さっちゃん
さっちゃんは今年、進学校で有名な県立高等学校に入学した。難関であるにも関わらず、塾へも行かず、左程勉強に必死な取り組みをした姿も見た事もなかったのに・・・・・・。私は書斎の机に座っている。北に付けられた窓に目をやりながら考えた。五月の爽やかな風が隣の庭の寒山竹の葉を揺らす。遠くの山並みの新緑に目を奪われて思わず瞑目した。
頭がいいのか要領が良いのか分からない。だが、何かがさっちゃんに味方していると思えるし、小さい頃からちょっと変わった所のある子だったなと、思い当たる。それを思い出す前にさっちゃんの両親がどのような人達なのか、それを先に紹介する必要がありそうだ。かくいう私はさっちゃんの父親である。
自分の事を先に言うのは少々気が引けるので、先に我が妻から紹介しよう。妻は今を時めくキャリアウーマンである。朝はきっちり七時半に家を出、残業のない日は六時半には帰って来る。残業をしても、余程何かが無いと十時、十一時になるのは稀である。仕事は証券会社のトレンディー。昔と違って昼間の効率的な仕事を要求され、十数人の部下を持って会社の重要な分野を任されている。家では詳しいことを話さない。しかし、休みの日でも自分の部屋でさっちゃんが寝た後も十一時ころまではパソコンの画面をにらんでいることが多い。今の時代、国内もグローバルに見ても経済に及ぼす諸要素は不確定な要素に満ちている。気苦労が絶えないのは顔色を見ればわかる。妻と結婚したのは大学時代の恩師の紹介によるものだ。お互いに三十を回ってしまっていた。晩婚化時代の典型的な夫婦である。
妻は余り身を飾ることはしない。いつも簡素な清潔そうな服装を好む。化粧は薄いが肌には張りがあって若々しい。自分が言うのは何だがかなりの美人だと思う。そんな妻を支えて家事の全般を任されているのが夫である自分なのである。
さて、では次に自分の自己紹介でもしよう。先ほども紹介したが、私は我が家の家事全般を任されている。ということは即ち私が主婦なのである。働いて稼ぐのは妻、家庭を守って妻を支えるのが私という構図である。では、当初からこういう約束で結婚したかと言うとそれはなかった。お互いの仕事上の立場で自然とそういう役割になってきただけのことである。それでは妻は家事ができないかというと飛んでもない。料理人さながらの腕を持っている。恐らくは付き合い上、高級料理店の味を会得してしまっているものと思われる。たまの休みにその味を披露してくれるのを楽しみにするくらいだ。そう感心している私も食事作りは苦手な方ではない。
家事の話ばかりになったが、では私の定職は主婦業かというとそうでもない。自分では仮の姿だと思っている。大学を出て六年余りは新聞社に勤めた。勿論記者仕事だが、若い頃より唯一の趣味が読書であって、記事を書くより本を読むことに没頭していた感がある。日本や西洋の文豪の小説はもとより、エッセイや俳句の世界、現代作家などあらゆる文学作品に手を出した。恐らく年間、百冊はクリアーしていただろう。新聞記者を止めたのはニ十七才の時だった。あれが自分の進路を変えるきっかけだった、手慰みに書いた短編小説を応募した出版社に見いだされたとは大層な言い方だ。当時のS社編集長の酒田さんは遅咲きの私を辛抱強く支えてくれた。私は今年四十五になるが、その間ペンネーム西野圭介で新人賞や何種類かの文学賞をいただいて一応小説家の仲間入りを果たせた。だが、妻の収入を超えるベストセラー作家には程遠い。いつかは直木賞、芥川賞をと意欲はあってもいかんせん、伴うものが不足しているのだろうか。
それでは自己紹介はその位にして、さっちゃんについて話を戻そう。さっちゃんは結婚した翌年五月に生まれた。初めての子供だ。二人共それこそ、目に入れても痛くないと月並みに言われるほどの可愛がり様だった。可愛がり過ぎると却って良くないと、爺、婆どもが言いながら、自分たちはさておきという態度ではその言葉の効力は無くなる。
