番外編

溯夜の家へ


 とある日の休日。明依は溯夜の家に行くことになった。その道中、こんな話をしていた。


「明依が俺の家族の事を知っても、驚いたり、悲しんだりしませんよね……」


「えっ!驚くなら分かりますけどっ、なんで悲しむんですか?」


「それは……」言いたくなさそうに溯夜は呟く。


「本当の家族じゃないから。」


その言葉に一瞬、吃驚した表情を見せつつも、「それのどこがいけないんですか?」と明依は肯定的に受け止めた。


「まあ、明依がそう言うなら無理もないけど」


恋人同士になってから溯夜は明依の事を呼び捨てで呼んでいる。明依は溯夜の事をまだ呼び捨てできずにいる。


「結婚したら戸籍とか全部バレちゃう……」


「それの何が引っ掛かってるのか私には分かりません!あと、結婚ってどういうことですか!?そこまでまだ、いってないじゃないですか!溯夜さんは結婚を前提にしたお付き合いがしたいんですか?」


「そういうことじゃないし……結婚はまだ考えてない」


「私もです」


溯夜には確かに消したい過去がある。九十九里溯夜という名前も自分で作った名前なのだ。戸籍上の本名ではない。溯夜は九十九里家に引き取られた養子なのだ。


ところが、急に明依が騒ぎ出した。


「あ!今度こそ正しいかもです!!」そう叫んで、指差した場所には白くて毛艶けづやの良い、細い尻尾のある小動物がいた。


「しらゆき!」溯夜は電光石火の如く、急いで小動物のほうに走っていった。


(しらゆき??)


「しらゆき、無事だったのか……良かった」そう言って胸を撫で下ろした。


その小動物は間違いなく溯夜が飼っているテンっぽかった。そうして溯夜はテンをそっと抱き上げた後、明依がいるほうへ歩いていった。


「その子、可愛いですね」


「そうだろ?もう俺の相棒だ。いや、彼女……」そう言った瞬間、明依に殴られた。


「ペットであろうと浮気は許しません!!」


「なんでだよ」溯夜は意味が分からないという様子で明依を見た。彼女を見るとにらんでいる。怖い。


「あと、何で言ってくれなかったんですか?私、覚えてますよ。テン様に名前は無いって言ってたじゃないですか。しらゆきちゃん、可愛い名前なのに」残念そうに明依は言った。


「俺だけの秘密にしたくて。」溯夜はかっこつけた。


「は?何ですか、それ。かっこつけちゃって、もう。」明依は小学生を見るかのような眼差しで溯夜を見た。


そして、二人はバスに乗った。二人席の広々とした座席に座り、肩と肩がくっつくかの距離感でいる。揺れるバスの中、肩がくっつくと明依の心臓の鼓動が早くなった。ドキッとする……。


しばらくは無言の状態が続いたが、溯夜の「もうすぐ、家着くよ」という声で明依はハッとした。


完全に妄想中のようだった。溯夜と明依のラブストーリー。もう独走すること間違いなしだ。


    *************


家に着くと溯夜の義父と義妹のつくもが出迎えてくれた。


「おかえりなさいませ。兄様にいさま!ってえ、誰?その女の人。あ、しらゆきちゃん!見つかったんだ」


(兄様?それに敬語?)明依は疑問に思った。


「おかえり、溯夜。しらゆき回収してきたか」


「ただいま、父さん。しらゆきはこいつが見つけてくれました」溯夜は軽く挨拶した。


「ただいま、つくも。ほら、自己紹介」そうつくもに促す。


「はじめましてー溯夜お兄様の妹の九十九里つくもと申すでござる。そして、我、拙者は兄様を貴様に渡さないからな!」意味の分からない自己紹介をつくもはした。


「は?」明依は固まってしまった。まさか溯夜より頭の血管が切れてる(比喩)人がいるとは。


「普通、そうなるよな」溯夜は当然のように言う。


「こいつは義理の妹だが、ちょっと狂ってる所もあるけど、悪い子じゃないから。俺の6歳下。」と代わりに溯夜が付け加えた。


「それで、こっちが義理の父です」


「溯夜の事、よろしくな」義理の父親はそう告げた。


「こちらこそ、よろしくお願いします」と明依は軽く頭を下げた。


「それでは、こちらへどうぞ。」そう溯夜の義父に招かれ、家へと入った。


 そこは割と広々としていて、和風な雰囲気の家だった。ただ、明依の家のように古くなっていた。クーラーも無く、非常に蒸し暑い。明依の家よりは古びてはいなさそうだった。窓が全開であり、扇風機だけがくるくると回っている。蚊取り線香も置いてあった。一階建ての普通のアパートだ。


