夜汽車

 “コトコトコト~コトコトコト~コトコトコト~ ”このペースのリズムが好きである。何となく自分に合っていて落ち着く。人からはもう少しスピード上げられないの、と催促されることがままあるが、そうか、少し遅いかと思って急いでは見るものの、いつの間にかその人から見ると元のぺースに戻っているらしい。敢えて主張することはしないが、何でも早いのが良いとはいえないぞ、間違いのない方が大切だ。と、催促をあまり気にしていないところを自覚している。

 この単調なリズムは何とも言えず落ち着く。自分を自覚したり改めて見直したり、今日の一日を振り返るにも他の余計なことを考えずに集中できる。ただ、今は椅子が硬いが、この単調のリズムが長引きそうなので眠気が来るのではないかと心配している。

 “ブオ~”汽笛が鳴って短いトンネルを通った。数えもしないが頻度が多い。短かいトンネルばかりなので窓側の乗客は窓を閉める気もなく、一時、煙の入るのに任せている。かくいう祐二自身も進行方向の右側窓側に座っているがその気のない一人である。しかも向かい側に座って先ほどから船をこぎ出した母も、直接風の当たらない進行方向に背を向けているお陰なのか、知らぬ顔である。車内は石炭を炊くあの独特の匂いが満ちてきた。嫌いな匂いではないが、匂いより混じって来る煤煙は困る。薄暗い電球だけの車内では見分けはつかないが、夏の服装は特に汚れが目立つ。それを計算に入れてきたのか母は濃紺のワンピースで、祐二はそこまで見越せず、いつもの真っ白の半袖カッターシャツだった。幾度目かのトンネルを抜けると、夜の山間を走る列車の窓からは肌に心地良い風が車内を吹き抜けて行く。“ゴ~”車輪の響きが変わって鉄橋を渡っているのが分かる。由良川の鉄橋ならもうすぐ和知の駅であろうか。十九時三十分頃に山家の駅から乗車だったので、今は二十時くらいだろう。

 もう一晩泊まっていきなよ、と兄嫁の聡子さんに勧められて、昼前までその気になっていた母だったが、三時過ぎになって、やっぱり今晩夜行で帰るわ、と言い出した。尤も三泊は長すぎる。お盆の法事に呼ばれてその法事は昨日の昼で終えている。前日にやってきて二日泊まっているから、これ以上は迷惑なのに聡子さんとは気が合うからとは言い訳にならない。京都で忙しい目にあっている父を思うと、のんびりとはしておれないはずなのだ。此処、綾部市上林町は父の出身地だ。この地の渡辺家と言えば遥か昔、鎌倉時代に遡る在地豪族だった。有力地頭の仁木氏仕え、戦国期には赤井氏に属した時期もあったが秀吉の時代、川俣氏の所領になった時、下野したと伝わる。上林川が流れる広い谷が八里も続く細長い地形のこの地は山陰線が大きく西に折れる山家の駅付近から十倉町を北東に伸びる。そして、八津合町、五津合町、古井町を経て最も奥地である。よくもこのような奥地に人が住まいしたものだと感心する。路線バスが日に三便、奥上林と綾部との間を走っていて祐二達もそのバスを使って辿り着いたのだった。本当なら母が留守を守って父が出席すべきだったが、急に仕事が入った。それも急ぎの仕事で父でなければどうしようもなく、止む無く母と祐二が行くことになった。

 父祐造は渡辺家の三男坊である。長男祐吉とは七歳離れていて祐吉との間に祐次がいた。しかし、若くして白血病で亡くなった。当時、白血病は血液のがんと恐れられ、不治の病だとされていた。当時両親は健在で特に母親のりくは三日三晩泣き明かした。祐造は伊佐の高等専門学校の学生だったが授業の途中で知らせを受け、急いで綾部の病院に駆け付けた。だがその時には兄の顔には白い布切れがかけてあった。頭のいい兄で京都の国立大学の学生だった。何でそんな兄が死んで、出来損ないの自分がこうして平然と生きているのかと思ったそうだ。そんな父も伊佐の専門高校を卒業して京都の鉄工会社に就職した。そこで母、房子と出会ったのだが、その会社のオーナーが急死した後がいけなかった。跡を継いだ息子は全く社業に関心を持たず。遊びまわっていたからだ。先の見切りをつけた社員は次々と会社を離れて行った。祐造は現場の旋盤工だった。ようやく職工として技能に自信が付き始めていた時だけに中々決断が付かなかった。しかし、倒産一月前、僅かな退職金で会社を離れた。腕に自信はあっても二十六歳になっていて再就職は簡単ではない。悩みぬいて上林の兄にも相談したが良い知恵は出なかった。ところが朗報が訪れたのだ。婚約中だった母、房子の実家、塩見家から独立資金の提供を申し出られたのだ。旋盤工として独立するには少なくとも機械設備一式を揃えなければならない。狭くても工場敷地も必要だ。退職金と資金提供、兄からも借金して京都の南、東寺の近くに二間四方の土間を借り、仕事を始めたのは退職後一年が経っていた。旋盤は中古品だったが、当時の新型式のモーター内臓機である。ほとんどがベルト駆動式の時代、業界ではまだ珍しいものだった。それから数か月、仕事を求めて京都大阪の大手、中小を問わず注文取りに奔走したが得られなかった。万策尽きて起業を止めようかと悩んでいた時、元の鉄鋼会社時代の同期、吉岡君から電話がかかってきた。彼は早々に見切りをつけた早組の一人だ。よく似た市内の科学機器会社に伝手があってそこへ再就職した。営業経験から今度も営業仕事だそうだが、勝手が違って中々仕事が覚えられないそうだ。そんな吉岡君から旋盤仕事を始めたのを聞いたのだが、仕事は忙しいかと聞いてきた。ありのままを話してやめようかと思っていると伝えた。驚いた風に聞いた吉岡は焦らずに待てと忠告してくれた。三日後、彼から電話があった。科学機器を作る老舗の企業のS社へ午後一番に来てくれ、耳寄りの話が在るとのことだった。半信半疑で中京区のS社へ出かけてみると、ロビーで吉岡が人待ち顔で待っていた。

