

 彼の背中だった。もう何度見てきたのかわからない。愛しいような、切ないような、悲しいような、憎いような、いろんな気持ちが一緒くたにこみ上げてきて胸が苦しくなる。そんな私の気分を知らず、その背中はけっして振り返ることはない。

 いやな背中だと思う。

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