タクシー
新町の交差点を城山通りに少し上がった所にタクシーの待合所がある。あそこは繁華街が近く、夜遅くまで酔い客を掴むことが出来る。しかし、それを見越した同業が多く押し寄せるので、いつも待ち時間が長いのが難だ。それでも流しをやるとガソリンを食って採算が悪くなる。仕方なく新聞でも眺めて順番を待つ車が多い。処がこのところのガソリンの値下がりで流しの方がいくらか収入が増えるという結果が出てきた。反応の早いのはいつも個人タクシーである。
その個人タクシー業を始めてから、かれこれ十年になる。十年やれば一般的な会社では中堅といったところだ。しかし、個人タクシー業は経営が自己責任であり、あくまでも収入は自分の働きに応じたものだ。長時間労働であろうが休暇を取って休もうが好きなように出来る。その結果は自分に返って来るだけなのだ。この十年、その経営とやらを振り返ってみれば右肩上がりとはとても言えたものではない。特に車の償却を五年にして買い替える、この業界の特殊性もあるが、車の価格上昇が及ぼす経営への圧迫は馬鹿にならない。それに合わせて乗車賃の値上げもあるがとても追いつかないのが実情である。何とかギリギリの処でやってはきたが、やはりサラリーマン時代が何と言って気楽なのが懐かしい。まあ、そうは言っても会社勤めをあのまま続けていたら、五年前には定年退職でどこかの再就職を探していたことだろうし、慣れない仕事に四苦八苦していたことだろう。そんなことを考えると、こうして曲りなりにでも個人経営者として飯が食えるだけましなのかも知れない。
流しは大体、夕方から深夜一時頃までが客を拾う時間帯だ。十時以降は深夜料金になるので、効率は良いのだが客数は減る。それでも朝までと精力的なドライバーもいるが、体力勝負で私などとてもついていけない。精々一時で切り上げる。その代わりと言えば何だが、人より少し早い十五時頃から出車している。時間帯によって客数は決まるようなものだが、それよりも曜日によって場所と時間は決定的な違いがでる。これらの分析は大手タクシー会社にはかなわない。我々個人は経験や仲間同士の情報交流しか手段がない。だが、十年の中堅ともなると、いつの間にか積み重なった情報量が曜日、時間、場所、イベント、社会情勢などの諸要素をいつの間にか加味した動きなっていることに気付く。
深夜タクシーが終わりを告げる頃、明け方を専門に流す者もいる。深夜からそのまま朝の客を掴む頑強な体の持ち主だ。そうかと思えば夜は早々に帰って早朝出勤の年寄り組もいる。いずれにしても多かれ少なかれ、街にはいつもタクシーが走っていることになって、利用者にとっては都合がよい。しかし、私は一時以降の流しも待合もやらない。一時になれば必ず帰ると決めている。もう若くもないし、体力が持たないのが理由だが近頃はそうまでしてがむしゃらに働く必要もなくなってきたというのが本当の処だ。今年六十五歳になるが金の要る大きな山場を抜けたというのが気分を楽にしている。子供達の独立である。上の男の子は東京の私大を卒業して五年前に就職した。大手の証券会社だ。最近、彼女が出来て来年位に結婚したいと漏らしていた。下の子は去年地元の女子大を卒業して就職したばかりだ。地元のハウスメーカーだ。そんな訳で少し緊張感がなくなってきている。妻はそんな家族を支えて家事を一手に引き受けて奮闘してきた。私と同じく肩の荷が少しは軽くなったのではないかと思う。
今日も十五時過ぎに出車して今流している。熱い夏が過ぎてようやく涼しくなり始めた。しかし、日中を過ぎても傾いた日差しは窓から入ってきて顔を刺す。この辺りは繁華街から離れていて昼間の客は比較的多い地区だ。もう少し外れれば住宅街だが会社の事務所や大学への出入りの客を掴める。大学の正門の前を通りかかった。校門から勢いよく一塊の集団が飛び出してきた。その先頭の人影が通りに出て手を上げた。そこへ私の車が折りよく通りかかってゆく。あまり上客ではない。学生の集団だ。まさか乗車拒否は出来ない。
賑やかな四人組だった。助手席に乗ったのがまだ大人しい方でほっとする。後ろの三人はしまいに取っ組み合いのふざけに興じている。乗って直ぐに新町筋の二丁目を指定した。雀荘だ。近頃の学生は勉強そっちのけで昼間から雀荘へ、親が必死に働いて高い学費を稼いでいるというのに親の心子知らずとはこのことか。不機嫌になりながらも雀荘に向かう。こういう嫌な客も往々にして出くわすが商売と思って割り切るしかない。しかし、ついつい嫌味な一言が出た。
「君たちのご両親はさぞかし稼ぎが良いんだろうね」
後ろの真ん中の学生が反応した。
「ははははっ、親父の稼ぎが悪いからさ、お袋がパートへ行かなきゃなんないんだよな」
すると、左の学生がそれに呼応する。
「俺んとこなんか借金してんのじゃないか。俺に投資しても回収不能が分かんないかな~ははははっ」
馬鹿々々しくて聞いておれなくなった。親たちに聞かせてやりたいところだが、自分の二人の子供たちはどうだったんだろうかと、ちょっと深刻に考えたくなった。でも、そこそこの就職先を得て真面目にやっているからにはこんなことはなかったように思いたい。この学生も卒業すれば真面目に働く社会人になるのだろうか、そうでなくては生活していけなくなる。今だけ羽を伸ばして将来の厳しい競争社会に備えているのかも知れない。そう思って割り切ることにした。
「はい、着きました六百五十円です」
助手席に乗った学生が小銭を数えながらきっちりと支払って降車していった。少し離れて街路樹が西日の影を作る辺りに停車すると、三人客の乱れた座席のシートを直した。次の客が気持ちよく座ってもらうためには仕方ない作業だ。
夕方から夜にかけて、勤め帰りのOLやサラリーマンの客層を拾うためにオフィス街へ戻る。雨の日なら拾うに苦労しないが今日はうまいタイミングを期待した。案の定、客待ちのタクシーで込み合っている。誰の考えも同じようなものだ。目の前で停車して乗車している一台がさっと流れに乗り出した後に、走り出てきたサラリーマン風の男性が手を上げた。そこへ横付けした。ドアの開くのももどかしそうに乗車してくる。表情からしてもかなり慌てている。
「中央病院へお願いします。急いでいます」
「はい、急ぎますが今の時間は混んでいます。周り道でもいいですか」
「はい、早ければ」
「分かりました」
この客の知り合いに何かが起きている。出来るだけ早く病院に駆け付けなければならない。客の要求に応えるのがドライバーの手腕である。まともに向かえばこれからラッシュになる繁華街を通過しなければならない。しかし、了解を取った以上、大きく南に迂回すれば時間としては半分以下で到着できる。私は大きくハンドルを切って反対側の車線にUターンした。昼間は人通りも多く 主婦や小学生の多い要注意のエリアだが、夕方から夜にかけては人通りもまばらになる。そこを制限に近いスピードで南下する。幸い信号には一回止められただけで南山下通りまで一気に下り、西へ折れる。正面からまともに西日を浴びて慌ててブレードを下ろした。約一町走ってそこから川原通りを北へ、この角でギリギリの信号に捕まった。客のイライラがこちらにも伝わってくるが、ここで冷静な運転が出来なければプロとは言えない。生憎この信号はスクランブル式で時間がかかる。