「それで、あなたの名前は?」溯夜の義父に突然、聞かれた。


「舞浜明依です。ごめんなさい、名前言うの忘れてました!まだでしたね。」


「ああ、明依ちゃんか。良い名前だね。それで二人は付き合ってるのかい?」


不意な質問に戸惑いが隠せなかった。明依はしばらく秒を置いてから、「はい。溯夜さんの彼女です」と正直に言った。


「えぇぇぇーーっ!!!なんでぇーっ!」今にも泣き出しそうな表情でつくもは異論を申した。


「なんでって、つい最近告白されて、それを受け入れたから。キスはしてないから安心して」と溯夜はつくもを諭した。


「そういう問題ではないのでござるよ」


「そう言われても……」


「彼女さんか。たいそうな嫁入り候補だな」と溯夜の義父も笑顔で喜ばしそうに言う。


「父さんまで、変なこと言うなよ」溯夜は呆れ顔で口にした。


溯夜はソファーで愛テンのしらゆきを抱いて、もふもふとした白い毛を撫でていた。額を撫でると、とても気持ちよさそうに目をつり上げて顔を上にあげていた。可愛い鳴き声で誘惑していた。


本当にテンを愛しているようだ。でも、明依は嫉妬はしていない。人間を愛せない彼は動物のほうが愛せるのかもしれない。昔からこんなふうに抱きしめていたり、じゃれていたのだろう。


    *************


 もう時刻は13時を過ぎている。お昼ごはんの時間だ。昼ごはんは誰が作るのかと明依は考えていると何やら皿のようなものを両手に持ってくるつくもの姿があった。


昼餉ひるげの時間なのですよー」


「昼餉?」そう疑問を口にすると、

「昼ごはんの事だ」と溯夜は言った。


「溯夜さんは料理が作れなくて、お義父さんも作れないんだ」と明依は予想を立てた。


「ああ」口を揃えて溯夜と溯夜の義父は言った。


「なるほど」明依は納得する。


しかし「これって全部、つくもちゃんが作ってるんですか?」と明依は驚きながら聞く。


「そう」と溯夜は頷いた。


「すごいねー」


「感謝、承ったのでござるよ」とつくもは嬉しそうに微笑んだ。


「その喋り方は直したほうがいいと思うけど」と明依は重ねて言う。


さて、お味は。と箸でテーブルに乗せられた皿からおかずをつまむ。


「あっ、美味しい!」と明依は感嘆かんたんした。


「でしょ。」と通常の喋り方に戻ったみたいにつくもは言った。


溯夜も明依の家では止まっていた箸がぐいぐいと進む。だが、何故かケチャップやらソースやらマヨネーズやらを沢山かけている。


「兄様、残してはめえなのだよ」


「分かってる。いただきます」そう手を叩いては野菜やら肉やらご飯などに箸をつけた。


「それより、なんで色々とかけているんですか?」と明依は率直に思ったことを聞いた。


「ああ。明依の家ではなんかこういうのを見せられなくて、無理して取りつくろって我慢してたけど、ここは実家だから沢山かけたほうが美味しくなるの。」と溯夜は素直に言った。


