溯夜の過去


 地面に二人の影が映る。真夏のコンクリートはギラギラと照らされた太陽により、熱くなっている。今にも燃えそうな熱さだ。


現代編から続き、翌年の夏、溯夜と明依は高校1年生になった。もうキスはしたらしい。溯夜からだった。真冬の屋上で。

二人は海沿いを歩いていた。恋人繋ぎをしながら、向こうのオレンジ色の夏空を見ていた。そう、その手は離さずに……。


当然、今も溯夜と明依は付き合い続けている。高校は通っていた公立の中学からの中高一貫校で、その高校でも良かったが、姉が自殺した事もあってか別の私立高校を希望し、その高校に二人は入学した。


明依は勉強が苦手だったが、友達と溯夜の教えやアドバイスもあって、見事に一発合格した。


明依が受験をすることは咲花や水音には内緒にしておいた。卒業式で明依は泣いていたけれど、いつものことだと思って気づかれなかった。ただ、連絡先を交換していた事もあり、受験していたのはすぐにバレた。


溯夜と同じ高校に行っているのも知れ渡っている。


だけど、近い距離にいて、いつでも会える仲だ。


 数分歩き、右横に堤防が見える位置まで着くと知らない若い女性に話しかけられた。


その人は茶髪で腹部くらいまで伸ばした髪が目に飛びこんできた。


久遠くおんじゃーん!おひさ~、ずいぶん顔立ちも整って、イケメンになったね。身長も伸びたし、大きくなったね」明るいトーンでその女性は語りかけてきた。


「あれ?その隣の女子は友達?というか彼女?」


(久遠?なんで俺の本名知ってるんだ?)溯夜は焦った。彼女に知られてもマズいし、この状況をなんとかしないとと思っていた。


「私は溯夜の彼女ですけど、久遠って方、誰ですか?人違いじゃありませんか?」赤面しながら明依は答えて問い返したが、女性はその言葉に一歩引き下がった。


「え、溯夜?改名したの?」吃驚した表情でその女性は言った。


溯夜も「そうですよ。俺の彼女の言う通り、久遠君って人と顔が似てるってだけで、人違いじゃないですか?あの、俺らはデート中なので、あまり話しかけないでもらえますか?俺の名前は九十九里溯夜です」


溯夜はしらを切るつもりだった。


「じゃあ、なんで教えてもないのに久遠が男の子だって分かるの?あたしは正真正銘の久遠の姉なのよ。まさか、本当に記憶無くしちゃったの!?お母さん殺して、どこかに連れてかれちゃったよね?少年院からはもう出たんだ」この女性は溯夜―別の名・久遠―の実姉だった。


「それは久遠って名前だと男性名だって判断したからです、あと俺には母はいません。殺してもいません」淡々と溯夜は答えた。


「ああ、そう。でも、あたしの知ってるくーちゃんに顔が似てるもの。そうやって、自分を偽り続けても、いずれハッキリするわよ」


(今あるこの幸せを手放したくない……)溯夜はそう強く願った。



「逃げるぞ、明依」そう言われるがままに私は手を引かれ、まっすぐ、真夏の暑い中、直進していった。


「って、え!話はまだ終わってません。溯夜って本名じゃなかったんですか?久遠ってあなたのことですか?こんな暑い中、走るなんて、もう無理です、限界です。」明依は、はぁはぁと息を漏らす。