 「渡辺君、昨日さここの試作室の室長から電話もらってね、ちょっと難しい挽き物をやってくれるところ無いかなって、それでどうかなと思って電話したわけ、僕もまだ聞いてないんだけど一緒に聞こうと思ってね」

 「ありがとう。どんな話でも今はありがたいよ。あまり自信無いんだけど、聞くだけ聞いてみるよ」

 「ああ、それじゃ、部屋へ内線かけてもらうよ」

 吉岡君は受付嬢ににこやかに話かけている。此処へはかなり通い慣れて顔見知りのようだ。

 暫くして、四十がらみの眼鏡をかけた小柄な男性が書類らしきものを持ってエレベーターから出てきた。吉岡君とは何度も会っているらしく笑顔で頷きあっている。

 「あの、紹介します。こちらはS社、吉田室長さん。それからこちらは僕の友人で、渡辺製作所の渡辺君。今日はお話が挽き物ってことでしたので、彼を思い出して連れてきました。

 「ああ、そう。よろしく」

 吉田所長は胸のポケットか名刺を取り出して差し出した。祐造はドキマギしながら慌てて名刺入れを取り出す。

 余程忙しいのか、吉田室長は直ぐに図面を開いた。二人は覗きこむように見入った。直径五センチほどの円筒形の筒で内にも幾つかの段差があり、外形にも二段の段差のある。こういう小物は一般的な形状で特殊なのもではない。だが、寸法に付けられた公差を見て驚いた。千分の一の単位、ミクロンの数値が入っているからだ。しかも材質がステンレス鋼だ。

 「あの、この公差ですが、絶対的なものですか」

 思わず祐造は聞いてしまった。

 「ええ、この部品は心臓部の重要な部品ですから、この相手もあるんです」

 そう言って二枚目を取り出した。その図面も直径が少し小さな円筒形の部品図である。

 「これが、中に嵌るわけです」

 吉田室長が説明する。それなら~、と祐造はここぞばかりに指を指した。

 「そう言う事でしたら、現物合わせって方法がありますよね」

 「いや、それはダメです。この中の部品は頻繁に交換が必要なんです。この公差では無理ですかね。中には高粘度ですが液が通るんですよ。漏れちゃいけない。」

 「なら、リングを入れるのはダメですか」

 「温度が四五百度にもなるものでね」

 これは過酷な部品だ。いったい何の・・・・・・。祐造は首を傾げて吉岡君を見た。吉岡君も眉をひそめてている。

 「これセットで三万位でやってくれませんかね」

 「えっ、三万ですか」

 普通、この手の部品なら三分の一以下が相場だ。

 「ええ、とりあえず十セット必要なんです。試作品は十万でも結構です」

 「これって、かなりの挑戦ですよね。四百度に耐えてしかも中の部分の互換ですか」

 口に出しては見たが全く経験のない世界だし、現物合わせは自信があっても互換となると難しさ何十倍も膨らむ。吉岡は先ほどから首を左右に振って無理だと合図している。しかし、今の祐造は仕事欲しさに藁をもつかむ心境だ。

 「あの~、納期はどの位頂けるので・・・・・・」

 「まあ、一月ってところでですか」

 五日や十日と言われれば諦めようと思ったが、意外や一月もある。思い切って言ってしまった。

 「挑戦させてください。二週間で試作品持ってきますから」

 S社のロビーを出ると歩きながら、案の定、吉岡が怒るように言った。

 「おい、渡辺、大丈夫かよ、俺、紹介した手前恥かきたくないんだよな。あんな難物だとは思っていなかったから紹介したじゃないか。てっきり断ると思ったのに、ほんと、大丈夫か」

 「吉岡君、ありがとう。今はどんな仕事だって挑戦しなきゃって思ってるんだよ。君には迷惑はかけない。見極めはちゃんとするから、一度だけ挑戦させてくれよ」

 「分かった。君がその気なら応援するよ。僕に出来ることがあったら言ってく れ」

 「じゃ、今度試作持ってくる時、一緒に頼む」

 「分かった。こうなったら、一蓮托生だ」

 祐造は狭い工場に戻ってから夕暮れまで材料や切削油、切削工具などの資料を調べて過ごした。ポイントは切削熱による膨張をいかに抑えるか、表面仕上げ粗さを何処まで細かく出来るか、そして、四百度に耐えてこの加工精度が出せる材料であると結論付けた。明くる日から、専門店へ電話をかけまくった。昼が過ぎて二時過ぎになってようやく餡パンを一個、牛乳で流し込んで又、業者との交渉に明け暮れた。この三つのポイントをクリヤーしなければ旋盤を動かす気にはならなかった。

 その旋盤の電源が入った時は一週間を過ぎていた。吉岡君からはその間、何度も電話が入ったが、最後の材料選択に迷っていた。吉田室長に了解を取ってステンレスの十倍もするチタンを選択してようやくすべての条件が納得できるものになった。しかし、ここからは自分の技能が勝負を決める。毎晩、くたくたになるまで旋盤が回っていた。これでどうだ。自分の納得のゆくものを削り出したのは納期の二週間に後一日と迫った夜だった。もう時計は十一時を回っていたが、吉岡君に電話を入れた。

 今日が納期だという日の朝、吉岡君が心配そうな顔を出した。

 「出来たって、自信ある?」

 祐造の腕を信頼していてもなお、あの過酷な条件をクリア―出来るとは思っていなかったようだ。しかし、目の前に試作の二つの部品を並べられると、頻りと感心して眺めている。

 「じゃ、行きましょうか」

  祐造がウエスに包んで試作品を箱へ入れて言った。

 S社のロビーに入って案内を頼もうと受付まで行った時、足が止まった。既に吉田室長と面談している相手がいたのだ。それもテーブルの上に同じ部品が乗っているから驚いた。吉岡君が顔を寄せてきて言った。

 「相見積もりだな、難物だから仕方ないか」

 祐造たちは少し離れたテーブルに座って待った。吉田室長達は笑いが混じった友好的な雰囲気である。十分ほどして吉田室長が立ち上がると、面談は終了したようだった。立ち上がった相手達もこちらを意識しているのが分かる。彼らが玄関を出ない内に吉田室長は祐造たちのテーブルにやってきた。

