第13話 九月二十四日水曜日①

九月二十四日水曜日


 一七時、バイト先の本屋へと向かう。

 レジの裏にあるスタッフルームへと入ると、

 「おはようございます」バイト先のあいさつは全ておはようございますで統一されている。どこのバイト先もそうだった。例外もあったな。高校の頃働いていたバイト先のハンバーグ屋での挨拶は「すこやかです」だった。店の名前は『ハンバーグレストランすこやか』。

 「はい、おはよう~」

 谷口店長がパソコン越しに背中で挨拶をする。

 事務所に入った右手にすぐあるロッカーの中から“13”の数字が表記された扉を開ける。この13がおれの番号だ。中にカバンと上着を入れ、“松山”と書かれたネームプレートの付いた赤いエプロンを取り出す。

 中央のテーブルで何かの作業をしている二人のパートのおばさん。

 「おはようございます」とふたりのパートのおばさんに挨拶。

 何やらハサミで色とりどりの画用紙を切っている。子ども用の宣伝POPを作っているのだろうか。この二人のことをおれはまだ知らない。面接の時にいた人とは谷口店長に連れられ、たしかその時にいた四人くらいに挨拶をしただけだ。その中にこの二人はいなかった。

 「アルバイトで新しく入った松山敬(けい)です」

 「田中です」ロングヘアーの四十代前半と思われるおばさん

 「あ、中島です」白髪の入り混じったショートヘアーに、アラレちゃんのようなでかいメガネから覗かせるはギョロ目のおばさん。

 「おはようございます」

 スタッフルームを出て、今度はレジにいる女性に挨拶。

 「おはようございます」ひとつ縛りにした長い黒髪、肉質のないほっそりとした顔。メガネ。その奥から覗く細長い目。神経質そうな顔。まだ若い。十七歳か十八歳くらいだろうか。名前は確か富永。下の名は、忘れた。

こいつのことは知っている。この前の挨拶で会った。おれはあまり好きじゃない女だ。きつい性格のくせして、できる先輩には媚び、できないものには嫌悪の眼差しをむけながら厳しい口調で上から押しつぶすような奴。

この前クレジットカードの対応であたふたしていたあのアルバイト初経験、入りたての子、山本君が客の領収書を記入する際、黒ペンがなかったのだろう、赤ペンで記入をしてしまっていた。してはいけないという法律はないが、基本黒ペンで書くことが一般的なマナーであり、常識だ。それを客の領収書に赤ペンで記入するのは失礼。

 赤ペンで記入しようとしている所を見つけた富永が慌てて、「何やってるの!?」と駆けつけ、事なきを得た。ここまでは良い。しかしその後富永は、その山本君がいるにも関わらず、他の先輩に「ちょっと聞いてくださいよ」と言いながら、山本君に聞こえるように先ほど何があったのかを、非難の口調で騒ぐ。「信じられます?」「ありえない」「信じられない」これでは晒し者だ。

「おはようございます」

「あ、おはようございます!」

 次に挨拶したのは富永の隣のレジにいた高倉結衣だ。明るい若さあふれんばかりの笑顔と声。ボブヘアーのかわいらしい女の子。確か高校一年生だった気がする。おれの身長から見て、一〇センチほど小さい。多分一六〇cmくらいではないだろうか。

「昨日貸していただいた小説読みました!なんかいろいろ考えさせられて面白かったです!」

「あぁ、『永遠の途中』?もう読んだの?」

「いえ、まだ三分の二くらいですけれど、女性の考えや、感情がうまく書いてありますよね。面白い小説ってすらすら読めてしまいます」

 「結川恵の作品は感情模写や表現がうまいよ」

 昨日、谷口店長とスタッフルームで話していると、高倉結衣が現われた。かわいらしい今流行りのキャラクターがプリントアウトされたカバンと、右手には文庫カバーのついた小説。

 どんな小説を読んでいるのだろうか?おれの好きなジャンルの小説だったら嬉しいな。とおれは思った。

 自分以外の誰かと趣味を共有できることは良いことだとおれは思う。その想いが強すぎておれはよく趣味を他人に押しつけてしまいがちな所があった。

 最近では、中島らもの『恋は底ぢから』というエッセイ集の中に収録されている『恋するΩ病』を友子に読ませようとしたが、いかんせん彼女は小説をあまり読まない。「そんな時間はない。私は忙しいの!!」で一蹴されてしまう。しかしおれとしてはたかが数ページを何故読めないのだ?なぜおれのことを分かってくれない。分かってくれようとしないのだ?と思えてしまう。小説という媒介を通して、おれという人間性を理解してほしいのに、と考えてしまう。だが、おれは友子という女性を理解しようとしているのだろうか。

 おれがカウンターの端にある作業場で子供向けコーナーのために『きょうりゅう』という文字がでかでかとマジックで書かれた発泡スチロールを、電ノコで線に沿って切り取っている傍らで高倉結衣がレジを担当していた。

 「高倉さん、さっき小説を持っていたと思うけど、どんな作品の小説を読むの?」

 「あ、あれは太宰治の『ヴィヨンの妻』です」

 おれの心が愉悦(ゆえつ)する。

 聞くところによると、高倉結衣の高校では朝のHR前に〝黙読の時間〟という五分間小説を読む時間を設けているそうだ。そこで彼女は夏目漱石の『こころ』に出会い感銘を受けた。以前までは小説などまったく興味がなく、本といえば女性もののファッション雑誌ぐらいしか読まなかったそうだ。しかしその日を堺に彼女は本の虫となった。

 おれは感動した。十代の女子高生が夏目漱石の『こころ』に感銘を受けてくれるなんて。そしてその後も太宰治の『ヴィヨンの妻』を読むとは。  

おれの、抑圧していた他人に自分の趣味を共有したいという、いけない癖が心の底から湧き上がってくる。

 「『永遠の途中』という小説、知ってる?」心のダムはとうとう決壊してしまった。

 「え?何ですかそれ?」高倉結衣の瞳が輝いているように見えた。興味と好奇心のみを原動力としているようなこの子を見て、〝抱きたい〟と思ってしまった。その後おれは高倉結衣を本屋で待たせ、急いで友子のマンションへと全速力で走り、いつもなら往復二十分のところ、十分で『永遠の途中』を持ち出し、高倉結衣の待つアルバイト先の本屋へと舞い戻ってきた。それが昨日のこと。


 レジで『永遠の途中』について二人の解釈における議論。高倉結衣の高校での出来事、主に愚痴を聞く。そうして談笑をしていると、

 「すみません、お手洗い行ってきます」という声と共におれを横切るショートヘアーの女性。眠そうな目をしているが、焦っているのが伝わる。高倉結衣と同じくらいの十代の女性だろうか。

 その子がトイレへと駆けこんでいく後ろ姿をぼんやりと眺めていると、

 「あの子……」と、高倉結衣が目を細めながら口を開く。

 その続きの言葉を聞くように促された気分で、

 「どうしたの?」と訊ねる。

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