「もうちょっと、頑張れ」


方向音痴な彼が行く方向は全然、道が知らないさっきの海の反対側のほうだった。


「ここ、どこですか?」


「もう、追い付けないだろう」


「って、人の話、聞いてますか?」


彼には人の話を聞かないという困った欠点がある。


「もういいです。溯夜、いえ久遠は足、速いね」


「まあな」

余裕の表情を見せる。


「あのさ、俺の事、久遠って呼ばないでくれる?溯夜だから。前みたいに溯夜さんでもいいよ」


恋人になってからは名前で呼び捨てにしている。


「でも……」


丁度その時、さっきの溯夜の姉と称する女性が走って追いかけてきた。


「久遠ーちょっとーー走ってどこ行っちゃうの?走るの大変だったんだから」


「あの、今からあなたをストーカー規制法違反で逮捕、通報しますよ。俺の義理の父親、警察官なんで」と溯夜は述べた。


「もう~久遠ったらー昔から人見知りで、シャイで、照れ屋でクールなんだからっ」とその実姉は言い、抱きついた。


「っ、強制猥褻罪で今すぐ通報しますよ。やめて下さい。」そう言いながら、携帯電話を取り出し、110番を押す。


「知らない女性にいきなり抱きつかれ、困っています。助けて下さい」と通報した。


すぐに警察が来た。


「あのー通報があったのはこの辺で、通報者は貴方でいいのかな?九十九里溯夜君。」


「はい、そうです」


「知らない女性って面識はないんですか?」


「はい」


「いいえ、あたしは久遠の姉です!ちょっと!弟がストーカー呼ばわりするから抱きしめてあげただけです」


警察官はぽかんと顔を上げている。


「お姉さんは身分証見せて下さい。溯夜君は学生証見せて下さい。」そう言われ、差し出した。


雨岸永遠あめぎし とわさんと九十九里溯夜君。どう見ても名字も学年も違いますし、面識が無さそうですね。彼が嫌がっているので、今すぐに抱きつくとかキスしたり等はやめてあげて下さい。じゃないと、書類送検して、連行してもらう事になりますよ」


「はい、分かりました」と永遠は認めた。


「久遠、ごめんね」


そうして、警察官は去っていった。


だが、警察側は妙な点があったのか後付け捜査をし、戸籍を確かめたら、養子として九十九里溯夜という名に学校等で普段使う時はその名前にし、戸籍上の名前は雨岸久遠あめぎし くおんだということが判明した。


   *************


プルルル、プルルルル……。

携帯電話が鳴る。


溯夜は電話に出る。

《もしもし、九十九里溯夜ですけど》

《さっきの女性、貴方のお姉さんで合ってました。でも、情報や履歴書によると手術で10年前の記憶が無いとか。それは仕方ないですね》

《嘘だろ。あ、すみません。もう結構です》

そう言って通話を切った。


「だから、私の言った通りでしょー」と永遠は言う。


永遠はそんな溯夜に近づいた。


「近づくな、や、め、て……」

永遠の白くて柔らかな両手が溯夜の顔を覆うかのように一歩一歩と近づいてきた。


「やめてくれ!近づくなって言ってんだろ!!」


『バシッ、パンッ』溯夜は思い切り永遠の右頬をてのひらで叩いた。


「溯夜、そんな事しちゃ駄目だよ!」明依は注意するが、永遠にも「溯夜さんが嫌がってるからやめてあげて下さい」と言い放った。


明依は心配そうに、そして怒っているかのような目つきをしていた。


永遠は呆然と遠くを見つめながら立ち上がっていた。


「溯夜って、もしかして女性恐怖症なの?」と明依が聞く。


その質問には無視をした。


溯夜は座り込みながら永遠を見上げている。

両頬を触られるかのように包まれそうになった両手を思い出し、「怖い、怖怖、」と発していた。心の中で(助けて……)とも思っていた。


だが、こんな姿を明依に見せまいと必死にこらえていた。


「久遠ーもう大丈夫だからね」と永遠は慰めの言葉をかける。


「おしおき、」溯夜は呟いた。


「おしおきって何ですか?」と何も知らない明依は頭にクエスチョンマークを浮かべながら、聞いた。


永遠は雨岸家の長女で久遠が幼稚園児の年齢の頃に性的虐待をしていた。性器を触ったり、舐めたり、更にはセックスまでしていた。永遠は処女だったから痛かったけど、可愛いし、神に許されるためにと、わけのわからない理由で久遠に酷いことを繰り返してきていた。