 「お待たせしました。丁度、これで二社の試作品が揃いそうです」

 「相手さんも良いのを持ってきましたか」

祐造は聞いた。祐造は自信があったが、まさか相見積もりされるとは思っていなかった。

 「ええ、組んで試験してみないと何とも言えません」

 「じゃ、うちのを見てもらいましょう。お話してましたように材料はチタンにしました」

 「ええ、チタンは値段が張るし加工も大変でしょう。こっちのはステンレスでやってもらいました」

 吉田室長は傍らに置いた箱を軽く叩いた。祐造は持参した箱から試作部品を取り出し、テーブルのウエスの上に置いた。

 「ほ~」

 吉田室長は一見して感嘆の声を上げた。明らかに違いを感じたらしい。材質が違うので見かけが違ってくるのは当然だ。

 「これはチタン特有ですかね、光沢が違う」

 「いえ、表面の粗さだと思います。色々試しましたが、この位でないとミクロンオーダーの公差で耐熱維持できないと思いますが」

 「ああ、そうですかね」

 吉田室長は傍らの箱から先ほど受け取った試作部品を取り出した。そして横に並べると見比べる。明らかに光沢が違っている。暫く見つめていたが、ようやく思い切ったように言った。

 「チタンが良いのは分かるが値段がね。まあ、組んで試験してみます。結論はそれからだ」

 「よろしくお願いします。それで、どの位で結果が出ましょうか」

 「そうね、二週間くらいかな。又、連絡しますよ」

 「分かりました。それではよろしく」

 二人は頭を下げるとロビーを後にした。車で最寄りの駅へ吉岡君を送る車内でも無言だった。結果については実験結果を待つしかなく、予断を許すものではなかったからだ。

 「じゃ、連絡があったら電話するよ。まあ、待てば海路の陽よりかなって言うからな、気長に待とう」

 吉岡君はそう言ってドアを閉めた。

 祐造はひたすら待つしかなかった。その間、何も手に付かず、もし、あの仕事が入ったならと段取りばかりが頭の中を占めている。決まれば十セットと言っていた。材料の手配に十日、加工に十日、納入までに二十日はかかる。それで了解してもらえるだろうか。

 しかし、期待の二週間は過ぎた。だが、何の連絡もない。思い余って吉岡に電話した。様子を聞いてもらおうと思ったからだ。だが、その返事の電話も無い。ダメか、この仕事も結局は縁がなかった。この一月必死になって取り組んだが、空しい気持ちになった。

 すっかり諦めて又、やめようかどうかの悩みに陥っている。悶々とした時間ばかりが過ぎ、あれから一月が経った。そんなある日の夕方、唐突に吉岡君から電話があった。

 「この前は悪かったね、連絡せずに、先方がいい返事をしなかったんで電話しずらかったんだよ。でもな、今日は違うぜ,吉田室長から話を聞いてほしいって言って来たんだよ。どうする」

 「又、この前の二の前になるのはごめんだな、すっかり、落ち込んだから」

 「いやあ、悪かったよ、あんな話じゃないと思っていたんだ。でも、今度はどんな話か分からんよ」

 「どうしようかな・・・・・・」

 祐造はどうせ暇だから話だけでも聞いてみようかと思ったが、しかし・・・・・・、あそこまでやって断られた相手に再度と顔を出し難い。商売とはいえ、自信があっただけに祐造にもプライドが邪魔をした。

 「吉岡君、今回は僕は行きたくない。君行って聞いてきてくれないかな。僕はそれからにするよ」

 「そうか、僕は他にも義理があるから取りあえず行って聞いてくるよ」

 「すまん」

 夕方吉岡君から思いがけない電話が入った。

 「新しい話じゃないんだよ、この前のあれ、君に頼みたいんだって。至急来てほしいって」

 話が在ってから二か月以上経っている。普通なら試作が終わって量産の準備段階じゃないのか、今頃になって発注先を変更するって一体何があったのだろう。

 祐造は次の日、八時半に吉岡君とS社のロビーで待ち合わせた。吉岡君は心持笑顔が出ている。あらかじめ話を聞いているからかも知れない。吉田室長が依然と変わらない態度でエレベーターから出てきた。丸い眼鏡がキラリと光った。そして、テーブルへ真っ直ぐにやってくと、何も言わずに祐造に向かって頭を下げた。

 「渡辺さん、申し訳ありませんでした。謝ります。私の判断ミスでした。あなたの物を採用すべきだった。予算だけに囚われて重要な基本的性能を疎かにしてしまって反省している」

 「一体、どうなったんですか、私には何の事だか分かりません」

 「無理もありません。実はあなた方とは競合のH精工のを採用したんです」

 「あの、納入時においでになった・・・・・・」

 「そうです。値段が予定価格の三割安だったからね。そりゃ魅力ですよ。それに比べればあなたの所は逆の三割高でしょう。そりゃ、チタンだから仕方なかったが、そこまでは必要ないと考えていたんです。ところが最初のテストでは両者共なんら問題はなかった。高温テストも問題は起きなかったのでH精工に決まったのです。ところが、高温耐久テストの最終段階でH精工のは焼き付きを起こしましてね。表面粗さと材質がそこへ来て問題を起こしたと言う分けです。H精工からも飛んできて再挑戦してもらいました。それが二週間前でした。徹夜で作ってもらったのを同じく高温耐久テストにかけて、先週結果が出たのですが、結果は同じでした。表面粗さはこれで限界だから、チタンを使わせてくれと言われましたが、原因の多くが表面粗さだと分かっていましたからね.H社には諦めてもらうほかありませんでした」

 「そういうわけですか・・・・・・」

 祐造は半ば呆れている。そんなことは初めから分かっている。高くつくが敢えてチタンを選ぶ理由も説明したはずだ。それに高温耐久ほど過酷な条件はない。表面粗さが重要なポイントになることは初めに聞いた時から、分かっていた。表面は鏡面でなければならないはずだ。しかし、そんなことを今更説明しても始まらない。試験の結果が証明してくれている。祐造はそれ以上は口を閉ざした。