「お客さん、もうすぐですから・・・・・・。お身内さんですか」
「えっ、ええ、まあ、救急車で運ばれたんですよ、親父がね」
「大変ですね」
「ええ、残業でこなす仕事が出来なくなった。まあ、仕方ないですね。突然ですからね、あれほど気を付けろって言ってたんですが、歳なもんで・・・・・・」
信号が変わった。対抗の車はない。一気に中央病院の正面まで乗り付けるとエントランスへ滑り込ませた。これほどの速さで駆け付けられるとは、時計を見ながら我ながらと思う。
「ありがとう。早かった」
「いえ、八百五十円になります」
「じゃ、これで、おつりはいいよ」
千円札を差し出すとさっと身をひるがえして玄関ドアを押して入って行った。どうなのだかわからないが間に合うと良いのだが、と思いながら通りへとハンドルを回した。
近くでは殆ど客は取れない。元のオフィスに戻ることにしてそのまま北上した。時間はまだ四時半過ぎでこれからだ。先ほどもそうだったが、この季節西向きには走り難い。通路が東西に走っていると、まともに西日を浴びて面食らってしまう。
この日はこの後、OLの三人組を繁華街まで運んだのと年配のサラリーマンの二人を北の山手にある料亭へ、その帰りに又、オフィイス街で一人の年配のOLを繁華街へ運んだ。そこで溜場に止めて小休止する。今日は順調に客を取れているがこの後がいけなかった。やはり夜の客を目当ての競合がひしめき合うからだ。結局この日は小休止の後に拾えた客は近距離ばかりの七組しかなかった。疲れて十二時過ぎに家路についた。ざっと一万五千円ってところだろう。オフィイス街から山の手へ運ぶような、もっと遠距離客を乗せないと稼ぎにはならない。
タクシー家業ってざっとこんな毎日の連続である。この間に車の手入れは欠かせない。定期点検は当然のこととして、毎日出車前には車内を含めた清掃は必須である。その他には燃料の補給、収支の帳簿付けは深夜に帰ったその日に済ませる。毎晩就寝は二時頃、起床は九時過ぎになる。
サラリーマン時代の方が気遣いは多いが実入りは安定しこれほど齷齪(あくせく)することはない。そうかといって又やるかと言われれば、いや、この方が気楽だしな~と言う事になるだろう。
その客はあの中央病院からの呼び出しで向かった客だった。その日もいつものように午後三時に出車して初めての客だった。病院の前の銀杏の大木が色付いて道路まで黄色く染まっている。朝夕は気温が下がってきて吐く息が白くなる。病院からの客は見舞い客と患者客があるが、どちらも余り歓迎でない。陰気でいけない。退院して自宅へ帰るにしても黙りこくって、ろくに返事もしない。だが、この客は違っていた。年の頃は私より五、六歳も上だろうか七十を二、三歳も過ぎた感じだ。入院していたとは思えない血色の良さと、中折れ帽にブレザーと紺のコートをきっちりと着た身なりである。この老人が見かけに寄らず実に陽気なのである。郊外の自宅へ一時帰宅したいと言う事だったが、四、五十分かかる遠距離客だったので、今日はついていると思った。その小一時間かかる距離を退屈せずによく喋る方だった。今の自分にとってこんなに幸せな時代はなく、自分の人生は幸運にも恵まれてラッキーな人生だった。もうこれ以上に何も言う事はない。その笑顔も言葉の高揚にもそれを裏打ちを物語っていた。
「それでお勤めはどんな会社だったんです?」
「それがね私は中卒でね、九州は大分からの集団就職でした。そのころの俗にいう金の卵っていうやつですよ。会社も大事にしてくれました。夜間の高校へ行かせてくれたんですよ。仕事ですか、旋盤工ですよ、それも大型のね、船のスクリューシャフトとか、大型の発電機のシャフトですよ、大きいのになると直径五百ミリ以上です。初めは圧倒されて、ただボヤッと眺めているだけの毎日でした。まだ、十五歳で子供みたいなものですからね」
「シャフトですか、それじゃ私はそのシャフトをいただいて組み立てをさせてもらっていたのかも知れない。実は私は大阪の帝国重工で発電機部にいたんです」
「えっ、それじゃ運転手さんも・・・・・・」
「ええ、サラリーマンでした。五十五才で早期退職してこの稼業です」
「いや~、これは奇遇だ。仕事が繋がっている方にお会いできるなんて」
「なんという会社でした」
「三和機工の堺工場でした」
「ああ、三和さんね、私、一度訪問したことがありますよ。あるクレームがきっかけでした。現場を見せていただきました。あの会社の技術力は大したものだった。どんどん中国に仕事が流れる中でも三和さんだけは転注が出来ませんでしたからね。熱膨張をどのように計算されて加工されておられたのか、今も謎ですよ、それにあの表面粗さは使われる条件を加味したものですよね、それが少しばかり狂ったのがクレームの原因だった」
「ああ、そうでしたね、私が七年目でした。ようやく一台の機械を任されるようになったのは、その当初の頃でした。私の削った製品で焼き付きのクレームが出たんですよ。ショックでした。それまでは教えられた通りの仕事を只管忠実にやっていただけでしたのにね。重工から厳しい検査官が来られましたよ、あれはあなただった」
「そうですか、あれはあなたの仕事だったんですか。実に真摯に対応された印象が深かったですね。でもあれ以降は技術力は不動のものになったんです。重工では誰もが認める。世界一ですよ」
「そう言われると面はゆいです。先輩方より積み重ねて来たものです。私が受け継いだ時にはすべて先輩のやり方を見て学ぶものでした。理屈なんてのはない。ただ、その手元を見て間違いなくやれれば同じものが作れる。だから技術が欲しければ盗めというものでした。結果的にはそれがクレームの原因だったということが分かりました。財産は人にしか蓄積していなかったんです。要するにノウハウになっていなかった。それに気付いた上司から経験即も大切だがそれを理論付けして会社の財産にすることが大切だと教えられたんです」
「なるほど、それが三和の財産になったという訳ですね。あなたはその誰も真似の出来ない財産を残された」
「まあ、ラッキーなだけでしたよ。係長までしか出世はできませんでしたが何よりも、遣り甲斐のある仕事と幸せな家庭を作ることが出来たのですから、こんな幸せな人生はありません」
「そうですね、発電機と言う社会に直接貢献できる仕事に携われたというだけでもラッキーだったんでしょうな」
「ああ、そこの信号を左へ、その先が団地になっています」
「はい、わかりました。処でお元気そうですが退院されたんですか」