生まれる前の事である。女の子であることは事前に分かっていた。どちらだろうとわくわくする昔の親の気分は味わえない。だが、名前を考える時間はたっぷりと与えられた。名前をどうするか・・・・・・。一応世間並みに名前辞書などを調べてみたのだが・・・・・どこか頭にしがみ付いて離れない女性の名前があった。別に憧れていた女性でもないのだけれど、どうもきっかけはあれだと思い当たる。二十歳の夏休み、北海道の知床を旅したことがあった。釧路へ向かう列車が突然、真っ盛りの白い花のトンネルを通過したのだ。乗客は全員がその圧巻に見とれた。その時、向かいに座ったお婆さんだった。ご存知ですか、これが有名な西田佐知子の“アカシヤの雨がやむとき”のあのアカシヤなのよ。と教えてくれた。列車は直ぐにもその花のトンネルを通過したが、あの歌はよく知っていた。当時何処へ行ってもその歌声が世間に満ちていたからだ。
そんなことがあってからは彼女の歌声を気に留めるようになり、西田佐知子の名前がどこかにこびりついた。あの悲哀に満ちた歌声はアカシアのトンネルと共に脳裏にこびりついた。同じころ、彼女の歌にコーヒールンバやエリカの花の散るときなどがあるのを知った。ある時、思い切って妻に佐知子ってどうだろうと聞いてみた。ああ、西田佐知子の佐知子ねと、当然のように言った。反対されれば拘るつもりもなかったのだが、そうね、西野幸子ってイニィシャルも同じだしね、いいかもと肯定的な反応だ。私の思いも傾いた。そんな時、偶然に街角であのさっちゃんはね、の童謡を聞いた。それが決定打になった。今から思うと単純なものだ。
生まれた当時の赤ん坊時代は他の子どもと大した違いは感じない。ちょっと他の赤ん坊より泣声が大きいかなっていうくらいのものだ。赤ちゃんが生まれると我が家の今までの生活が一変する。妻の産前産後の休暇が終わると赤ちゃん主体の生活がよりはっきりしてくる。私の日頃の活動は付属物のような存在になる。妻が勤め人である以上、家庭人である私にその負担のすべてがかかって来るのは止むを得ない。おむつを替え、決まった時刻にミルクを飲ませるのは当然の事として、夜中のミルクやりは苦痛だ。夏に向かって汗疹や蚊に刺されないかと心配したりと気が抜けない毎日であった。そんなさっちゃんが目を見開き、口を開けて笑うようになると、面倒を見ているものにとっては遣り甲斐と言おうか、反応を楽しむ余裕が生まれてくる。寝ている時間が増えてくると、漸く中断していた仕事に使う時間が増え、自分を取り戻したようなほっとした気分になる。
さっちゃんが他の子と少し違うな、と思ったのは半年を過ぎる頃にはっきりしてきた。四ケ月で寝返りを打つようになり、普通はうつぶせになればそのままハイハイへ移ってゆくのだが、お座りをし、八ケ月頃から立ち上がりかけ、その翌月には伝い歩きを始めた。口の方も早い。初めは意味不明の言葉も、五か月の頃には瞬く間に単語になってゆく。問いかけもしないのに独り言の言葉を頻りに口にし始める。ところが十ケ月を過ぎる頃からそれが顕著になってゆく。特に口が早いのだ。女の子は総じて発育が早いと言われている。その早い部類に属しているのだと初めは気にしないようにしていたが、一歳を過ぎる頃から私たちの話すことを真似るようになり、早い方がよいだろうと買い揃えた童謡のCDをかけた処、次々に覚えて歌い出したのである。ひょっとしてこの子は神童か?。大概は親の欲目でそう思うそうだ。気になったのである日、妻が早めに帰ってきた日その話をした。
「ねえ、さっちゃんって普通の子より成長が早くないかな、 ひょっとして神童だったりして」
「あら、貴方って親ばかね、私たちの子に神童が生まれる訳ないじゃないの」
「そりゃ、わからないよ、何せ君の娘だからね」
「それを言うなら、新進気鋭の作家の娘じゃないの」
「それはあり得ない。僕のIQは精々百十、が良いところだ」