 「そこで改めてお願いがあります。貴社にあの部品を発注したいのですが、値段を二割高に抑えていただきたい。いかがでしょう」

 祐造はちょっと考える仕草をした。値段を決めるに際し、値切りは当然考慮する。二割高の三万六千円でも採算は取れる。ただ、今後、定期的に値下げ要求が来る。それを考えるとこの二割高は死守しなければならない。

 「分かりました。二年間はこの値段と言う事ならお受けいたしましょう」

 「良いですよ、決まりですね。ホットしました。断られたらどうしようと、実は悩んでいたのですよ。じゃ、来月十日までに十セット納入していただけますか」

 「はい、二十日ほどありますから何とか間に合わせます。ご注文ありがとうございました」

 祐造は何だか狐につままれた心境であった。結局これが創業後初めての受注になり、その後十数年にわたって渡辺製作所を支えたのは間違いない。その後も、この縁でS社との信頼関係が生まれ主要な取引先となった。二年後、房子と結婚した。そして五年後には事務所付の三十坪ほどの工場に引っ越すまでになった。従業員を三人雇い機械も増やした。年商は三千万を越した。その後も吉岡君は度々受注に繋がる話を持ち込み、親密度は増してゆく。長男祐介が生まれたのはそのころで五年後に祐二が生まれた。今から十六年も昔の話だ。今は年商六千万を超え小企業としては小粒できらりと光る存在になった。従業員はパートを含めて十人、京都郊外の鳥羽に新工場を建てた。今夏の上林の法事に房子や祐二が出なければならなかったのも、創業時からのS社の期待に応えるための父の執念のようなものだった。五十に手の届く歳になった祐造も近頃は跡継ぎの事をしばしば口にするようになった。長男の祐介はこの春、東京で就職した。電子部品関係の企業で営業仕事を始めていて、東京の大学に入学した時から跡継ぎ候補ではなくなっている。残る祐二に父は期待をかけているのが分かる。祐二にとって工場は子供の時から慣れ親しんだ遊びの場であった。油の匂いは体に染み付き、そんな既成から寧ろ他の空気を体は求めている。それを中々言い出せないでいる。母はそれを何となく察しているようだが、父の手前、祐二に声援を送っては来ない。

 今年の正月、いつもの恒例となった社員や吉岡の伯父さんとの新年宴会、創業時の昔話に一区切りつくと、伯父さんは祐二の肩を抱くように小声で囁いたのだ。お父さん、跡継ぎが欲しいんだって。料理を運んできて、話を小耳に挟んだ母が、にっと笑った。


 そんな母も祐二の前の席で本格的に船をこぎ出した。単調なレールの継ぎ目の音は厭が上にも眠気を誘う。祐二は考え事が過ぎて気が昂ってしまったのかそんな仲間にはなれない。今年、四十を三つも過ぎた母も結婚以来、苦労の連続だった。同じ企業に就職したのが縁の始まりだが、独立の苦労まで一緒にすることはなかった。しかし、母に言わせればそんな父に惚れたのだそうだ。資金集めに苦労していることを知って、実家の塩見家に帰って父親を説得したのも、そんな一途な思いがあったからだ。その塩見家は山家駅の南に位置する下替地町にある。父と母の出会いの会話は想像できる。同じ山陰線沿いの山家駅の南北に故郷を持つ二人だったから、きっかけの話題になったことだろう。母の房子は五人兄弟の末っ子である。両親は可愛い房子のために山林を売りに出そうとしたが、長男がその資金を肩代わりしたという。五年ほど前に株式会社にした時、株式を発行し、出資金に見合う株券を渡している。それには毎年の配当金が支払われていて利息以上の利益配当があるはずだ。

 こうして考えてみると、父の直向な努力は当然だとしても、吉岡さんといい、資金提供の方々の善意によって今日がある。祐二は夜汽車に揺られて日頃の思いに似合わず感傷的な気持ちになった。汽車のスピードが落ちてきてブレーキ音がする。そろそろ和知の駅に着く頃である。短く汽笛が鳴った。真っ暗なプラットホームに列車は滑り込んでゆく。激しい蒸気音と車輪の軋みの音が交じり合って列車は止まった。

 船を漕いでいた母が目を覚ましたの当然だ。

 「あっ、居眠ってしまったわ。此処は・・・・・・。ああ、和知ね」

 一人で納得して周りを見回すと身繕いをした。

 「お母さん、今日は良かったの、塩見の実家まで送ろうかって、祐造の伯父さんが言ってくれたのに寄らなくて、もう一時間早めに出れば済むんじゃないか」

 「ああ、良いのよ、春に帰ってるから、度々じゃね。今回は渡辺家の法事だけ、ついでは良くないしね」

 「ふ~む、幾つになっても実家は良いもんだっていうじゃないの」

 「まあ、大人ぶって、でもね、この歳になるとそうでもないのよ。実家だと言っても、それは両親兄弟だけの頃のことなのよ、遠慮しないといけないし、気を遣うことも多いしね」

 「でも聡子さんには結構甘えてるよね」

 「えっ、甘えてるってえ、何よそれ、いい加減にしなさい」

 「いや、悪い意味で言っているんじゃない。いいなあって、元は他人同士だろう。それが義理の関係が出来た。その義理の姉にあんな風に接しられるって素晴らしいことじゃない」

 「それ褒めてるの」

 「そう」

 「あの人、何だか一緒にいると安心してしまうっていうか。そういう所があるのね」

 「あの伯母さんって根っから優しいからね」

 「そうなのよ、私も習わなきゃって思うからね」

 汽車は時折蒸気音を出すだけで停車したままである。車内の所々で扇子を使いだす人たちがいる。走っている間は風が入って涼しいが山間の駅だとは言え、車内の七割方の席が埋まっていて、人息に満たされている。窓側はさほどでもないが通路側はなおさらだ。列車は薄暗い裸電球を灯しただけのほの暗い列を成していて、周りは真っ暗な闇夜である。いつまで止まっているのだろう。走っている時間ほども止まっているのではないかと思うほどの停車時間である。列車の行き違いを待っているに違いなかった。その内に車内に大小の虫が乱舞し始める。山間に明かりを灯して停車すれば、昆虫たちにとっては唯一の明かりに興奮するのは当然なのだ。 