永遠がその都度、言う台詞せりふが「可愛い子にはおしおきしないとね~」だった。


溯夜が言っているおしおきというのは多分その事だろう。


永遠が何故、溯夜に今更会ってお話しているのかは分からないが、謝りたいのか、別の事情があってのことだろう。普通なら挨拶で済ませて帰ってもいいのに。


怖がる溯夜を安心させる為に永遠が頭を抱き締めると突然、彼の脳内では【ジリリリ】【ドンッ】【ビリッ】と音がなり、何かを思い出したようで「怖い。いやぁぁああ」、「誰か助けて」、「僕を殺さないで」と叫び、その場に倒れ込んだ。音がしていた時、溯夜はゾクッとして寒気がした。


「溯夜ぁー!どうしちゃったの?」心配そうな顔で声をかけた。だが、返事は無い。その目は自動車にかれた彼氏を起こすようだった。


「溯夜、溯夜!!溯夜さん、九十九里さん!」どんな呼び方をしても呼びかけに応じない。


「あたしは何もしてないけど」と永遠は言う。


「取り敢えず救急車、救急車呼びましょう」明依の言葉に頷き、永遠は119番に連絡した。

そして、すぐさま救急車が来て溯夜は搬送された。


搬送先の病院で窓から太陽が射し込む個室に入院することが決まった。脳の損傷が激しいらしい。意識不明の状態だ。説明曰いわく、PTSDらしい。養子縁組の当時担当だった組員と脳の手術を担当した医師も付き添いに加わった。



話は溯夜――久遠が生まれる前に遡る。



とある家庭の悲しい現実。妻は夫に日常的に一升瓶で殴られる日々を送っていた。妻は無職で家事をしていた。夫はアルコール中毒だった。怒ると乱暴になり、理性を取り戻すと普通のサラリーマンに戻る。典型的なDV(ドメスティック・バイオレンス)者だった。


その家庭こそが夫と妻であり、母である人と子供の長女の永遠とわと次女の悠久ゆうくと長男の久遠くおんの5人家族であった。雨岸あめぎし家は近所でも噂される程、すさんだ一家だった。子供全員の名前は“永遠に幸せな日常が送れますように”という想いからだった。夫が結婚した当初、よく口にしていた。最初は良い人だったのだ。ところが、生活を続けていくうちに、急に豹変ひょうへんしてしまった。仕事場で何があったのかは分からない。けれど、結婚して間もない頃の優しさはもう無い。


一升瓶で殴られる毎日を送っていたが、その時は久遠を妊娠中だった。そんな中、夫に女ができ、そのまま蒸発してしまった。いわゆる、不倫だ。もうその日からは家に帰ってこなくなった。


一升瓶で殴られていたのを永遠も悠久も見ていた。止める事も出来ずに……。


とうとう、12月15日に久遠が生まれた。そう不幸で悲惨な家に。生まれて間もない頃は必死に母だけで育ててきたけど、子供3人を一人で育てるには精一杯。半育児放棄状態でもあった。でも、一生懸命さは伝わる。久遠がミルクを吐こうとも夜中に泣き出しても、悠久が遊んでくれないとわめき散らして大泣きしても、永遠がワガママを言っても、めげることはなかった。


経済的にも困難な状況。お菓子さえ、滅多に買ってはもらえなかった。


「おかあさーん、遊んでー」


「おかあさーん、3人でレールで遊ぼ」


「ごめんね、忙しいから」

「じゃあ、仕事行ってくるね。お留守番よろしく」


――――――――――――――――――――


「お菓子買ってー」


「本当にお金足りないの。我儘わがまま言わず、我慢して」


「今度は買ってくるって言ったじゃーん、なんでぇ?」


「今回限りで許して」今にも母親の目から涙が零れそうだった。


こんな毎日を繰り返していた。


通勤中、久遠らの母は電車の中で揺られながら子供なんて産まなきゃよかったと思っていた。ましてや、あの人との子供なんて。私に育てられる自信なんて無いと自分を悲観的に見ていた。涙すら流せず、悲しみを通り越して、不憫ふびんな思いをしていた。