「いえ、三日前に救急車で運ばれましてね、軽い脳溢血ですよ、なあに、もう大丈夫です。家の者は大層でいけません。医者まで後、一週間入院だなんていうんです。暇なもので少し、身の回りの物を取りに帰ったってところです」
「じゃ、医者にもご家族にも無断ですか」
「ええ、直ぐに戻りますから」
「そりゃ、病院でも大騒ぎじゃないですか。おうちに戻られれば直ぐに電話を入れられた方が良い」
「はははははっ、運転手さんまで大層に」
「まあ、そんなにお元気なら問題はないんでしょうがね」
「ああ、そこの角を左へ曲がって頂けませんか。あと二百メーターほどです」
車は団地の四メータ通路の緩い坂道を上っていく。話を聞いている内に先日、オフィス街から中央病院まで乗せた中年のサラリーマンを思い出していた。ひょっとして、あの時の客はこの老人の息子さんだったのかも・・・・・・?。
「直ぐに病院へ戻られるんでしたらお待ちしましょうか?、」
「ええ、実は料金を持っておりませんで、家の者から直ぐに支払いします。その間に荷物を取ってきますので又、病院へお願いできますか?」
「ええ、私の方はどうせ又、戻りますのでありがたいですが」
「あっ、そこです。赤いポストのある家です」
同じような住宅の立ち並ぶ団地である。いずれも築年は四十年近くも経っているのだろう。ブロック塀などは欠け落ちて鉄筋があらわになっているところもある。車を止めて後部ドアを開けた。老人は身軽な動作で車を降りると、西日に赤く染まった鉄扉を押し開けて階段を上がってゆく。私も車を降りると開かれた鉄扉からゆっくりと玄関へ上がって行った。見上げると老人は呼び鈴を押して家人を呼んでいる。何気なく表札を見上げるとどちらの名前かは分からないが内山晴彦とあった。内山さんというのだと思った。勢いよくドアが開かれて女性が顔を出し素っ頓狂な声が響いた。
「まあ、お父さん、ど、どうされたんですか・・・・・・」
「タクシーで帰った。料金払ってくれんか、わしは取ってくるもんがあるのでな、直ぐに病院へ戻る。ああ、そうじゃ料金は帰りの分も合わせて払っておいてくれんか」
言い残すとさっさと中へ入る。私が階段の途中で佇んでいるのを見て、恐らくは息子さんの奥さんだろうか、ちらっと頭を下げた。そして、さっと中へ入る。ドアが勢いよく閉まって音を立てた。私は所在無さげに佇んでいる。するとドアが半開きになって声がした。
「すみません。ここまでお入りくださいませんか」
私は言われるままに玄関の中へ足を踏み入れた。奥さんは式台へ上がって膝をついておられる。明るく落ち着いた雰囲気の玄関だ。玄関から見える正面廊下の突き当りに大きな書額がかかっている。以和爲貴と書かれている。
「すみません。お金もないのに乗せていただいたりして、それで、お幾らだったのでしょう」
「はい、良くあることですから大丈夫です。え~、千八百円です。往復ですと三千六百円になります」
「あの~、五千円でおつりはございますか?急なもので、用意がなくてすみません」
「はい、ありますよ」
私は専用の大きながま口を内ポケットから取り出してつり銭を取り出した。
「はい、それでは」
五千円を受け取って千四百円を渡す。
「じゃ、ここで待たせていただきます」
「すみません。上がってください」
「いえ、ここで・・・・・・」
「そうですか、じゃ、すみませんが」
奥へ入ろうとした奥さんを呼び止めた。
「あの~、奥さん、あの書は何方の?随分立派なものですね。私にはよく分かりませんが」
「ああ~、あれですか、あれはお父さんがお書きになったものです。日展で優秀賞に入ったんですよ。こんな玄関には不釣り合いなんですけど、掛けるところもなくて」
「えっ~お爺さんの・・・・・・じゃ、あの銘は・・・・・・」
「香碧って申します」
「それじゃ書の世界では有名な方なんですね」
「いえ、日展って一度だけですから、お弟子さんも取ってないですから埋もれた町の書家って処かしら」
「いや~それにしても大したものだ」
「お父さんの唯一の趣味ですから」
その時、居間の出口の戸が開かれてその当人が姿を現した。手に大きな風呂敷包みを抱えてニコニコ笑っている。どうもその唯一の趣味の道具を取りに戻ってご満悦のようである。
「いや~、お待たせしました。ちょっと孫たちと話していたもので遅くなりました」
「いえ、私の方は良いですよ、待たせていただきます」
「ええ、用事は一応終わりました。それでは戻りましょうかね」
おじいさんは玄関へ出てくる。ちょっと待って、と言いながら奥さんは奥へ入って行く。その間に靴を履いたお爺さんはさっさとドアを開けると先に外へ出た。慌てた奥さんが紙袋を持って玄関へ出てきたのはお爺さんが鉄扉まで下りた時だ。
「すみません。これ着替えなのです。明日にでも届けようと思っていたのですが丁度これも一緒に運んでいただけますか」
「はい、承知しました」
私が受け取ってお爺さんを追って出る。お爺さんは丁度車のドアの横に立って振り返っている処だった。私を待っている訳ではなく、玄関から二階、屋根へと家全体をあたかも懐かしい物でも見るように眺めまわしていた。私は何だか邪魔をしてはいけない思いがしてそのまま階段の途中で立ち止まってしまった。それに気が付いたお爺さん。にこっと笑って自分で車のドアを開けさっさと乗り込んでしまった。慌てて運転席へと回り込む私。ドアを閉めてシートベルトをかけ終えると丁度、奥さんが鉄扉の外へ出て見送る風に見えた。
車が走りだすと奥さんは道路へ走り出て手を振った。お爺さんも何度も振り返っている。
「良いお嫁さんですね」
「はい、お陰様で、満足してます」
「近頃にない気の付く方だ」
「ええ、良くしてくれます。何彼となくね」
車は住宅地を抜け、都心への幹線道路に向かって車の流れへと入ってゆく。秋の陽は落ちるのが早い。お爺さんの左の頬に陽が照り込んで紅潮して見える。何だか来る時の様な元気さがない。やはり家へ帰るのが嬉しかったんだと納得した。
「香碧って号をお持ちだそうで」
「ああ、お聞きになりましたか。手遊びのようなものです」
「いや~日展で特選に入られたとか、凄いじゃないですか。書の先生でしたか」
「私はそれが嫌いでね、弟子も取らないし、そう言った方々ともお付き合いはありません。あの権威っていうのでしょうか、それで金を集めるなんて以ての外ですよ。特選に入ったというのもそういった人間を新たに作るための仕掛けのようなものだ。あの後、本当に困りました。一年ばかり続きましたね。協会へ入会しろ、何とか書道会の理事になってくれってね。全部断りました。金と名声に汚れた世界に足を踏み入れたくありません」
「そうですか、全然知らなかった。そういった先生達は足元にも近づけない偉い方々だとばかっり思っていました」
