第30話10月27日(金)
大学三年目、十月の終わりごろ、秋山がいつものように飲みに誘ってきた。今回は二人のようだ。連れて行かれた場所でいつもと違うことを見せつけられる。
秋山が連れて行ってくれたのはいつもとは違うオシャレなカクテルバーであった。
慣れたようにカウンターの片隅に座り、おれもそれに習うように秋山の隣に腰かける。
バーのマスターがコップを拭きながら、秋山の方を見て、「秋山さんお久しぶりです」と言った。秋山はいつものヘラヘラ顔で「うん、久しぶり。マティーニ2つ」と答える。
オールバックの、40代だろうか端正な顔立ちでスラッとしたスタイルのマスター。青白い照明。灯る蠟燭(ろうそく)。カウンターの向こうで立ち並ぶボトル。中央のみに空間があり、磁石だろうか地球儀が浮き、くるくるとゆっくり回っている。
おれは秋山のせいでこの日が一生忘れられなくなることに、この時のおれはまだ知らなかった。神がいるとしてなぜ教えてくれなかったのか。
テーブルにマスターの作ったマティーニが置かれる。
秋山はいつもと違いなかなかそのベラベラしゃべる口を開かない。ただ飲み物を見つめている。急にグイッといっぺんにマティーニを飲み干し、くわえたたばこに火を灯す。そしておれのほうを見てニカッと笑う。笑っているが、目に光りがない。
「おい、なんかいつもと違わねーか」
「今日はこういう気分なの」
「へっ、どういう気分だよ」
「高尚な話をしたい気分」
「ふーん」
「お前、前からここに通ってたの?」
「おう、いつもは一人だけどな」
今まで誰も連れてきたことがない秘密の場所に、初めて誘ったたのがこのおれだということがなんだかとても嬉しかった。どこかでおれは秋山に憧れていたのだろう。その憧れの存在から認められたような気がしたのだ。
笑みが溢れそうになったおれはごまかすために、冗談を探した。また秋山にイジられてはならない。イジられてなるものか。
「ほう、それでいつもの卑猥な話と違って、こんな、静寂且つある種の大人の色気のあるような場でさらに卑猥な話でもしようとしているのかい?」なんという残念な言葉だろうか。冗談ですらない。何を言っているのだおれは。しかし秋山はハニカミながら、
「八ッ、違えーよ。言っただろ?今日は高尚な話をしたいんだよ。ハムレットばりの」
「『生きるべきか死ぬべきか』か?」
「まさにそれだ」
〝生きるべきか死ぬべきか〟今ではこの言葉がおれの頭から離れなくなってしまった。
二杯目のマティーニを頼む。ペースが早い。
秋山は本当にいつもと違っていて、テーブルの一点を見つめるばかりで、口にチャックがついてしまったように言葉を発さなかった。それは頼んだマティーニがきても変わらなかった。
マティーニをお互いに三分の二ほど飲んだところで、何も口を利かない秋山にしびれを切らしたおれは、
「どうしたんだよ、いつもらしくない」
すると秋山は手にとっていたグラスをテーブルに置き、
「なぁ、今楽しいよな。大学生活」
「あ?おう、まぁ楽しいかな。うん、楽しいよ」おれはおれの抱える心の虚しさを秋山に隠した。多分分かってもらえないから。
「だろ?それでこれから社会に出て働いて、歳をくって、結婚して、子どもつくって、孫なんかできちまうんだろうな……」
「まあ、それが理想だな」
「そう、それだよ。理想がそれでしかないんだよ。多分、今が絶頂であとはただ生きて下降してくだけなんだぜ。しかも辛い思いしながらさ……。もし金持ちになったとしても、今度は死の恐怖がさ……頭ちらつくわけよ。戦争しない国だけどよ、ここは、社会は社会で戦争だぜ?武器の持たない戦争だよ。違うか?契約の結べた営業がいたとして、その代わりに結べなかった営業もいるわけだ。その営業は負けたんだ。戦争に。そして死んだんだ。な?そうだろ?なんだこれ?」
今ですら辛く感じるおれはどうしたらいいんだろうか。
「おれ、そんなことを高校ぐらいから漠然と感じてたんだよ。大学入ったのもそのためだし。時が経てば考え方も変わるかもと思ったけど、何にも変わんねーわ」
おれは空になったグラスの中を覗きながら考えるふりをし、
「それでも、おれらは社会に出るしかねーんじゃないの?」
なんの答えにもなってはいないけれど、おれだってわからない。おれだってその答えがほしい。事実として既に提示されていることに別の答えがあるのだろうか。
秋山はテーブルの上を見つめ、そして、「ハァーッ」と大きなため息をつき、おれの方に顔を向け、
「だよな。はいっ、おしまいおしまい!こんな暗い話はもうたくさん!さよならハムレット!!おしまい!」と、いつもの明るい秋山に戻った。
「お前からしてきたんだろうよ」
「ははっ、たまにはこういう話しもしないと、おれが軽い人間に見られちまうかと思ったのだよ」ニタ~といつものやらしい笑みを浮かべおれを見つめる。
「はっ、なんだよそれ」秋山もおれと同じようなことで悩んでるんだと嬉しく、そして安心した。おれの中の秋山に対する親近感がより一層近づいた気がした。
それからはいつも通りの下衆な話が酒の勢いが増すほど繰り広げられていった。
三時間ほど二人で話し、店を出、さぁ、どうやって帰るかという話を歩いてしていると、秋山が、