母は風俗業も夜はやり、色々なパートを掛け持ちし、正社員としても仕事に追われていた。そして、子育てとの両立。それが、まさに大変だった。


永遠と悠久は小学校に上がっていた。同じ公立小学校に入れさせていた。永遠は久遠と8歳差で悠久が久遠と5歳差だった。


仕事を必死にして、帰ってきたある日、2歳の久遠が廊下の床に座って泣き出した。車の玩具おもちゃが遊んでいたら壊れたらしい。そんなことはつゆ知らず、仕事で疲れ果てた母はストレスにより、平手打ちしてしまった。これが初めての暴力だった。そして、咄嗟とっさの暴力に母は耐えかね、大泣きする久遠に「ごめんね」と言い、抱き締めた。頭を撫でるけど泣き止まない。母も混乱して気が動転していた。


そして、永遠に小学生ながらも仕事をさせてしまう。労働基準法により、違法だ。だが、永遠は積極的に仕事をしたいと言い、難なく受け入れた。けれど、社会は永遠が思っていたより、遥かに厳しかった。学校があるから夕方からの勤務となり、夜勤をすることもあった。休日もほぼ、仕事が積み重なっていた。「疲れた」とか「辞めたい」とか言っていたけど、母はやりなさいと頭に叩きつけ、言う事を聞いてくれなかった。


いつしか永遠が幼稚園児に上がる年齢になった久遠に男性器を触ったり、舐めたりという行為をするようになった。仕事のストレス発散だったのかもしれない。久遠はお金に困っていて尽きるから、幼稚園には行かせてもらえなかった。


「可愛いねぇ~」と言いながらソレを撫で回す。一緒にお風呂にも入っていた。悠久も一部始終を見ていたが、引いてはいたけど止めなかった。


性的な悪戯はある程度の年齢になるまで続いた。


「やぁ、めえ、ひゃあ……」


「もうちょっとで終わるから我慢して」


そうして残酷な一日が過ぎる。忘れられない出来事になった。



 別の日。


「とわねえ、なにするの?」


永遠は久遠の男性器を自分の女性器に入れようとしていた。


「痛い、か、な……」


「痛いなら止めたほうがいいよ」と久遠は諭すが、

「するから」と永遠は真面目な顔をした。


そして、血を出しながら性交渉は終わった。


母親が父親にされていたのを目撃していたのだ。真似したくなったのだろう。


    *************


とある日の休日。母が海に連れていってくれた。久しぶりだった。息抜きにもなったと思う。


一面見渡すと海だ。右に道路が走っており、左にはトンネルもある山があった。山の小脇に小山もあり、岩もあり、その岩には海水がザブンと打ち付けられていた。


岩にかかる海水を4人はぼぅーっと見ていた。

それぞれ違う思いをしていただろう。静寂な時間ときとさざめく波音。そして、海の香りがそこら中に漂っていた。


「ここから下りましょ」そう母に促され、3人は階段を下りた。


砂浜に着いたが、人は誰もいなかった。田舎だからか4人以外、見渡す限りいない。どこを見渡しても、広がっているのは景色だけだ。何故だか、船が一船置いてあった。


水着は持ってきていなかったけれど、水を掛けあって遊んでいた。小さい子供だからまだいいだろう。


「きゃはは」笑い合う声。


3人とも楽しそうだ。


もう夕暮れ時だった。日が地平線に落ちそうになっている。


「くーちゃん」

「何?とわねえ」            永遠は貝殻を手に持ち、見せてくる。  「見て、綺麗でしょ」

「ほんとだ。僕も巻き貝拾ったよ」

「くーちゃん、スゴい。私はカニ捕まえた」

悠久もそう言って自慢してくる。


「海、綺麗だね」

「ね。」


「もう、こんな時間だし、帰りましょう」


3人は母にそう言われ、この海を後にした。

もう二度と来れないことをみんなその時は知らなかった。


   *************


2歳の時に初めて暴力を振るったが3歳頃から10歳まで、母は久遠に自分がされてきたのと同じように一升瓶で殴ったり、蹴ったり、日に日に暴力が増していった。その手は娘達にも及んでいった。