「そうなんです。そうして権威ばかりを付けて、この世界の純然たる芸術性を高めようとはしない。要は金もうけの手段としか考えていないのです。私はたまたま誰の推挙があってか特選になったのか分かりませんが、毎年の審査では次はそろそろ○○先生の所からにしましょうかね、なんて実力とは程遠い処で、金の流れだけで決まるのですから呆れます」
「でも、作品が不出来ではどうにもならないんじゃないですか」
「それはそうです。何十年もやっておれば誰だって基本は身につく。後はどれだけ書き込むかだけの問題です。同じ字を毎日毎日何十枚も籠って書いてごらんなさい。目を瞑ってたって真似の出来ない作品は書ける。要は優劣なんて鼻から決められない。だからそういう権威って奴が出てくるんですよ」
「いや~、芸術の世界も厄介なものですね」
「そうです。大体、家元なんてのは大概そう言う権威の引き継ぎから生まれたものですね。黙っていてもお金の入る仕組みを作ったのですから」
「それで、内山さんは街の一介の書家を通されたという事ですか」
「はははははっ、元々面白いから始めた世界です。今更名声もお金も要りません。自分を楽しませる、それだけで十分です。あなたも何か趣味をお持ちでしょう」
「趣味っていうほどのものはありません。しいて言うなら、同じタクシー仲間とたまにゴルフをやることぐらいでしょうか」
「それはそうと、私が内山ってよく分かりましたね」
「はい、玄関の表札を見せていただきましたから。晴彦さんは息子さんですか」
「ええ、表札の晴彦は息子です。私と違って総合商社の東商でそこそこ出世しているそうですよ。これで私も安心です」
「立派な方だった。本丸町の本社ビルですよね」
「ええ、やはりタクシーの方はよくご存じだ」
「間違いなければ、この月曜日に中央病院までお乗せした方だと思うんですがね」
「月曜ですか、何時ごろでした」
「そうですね、丁度、今頃、夕方の五時近くだったかな」
「じゃ、間違いないでしょう。私が救急車で運ばれたのが四時過ぎですから、息子は五時には病院に駆け付けたと言ってましたから。でも、貴方とは妙な因縁ですね」
「そうですね、現役の頃の関わりもさることながら、息子さんまでご利用いただけるなんて」
車は幹線道路から町の区割りの道路へと侵入してゆく。辺りは薄暗くなりかけて町角には勤め帰りの人たちが行列を作り始めている。少しの間、内山さんとは沈黙の時間が過ぎる。もう中央病院まで十分程度の距離である。交差点の信号待ちの時、バックミラーで内山さんの様子を垣間見た。風呂敷包みを開けて何やらごそごそと中から取り出している。
それからは会話はなかった。内山さんはじっと外の人や車の流れを見つめている。
「世の中、これからどういうふうに変わっていくのでしょうね」
唐突に内山さんが言った。相変わらず窓から外を流れる夕暮れの都会を眺めながらである。
「そうですね、我々の若い頃とはずいぶん変わってしまいましたね。しかし、我々の若い時代にも親父やお爺さんがそう言っていたような気がします。もっと昔の江戸時代なら大した変わりようもなかったのでしょが、今の世の中は何もかもが加速度的な変化の時代ですからね」
「そうですね、スマホもパソコンもカードもなくても何も困らなかった。しかし、今はそれがないと人並の生活が出来なくなった。不便な世の中だ」
「全くです。人間、どこまで行けば満足できるのでしょうね」
「永遠に続くのでしょうね、人間の欲求は限りない」
「そしていつか、自分で自分の首を絞めていることに気付くってことですか。地球に住めなくなって」
「さあ、そこまで人間は馬鹿だとは思いたくありませんが・・・・・・」
話の区切りがつかないまま、車は中央病院のエントランスに滑り込んだ。
「着きましたよ、内山さん」
「ああ、ありがとうございました。お世話になった」
「いえ、いえ、仕事ですから」
「あの~、これ・・・・・・。何かお出会いの記念になるものと思ったんですが、今はこれしかなくて、自慢たらしくていやなのですが、私を表現するとしたら、これしかないもので」
内山さんは後部座席からシート越しに色紙を差し出した。先ほどから風呂敷き包みから取り出していたものだ。受け取って眺めた。書である。日々好日と書いてあり、落款と印が押されている。
「ええっ、頂いて良いのでしょうか」
「お恥ずかしいものです。邪魔になったら捨ててください。値打ちのないもんですから」
「いやいや、そんなことはありません。内山さんからの心のこもった贈りものです。大切にさせていただきます」
「それじゃ、あっ、料金はお支払い済でしたね」
「ええ、頂いております」
私は急いで後部ドアのレバーを引いた。内山さんはゆっくりと腰を浮かせるとドアを潜って出た。そして、もう一度窓越しに私に頭を下げて玄関扉の方に去っていった。私は改めて頂いた色紙を眺めた。繊細な筆さばきに見えた。日展の特選入賞者の作品である。値打ちがないはずはないと思いなおした。ただ自分には良さが分からないのはいかにも残念だが、話のタネにはなる。ひょっとして値打ちが出るのかも知れないと秘かな期待を思ってみた。
後ろから車が接近する気配を感じ、玄関前からスタートさせた。今日は初めての客に遠距離の往復とラッキーが付いた。後はのんびりと行こうかと一休みする積りであの繁華街にあるたまり場へ向かった。
酔い客には早いからか待ちタクシーは少ない。一休みする間もなく順番が回って来る。しかし、客はいない。ほっとしてシートを少し倒した。その時ドアをトントン叩く音に気付く。サングラスをかけた男性が窓ガラスをノックしている。私は慌ててシートを戻すと後部ドアのレバーを引いた。慌ただしく乗り込んで来たのはチェックの派手な背広を着て赤いネクタイを締めたきざな男である。白髪だが五分刈りで見るからヤクザっぽい。紙袋を下げている。
「白川荘までやってくれ」
北の山の手で距離はある。この手の客は余計な事は喋らない鉄則だ。一人だからいいようなものの、二人ずれで会話に聞き耳でも立てたら後でどのようなとばっちりを食らうか知れたものではない。知らぬ存ぜぬで言われた通りにするしかない。しかし、最低限は話しかけねばならない。
「あの~、お急ぎなら回り道を行きますが」
ややあって
「良いから、ゆっくりやってくれ」
「はい」
サングラスの奥でどこを見ているのやら、正面を向いて微動だにしない。道は繁華街に差し掛かりスクランブルの長い信号待ちである。外からも車内が見えるらしく交差点を渡る通行人の視線を感じる。
何度かの信号に捕まりながらまばらな住宅地を抜け山間に入って来た。白川荘は白川という細い渓流の上流に位置する料亭で政治家や財界人の重要な宴席に使われる。その白川沿いの木立の中の道を遡る。
