第32話 11月4日火曜日

 「松山君、高倉(結衣)さんにちゃんと教えてるの?あの子、消せるボールペンで書こうとしてたじゃない」

 「え?あぁ、すみません。言っておきます」

 本屋についてエプロンに着替えレジに出ると町裏さんからの説教が始まった。どうやら昨日、おれの休みの日に高倉結衣が仕事でミスをしたらしく、今日は体調が悪いと言って休んでしまった。しかしおれは知っている高倉結衣が仮病を使っていることを。『今日、バイト終わったら会えませんか?電話してください』と朝、おれの携帯にメールが届いていた。

 十七時。バイトを終わらせ、外に出たおれは高倉結衣に電話をかける。

 「もしもし、バイト終わったよ。麻衣ちゃんどうした?体調大丈夫?」

 「はい。風邪じゃないんですけど、ちょっと色々昨日あって、そのこと話したいんです」

 「わかった。どこで会おうか?」

 「今日、親いないんです家に……」

 おれと麻衣が体を初めて重ねたのはキスをした日の夜、郊外に停めた車の中でだった。

 麻衣の家。高級住宅地3階建て。広いリビング。アールグレイティー。カップから湯気。アールグレイ独特の香り。

 「なんで休んだの?」

 少しの間沈黙。

 「昨日、アルバイト先でいろいろあって。」

 なんでもレジにつく前にボールペンを落としていたらしく、領収書を書くときに気づき、さらにうしろには珍しく列をなしてならんでいたお客。焦って、目の前のボールペンを取り、書こうとしたが、それが、グリップで消せてしまうボールペンだったらしく、町裏さんから後で説教くらったとのこと。

 そうですか。「人間だもの誰にだってミスはる」キスして体をかさねる。

 

  11月22日土曜日


 友子とおれは今日、街の駅で落ち合う約束をしていた。友子は昨日大学の帰りにそのまま友達と街にある居酒屋で酒を飲みに行ったのだ。その話を聞いた金曜の朝、「迎えに行こうか?」と訊ねると、友子は「ん、大丈夫。三次会か四次会まであるだろうからビジネスホテル泊まる。迎え来るなんていう邪魔はだめよ~」とご機嫌な口調で断られた。おれは正直、迎えに行く手間が省けて良かったと感じた。


 社会人としての役目をほとんど果たしていないにも関わらず「おれはなんて自堕落なのだろうか」と落ち込むわけでもなく、打ちひしがれるわけでもない。友子がいないことを良いことに高倉結衣を友子のマンションへ連れ込む。

 高倉結衣はマンションの入り口からエレベーター、部屋の中に入るまで、恐る恐るした仕草でおれの背中につき、「本当に良いんですか?友子さんにバレたらどうしよう?」とおれに話しかける。しかしその表情はスリルを楽しみ微笑んでいるように見えた。大体気にするなら初めからここには来ないだろうよ。

 モラルやルールそのものが神ならば、おれはこの場でカミナリを打たれ即死だろう。しかし、モラルやルールは人間が作ったものだ。絶対的ではない。だからおれは今ですら罰を受けないし、死んでもいない。だからと言って友子に対して裏切ったという自覚、後ろめたさ、罪悪感がないわけではない。それらの感情も含め、愛と共に友子とおれが寝ているベッドで高倉結衣を抱いた。まさぐり愛撫した。


 行為が終わるとベッドから上半身を起こした高倉結衣が乳房を露出したまま

「私、最低ですね」ポツリと呟いた。

もし、本当にそう思っているのなら、なぜ君はここに来た?どうなるかわかっていただろ?君は背徳的なことをした自分にただただ酔っているだけなんだ。とは言わずに、

「大丈夫。おれがこうしたかったんだ。君には何の責任もない」と隣でつぶやくように語りかける。

翌日、おれと友子は駅ビルのデパートでデートをした。

友子は俺がそこにいないように一人で服を物色していたが、時折、二つの服をおれの目の前に見せ、

「これとこれ、どっちが良いと思う?」と聞いてくるからおれは、

「こっちじゃない?」と左手に持つ方の服を選ぶと、

「もう、全然わかってないなぁ」と返される。だったら聞くなよと思いながらも、デートをしているのだという気分になる。小さな幸せを感じてしまう。

 「そんなので良いのかよ」

 おれの後ろにいた秋山がニヤケ面でおれに問う。

 「じゃあ、どうすればいいんだよ?」

 「ん?何か言った?」

 友子が不思議そうな顔をする。

 「ごめん、考えごとしてた」

 後ろを振り向くと秋山は消えていた。


 12月5日金曜日


 肌寒い季節になってきた。

 高倉結衣とは何度寝たことだろう。会えば会うほど、寝れば寝るほど、この二人には未来がないと実感して、おれの心もこの季節のように冷えていく。

 「私たちもっと早く会うべきだったんですよ」

 ベッドで高倉結衣がおれを見つめながらそう口にする。

 この子は自分の力で生きていないんだ。生きていると思い込んでるだけで、まだ親や周りに助けられているのだ。だから本質がちっとも見えていない。だからそんなことを平気で言えるのだろう。何も見えていないくせに。

 「結衣ちゃんは将来何になりたいの?」

 「全然わかんないんですよねー。ただ、今は敬さんといたいかな」

 微笑みながらおれに抱きつく高倉結衣。

 おれといて何になるのだ。若いな。若さのせいなのか。愛とはなんだ。それがあってどうなる。人は死ぬ。確実に。有限な時間でその残酷な残りの時間をただ、俺らは腐らせているだけだ。かといってどう生きればいいのかがわからない。幸せってなんだ?人生の勝ち組ってなんだ。何故こんなに辛い中、生きねばならんのだ。何と戦っているのだ?俺らは、、、俺は……。


 「おれの所に来いよ」

 「……」

 「どうした?おれの判断は正しかっただろ?お前が現在進行形で証明しているよ。おれの正しさを」

 「うるせーよ」


 「え?どうしたんですか?敬さん」これは高倉結衣の声。現実の声。きょとんとしてこちらを見つめている。あどけない何も知らない人間の顔。

 もはや希望を抱いた目の前のかつての女神はただの人である。いや、そもそも初めから……。

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