「は?逆に不味マズそうですけど」明依は当然のツッコミを入れる。


「まあ、溯夜は偏食だからなあ」と溯夜の義父はこう呟いた。


「偏食でもこれだけやったら高血圧とかがんになりやすくなったり、危険ですってば!!」


「この家に叱ってくれるお母さんはいないんですか」と明依が言うと、少し間を置いてから

溯夜の義父が「俺の妻、つくもの実の母はつくもが小さい頃、病気で亡くなった」と物悲しそうに述べた。


「そうだったんですか、こんな話になってしまって、ごめんなさい……」と明依は後悔した。


「いや、いいんだ」


「それにしてもつくもちゃん、よく作れますね。こんなに小さいのに」


つくもはまだ9歳だ。なのに色々なバリエーションの料理を作ってもてなしている。それに驚くのも無理はない。


「つくもは毎日、料理を作る担当なの」とつくもはさりげなく言った。


「ああ。で、溯夜さんも見習ったらどうですか?」と明依が詰め寄ると、

「俺が作ると酷いことになる。前に何回かやって失敗して、塩入れすぎてしょっぱい物が食べられなくなった時期が何週間か続いた」と諦めたかのように言い放った。


「それは大変ですね」


「兄様が食物たべものを作ると道具と料理が黒くなって焦げてしまうのでござるよ。いざ、拙者が作ってあげているのでたもう」とつくもは言った。


「なんか、“いざ”と“たもう”の使い方、間違ってない?」と明依は言ったが、その言葉は水に流されてしまった。


    *************


 昼ごはんを食べ終わってからはずっとゲームばかりしていた。


「つくもちゃん、つよーい」明依はそう褒めた。


つくもは褒められても、ゲームに夢中で聞きやしない。


「あれ?動かない……」明依は誤作動を起こしているのか、本当に下手で動かないのか、機体が動かない。


明依と溯夜とつくもがやっているゲームは機体を動かして的に当てるシューティングゲームだ。


「溯夜さんも意外とゲーム、弱いんですね」


「あーそうなんだよ」と溯夜は嘘を吐く。しかも棒読みだ。


「これ、動かなくなっちゃったけど、どうすればいいの?」


「そのLボタンを押せば動くだよ」


「こうですか?」


「そう、そんなかんじ!」


言われた通りにすると機体が元通りになり、動き始めた。


「あ!動いた!」感動の声を上げる。


動いてるうちに溯夜を追い抜かした。実はこのゲーム、一人一人のプレイヤーの画面が線で分かれていて、光のようなものを早く打って、最後に出てくるボスを倒せば勝利だ。そして、倒した順に順位が決まる。


と、追い抜かした瞬間に溯夜はささささっと機体を動かし、明依に追いついてしまった。


「あれ?溯夜さん、早くない?」


「そんなことないよ」


そして、明依は追い抜かれ、つくもがいる難関だと言われる敵が出現し、HPが削られるゾーンにまで来てしまった。


つくものHPは680だ。しかし、3体いる敵を2体減らし、溯夜の敵は瞬殺で1体になった。

つくもの敵はまだ2体だ。惜しいところで当たらない。だが、溯夜には初期値のHPである1000が残っていた。


「兄様、ハンデしてって言ったじゃーん」とつくもはなげいた。


「仕方ねーだろ。皆が遅いから」


「ハンデ?」明依は最初から知らされてなかったという様子で言った。


「あっ!」そう言った途端、溯夜の敵が消えた。


「兄様、ずるいのでござるよ」怒り心頭という顔をつくもはしている。


もう溯夜はラスボスステージだ。


HPは約200まで削られたものの、敵からの攻撃をくぐり、敵のHPが10000ある中、見事に倒し、溯夜は圧勝した。


つくもはラスボスからの攻撃に耐えられず、負けてしまった。


そして明依は難関である3体の敵に倒され、呆気なくボロ負けしてしまった。


「あぁ、悔しい……」明依はそう言葉を投げ捨てる。


「拙者もだ。完敗したのだよ」つくもも賛同する。


「ごめんな、つくも」溯夜はそう言うが、つくもは睨んでいた。


「さっきのハンデって何だったんですか?」ふと聞いてみた。


「ハンデっていうのはなあ、兄様が何事も家事以外はこなしてしまうから、最初に言っておいたのだよ。スローペースでお願いとな。そしたら、途中から本気出してきて、貴様も拙者も見事に散ってしまったのでござるよ」とつくもは言ってきた。


「ああ、だから溯夜さん、意外にも最初、弱かったんですね。私、ゲームあまりやらなくて、苦手だったので、私より下手な人もいるんだと思っていました」と明依は納得した顔で言った。


「俺はそんなに本気出してないけど」サラリと当然のごとく言う。


「すっごいムカつくのだよーー!」つくもは足蹴りした。


てっ、暴力反対。」


みんな、溯夜には負けちゃったけど案外、楽しそうだ。


ゲームに集中してたらあっという間に時は過ぎ、気づけば夕方になっていた。


    *************


 「もう、風呂の時間だな」これだけだと溯夜が喋っているのかつくもが喋っているのか分からない。つくもが喋っている。


「そうだな、入るとするか」と溯夜は言った。


「あれ?二人ともどうして?それに夕食前に入るんですね」と明依は言う。


この家では夕食前にお風呂に入る習慣がある。つくもと溯夜は一緒に入り、義父は一緒に入らないようだ。


「拙者は兄様と極上の経験をしてくるのだよ!さらばだ!」


「はああぁぁっ!!?」


(極上の経験?そんなまさか……)