この男、どこから見てもやあさんと見定められるが白川荘でヤクザの会合でもあるのだろうか。最近は大ぴらに料亭なんかで会合は持てないはずだ。町の暴力団追放条例で料亭側で受け付けられないはずなのだ。まさか、政治家か財界人を待ち伏せてテロ・・・・・・。色んな事を思い描いて気を揉んでいるが、当のやあさんは相変わらず後部座席の中央に大きな態度でふんずり返っている。かなりの上流、この辺りは有数の紅葉の名所としても知られている。紅葉にはまだ少し間がありそうだが、白川荘の門前にもそれらしく鬱蒼とした枝葉で覆われている。
「はい、白川荘です。ありがとうございました。二千五百円になります」
「おっ、帰りも使うからこのまま待っといてくれんか」
「えっ、は、はい・・・・・・」
私はレバーを引いた。男は軽い身のこなしで降車すると門内へ入って行った。
これは大変なことになった。テロの片棒を担ぐことになるかも知れない。あの男、荘内のどこかに潜んで相手をブスッ、逃げる足にこの車を使おうということに違いない。全く今日はついてない。初めから遠距離ばかりで幸先がよいと喜んだのも束の間、何ということだ。待たないでこのままトンずらしようか。いや、彼らの事だ、逃げる車がトンずらしたと分かれば後でどんな報復が待っているか知れたものではない。これは困った逃げるに逃げられない。
十分待った。誰も出てこない。もう六時過ぎでいつの間にか古風な檜皮葺の門には明かりがともっている。更に二十分程が過ぎた。その時、来た道から黒塗りの乗用車が二台続けて門前に入って来た。あっ、相手の車だ。二人いる事になるが、狙いはどちらだろう。そんなことはどうでもいい。いよいよ宴会の終わりと同時に実行される。私は緊張で手が汗ばんできた。入ってきた二台の運転手は車を止めて悠々と羽箒で埃を落とし始めている。おいおい、そんなのんびりしていていいのか、御主人さまが襲われるぞ、と叫びたくなる。
それから十分ほどの時間が過ぎた。門扉が開かれるとぞろぞろと七、八人の男に交じって着物姿の料亭の女たちも出てきた。目を皿のようにしてその一団を。見つめた。いるいる。後ろの方、門庇の下にあの派手なチェックの模様が見える。後ろにいて機会を窺っているように見える。人々は声高に何事か話しながら時々笑い声も聞こえる。
黒塗りの車二台がその人たちに横付けされた。襲う最後のチャンスがきたようだ。私はチェック模様だけを凝視していた。運転手が後ろドアを開けてご主人様を待っている。動くかチェック!
二人の恰幅の良い男が夫々の黒塗りに乗り込んだ。何事も起きない。ドアが音を立てて閉まる。取り囲む男たちはそろって人形のように頭を下げる。あのチェックも同様だ。ああ、機会を逃したか。これで親分から指を詰めろ!って、強要されるんじゃないか。どこから見てもあのチェック、何事かやらかしそうなのに今夜は見送ったのだ。しかし、妙だ。そこまで考えて、あのチェック、本当にテロを目的にやってきたのだろうか。ひょっとしてあの風体だけ考えて、勝手に決めつけていたのかも知れない。見た目はそうでもやあさんではないのかも、とその時初めて思い直した。そう思うとバカバカしくなった。
門前の人々は半分くらいに減っている。料亭の女たちは中へ引き上げていく。その中の年配の女将らしいのが中年の恰幅のいい男に頻りに頭を下げている。その後ろに畏まった姿であのチェックがいる。紙袋ではなく黒塗のカバンを大事そうに抱えている。
やがて、チェックは身を翻すように私の車めがけて走りよってきた。私は急いでウインドウガラスを下ろす。
「おい、車を回してくれ」
私はガラスを上げるとエンジンキーを回して発進させた。ようやくわかった。あの男は中年のお付きだった。何らかの用事で同伴できず、迎えにやってきたのだ。
二人は後部座席に窮屈そうに乗り込んできた。女将と二人の従業員が見送りに立っている。私は車を発進させた。道はすっかり暗くなっている。
「専務、すみません。こんな車で・・・・・・」
チェックが言った。こんな車で悪かったな!、と毒付きたいが抑えた。迎えに来たのはどこかの会社の専務なのだ。
「いや、これで良いよ、車検なら仕方ないじゃないか」
「今日の三時までで仕上げるって約束してたんですがね、公用車が入った何て言い訳しやがって」
「車は乗るものだ。乗れなきゃ困るが、こうしてちゃんと運んでもらえる。ねえ、運転手さん」
二人の会話だと聞こえるものは仕方ないと思っていたら、専務はこっちに振ってきた。
「ええ、会社の社用車も私共の車も同じ車です。それはそうと、どこまでお運びいたしましょうか」
バックミラーでチェックを垣間見た。
「ああ、専務、今日は直帰されますか。それとも、社の方へ」
「そうだな、少々酒が入ってるからな、社はまずいだろう。自宅の方へ頼むよ」
「はい、承知しました。そんなら、幸町の方へやってくれ、近くになったらナビするから」
「はい分かりました」
そこでようやく全貌が見えた。このチェックは社用車の運転手なんだ。今の受け答えで自分が運転している気分で返事している事でも分かる。なんとも早とちりもいい所だ。だが、この格好は誰もが誤解する。運転手にこんな格好させて置く会社はどこだろう。
暫く走って街中へ戻ってきたところで、この専務さんが唐突に答えを出した。
「処で、運転手さん、驚いたでしょう」
「えっ」
「いや、この男の恰好ですよ」
「いえ、まあ、あの~、少し派手なとは思いましたが」
「隠さなくてもいい。角刈りにサングラス、チェックの上下じゃ、どこから見てもあの手のお兄さんって処だからね」
「ええ、まあ、少しは・・・・・・」
「でも、もう足を洗って全うな社会人です。実は私が足を洗わせて入社させました。人間は良いやつなんですよ。なあ、吉村」
「は、はい、専務には足を向けられません」
「それならそろそろ、その恰好、潮時じゃないのかね」
「は~・・・・・・」
チェックは項垂れている。長年についた習慣や習性は中々変えられないようだ。
「専務さん、私どもは個人ですから制服はありませんが、大手では多いですよ、制服をお決めになれば」
私が言うのに反応して専務が顔を上げた。
「ああ、なるほど、そりゃ簡単だ。早速、総務部長に進言して置こう」
チェックが俯きながらも、言った言葉が聞こえた。“余計なことを”まさか仕返しを受けることはないだろうが、ちょっと気味が悪かった。
今日の客は長距離ばかりで有難かったが、気を遣って疲れた。専務さんを自宅へ送るとチェックもそこで下りた。専務さんが誘ったようだ。私は料金を払った時のチェックの鋭い視線を受けてぞっとした。一度ついた習性は中々取れないものなのだ。しかし、専務さんの一言にはしおれてしまうのはなぜだろう。あの世界の親分子分の感覚なのだろうか。そんなことを考えながら、これからの客を拾うあの繁華街へと向かった。
この夜は雨になった。お陰で客足は順調だ。それも飲み帰りに自宅までと、結構長距離が多い。十二時近く、今夜もこれで終いかなと流していて、二人のサラリーマン風の男を拾った。そろそろ終電も近い。案の定、かなり離れた住宅街を指定してきた。かなり酔っている。散々愚痴を言い合ってきたのであろうか乗り込んできてからは無口である。