「おかあさん、怖いよー」


「やめて、痛い」


“ガンッ”


鈍器が割れたような音が響く。

泣き叫ぶ声と暴力の音が近所で噂されるくらいに有名だった。苦情や通報も寄せられていた。


 そして、毎年祝ってきた3人の子供の誕生日会も6歳の久遠の誕生日が最後になってしまう。冬の寒い日。窓にも白い雪がしとしとと落ちているのが見えた。ひいらぎの葉も白い塩のような雪に染まっていた。


誕生日席に座ると久遠はふーっとロウソクの火を吹き消した。


“はっぴ ばーすでー とぅーゆー”

“はっぴ ばーすでー とぅーゆー”

“はっぴ ばーすでー でぃあ くーちゃん”

“はっぴ ばーすでー とぅーゆー”


と子供だけで歌を歌った。

母も拍手をしている。


久遠はにっと笑った。久遠が笑ったのはこの瞬間が最後だった。そして、ケーキを食べ、誕生日会は無事終了した。


「くーちゃんも来年から小学生だからね」と母が言う。


「小学生?」きょとんとした顔をした。


「小学校という所があるのよ」


久遠は幼稚園に行かせてもらえなかった。だから、普通の子より少し遅れている。


「怖い所じゃないから、安心してね」


「うん」


「幼稚園に行かせられなくて、ごめんね」


「いいよ、まま」優しい笑顔で許す久遠。我が家を照らしてくれる光のようだった。


来年の春、小学校に入学した。アザなどの傷が増えるようになっていたが、小学校でいじめに遭うことはなかった。


小学校のテストで名前を書く欄に久遠と書くはずが苦怨と書いていた。暴力が増す度に自分は呪われた人間なんだと思うようになっていった。


学校から帰るとすぐに暴力を振るわれる。そんな毎日だった。陶器の置物で頭を叩かれたり、階段から落とされたり……。骨折する事もあった。包帯でぐるぐる巻きにしながら学校に行く事もあったので、当然目立つようになってしまった。怪我が増えたことで、学校側から児童相談所に通報がいく事もあった。


家では永遠が従順な奴隷どれい、悠久がいない子の消失者、久遠が生贄いけにえの被害者という構図だった。


悠久は暴力をの当たりにして、一言も喋らなくなってしまった。体育座りで目が無表情で死んでて、下ばかり見ていた。


永遠は中学校に上がっても、仕事を続けるのが日常だった。学校と仕事の両立で疲れが溜まっていた。


久遠は泣く事も忘れ、無抵抗で痛みに耐えていた。勉強で苦労する事はあまり無かった。

   

    *************


“パチッ”見上げると天井。

「溯夜!」叫ぶ明依の声が病室に響く。

一週間ぶりに目が覚めたようだ。心配する看護師や医師、それから義父、つくもと明依、そして永遠の姿があった。


「俺、どうして……」


「ずっと、眠っていたのですよ」明依は優しいまなざしで頬に触れた。


「お姉さんの名前やお母さんって叫んでて、痛いとかも言ってたので、心配しました」

「発狂してて、だいぶ怖かったです」怖じけづいたようにそう告げた。


「そうだったのか……ごめん。発狂してたか」


「寝てる間、どうでした?」と明依が聞くと、溯夜は「ずいぶん昔の夢を見てた」と魂が抜けたように言った。


そして、また眠りに就いた。


    *************


久遠が10歳の頃。母は包丁を突きつけ、暴言を吐き、阿鼻叫喚になりながらも襲いかかった。その時初めて、抵抗し、「お母さん、怖いよ。ごめんね、僕が生まれてきたせいで。ぎゃあぁぁあー!」と叫びながら久遠は母のお腹、胸辺りを何度も刺し、殺してしまう。夜の7時過ぎくらいの出来事だった。その様子を姉二人も目撃していた。