 前触れもなくホームの向かい側を機関車が通った。振動だけが続いていて、何十両かの台車の列車が引かれて行くのが分かる。最後に車掌車がさっと通り過ぎると、後には振動だけが遠ざかって行った。元の静けさが戻った時、汽笛が鳴った。

 「ようやくね」

 「虫が嫌だね」

 “ゴトゴットン”祐二は前のめりになった。蒸気音が長く響いて列車は動き出した。スピードを増すに従い窓から冷気が入って来る。風の流れに押されてか虫が裸電球からいなくなると、壁にしがみ付いていたらしい大きな蛾が一匹、舞い出すと誰かが扇子で叩き落した。床に落ちたそれは羽ばたいていたが、その内に祐二の見えない隅に隠れてしまった。

 左右の窓から、真っ黒な山影が迫って来ると、ゴ~、と車輪の響きが由良川の鉄橋を渡った。そして、直ぐ左に由良川の流れに沿って行く。右は段丘の畑らしく遠くに山稜が黒く連なっている。又、単調なリズムが始まった。

 「母さん、さっきよく寝てたからもう眠くはないだろう」

 「そう、すっきりしたわ」

 「今度は僕が眠ってしまいそうだよ」

 「まだ、一時間以上乗らなきゃならないから、大丈夫よ」

 「ああ」

 祐二は窓の手摺に頭を当てて流れる線路わきに目をやった。あの快い響きが頭を伝って体全体を震わしている。線路脇の電柱が定期的に視野を横切ってゆく。目を閉じてもその残像がいつまでも網膜に残っているように思った。

 「祐二、寝るなら少し窓を閉めたら」

 「いや、寝ないよ。トイレに行ってくる。井戸で冷えた西瓜を沢山いただいたから」

 祐二は立ち上がった。ふらっとして背もたれで体を支える。薄暗い中、長く座ってばかりでいたからか。確か、トイレは一両前の車両だったはずだ。デッキへ出る重いドアに体重をかけて引き開けると、車輪の擦れる音に交じって新たな気流が客車内へ流れ込んできた。祐二は素早くデッキに躍り出る。デッキにも天井に小さな電球が灯っていてほのあかい。そこに背の高い男性が壁にもたれて煙草をくゆらせていた。開襟シャツ姿で腕に夏の背広を下げ、眼鏡をかけて中折れのストローハットを冠っている。ちらっと見ただけで顔までは分からないが紳士とはこういう人の事をいうのだと思った。またも重いドアを引き開けて客室を足早に通過してゆく。

 トイレを済ましてあのデッキへ戻ってきた。男性は相変わらず短くなった煙草を片手に暗い外に顔を向けている。座席は空きがあるのにどうしてデッキに居るのだろう。祐二は不思議に思って横顔に見入った。あれっ、どこかで会ったことがある。この人。そう思って上から下まで視線を走らせた。相手も当然気付いて顔を向けた。帽子を上げて眼鏡の縁に手をやった。眼鏡は光っていて目までは見えない。その仕草で祐二は途端に思い出した。

 「あっ、教頭先生、山田先生ですよね」

 男性は壁から背中を離すと祐二に正面を向けて煙草を床に落とした。それを靴の先で何度か踏みつけて揉消すと、やっと口を開いた。

 「え~と、君、本校の学生」

 「はい、二年二組の渡辺祐二です」

 「あっ、そう」

 「あの~、僕たちのクラブ用具を先生のロッカーで預かってもらっています。度々、お願いして開けていただいてすみません」

 「あ、そうか、ワンダーフォーゲル部だったね。ああ、君か、妙なところで出会うね」

 「はい、父の実家の法事に行った帰りなんです」

 「そう、僕も同じだな、先ほどの和知に親元があってね、去年母が九十才だった。どうしても法事にはいかなきゃって思ってね、その帰りだよ」

 「そうですか、先生もこちら方面の御出身でしたか。先生、席はまだ空いていますよ。お座りになりませんか」

 「いや、僕は煙草を呑むからね。此処が良いんだよ」

 「そうですか、お疲れになったら、僕の横も空いていますから」

 「ああ、ありがとう」

 祐二は丁寧過ぎるほどに礼をして客車の重いドアを引き開けた。先生は会釈を返すと直ぐに窓に顔を向けられた。客車内に入ってから何だかすっきりしないことに気付いた。暗い場所だったせいか先生の眼鏡が光ったり、薄いスモークが掛ったようではっきりと顔を認識できなかったのだ。でも声もしゃべり方も話の内容も先生に相違なかった。

 祐二は京都の南、洛南の工業高校の機械工学二年に在籍している。入学に際しクラブ活動へは反強制的に入部させられる。しかし、気に入ったクラブはなかった。何かと理由を付けて引き延ばした挙句、仲間を誘って新しいクラブを発足させた。ワンダーフォーゲルだ。名前はかっこが良いのだが、ハイキングクラブと余り変わり映えはない。と冷めた目で見る学生が多い。祐二は明らかに違う意味を持つクラブ活動だと、発足の意義にだけ、独り感銘して活動に打ち込んだ。

 ワンダーとはドイツ語で流浪、フォーゲルは鳥。即ち渡り鳥を意味し、自然の中を渡り鳥のように彷徨い流浪することからつけられたという。それは山野を徒歩旅行し、自然の中で自主的生活を営みつつ、心身を鍛練し、語りあうことを目的とする青年活動と言う事だが、確かにハイキングとはさほどに変わらない。幼い頃から上林や、下替地という山間の奥地を訪れる機会が多かっただけに自然との触れ合いに興味が向くのは自然の成り行きだった。

 クラブ結成に必要な五人のメンバーを集めて発足したのは良いが、資料や用具が増えてくると置き場に困る。初めはメンバーの自宅で保管していたが不便この上ない。クラブ顧問をお願いしていた教頭の山田先生に相談した。新規クラブに新しいクラブボックスが宛がわれるはずもなく、先生のロッカーや、資料棚でもよかったらと、ありがたい好意をいただいた。そんな山田先生は教頭職であり、多忙な毎日に明け暮れておられる。頻繁に資料出しに顔を出してはいたが、大勢の生徒の中でクラブの一生徒にだけを記憶しておられるはずもない。しかし、今日は違った。こういう場所だから覚えてもらえたはずだ。出会いは何かとチャンスになるからな、と思いながら、母の向かい側に戻った。

