第29話 無題6
春が過ぎ、蝉の鳴き声と共にむさぐるしい暑い夏が訪れる。楽しいことしかないはずなのに俺の心に去来する不可思議な感情。まるで冷たい湖の底に沈められていくような感覚。焦ってはいるのにもがけばもがくほど沈んでいく。恐怖にも似た空虚な虚しさが訪れてくる。そして去来する逃げようのないほど大きな謎の恐怖。それを各個たるものにした瞬間があった。
その日、いつものように男女が入り乱れた飲み会を終えたおれと秋山は、飲み会の後寝床としてよく行く今では珍しくもなんともない個室型のマンガ喫茶で終わりかけの夜を過ごした。
朝。八時頃にマンガ喫茶から出ると、駅へと向かうスーツを着たサラリーマンの集団がいた。皆、目か虚ろであり、個性というものがなく、歩行すら自分の意思でなく、何か大きな存在にマリオネットのように操られているようであった。
眼光すら何もない虚構の構造物の絵空事。
溜まっていた不可思議な感覚がおれの中で「これだ」「これが答えだ」と言わんばかりに沸き上がってきた。高校時代に読んだ雑誌の特集、平のサラリーマンの一生分の稼ぎが三億円であることを知った時がフラッシュバックされる。そしておれは何か途方もないものを見せつけられた感覚に陥り、吐き気とめまいがし、胃の中に全てのものを地面へと吐いてしまった。
おれはその日を堺に心理学に沈むほど没頭していった。それは助けを求め権力者の足元にしがみつきすがっているようであった。
フロイト、ユング、アドラー、メスマー、石井祐之、田中………etc……。
心理学者の中でも特におれはフロイトの考えに傾倒していった。フロイトの人の心においての考えはとても単純であり、全ての心的原因は幼少時代に起きたことが心のわだかまりとなり、それが成人しても引きずるといったものであったり、人間の心的問題は何かしらのメッセージとして行動に現われる。人間の心的メカニズムは無意識の『エス』、『自我』、それらを客観的に管理し全体の指示を行う『スーパーエス』の三構造を成している。
現代ではフロイトの理論はその単純さが否定されているが、おれはそうなのか?と疑問に思う。人間の根本なんて本当はそのぐらい単純なものであり、それを複雑に見せているだけではないのか。
小説以外の書物をこんなに真剣に読んだことはなかった。友達の誘いも断ってまで、心理学関連、特にフロイトの本は読み漁った。ただ、秋山の誘いは比較的断らなかった。
心理学の講義も熱心に受けた。教授を尊敬し、敬愛すらしていた時もあった。だが、心理学の書物を読めば読むほど、教授に会いに研究室まで足を運び会話を重ねれば重ねるほど、研究すればするほど、虚しさが少しずつ積雪していった。自分が求めているものと違うことをごまかしてきたが、大学二年に上がった時、張りつめた糸がぷっつり切れたようにおれの熱意はあきらめと共に去っていった。もうその痕跡は煙すら残っていない燃えた後の灰であった。
大学二年生になったおれは講義においてほぼ腑抜け状態であり、講義が終われば秋山と酒を飲み、一人でいる時も酒を飲み、朝、目覚めると冷凍庫からポケットサイズのウイスキーを取り出し、三分の二の量をラッパ飲みをする習慣がついていた。
ある日のことだ。飲み終わったウイスキーを冷凍庫に戻す時脳内で
〝ウイスキーを冷凍庫の中央に一発で入れないとお前は終わる〟
と感覚的に伝えてきた。コーヒーの虫の時にしろ、おれはもしかしたら脅迫性障害になっているのかもしれないとこの時に思った。が、分かってはいてもおれはウイスキーのポケット瓶を中央に置くように慎重に置き、冷凍庫を閉めた。この日を境に脳の声が頻繁に出始める。例えば小難しい書物を読みふけっていると、
〝お前がやっていることはあのお前が嫌いな心理学の上田教授と似ている。つまりお前は上田教授と同じだ〟
とか、授業中、背中が丸くなっている気がして背筋を伸ばそうとすると
〝背筋を伸ばせばお前は終わる〟
などといった謎の脅迫が頭から伝わってくる。
明らかに脅迫性障害と思われるがおれ自身が脅迫性障害だと自覚があるのだから良いかと医者へは行かなかった。
あれほどまでに没頭していた唯一の心理学も冷めてしまい、おれの心はどんどん空しくなっていく一方であった。特に飲み会などの席の後などはひどい。集団の、和気あいあいと盛り上がった後に訪れるいつもの日常はあまりにも高低差がありすぎて、直面しただけでもろもろ死へと希求しようとする感情が訪れる。このままいくと自分は死んでしまうのではないかという不安と、仕送りだけでは貯金が全然貯まらないという理由からおれは本屋でバイトをすることにした。そこで友子と出会い、付き合うことになる。
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