「お客さん、桜花園に近くなったら言ってくださいね」
「ああ」
もう返事するのも億劫な様子だ。一人はそれでも薄目を開けて窓の外を見ている。もう一人は完全にシートに埋まって寝ているようだ。酔い客は寝られると、行く先も分からなくなることがあって困る。それにもっと大変なのは車内で吐かれることだ。気分の悪くなる前に申告してもらうのが最近の常識だが、中には間に合わない輩もいて後始末に困る。
この夜の二人も何となく厄介な荷物のような気がする。一人目の客が言った。
「ああ、そこの角を左へ曲がってくれ、後、二百ほどだ・・・・・・。ああ、その辺りで良い」
私は道の左へ寄って車を止めた。
「千二百円になります」
「ああ、料金はこの男にもらってくれ、そういう話になっているから」
「はい、分かりました。それで、この方はどこまでお送りすればよろしいんで」
「それはこいつに聞いてくれ、俺はよく知らないんだ」
「それは困ります。こんなに酔っておられたんでは聞きようがありません」
そこまで言ったのでようやく、一人目の男は寝ている男の肩を揺すって起こそうとした。
「おい、多田、起きろや、お前の家、どこだったか、おい、多田よ」
更に揺すって起こそうとするが、多田と呼ばれた男は微動すらしない。こういう場合はまともな者が最後まで面倒を見るのが常識なのだが、果たしてどこまでやってくれるか。
「おい、多田、起きろ」
男は乱暴に胸倉を掴んで引き起こしにかかった。そして、項垂れたように寝ている多田に軽く平手を食らう。それでようやく多田は薄目を開けた。
「おい、多田、今タクシーの中だ。お前の家まで行ってもらうが何処だ」
多田は薄目を開けたものの、目は定まっていない。目をしば立たせて、又閉じようとする。
「おい、寝ちゃだめだ。お前の家、どこだ!」
耳元で怒鳴られて、再び薄目を開けた多田、ようやく大きく目を見開いた。そして、頭をふらふらさせながらもシートに座りなおすと周りを眺めまわした。
「ここは俺の家の前だよ、お前の家まで行ってもらうが、どこだった?」
「う~む、俺とこは吉田町だ・・・・・・ええっ、吉岡、お前ここで降りるか」
「ああ、タクシー代頼むな、そういう約束だったな、覚えてるだろう」
「えっ、そうだったかな」
「そうだろう。タクシーで帰ろうって言ったんはお前だったろう。持つからって」
「ええっ、そんなこと言ったかな。折半にしようや」
「せこいやつだなお前は」
二人のやり取りを聞いていて、いやになってくる。どういう友達だか、同僚だか分からないが、タクシーの中でこんな言い合いして恥ずかしくないのかと思う。
「運転手さん、吉田町までどの位で行きます?」
吉岡と呼ばれた男が聞いた。
「そうですね、二千四、五百円ってところでしょうか」
「分かった。それじゃ多田、千円だけ払っとくわ、後はお前が持て、じゃあな」
吉岡が自分でドアのロックを外そうとするので、私は慌ててレバーを引いた。吉岡は酔いが醒めたのか、しっかりした足取りで降車した。そして、後も見ずに前の鉄扉を開けている。その時、後ろの座席の多田の舌を鳴らす音が聞こえた。
私はドアの閉まるのを確認して車を発進させた。吉田町まで十五分ほどの距離だ。もう十二時は三十分程過ぎて住宅街のこの辺りは寝静まっている。
後ろの多田はもう寝ていない。酔い上がりのような冴えない顔色で俯き加減に一点を凝視している。今のやり取りで完全に酔いを醒ましたようだ。
「吉田町ですが、どの辺りでしょうか」
私は声をかけた。
「ああ、もうそこで良いよ。後は歩くから」
角を曲がりかけていたので慌ててハンドルを戻すとすぐに停車した。
「はい、二千三百円です」
多田はごそごそと内ポケットから財布を出していたが、丁度の金額を差し出した。私は黙って後部ドアのレバーを引いた。多田は転がり出るように降車した。そして、通りを前方に向かって駆けるように歩いて行く。私はその姿が見えなくなるまで見送っていた。自分でもそれが何故だか分からなかった。
気分の良くない最後の客を見送って帰途にかかった。雨はとっくに止んで、秋の始まったひんやりした深夜の空気を感じながら頭上灯を消した。
それから二週間が過ぎた。秋が深まって来る。街路樹の葉が散り始めて、今はもう僅かな残り葉だけが冷たい風に揺れている。町は冬の景色に変わってしまった。商売柄、色んな客を乗せて今日も街を走っている。こんな毎日が同じことの繰り返しのようなタクシー業なのだが、世にも不思議なというより、こんなことも自分の身に起こるのだという体験のお話をせねばならない。
昔、誰かに聞いた雨の深夜に病院前で拾った女の客を自宅まで送った後、料金を取りに玄関の呼び鈴を押したところ、そんなものは帰っておりませんと断られ、乗っていた座席がじっとりと濡れていたという怪談話があったが、似ていても初めから幽霊然とした客とは大違いであった。それは前にも自宅まで送った書家、内山さんだったからだ。
私はこの日も三時過ぎに出車して一人の客を住宅街から駅まで送ると、いつもの繁華街へ行こうと中央病院前を右手に見て通過しようとした時だった。見た事のある中折れ帽を被ったコート姿の男が今一人、着物姿にショールを付けた女性と連れだって歩いている。あれっ、あれは内山さんじゃなかったか。そう思って車を左の路肩に寄せるとUターンの機会を伺った。別に病院から依頼を受けてきた分けではなかったが、もし、内山さんなら今頃どうしてあんなところを歩いているのだろうと疑問に思ったからだ。車が両側で途切れたので一気に回った。内山さんらしい後ろ姿は二百メーターほど先をそのご婦人とゆっくり歩いて行く。私はそろそろと近寄って行った。
二人は話し合うようでもなく、肩を並べてまるで空気を踏むように軽やかに歩を運んでいる。横を通過しながら横顔を確認した。確かに内山さんだ。私は二、三十メートル行き過ぎて車を停めた。そして、助手席の窓を開けると二人の来るのを待った。
「内山さんじゃないですか」
少し大きな声で呼びかけた。車の中からなので声が届いたか分からない。しかし、内山さんは一瞬後ろを振り返ったが直ぐに車に気が付いたようだ。腰を屈めて車内を伺った。そして、やあ、と気が付いたように呼び掛けて来た。私は反射的に後部ドアのレバーを引いていた。内山さんがドアに近寄ってきて中を覗くと言った。
「良く気が付きましたね」
「どうされたんですか、今頃。何ならお送りしますが・・・・・・」
「ええ、家へ帰ろうと思いましてね」
「まさか、歩いてはないでしょう」
「ええ、それはそうですが」
「お乗りください。お送りします」
「そうですか、それじゃ」
内山さんはそう言うと同伴の女性を促した。内山さんより少し若いが白髪の上品な奥さんだ。二人は軽やかに乗り込んできてシートに腰を下ろした。
「これは家内です。迎えに来てくれましてね」