 「今、デッキで学校の教頭先生に出会ってね、びっくりしたよ」

 「え~、偶然ね。先生も夜行をお使いになられるんだね」

 「和知の実家の法事だと仰ってた」

 「あ、そう。お盆だからね。この汽車の乗客もほとんどがそういうお客だろうよ」

 「ふむ、そうかもね」

 「それより、祐二、さっきから変なのよ」

 「何が」

 「それがね、ずっと続いているんだよ。あの山の麓の火。あれよ、見えるでしょう」

 

 「えっ、どこ、どこなの」

 「あの田圃が切れた山懐よ、あそこは昔から私の実家のある下替地を通って山家の由良川沿いに伸びている細い道が通っているんだよ。あの辺りは子供の頃、よく遊びに来ていたから知ってるけど、家一軒無い山林と田圃だけの場所だよ、一間ばかりの田圃に水を引く小川があるけど、何にもない所。それなのに、見えるでしょう。転々と明かりが並んでる。何だろうあれ」

 「どうせ、村の人たちの懐中電灯かなんかじゃない。蛍でも見ようってね」

 「蛍狩りって六月か七月だわ、それに松明のようにゆらゆら揺れてるし。何かしら」

 「確かにちらちら点滅しているようにも見えるね。しかも少しずつ動いている。ふ~む」

 「狐火かしら・・・・・・」

 「狐火」

 「そう、よく聞かされたわ、狐は油が好きだから、動物や魚の食べ残しの油分をこんな蒸し暑い夜に燃やすんだって、直接見た人の話は聞かないんだけど昔から言われてるんだよ」

 「ああ、そういう話なら知ってる。上林の聡さんね、中学生の夏だったな。面白い実験しようて言ったんだ。何だろうなと付いて行ったんだけど、用水池でフナを二三匹取ってね、それを二枚下ろしにしたんだ。何をするのって聞いてもニヤニヤ笑って説明してくれないんだ。それを庭の暗がりに持ってゆくと、藁を敷いてその上に並べたんだ。ああ、狸か狐かそれともイタチをおびき出そうと餌を用意したんだなと思ったよ。そしたら、開いたフナの上にも藁をかけて井戸から水を汲んでくるとザ~ザ~って掛けるんだ。いったい何をしているのかさっぱり分からなかった。さあ、出来たこれでよ~しだって、聡さん満足した様子で縁側に戻ったんだ。ねえ、あれ何だよ、僕は説明を求めたよ。そしたら、燐光を見るんだよ。って言ったんだ。ようやく詳しく説明してくれた。動物でも魚でも内臓が特に良いそうだ。夏の蒸し暑い風のない夜、ああして置くと燐が滲み出てぼんやり光るのだそうだ。光は僅かで真の闇でないと見えないらしい」

 「さあ、いつ頃になるかな、聡さんは縁側に蚊取り線香持ち出して、座布団を枕に寝そべったよ。僕は時間がかかるのって聞いたんだが、二三時間は辛抱強く待たなきゃって言うんだ。もう八時近くになっていたから、寝る時間になってしまうと思ったよ。そしたら驚いたね、三十分も経たない内に、聡さんが立ち上がったんだ」

 「お~、来たぞ、今夜は早いな」

 僕には何も見えない。

 「聡さん、何も見えないよ」

 「いや、確かに燃え出してきた。その内に大きくなるから祐二君にも見えるようになる」

 そう言って座敷に入ると電灯を消した。

 「あら、何よ」

 座敷にいた祐子さんが悲鳴に近い声を出した。

 「ごめん、ちょっとの間、消させて。祐二君に見せたいから」

 読書でもしていたのか祐子さんがぶつぶつ言いながら立ち上がると居間の方へ出て行った。

 「えへへへ、邪魔ものがいなくなったよな」

 聡さんは言いながら縁側へ再び出てきた。

 「ほれ、見易くなった。これで祐二君にも見えるだろう」

 庭は真っ暗になった。確かに言われるように藁を被せた辺りが青白く見える。周りには何の光もないのだから、それ自体が光っているのだろう。暗闇に目が慣れてくると明らかに周りとは違う存在に気付く。それから三十分が過ぎるころこれはには疑うべくもなく、覆った藁の中の実験物以上に丸い範囲が青白い光に包まれて来たのだ。

 「本当だ、燐が燃えるって聞いたことがあるけど、こんなに輝くとは思いも寄らないよ」

 「どうだ、狐火の正体も人魂だってこれで証明できる」

 「でも、人魂はゆらゆら飛ぶっていうよ」

 「う~む、そうだな、それはこう思うんだ。人の油は魚どころではないよな。土葬で埋めても油分だけが地上に滲み出る。その中の燐の揮発分だけが空中に浮遊するってことだよ、きっと」

 聡さんは自分の説に酔っている。燐光を出現させることに自信を持つと、他の怪奇な現象とも結び付けたくなるのではと祐二は思った。庭の燐光はさらに増光しているのが分かる。それを見ていると狐火はそうなのかも知れないなと思えてくる。

 「だけどさ、母さん、あの火は赤いだろう。燐光は青白いんだ。何かの油分が燐となって光っているんじゃないな」

 「それなら何なのよ」

 「さあ、懐中電灯なら赤いよな、どちらかと言えば」

 「だからあんなに沢山しかも列になって動いてゆくよ」

 「松明のようだね、炎が揺らめいている」

 「今どき松明なんか誰も使わないよ」

 「大分近づいてきたようだね。あの道ってそうなっているの」

 「知らないわよ。此処まで来たことなかったし」

 「この辺りの夏祭りってことはないの、火祭りなんか。昔からの伝統行事みたいなもの」

 「さあ、聞いたことないわね。そういえば思い出したけど、落ち武者の供養祭りって、この辺りから通っていた旧友が言っていたな。だけど・・・・・・」

 「何、落ち武者っていつ頃の話なの」

 「私が聞いたのは高校生の時だからもう、二十年以上になるけど・・・・・・」

 「いやそうじゃなくて、その落ち武者の時代だよ」

 「その話はうちの村にも伝わっている話なの。山家城の戦いの話よ」

 「へ~、聞かせてよ、その話」

 「良いけど・・・・・・、山家城の戦いはね戦国時代にあった実際の戦なの。年代はよく覚えてはいないけど、何年だ天正三だったか四年だったかな、夏のことだったと思う。江戸時代は山家は谷氏が支配していたでしょう。その前は戦国時代ね、山家には福知山の塩見氏の一族で和久氏が城を築いていたのよ」