「そんなら私だって似たようなものよ。神童っていわれる子はね、百三十以上で、凄いのは二百以上あるそうよ。あり得ないわよ」
「そうか、“十で神童十五で才子二十歳過ぎれば只の人“ってことわざあるけど、発育が少し早いだけか」
「そうよきっと、ただ、何かあの目の奥で訴えているものが気になるわね。頭の良さじゃなくて頭の中に何かが満ちていて外にあふれそうな、そんな・・・・・・」
「ああ、そういえば、僕が気になっているのもそれなのかな」
「あなた、お母さんから子供の頃のこと、そんな風な事言われたことない?」
「いや、僕はごく平凡な赤ちゃんで子供だったんじゃないかな」
「私も、聞いたことないけど・・・・・・」
夫婦の心配や思惑などどこ吹く風と、当のさっちゃんはそれからものびのびと育ってゆく。一歳と二ケ月、一人でしっかり歩けるようになる。まだよちよち歩きだが、おむつを付けて歩きながら“犬のお巡りさん”の歌を唄っている。発音のサ行とタ行に危ういところがあるが立派に聞ける。何とも奇妙な姿である。
一歳三ケ月になる頃には靴を履いて外へ出るようになった。本当に奇妙なことが起こり始めたのはさっちゃんが散歩に行きたいとせがむようになってからである。
さっちゃんは散歩に連れられると、決まってあの犬のお巡りさんの歌を唄いながら歩くのである。今日は仕事の区切りがついたので午後の三時にいつものルートで散歩に出た。四時までに帰宅すれば夕食の支度に丁度良い。そう思って自宅を出て大通りへ下る。通りを左折して公園の方向へ、公園でブランコに乗せて五分、先の通りを左折して商店街の手前で再び左折、住宅街を自宅まで戻って来る。丁度、二十分ほどの周回ルートだ。
今日も大通りに出る前から歌が出てきた。大通りに犬を連れたお爺さんが行くのが見えたのがきっかけだ。最近の飼い主は昔と違いマナーが徹底してきた。昔は人通りの多い少ない関係なく犬のウンチの後始末なしが散乱していたものだ。今はさっちゃんの散歩も安心して歩かせられる。
「まいごのまいごのこねこちゃん、あなたのおうちはどこですか、おうちをきいてもわからない、なまえをきいてもわからない、ワンワンワワン、ワンワンワワンないてばかりいるこねこちゃん、いぬのおまわりさん、こまってしまってワンワンワワン、ワンワンワワン」
通りでは車が結構多く、さっちゃんの上手な歌声は目立たない。でも公園の中は樹木が多く、生垣が囲んでいる分、騒音が遮断される。さっちゃんは公園の手前から、お父さんの手を払いのけて歌いながら駆けこんでゆく。目的は公園の中でペット自慢の愛好家たちが連れる犬である。今日は三組の愛犬家たちが輪になっている。どの犬も可愛い小型犬で、リボンやデンチのようなものを着せてもらったりしている。三匹の犬たちは互いに相手を嗅ぎながら、遊び相手になりそうか見極めようとじゃれ合っている。先ほどのお爺さんの連れたのもいる。その輪に向かってまっしぐらに突っ込んでいくさっちゃん。
大概の犬は小さな子供が輪に入ってくると、じゃれて吠えるか尻尾を振って纏わりつくものだが、この場合は違っていた。犬たちは途端に怯えた子供のように飼い主の元に逃げ帰ったのである。あっけにとられるさっちゃん。それでも引かないさっちゃんは果敢にその内の一匹に向かってゆく。しかし、小犬は怯えて飼い主の膝下から出てこない。飼い主も何がどうなっているのか分からないまま、小さなさっちゃんに微笑みかけているだけだ。私は遅れて公園に入って行ったが、さっちゃんの保護者として謝らねばと思った。
「ああ、皆さん、すみません。驚かせてしまったようですね」
その中の一人が反応した。
「いや~、皆、どうしちゃったんでしょうね。うちの子も小さなお子さんは好きなんですがね」
「急に歌唄いながらで驚かせたんでしょう。さっちゃん、もっと優しくしてあげなきゃ」
「さっちゃん、何もしてないもん・・・・・・」
「さっちゃん、もっと気楽にしてごらん。お腹や顔に力入れないで、やさしいお目目で、そしたらワンちゃんも安心だよ」