そして、警察が来て、逮捕されるはずだったが、小学生になってから児童相談所に学校側からも通報があった事から、正当防衛が認められ、年齢も幼かった為、罪にはならなかった。だが、残された娘達にも何らかの心傷が生まれ、久遠は発狂と意識障害を繰り返すようになった。そして、脳の手術をする事になり、記憶も無くなり、頭が良くなって、新たな透視能力が使える脳にリセットされた。そして過去の記憶は当然失い、二度目の人生がスタートした。


そして、姉達とは引き離され、久遠は九十九里家という場所に養子として迎え入れられた。多分、姉二人は児童養護施設行きだ。


九十九里家は母親が、つくもという一人娘が生まれてすぐに病死し、父親と二人暮らし。この話はフィクションだから出来るのであり、現実では認められていない。


その家に預けられ、溯夜という名前を記憶が無い為、分からないから取り敢えず付けた。そうして、九十九里溯夜という人の新たな人生が始まった。


ちなみに手術して、目覚めた日が6月15日なので、誕生日も本人はその日だと認識している。その手術というのが難しく、非常に時間が掛かった。


後々、家庭環境が悲惨だったことも知り、手術の詳細も書類(カルテ等)で分かり、生年月日や本名等の戸籍も溯夜の中では把握はあくしてある。


でも、感情が希薄な設定に手術でしてある為、心的ダメージもない。女性に対しては一定以上の距離になるとたまに拒絶反応を起こす。だから明依と最初に会った時も失礼で冷酷な態度を取り、近づけないようにしていた。友達を作らないのも関心がないから。そういう風に脳内プログラムが仕組まれている。


   *************


「うわぁあああぁーっ!!!」

起きたかと思えば発狂だ。当然、周りの人々は吃驚する。


天井に向かって手を伸ばしていた。謎だ。母親に襲われる夢か幻覚でも見ているのかもしれない。


喚き散らす声。病室中に響き渡る。


「これは鎮静剤打たないと、ダメかもしれませんね」冷静に医師は言った。


そして、溯夜は注射を打たれた。少しだけ落ち着いてきた。


「溯夜、苦しくなくなってきた?大丈夫?ここは怖くないからね」と明依が慰める。


「うん」全てを受け入れて見透かしたかのような目で窓の外を見つめた。もう外は黒一点だった。


恥ずかしい姿を見られてしまったという羞恥心と悪夢の後のような恐怖心で、しばし固まっていた。


「九十九里さんの寿命は長くても5年だと思われます」と医師は告げた。


「ど、どういう事ですか!?」明依は理性を見失っている。


「弟はもうすぐに死んじゃうの?寿命5年ってどういう事!」と永遠は平静を崩した。


「九十九里さんは透視能力を持っています。それ故、寿命が縮まります。そして、脳に損傷があります。治してもあと僅かだという事です」と無表情で冷静に医師は言った。


「そんなー」悲しそうな表情をして明依は言った。


そうして、一夜が更けていった。



 翌朝。見舞いに行くと永遠が先に来ていた。溯夜は相変わらず、目を閉じている。


「なんで今更、溯夜、いえ久遠さんに会って近づいたんですか?あのまま、やめてあげてれば、こんな事にならなかったでしょうに。」明依は怒っている。


「理由なんてないわよ」そう永遠は言い捨てた。


溯夜はまだ眠っている。オレンジ色の眩しい光がベッドを照りつけていた。


永遠は一瞬、間を置いてから哀愁漂う目をしてこう言った。


「あの子には苦労をかけたくないの。幸せに生きてほしいと思ってる。会えたら謝りたいとは思っていたわ。でも今更、許されたいとは望んでない。親を殺された恨みだってあるわ……手術の事も知らなかったし、今頃どうなってるんだろとは感じてた。まさか、彼女ができてたとは思ってもいなかったけど。しかもあんなに笑えるくらい幸せだったなんて。まさか、あんな事になるとは思いもしなかった。ごめんなさい。」