 「はは~、それでお母さんの実家はその末裔だね」

 「いや~それは分からない。でも、元は福知山だというのは聞いたことがある。まあ、ともかく、その福知山に侵攻しようとしたのが八木の豪族、内藤氏なの。天正四年だったと思うけど、その内藤宗勝って主将が高津や栗の城を落として山家城に迫ったの、総勢三千という大軍だったそうよ、そのころは三千と言えば相当の大軍だったんだって。城方は白波瀬忠義と十六人の家臣、それに土民合わせて四五十人しかいなくて、これは勝ち目がないと和議を申し込んだそうよ。ところが山家が落ちれば何鹿郡全体が危機に陥ると、何鹿郡の土豪たちが決起したのね、上林からも援軍が来たそうよ、その中に渡辺家の先祖もいたそうよ」

 「へ~、丹波って面白いね、そんな頃からあちらこちらで繫がってんだ」

 「そうよ、滅ぼしたり滅んだりっていうけど、ちゃんとどこかで生き残ってきているんだね」

 「それで、どうなったの」

 「そう、その和議の話が進んでいる最中に、援軍と共に敵陣を急襲したんだね。すっかり和議がなるものと内藤方は安心しているところへ早朝の急襲だから、大混乱に陥ったってわけ。三千もの大軍も一旦、混乱すると収拾がつかなくなるって。兵たちが由良川沿いを八木の方面に向かって敗走したの。もう只管逃げるばかりで将も兵も必死だった。それを何鹿の兵たちは執拗に追い討ちをかけたのよ。大将の内藤宗勝は逃げ場を失って下原から東へ山中に逃れたんだそうよ。でも下替地の実家の裏山ね、そこで討たれたそうよ」

 「へ~あんなところで、僕もよく上ったよ、頂上は一面の草原でね、所々に低い木があるだけだよ。そういえば何か石碑みたいなものがあったな、あれがそうなのか」

 「そうよ、後に内藤の子孫が建てたって聞いたわ」

 「戦国時代だもんな、あちこちでそんな殺し合いしてたんだ。その中の一つがここでもあったというだけのことだよな」

 「そうだけど、未だに言い伝えられているってことはそれだけ大変なことが起きていたんでしょう」

 「うん、戦国時代って言ってもしょっちゅう戦争してたわけではないって聞いたな」

 祐二はそう言って再び遠くの松明かも知れない火を探して、窓に目を転じた。

 「あれ、もうないよ」

 「えっ、消えたの・・・・・・。祐二!そうじゃないわ。直ぐそこまで近寄ってきているんじゃないの、あれ、ゆらゆら、火の列が並んでる」

 「本当だ、どんどん近寄って来るよ。何だか人が走りながら翳しているように見えるね、やっぱり火祭りかなんかだよ、きっと」

 「あっ、この先で踏切かな、あの火の列と、この汽車交差しているよ。よく見えるんじゃないかな。お母さんも見ていて、もうすぐだよ、わあ、どんどん近づいてくる」

 「うわ~、あの松明の火に照らされて見えるよ。戦争だ戦だ。一人を何人もで追いかけて槍で突いてる。落ち武者狩りだよこれって、さっきの話って、きっとこれだよ。内藤の兵が追われてここまで逃げてきているんだ。逃げてる逃げてる。映画の撮影だよこれって。わあ~火の列が汽車に向かってまっしぐらに来る来る。どうしよう。お母さんどうしよう。窓、閉める・・・・・・」

 「まさか、列車に当たったりしないわよ」

 「わあ、松明が、松明が、着た!きゃあ~・・・・・・。今、松明の火、窓から入ってあっちへ抜けたよね。見たでしょう。熱くもなんともなかったけれど、ふぁっと生暖かい風と一緒に通り抜けて行ったよ。ねえ、母さん、見たでしょう。そんな感じだったよね」

 「私にはよくわからなかったけど、確かに何かが通った感じはしたわね」

 「そうだろう、あれって何だろう」

 「踏切の音と内藤の落ち武者話をしたからそう思ったんじゃないの。隣のお客さんだって何もなかったように平気じゃないの」

 「いや~、そんなのじゃない。鎧、兜まではっきり見えたし、ざんばらの髪の毛まで見たよ、確かにあれは追われている兵だった。何だったんだろうあれって」

ブオ~、汽笛が鳴って、列車にブレーキがかかった。駅が近いらしい。祐二は無関心に揺られながら放心していた。さっき体験した奇妙な感覚がまだ残っていて、焦点の定まらない視野で、頭の中に靄が掛ったようなぼんやりと説明の出来ない状態にいる。

 「祐二、貴方疲れているんだわ、少し寝たら、まだ京都までは一時間ほどもあるから」

 「う~む・・・・・・。他の乗客って確かに皆、平気だね、寝ているのかな」

 祐二は返事も忘れて首を傾げている。やがて、下山のホームに列車は止まった。時々機関車の蒸気音が聞こえるがホームは真っ暗で乗降客は見えない。

 「お母さん、僕、少し寝るよ、何だかぼんやりしてすっきりしないんだ」

 「そうしなさい」

 祐二は窓枠に腕枕をして目を瞑った。目を閉じてもあの光景が瞼から去らない。実にリアルな映像だったからなのである。声や物音は聞こえなかった。ただ、レールの継ぎ目の音がコトコトコト~、コトコトコト~と響いていただけなのだ。そういえば止まっているはずの列車なのに相変わらずその音が頭の中に響いてくる。ああ、どうなってしまったんだろう。祐二はあのことを考えずに上林の法事の時を思い出そうと思った。ああ、そうだった、あの時、寺のお坊さんが遅れてやって来たのだった。お盆の法事は何処の家も同じ時期になる。お坊さんは袈裟を治しながら言い訳をなさっていたな。それにしても、法事だと言って田舎では何であんなに沢山の料理を並べるんだろう。余ってどうしようもないって分かってるはずなのに・・・・・・。お母さんたら喜んでお重に詰めてたよな。