さっちゃん再度、小さいワンちゃんに近づく。しかし、ワンちゃんは飼い主から離れない。
「さっちゃん、もういい!」
ついにさっちゃん怒ってしまった。最初の驚かせたことが原因なのか、それとも、他にさっちゃんに特有の何かがあるのか分からない。
こんなことがあって数日したある日、家の前を小犬を連れた婦人が通りかかった。目ざとく見つけたさっちゃんは例の歌を唄いながら玄関のドアを開けると石段を駆け下りて行く。しかし、案の定、この前の公園と同じ結果が待っていた。連れていた夫人は申し訳なさそうにしていたが振り向きつつも行ってしまった。さっちゃんはがっかりして帰ってきた。夜、妻にそのことを話した。
「なんでだろうね、公園でも数匹の小犬が皆同じなんだ。さっちゃんって気が強いのかな」
「気が強いってどういうこと?こんな小さな子供なのに」
「いや、負けん気とか強情とかという気とは違うんだ。中国に気巧師ているだろう。体から気を発して病気なんかの治療をやるという、あれ」
「ええ、聞いたことはある」
「あれは幼い時から一家相伝の修行をやって身に付けるそうだ。明らかに何らかのエネルギーが放出されているというのは科学的にも証明されているし、強い気の出る人は相手を打倒すほどの力が出ると聞いたことがある。動物には相手からの、そういった気の程度を察知できるのかも知れないな」
「そんなものが何で幼いさっちゃんから出ているのよ。第一修行なんてしていないし」
「う~む、生まれつきそういうものが備わっているってないかな、なんか、さっちゃんには神秘的な何かを感じさせるんだな」
「まあまあ、生まれながらの超能力者みたいじゃない」
「可能性は否定できない」
「いい加減にしてよ、バカバカしい」
妻は笑いながら台所に立って行った。バカバカしいとはいうが。私は真剣に考え始めている。
人間は太古の昔から持っていた本来的な動物の持つ力を徐々に無くしていった。道具を持つようになるまでの人間は猿や弱い小動物と同じように、洞窟や高い木の上に潜み外敵の来襲に対し、全身を危険予知の塊のように毎日を送っていたに違いない。その時の研ぎ澄まされた感覚は本能的に備わっていたものだったが、現代人にはもうない。使わなくなった感覚は衰退したのである。しかし、遺伝子の中にほんの僅かその片鱗が残っているはずだ。それがたまたま強化現出しても不思議ではない。だから可能性は否定できないと言ったのだが、妻には分かってはもらえない。
さっちゃんはよく熱を出す。母子免疫がなくなる一歳頃から二週間に一度の頻度だ。初めはこれを昔の人は知恵熱と言ったんだと気楽に考えるようにしていたが、あまりの頻度に心配になった。医者に連れて行くと大概、風邪の初期症状だとか、喉が赤いですねと言われて連れ帰って寝させる。絵本を見たり、童謡を聞きながら大人しく寝ているので、さっちゃんも意外と神経質なのかもしれない。処が一晩寝ると明くる朝には熱は下がり、けろりとした顔で起きてくる。用心して外へは出さないようにしているが、二日もすれば散歩をせがまれる。さっちゃんが一歳半を過ぎた小春日和の気持ちよい日の午後であった。
「じゃ、仕方ない。少しだけね、いい、さっちゃん」
「ううん、少しでいい」
そう言っていつもの大通りとは逆の住宅街を往復する積りで玄関を出た。住宅街への通りは買い物の主婦らが行きかう。今日は犬の散歩がなくてほっとした。この辺りは新しい箱型の住宅と入母屋や寄棟の住宅が混在して並んでいる。庭も比較的広く生垣などあって古風な佇まいの家もある。そんな一軒の生垣沿いを歩いていてさっちゃんがいきなり言った。
「このおうち、テレビついてる」
「えっ、ああ、何か聞こえるかい」
「このおうちのおじいちゃんとおばあちゃん、おちゃのみながらテレビみてる」
「えっ、まさか・・・・・・」
「爺ちゃん、お婆ちゃんなんてわからないだろう」