「もう、自分を許してあげてもいいんじゃないですか」と明依は諭す。


はっと目を見開いたような顔をした。向かい風で永遠の髪がなびく。心がそっと救われたようで、鳥肌が立った。


「それで、傷口をえぐるようで申し訳ないですが、さっきの話は本当なんですか?」


「本当よ……。性的虐待も小学生の頃から仕事をさせられていたのも暴力を振るわれていたのも。嘘っぽいでしょ」一粒の涙が永遠の頬をつたう。


明依はすかさずハンカチを手渡した。永遠は嗚咽していた。泣き声で溯夜が起きそうだ。


外から熱い風が吹いてきた。室内も温度が熱くなってきている。溯夜はまだ目覚めない。


「溯夜!起きてー」と明依。

「久遠、お願いだから目を覚まして!」二人は叫んだ。


すると……

眠っている溯夜の手がかすかに動いた。そして、目も開いた。明依はその手を軽く握った。


「長い間、苦しめてごめんね……明依さんと幸せに生きて」そっと頭を撫でた。


コクリと溯夜は頷いたのだった。


   *************


昼ご飯の時間になった。溯夜は入院してから、食欲が減っていた。眠っている間は当然、食べていなかった。痩せ細った体が目に見て分かる。


今日は学校が休みで、つくもが来てくれると聞いていた。


ドアを開ける音。さっさと小走りする音も聞こえてきた。


「兄様、今日は特製ハンバーグを作って持ってきたのだぞ。感謝したまえ」ハンバーグは溯夜の大好物だ。


「ああ、ありがとな」そう言って、手に取り台の上に持ってきてくれた皿を置く。


「兄様、最近叫んでばっかで怖かったぞ。たまには元気だせ」つくもはそう言うとフォークを溯夜の口に入れた。


「お、美味うまい」感動の声を上げる。


「だろ?拙者が徹夜して作ったのだ。勉強はサボった。その分、テストは0点だ」とつくもは言った。


「何だって!?」


「まあまあ、つくもちゃん頑張って作ったんだから。褒めてあげて」と明依は言った。


「それはそうだけど……」溯夜はなんだかなーという顔をした。


喋っているとあっという間に時は過ぎ、気づけば夕日が窓から射し込んでいた。


「もう旅立つ時間だな」


「そうだね、つくもちゃん。バイバイ」と明依は手を振った。


「つくも、そういう時は“旅立つ”じゃなくて、帰るだろ?旅立つって言ったら死ぬみたいじゃねーか」と溯夜はツッコんだ。


「余命5年のお主には言われたくないんじゃ」


ははっと溯夜は笑った。明依も永遠も釣られて笑った。


そして、つくもと溯夜の義父は帰っていった。



お見舞いの帰り道。二人はのんびりと歩いていた。オレンジ色に染まった雲が美しく見える。


「つくも、大事な話があるんだ」と溯夜の義父は言う。


「何じゃと!父上」


「溯夜は本当のお前の兄じゃないんだ。今まで黙ってて、すまなかった」


「えっ!」仰天した顔をした。


「ということは拙者と兄様は大人のカンケーになれるというわけか」とつくもは悟りを開いた。


「そういう事じゃない。酷い家庭で育ってきたんだ」と言うと、

「だが、拙者は薄々感づいていたぞ。兄様とは顔も違うし、妙に距離ができていたように感じた」と真面目な顔をして言った。


「もう分かってくれたようなら、帰りにプリンでも買っていくか」と溯夜の義父は安堵の様子を示した。


プリンはつくもの大好物だ。


「わーい!」嬉しそうな表情を浮かべる。


そんな二人をそっと光が輝きを与えてくれているようだった。



 別の日。もう溯夜の退院日まで3日をきっていた。


「溯夜って本当の名が久遠で、殺人者だったんだね」と明依は悲しそうな目で呟いた。


「そうだよ」溯夜は全てを受け入れる覚悟で相槌を打った。


「こんな俺でも好きになってくれるの?」


「もちろん。そういう家庭で生まれてきたからでしょ。立派な正当防衛じゃん。だけど、お母さん死んじゃってつらかったね……当たり前だけど、好きだよ」そっと頭を優しく撫で下ろした。