「溯夜さん、どういう事ですか?」と明依は聞いた。


「俺とつくもは毎日、一緒に風呂に入り、一緒に寝ることになってる。」と溯夜は淡々と答えた。


「えっ!」明依は驚いた。


「そんな驚く事?」と溯夜はきょとんとした顔をしていた。


「だったら、私も一緒に入らせて下さい。」


思い切って、明依は言った。


だが、「それは無理だ」と断られた。

 

「なんでですか?」


「無理なものは無理だ」とマジ顔で溯夜は言った。


「つくもちゃんも女の子ですよ?」と明依は必死に説得しようとする。


「それはそうだけど……」溯夜は困った表情でうつむいた。


「よし、今日から風呂は一人で入るか、つくも。もうじき10歳になるんだし。」


「えー!嫌だー!!そんなのもう地球爆破したくなるくらい嫌なのでござるよーー拙者に死ねと申すのでござるか??」涙を浮かばせながら必死で溯夜に訴える。


そしてついに、泣き出してしまった。


「わーん、兄様がいじめるーー拙者、もう風呂には入らない。いやー。」大泣きするつくもに溯夜は抱きかかえて、頭を撫でた。


愚図ぐずついてもしょうがないだろ。それに風呂には入らないって汚くなるよ。学校でいじめられるよ、臭いって。」とあやす。


言葉遣いでいじめられなかったのが不思議なくらいと明依は素直に思った。


「それにさ、俺は明依と風呂に入ることのほうが地球爆破したくなるくらい嫌なんだ」と溯夜は続けて言った。


「それは、私に失礼じゃない!?」


「だって、お前、胸無いじゃん」と溯夜は嫌味を言った。


「は?ありますーここに」明依はアピールするが溯夜には響かなかった。


「それにつくもちゃんだって貧乳じゃん」と言ったが、

「つくもはまだ小さいから」と溯夜に言い返された。


結局、つくもは風呂には入らず、溯夜の次に、無料で入れるので明依も入った。


「夏なのに、風呂入らないと汗で臭くなるよ」


もう完全にねモードだ。ぬいぐるみを抱いてソファーで反対側を向いている。しかも一言も喋らずに。


「これは完全に無理だな」そう言って、溯夜はお風呂上がりの一杯の炭酸水を飲んだ。


「こうなったのは明依のせいだろ。俺に謝れ。こうなってしまうとめんどくさいんだよ。泣くのあやすのも大変だし。」と明依を責める。


「なんで、私のせいなんですかー!」明依は異論を申した。


確かに明依のせいになるのも道理が通っていない。一緒に風呂に入りたいと言っただけなのにここまでの大事おおごとになるとは。


もしかしたら明依が一緒に寝たいと言い、一人で寝なさいと溯夜に言われたら、つくもは徹夜するのかもしれない。そのへんの言葉は控えておこう。



そろそろ夕ごはんの時間だ。溯夜に招かれて、溯夜の部屋へと明依は入った。溯夜の部屋は至ってシンプルだ。ベッドとクローゼットと窓と勉強机を除いて、ほとんど家具が無い。棚の一つすらない。本を読むと言っていたが、どこにしまってあるのだろう……とベッドの下をのぞいてみると本が積まれて置いてあった。これはエロ本の置き方ではないかと思うが、一応、一般向けの文庫本である。あと、勉強机のフックにはネットが掛けられたバスケットボールが一個だけあった。