内山さんは女性を紹介した。
「そうですか、よろしくお願いします。内山さんには御贔屓にしていただいています」
「あら、そうでしたの、こちらこそ・・・・・・」
にこやかに明るい笑顔で応えてくれる。この前には家まで送って行ったのだが、その間の話にも奥さんの話は出なかったし、家でもそんな様子はなかったが、何か用事をされていただろうか。
「お家で良かったですよね」
「ええ、お願いします」
聞くまでもなく、経路もこの前でよく分かっている。後ろの二人は久しぶりに会ったように楽しそうに話している。あれから二週間、ずっと病院だったのならそれも分かる。
「内山さん、無事ご退院ですか、おめでとうございます」
私は声をかけた。
「ああ~、いや、中々時間かかりましてね、ようやく落着です」
「ああ、そうだ、この前は色紙をいただきありがとうございました。女房に見せた処、びっくりしてました。我が家の家宝にして大切にしなきゃって言いましてね」
「あ~、いえいえ、あんなもので失礼しました」
「あ~ら、貴方、色紙なんか差し上げなさったの、そんなものじゃ」
「いや~、それしかなかったんでな、仕方なく・・・・・・」
「まだ、条幅が何枚もあったじゃありませんか」
「ああ、あるが表具してなかったんじゃ」
「そうなんですか」
奥さんも内山さんの書の腕前は十分に理解されているのが伝わってくる。
「私へなら色紙で十分です。色紙でも猫に小判なんですから」
謙遜しながらも表具した条幅ならもっと値打ちがあったろうに惜しいことだと、変な欲が腹で底で囁いている。車は繁華街を抜けて工場地帯の広がる郊外へ出て行く。その先は少しばかりに残された田園地帯があって川を挟んで住宅地が広がっている。
「運転手さんは元帝国重工で発電機部におられたんだって」
内山さんが私をそのように奥さんに紹介した。
「あ~ら、そうだったんですか。それじゃ私たちのお客様じゃないですか」
「そうなんだ。意外なところで繫がっていたって分けだ」
「じゃ、私、一度帝国重工さんにお邪魔したことあるんですけど、あの堺工場ですか」
「ええ、そうです。あそこの現場におりました。奥さんはどんな御用事で」
「私ったら伝票間違えましてね、その日の内に交換に伺ったの、恥ずかしい思いしました」
「じゃ、御主人と同じ三和にお勤めで」
「ええ、主人とは職場結婚なんです」
「ええ~、そうだったんですか。道理で今も仲がいい」
「どこさんも似たようなものじゃございませんの。それはそうと、あなた、運転手さんって何てお名前?」
「えっ、え~と、聞いていましたかね」
「いえ、まだ、名乗っておりません。失礼いたしました。坂井と申します。車にも書かせてもらっておりますが、坂井タクシーです。よろしくお願いします」
「まあまあ、ご丁寧に、こちらこそすみません。よく見れば分かりましたのにね」
「じゃ、奥さんは三和さんのあの二階の事務所におられたんですか」
「ええ、高校卒業して直ぐに勤めました。経理課で主に納入や出荷の伝票発行、購入管理の仕事でした。五年勤めまして結婚しました」
「内山さんに見初められなさった」
「ええ、この人って、見かけに寄らず強引なところがありましてね。私を口説くより先に両親を口説いたようなものでした。でも、結果良ければすべて良しでしょうか」
「はははははっ、これは又、御馳走様で」
「坂井さん、私どもの事よりご自身はどうだったんですか。さぞかし、綺麗な奥様をお貰いになったのでしょうね」
「いやいや、これは参った。こちらに振られたら困ります。ああ、この団地でしたね。次の辻を左折で良かったですね」
丁度、住宅地に入って二つ目の交差点を過ぎた所だった。陽が傾いて正面の道路を明るく照らしている。車は大きく左折して目的の家が視認出来る。その先をどこのタクシーか直進してゆくのが見えた。昼間から二台のタクシーが行き来するのは珍しい。
「はい、着きましたよ。内山さん。今日は料金はお持ちですか」
「ああ、すみません。いつものことで、少しお待ちいただけますか」
「ははははっ、良いですよ、お待ちします」
私は後部ドアのレバーを引いた。
「ありがとうございました。坂井さん、楽しかったですわ」
「こちらこそ、ありがとうございました。お元気で」
奥さんが先に下りる。続いて内山さんが軽やかな身のこなしでドアへ寄りながら言った。
「坂井さんお世話になりました。これからも元気でお仕事なさってください」
「ええ、ありがとうございます。内山さんもお元気で」
「じゃ・・・・・・」
二人は軽く手を上げながら鉄扉を開けるとコンクリートの階段を上っていく。私からは二人がドアから入って行くのは見えない。聞きつけてあの若い奥さんが急ぎ足で出てくるだろうと待った。仲のよさそうなお二人を思い出しながら十分程待った。それにしても遅い。まさか、忘れているのだろうか。更に五分程待って運転席から出た。きっと、久しぶりの家族再会でこちらの事を忘れているのだろうと思った。仕方なく鉄扉を開けると階段を上ってインターホンを押した。暫くしてあの奥さんの声がした。
「はい、どちら様でしょうか」
「はい、私、坂井タクシーですが・・・・・・」
「はい・・・・・・・」
「あの~、先ほど、病院からお爺さんとお婆さんをお送りして参ったのですが・・・・・・」
「えっ、え~っ、少々お待ちください。あなた~、あなた」
そこでインターホンの音声は切れた。随分慌てて御主人を呼んでいるようだ。何があったのだろう。待つほどもなくドアが開いた。そこに目を見開いたあの男性が立っている。その背後にはあの若奥さんだ。
「ああ、あの時の運転手さん」
「はい、いつもご利用ありがとうございます。あっ、奥さん、いつぞやはありがとうございました。先ほど病院からお宅のお爺さんとお婆さんを送って参りまして、料金をいただこうと待っておりました」
二人は狐につままれたように互いの顔を見合わせている。
「えっ、ど、どういう事?・・・・・・あの~、誰も戻っては来ておりませんが」
旦那さんが怪訝な目をして私の顔を見る。
「いえ、丁度、病院の前でこちらのお爺さんとお婆さんをお乗せいたしまして、たった先ほど玄関からお家へお入りになられましたが・・・・・・」
聞いていた夫婦は深刻な表情で互いの目を覗きこみ、家の中へ戻っていく。何があったのか私には見当もつかない。中から開いたドア越しに旦那さんの声が聞こえた。
「ちょっと、ここでは何ですので、中へお入り下さいませんか」
「はあ、あの~何かありましたか」
「いえ、ちょっと、中へ」
言われるまま、私は玄関の中へ招き入れられた。病院からここまでのタクシー代さえ頂ければ私の用件は済むはずである。わざわざの家の中へ入る用事もない。
旦那さんと奥さんはまだ、無言で見つめ合いながら目で会話をしているようだ。
「坂井さんと仰いましたね、ちょっと上がって頂いて、見ていただきたいものがあるのですが」