“ガックン”衝撃に祐二は眼を覚ました。

 「ううん・・・・・・」

 「目が覚めたようね。よく寝てたわよ。和知過ぎてからだから三十分以上よ。何回か寝言なんか言っちゃって、大丈夫。今、園部を出たところよ」

 「えっ、園部、僕って下山を出たところからだったよね、寝たの」

 「何言ってんのよ、和知過ぎてからずっと寝てたくせに」

 「それはないよ、和知の駅出てからトイレに行ったし、下山までの間で、お母さんから色々と話聞いただろう。それに極めつけはあの松明と落ち武者狩り」

 「何を寝ぼけてるの、貴方、和知を出てからそこで寝っぱなしだったじゃないの」

 「そんなはずはないよ、あの狐火の話や、山家城の戦の話してくれたじゃない。それに落ち武者狩りの松明行列が近づいてきてさ、この窓を通って向こう側へ抜けて行ったじゃないの」

 「あなた夢見ていたんじゃないの、私はそんな話した覚えもなければ、落ち武者と松明って何のこと言ってるのよ」

 「え~、あれが夢~、違うよ。遠くの赤い火の行列がどんどん近づいてきたじゃない。お母さんも何だろう、何だろうって・・・・・・それじゃデッキで山田教頭先生に出会ったんだけど、あれも夢、そんなはずないよな。ちょっと、見てくるよ」

 祐二はあっけにとられている母をしり目に立ち上がった。先生は京都にお住まいだから、まだこの列車に乗っておられるはずだ。まだ、デッキにおられるのかな。いや、どこかの座席に座っておられるはずだ。デッキのある両方の座席を巡ってみようと思った。初めはこの車両だが・・・・・・あのストローハットだが、見渡してもそれらしい頭は見られない。とにかく往復してみようと、目だけを左右に動かしながら通路を足早に通行したが、やはり、此処にはおられない。それなら隣の車両に違いないと出会ったデッキへ出てみる。そうだ、此処に煙草をふかせて立っておられた。話もした。何であれが夢なんかであるものか。祐二は自分が真ともであることの証明が掛っていると半分むきになっている。だが、その腰は無残にも折られてしまった。念のためにと足を向けた前後の車両にも先生らしい人は全く見ることが出来なかった。しおれた姿で母の向かいに戻って腰を投げ出すように座った。

 「どう、おられた。おられなかったでしょう。夢で出会っただけよ。お腹減ったでしょう。揺られていると減るのよね。食べて」

 母はバッグから菓子パンの紙包みを取り出して祐二の膝に置いた。祐二は無言でその包みを開けると中の餡パンをつまみ出して噛み付いた。母は残った紙包みを受け取ると、バックにしまって代わりに牛乳パックを取り出した。それも祐二の膝に置いた。

 「お母さんは、食べないの」

 「私はさっき頂いたの」

 祐二は牛乳を開封しながらポツリと言った。

 「僕ってどうにかなったんだろうか。あまりにも何もかもはっきり覚えていて、しかも、リアルだったんだ。お母さんの話だって、一言一句鮮明だしよく覚えてるよ」

 「悩むことないわよ、若い内は良くあることだから」

 列車の両側に山が迫る。いつの間にか亀岡を過ぎて保津川沿いを走っているのが分かる。もうすぐ京都だ。

 やがて京都の一番ホームに二人が降り立ったのは十時を二十分ほど過ぎた時刻だった。自宅は九条大宮の近くだが、母は気になる工場へ寄ってみたいというのでタクシー乗り場へ急いだ。この時間になると、タクシー乗り場には長蛇の列ができている。待つ間も祐二はまだ、すっきりしなかった。タクシーの窓から工場が見えた時、祐二は漸く現実に帰った心地がした。二階の事務室の窓は明々と明かりがともっていた。

 「やっぱり、頑張ってる・・・・・・」

 お母さんは急いで事務用の扉を押した。


 やっぱり、あれは夢なんかじゃない。祐二は夏休みが開ける九月二日の月曜日が待ち通しかった。先生に直接聞いてみるしかない。そう思いつめていたからだ。久しぶりに見る級友たちは誰もが日焼けして白い歯が目立った。その日は期の初めなので午前中の授業で午後はない。授業のない時は先生は帰宅することがあるので、山田先生を訪ねるのを十時から十分の長休みに決めていた。職員室の重い戸を押して中へ入った。中央の壁際の先生の机は無人だった。まだ、授業から帰っておられないのか、それとも今日はお休み?・・・・・・。そう思いながら近ずく。暫く待つ積りだった。先生の机は綺麗に整理されていて書類の一つもない。ただ、小さな花瓶に数本の菊の花が生けてある。何となくいつもと違う雰囲気を感じて祐二は後退った。後ろで声がした。

 「山田先生に用事で来たの」

 体育の女先生だ。いつもは厳しい号令をかけられ、体育の授業は何時もピリピリとした緊張の時間だから、ちょっと身構えて答えた。

 「はい、ワンダークラブの事でちょっと・・・・・・」

 「ああ、そうなの。先生顧問をなさっていたからね。お机見て分かったと思うけど、先生亡くなったのよ。夏休みが始まってすぐの七月の二十五日だったそうよ。急性脳溢血ですって。誰にもお知らせが無くってね、もうお葬儀も済まされたんですって。お参りに行かなきゃって皆で話している処」

 祐二は話を聞きながら血の気が次第に引いて行くのが分かった。僕、八月十八日に夜行列車の中で先生に会って話をしたんですけど、それって間違いじゃないですか。喉まで出かかった言葉を飲み込んで、祐二はふらりと職員室を後にした。女先生にはどう答えたか記憶にない。

 祐二は歩きながら、確信のようなものが広がってゆくのを感じた。僕はあの時、夜汽車の単調なリズムの中で、催眠誘導された結果、誰もが経験できない冥界を垣間見たんだと。

                            (完)

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