「明依、もうすぐ日が暮れるし、帰らないか?」と溯夜は言った。


「私、そうなると思って用意してきたんです」明依がじゃんとかかげたのはなんとパジャマセットと歯磨きセットとか化粧品とかだった。


「お前まで俺を困らせる気か?」


「一夜だけ泊まらせてもらえませんか?」上目遣いでせがんできた。


「そんなのダメに決まってるだろ。」溯夜は断固拒否する。


「明依って結構肉食系なんだな」と溯夜はひとこと言った。


「肉だけじゃなくて、野菜も食べてますよー溯夜さんとは違って」と明依は言う。


「そういう意味じゃなくて、恋愛的な意味で強引っていうか、恥じらいが無いっていうか……」


かあぁぁっと明依の頬が赤くなる。


「逆に溯夜さんは何、食べてるんですか?野菜嫌いだから溯夜さんも肉食系なんじゃないんですか??」


「俺は何も食べない絶食系。」とキッパリと答えた。


「何も食べないと死んじゃいますよ」そう明依は心配そうに言った。


「じゃあ、米かな」


「炭水化物系ですか、新しいのきましたね」


炭水化物系はやはり聞き慣れない。炭水化物だから主食ということだ。恋愛で主食とはどういうことだろうか……。  


せっかく明依は泊まりに来ることを予定して、荷物を持ってきたのにこれじゃ台無しだ。


「それじゃ、私、帰ります。」


「えっ、ご飯食べてかないの?」と溯夜は戸惑う。


「だって、つくもちゃんはねてるし、誰も作る人、いないじゃん。それにもし、つくもちゃんが立ち直って作ったとしても、一人分増えるのはさぞかし申し訳ないかなって」と明依は正論と謙遜を口にした。


「確かにそうだな」と溯夜も頷いた。


「じゃあ、また」


「またね、溯夜」この時、初めて呼び捨てで呼んだ。


溯夜は照れている。


それから「またいつでもおいで。今日はありがとう、明依ちゃん。じゃあね」と溯夜の義父も言った。


「ほら、つくも。お姉ちゃん帰るよ」と溯夜が促してもそっぽを向いて聞こうとはしなかった。


そして、玄関の扉が閉まった。


    *************


夜更けのベランダにて。溯夜の義父と溯夜はジュースを飲みながら話をしていた。


「もし、溯夜と明依ちゃんが結婚したら、明依ちゃんの苗字は九十九里になるの?雨岸あめぎしになるの?」


急な質問に溯夜は吹き出してしまった。


「うわ、ばっちいなぁ。フェンス拭けよ」


「ごめん。ていうか父さんがそんなこと言うから」溯夜は慌ててフェンスを拭いた。


「勿論、九十九里明依になるんじゃないの?もう連絡も取れないでしょ」


「でも、結婚する気ないよ。誰かを愛せる自信も無いし……。」と細々と言う。


「じゃあ、なんで付き合うことになったんだ?」と溯夜の義父は聞いた。


「それは……彼女の告白もそうだし、それに俺も気持ちが揺らいでる部分もあったから」


「ああ、そうか」


「別にお義父さんは否定はしてないんだ。ただ、心配なだけ。明依ちゃんが幸せで溯夜も愛せなくても幸せならそれで構わない」と普通に受け入れてくれた。


「ねえ、父さん。どうやって愛せば良い?」


「それはだなぁ、抱き締めてあげたり、キスをしたり、守ってあげたりとかじゃないか?だけど、出来なくてもそれ以上に大切にしてあげれば、お互いの気持ちが通じ合えてれば、それは愛してるってことになるんだと思う」


「じゃあ、俺は明依を愛せてることになるのか……」


「もっと自信持て。充分だと思うよ」と溯夜の義父は励ましてくれた。


夜風がぴゅーっと吹いてくる。海に近いからか、潮の匂いも感じる。ジュースはまだ冷たい。


「話は変わるけど、結婚すると戸籍バレるよ。まだ養子になってからも変えてなかったよな」


「知ってる。本当の家族じゃないってことは明依にも伝えたよ。だから結婚は考えない。それがたとえ誰であったとしても」と溯夜は宣言した。


「そんな悲しいこと言うなよ。戸籍とか家族事情とかは関係ないじゃん」


「でも……雨岸久遠あめぎしくおんとしては生きたくない」


そう、九十九里溯夜の本名は雨岸久遠というのだ。長い間、虐待を受けてきて、10歳の頃に母親を殺した過去もある。


「別に誰もその名前で生きろとは言ってないだろ」


「でも、子供を愛せない。今は手術のおかげで記憶が無いけど、もしかしたらよみがえるかもしれないし、分からないから嫌だ」と嫌そうな目で否定した。


「そっか。そうだよな」


溯夜の義父はその理由に深く同情していた。


「お前には無理言ってすまなかった。この話は忘れてくれ」


「うん」


「それにつくもにも本当の兄じゃないってことも伝えてないもんな」


それはそうだ。突然、家にやってきたけれど、今は本当の兄妹のようになついている。


「本当の兄じゃないってこと知ったら、どんな反応するんだろうな」と溯夜は興味津々に呟く。


「知らなくていい事実もあるんじゃないのか。母親がいないことも薄々気づいているようだし。」


「まあ、それもそうだな」と溯夜は同意した。


そうして、景色はどんどん暗くなっていった。暗くなるのが変わらないほどに真っ暗闇な真夜中だ。


ジュースを飲み干した後、再び部屋へと戻っていった。


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