「はあ、構いませんが、どうされたんでしょう」
「いえ、兎に角、こちらへ来てください。どうぞ」
旦那さんは先に立って奥の部屋へ入ってゆく。何があったのかさっぱり分からない。奥さんも頻りに顔を顰め、私に上がれと催促す。私は靴を脱いで旦那さんの入った部屋へ向かった。手前が居間でその奥に座敷があった。正面に仏壇が据えられ、燈明が灯っている。今の時刻に燈明・・・・・・少し違和感があった。旦那さんは座敷の中央に立って私の入るのを待っている。
「坂井さん、驚かないでください。あなたが乗せて来て下さったお祖母ちゃんって、この人だったですか」
旦那さんの指し示したのは長押に上げられた写真である。一般的には葬儀に使った後、遺影として上げている家が多い。その端にある上品なお婆さんの写真を示している。それは正に、たった先程、お爺さんと一緒に車に乗せて来たお婆さんその人の姿である。
「間違いありません。このお祖母さんでした。上品な方で言葉も丁寧に、昔の話を沢山していただきました・・・・・・けれど、あの~ここにお写真があるということは・・・・・・」
「はい、三年前に亡くなりました」
「えっ、じゃ、先ほどの方は・・・・・・」
「それと、実は私も今、会社から急いで帰ってきたところなんです。家内から連絡を受けましてね。父が突然の発作で亡くなったというのです。これから取りあえず病院へ出向くところだったんです」
「え~っ、それじゃ、お二人とも・・・・・・亡くなっておられたって!そんな・・・・・・」
「坂井さん、二人を乗せたというのは本当ですか。何か思い違いってことはありませんか」
「いや~、とても信じられません。お二人とも、霊とか亡くなった方という感じは全くしません。思い違いどころか、ごく自然に普通の会話を楽しんだドライブでしたよ」
「でもこの事実、どう説明します」
「なんか私、気が変になりそうですよ」
「もし、本当にそうだとしても、恐らく、坂井さんの車を誰かが見たら、後ろには誰も乗っていない空車だったんじゃないでしょうか。坂井さんにしか二人は見えなかった」
「気持ちの悪いことを言わないでくださいよ。だって、お爺さんとは前に一度お乗せしてよく存じ上げていますし間違いありません。しかし、お祖母さんは今日初めてお会いしました。初めての方がもし、霊かなんかだったらお顔まで分かりますかね」
「さあ、私たちにも分かりません。病院から電話があってから一時間少し前に仏壇を開けて燈明を上げたんです。あの時、お祖母ちゃんに亡くなったことを報告したから、迎えに行ったのかな」
こうなったら信じるも信じないもない。私には到底あの二人が死んだ人の霊だったなんて思えない。今も話される息使いまで、はっきりと思い出すことが出来る。霊だったら形が曖昧で霧のようなもののはずだ。ちゃんと後部座席に二人並んで仲良く座っていて、笑い声だって聞こえるようだ。何であれが霊なんかであるものか。私は現実に起こったことと、あるはずのない非現実の間で心は揺れ動いた。しかし、突き付けられた現実に徐々に、この世とあの世の境界が曖昧になってゆくのを感じる。今まではそんなことを考えたこともなかったがこの現実に直面した今は否応はない。
私はいつの間にか燈明の灯った仏壇の前に座り込んで手を合わせている。これは夢ではないのか。手を合わせながら様々に思いを巡らせる。これは内山さんとの因縁だと、結論を出すまでには時間はかからなかった。霊となってまでも私との会話を楽しもうとされたのだから。初めは元気な生身の体を運んだ。そして、浅からぬ因縁を感じた次に大切な魂をお運びさせていただいたのだ。そう思って再び手を合わせた。その背後で旦那さんの声がした。
「坂井さん、ありがとうございます。あなたはこの家にとって特別の人だ。こんな奇跡を運んでくださったのですから。お礼を申します」
「いえ、単なるタクシーの運転手とお客様の関係です。大切な方の魂をお運びするのも私どもの役目だと悟りました」
「ありがとうございます。処でついでで申し訳ありませんが、これから病院へ行かなければなりません。お車を使わせていただくことは出来ましょうか」
「はい、商売ですから・・・・・・」
私はもう一度仏壇に手を合わせ礼拝して座敷を後にした。内山家の若夫婦を乗せて再び中央病院へ向かって走り出したのは間もなくのことだった。先ほどとは違って車内は沈黙が支配していた。病院に近くなってやっと旦那さんが語りかけて来た。
「処で坂井さん、お爺ちゃんお祖母ちゃんとはどんな話をされたんですか」
「ええ、若い頃の話ですよ、実は仕事が繋がっておりましてね。現役時代、内山さんの加工された部品を私が組み立てるって関係でした。しかも、お奥様が伝票の発行をされていたってね。それに、内山さんはお祖母さんを獲得されるのにかなり強引にご両親にアタックされたお話も伺いました」
「え~、そんな話を、僕たちにもしたことなんかありませんよ。そうでしたか、余程、楽しかったんだ」
車は病院のエントランスへ入ってゆく。
「坂井さん、葬儀にも来ていただけませんか。何なら一日予約させてください」
「はい、ありがとうございます。商売ですから」
「じゃ、この名刺頂戴します。又、お電話させていただきます」
旦那さんは備え付けの名刺を取った
「はい、到着です。千八百円です。じゃ、往復なのでこれで」
四千円を差し出された。おつりを用意していると又声がした。
「そのまま取っておいてください」
「はい、ありがとうございます」
二人は急ぎ足でドアを押すと中に消えて行った。
疲れた。何がどのようにと言う事もなく、体が重たく疲労がたまっているのを感じる。大した距離を走った分けでもなく、いつもの半分にも満たない売り上げなのにである。まだ、夕方の六時過ぎである。例のたまり場へ行って持参した弁当を済ませようと向かったが、どうにも食事をする気分にもならない。このままでは今夜は商売にはならない。引き上げることにした。
辺りは夕闇になりかけている。こういう非日常の時こそ注意力散漫で事故を起こす。私は気を引き締めてハンドルを握った。秋の夕暮れは急激に暗くなっていき、直ぐにもヘッドライトを点灯しなければならなかった。自宅までの道筋、単調な運転や信号待ちでは、必ず二人の面影が現れて困った。
こんな時間に戻ったら、女房の驚いた顔が目に浮かぶ。“どうしたの、どこか具合が悪いところがあるの?”声音まで聞こえてくる。しかし、“実はな、これこれ云々でな、疲れたよ”と説明しても“まあ、大変だったわね、さあ、早めにお休みなさい”なんて労いは聞こえてこないだろう。きっと、“何を寝ぼけたことを仰ってるの、待ち時間に夢でも見たんでしょう。熱でもあるんじゃないかしら”ってことになるのが落ちだ。話すのは止めておこう憂鬱な事だ。
(完)
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