「まあ、最悪ビジネスホテルでいいだろうけど、ちょっと付き合ってくれねーか?」
おれは秋山に三階建ての大手電気屋の前に連れてかれた。
深夜二時半。もう店の中も看板の電気も消えていた。なんだかおれはその様を〝死んでいる〟と感じた。今はもう夜の闇に溶け、亡霊のように大きな建物だけがうっすらと建っている。薄明と共に息を吹き返すその時まで。又は、巨大な墓にも見えた。
「おい!こっちこっち!」と、秋山に店の正面横へと手まねきされる。
行くと外付けの階段があった。秋山はその階段を既に五段ほど上っていた。〝関係者以外立ち入り禁止〟と書かれた札が付いた柵を超えて。
「おい、いいのかよこんな所入って」
「はぁ?何言っちゃってんの松山君!非常識なことをしなければおもしろいことなんてなかなかやってこないでしょうが!君、何年生きてるの?」
秋山の顔が暗闇でよく見えないが、あいつがニヤケ顔をしていることはわかる。
おれはしょうがなく秋山について行く。
階段は屋上へとつづいていた。おれが屋上に着くとそこには背中を向けた秋山が景色を見渡していた。おれも秋山の横に立ち、景色を見渡す。ほとんどの灯りは消え、駅前の外灯とタクシーと道路を走る車のライト、信号機だけが密かに煌々と灯っている。
「どうだ。絶景だろ?人間には朝も夜もないんだぜ?」
タクシーと駅を歩くサラリーマンのことを指しているのだろうか。苦笑いを浮かべながら景色を見たままおれに話しかける秋山。秋山の言っていることがわかる気がする。
おれの携帯に着信が入る。友子からの電話であった。「悪い、電話」と言って通話ボタンを押す。
「もしもし、どした?」
「うん?ちょっと話したかったから。てか起きてるの?」
「寝てると思ってるならなんで電話してきたんだよ?今秋山と酒飲んでた」
「また!?体壊すよそんなにいつも飲んでたら~」
友子はおれよりも歳下だが、付き合っているのだから二人の距離を縮めるためとタメ口で話すことをおれが提案した。
「飲むのは良いけど明日のデート忘れてないよね~?」
「大丈夫、忘れてないよ」
「帰りはどうするの?」
「今日はビジネスホテルに泊まって、そのまま友子の家に迎え行くよ」
「え~、服着替えないの~?きったな~い!私今から迎え行くよ!もうっ!」
「はぁ?お前今二時だぞ?いいよ。秋山もいるし」
「大丈夫。さっきまで友達とファミレスでごはん食べてたから。どうせ駅周辺の居酒屋でしょ?こっから近いし。秋山君も送ってくから」
「ん~。……じゃあ、わかった頼むわ」
「これで借り一つね」
「なんだよ借りって……」電話が切れた。なかなかふてぶてしい女だ。
友子は終始おれとの会話を楽しそうに話していた。
「誰から?」
「友子。何か送ってくれるみたい。アパートまで。十分ぐらいで来るらしいから、下降りるか?」
「おい、景色の感想は?」
おれはやれやれという感じで「確かに絶景だな」と言ってやった。
「マグリットの世界だろ?」
「『光の帝国』か?」
秋山はニッと笑みを見せ、
「まさにそれ。朝も夜もないのだよ。我々には……松山だけ送ってもらえよ。おれはビジネスホテル泊まってくから」
「いいのか?」
「友子ちゃんとの恋路を邪魔したくないだろ?」ニヤニヤしている秋山。
「何だよそれ」おれも笑う。「じゃあおれ、帰っちまうぞ?いいのか?」
「おう、大丈夫だ。今日はホントありがとうな」
「おう、また月曜」
「おう、またな」
またいつもと変わらない日常が去っていく
おれはその時はそう思っていた。だから帰り際、秋山に振り向くこともなく背中を向けたまま階段を降りた。一人になった秋山はあの景色を見ながら何を考えていたのだろう。
おれは友子のマンションに泊まることにし、友子とセックスをしてそのまま服も着ず泥のように寝た。
プルルルルッ!プルルルルルッ!
携帯の着信音に起こされる。時計を見ると朝の8時。面倒臭いが止まない電話のためにおれはのろのろと布団から起き上がり、画面に表記された名前も見ず携帯の着信ボタンを押し、耳にあてる。
「はい、誰ですか?」
「おれ、森重」森重の声は鼻息が伝わってくるように興奮し、震えていた。
「おう、どうした?」
「秋山が死んだ」
森重の唐突な言葉の意味が理解できず、
おれは「は?」と聞き返す。
「おれも信じられないけど、あいつ飛び降りて死んだらしい」
脳内に先ほどまでいた電気屋の屋上がフラッシュバックされる。屋上。電気屋。秋山。人生の絶頂。いつもと少し違って感じた秋山……。
「え?うそ?え?」
「おれだって信じられないよ。三室が朝ビジネスホテルから家に帰ろうとしたトキニアキヤマガジメンデグチャグチャニナッ……………!……?……?……!……」
森重の声はもうおれには聞こえていなかった。ただ呆然と受話器に耳をあてたちつくしていた。
それからの出来事は瞬く間に過ぎていった。秋山が自殺する寸前に居合わせたおれ。そして友子も警察からの事情聴取を受けた。友達である森重たちのいつもの大学グループ、秋山の親、バーのマスター。その他……。そして警察が出した答えは紛れもなく秋山は自殺であった。
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