二人の間を温かな風が通っていった。

電気を付けなくてもまだ明るい。


「俺の過去を知っても全てを受け入れてくれますか?」と上目づかいで明依に問う。


「はい、もちろん」


二人きりの病室。明依が言った瞬間、背中を押され、顔に近づけられた。鼻が微かに当たる。吐息が混じる。ドキドキする。こんな体験久しぶりだ。あごをクイと上げられ、唇が重なった。舌が絡め合う。チュ、チュパッという嫌らしい音が病室外に漏れ出す。太陽はいずれも二人を包み込んでいた。


「俺達、結婚しないか?」溯夜からの突然のプロポーズだった。


「えっ……」急に固まった。


明依は驚きの余り、窓に頭をぶつけた。


「それは……いいですけど」

「でも、あと5年しか生きられないんですよね……」と明依は確認した。


「未来は誰にも分からない」と溯夜はキリッとした表情で断言した。


「そうですね!あと何年かしたら……じゃなくて、仮結婚しませんか」と宣言した。


そうして、二人は結婚することになった。


その様子を永遠はドアの隙間から見ていた。


「って、お姉さん!」

「あ、ヤバい」


気づいた時にはもう遅かった。


    *************


 残された5年をどう生きるかは二人次第だ。けれど、人は死ぬまで悔いなく生きていこうと思っている人が多いはずだ。


溯夜と明依の高校生活はまだ始まったばかり。


退院後は高校に復帰するのは難しい。けれど、彼は明依のサポートのもと、復帰できるように頑張っている。


晴れて登校できるのは冬になってのことだった。


「溯夜ー早く学校行かないと遅刻するよー」


「分かってるって。ってわあっ」目覚まし時計を横目で見る。


「ヤバいな、これは」


彼は登校許可が出て、すごい久しぶりの学校なので、普段の起床寝床サイクルでいた。だから今、大変、焦っている。


「もう、溯夜ったらお寝坊ねぼうさんなんだから」


明依は呆れている。


明依はあれから治療のサポート役として、同居することになった。ほとんど同棲と言っても変わらない。


明依の母も、溯夜と付き合っている事を知っており、同居している。いなくなった母が戻ってきたようで、一同は喜んでいた。


夜も一緒に寝ている。つくもは半べそかいているが、治療の保護として、しぶしぶ受け入れた。


当時、溯夜の手術をしていて、あの騒動の後、治療を担当していた医師は逮捕されることとなった。


溯夜の義父が、「あなたのやっていた事は違法な治療でした」と言い、そのまま現行犯逮捕された。


苦渋の決断だった。もう発狂していた久遠にはそうするしかなかった。手術しなければ彼はずっと苦しんでいただろう。


 明依は彼と残りの5年をどう生きるかを常に考え、彼に寄り添っていた。


 溯夜は自分の過去と向き合い、いつものように、とぼけながら日々を送っていた。治療にも専念し、彼なりに頑張っていた。勿論、明依にも感謝している。



真冬の屋上。登校許可が出てから、抱き締めあったり、キスをしたり、一緒にお弁当を食べたり、充実した日々を送っている。


降りしきる雪を手のひらの上ですくっていた。


「あ」二人の声がハモった。


二人の両手がくっついたのである。


雪の結晶のように綺麗な恋人カップルは笑顔を絶やさなかった。


学校に降り積もる雪は学校そのものを綺麗にしていった。学校には様々な景色がある。

学校がより美しくなりますように……。そして、溯夜及び久遠が一年でも長く生きられますように……。二人がいつまでも幸せでありますように……。




















































































































































































 

















































 

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七月の憂鬱、空虚。 依奈 @sss_469m

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