「うううん、おじいちゃん、おばあちゃんだよ」
「なんでそんなこと分かるんだよ」
「だって、あたましろいもん」
そう言うと、さっちゃんは私の手をぐいぐい引っ張っていく。何だか狐につままれたような、おかしな気分だ。でも、さっちゃんの想像力は人並以上なのだとその場は納得する。そのまま大通りまで出て、そこからUターンして同じ道を引き返してくる。先ほどの生垣の家だ。
「さっちゃん、まだ、テレビの音聞こえる?」
「うん、おじいちゃんおばあちゃん、二人ではなしているよ」
「へえ~、そうかい、楽しそうでいいね」
「でも別の人がいる。その人怒ってる」
「へ~怒鳴り声が聞こえるのかな」
「あっ、でてくる」
さっちゃんの体が道路の反対側へ引けた。私の手を力強く引っ張る。突然、その家の玄関が開かれた。そして、私と同年配の男の人が勢いよく出て来て戸をぴしゃりと閉めた。反対側にいる我々に気もとめず、大通りの方へ足早に歩いて行く。さっちゃんは去ってゆくその男の後ろ姿をじっと見つめている。
「どうかしたの、さっちゃん」
「あの人、こわい」
「怒っていただけなんだろう。誰だって怒ることはあるよ」
「でも~、こわい人よ」
そういうと、さっちゃんは先に立って、手を引きながら歩き出した。家までは百メーターほどの距離だ。自宅の手前まで来た時、大通りの方から先ほどの男の人が戻ってくるのが見えた。煙草か何かの買い物に行ったようだ。行った時のように速足で帰って来る。さっちゃんは怖いものにでも出会ったかのように玄関の石段を急いで上がり、重くて一人では開けられないドアを懸命に引く。かなり慌てている。私が手を添えると急いで中へ体を滑り込ませた。私が入るとドアを閉じてガッチャと両手で鍵をかけた。
「どうしたの、さっちゃん!」
「あの人、こわい人よ」
さっちゃんはドアの鍵をかけてからもノブを離さない。
「さっちゃん、あの人って普通の人だよ。どうして怖いの?」
「さっきのおじいちゃん、おばあちゃんもこわがっていたもん」
「さっちゃん、もういいから絵本でもお読みなさい。お父さんは夕食の支度始めなきゃならないから」
「ふむ・・・・・・・わかった」
さっちゃんは靴を脱いで奥へ、私はキッチンへ入ってゆく。単に見かけただけの他人の家の事をあれこれ詮索するのは良くないと話を打ち切ったが、さっちゃんにはあの家の中での激しい口論の様子が逐一聞こえたのであろうか。それにしても、あの中年の男性が激しく怒って家を飛び出すのがどうして分かったのであろうか。まるで目の前で見ていたようだ。首を傾げながら、今日は週末に買った鯖の煮つけと、ほうれん草にキノコを加えたの和え物、それに、具沢山のみそ汁を作ろうと下ごしらえを始めた。
妻は二人が夕食を終え、さっちゃんをお風呂に入れようかと思っていたところへ帰ってきた。今日は早い方だ。さっちゃんをお風呂へ入れる事を告げ、食事の支度を自分でやってもらうことにした。
風呂から上がると、丁度、妻は食事を終え、テレビのニュースを見ていた。その足でさっちゃんを二階の寝室に連れて上がる。いつものことだが、さっちゃんは中々寝付かない。今日の出来事を一頻り喋ってからでも目を閉じないのだ。案の定、昼間の怖い中年の男の話が出た。
「あの人、こわいよ、おじいちゃんとおばあちゃんをぶちそうだった」
「そうなの、でも、お爺ちゃんとお祖母ちゃんの子供なんだろう」
「知らない」
「だから、ぶったりしないよ」
「ふ~ん・・・・・・」
「さあ、もう寝なさい。お目目抑えてあげるから」
手の平で目を覆ってやると寝入ることが多いので、そうしてやった。二、三分して手を離すと同時に大きな目をぱっちりと開け、ニッコリ笑う。
「さっちゃん、寝なきゃ、朝になっちゃうよ」
「うん、おやすみ・・・・・・」
今度こそ寝る気になったようだ。又、目を抑えてやる。五分を辛抱強く、抑えて静かに手を放す。今度は薄目を開ける。
「さっちゃん、ねむたくなった」
「うむ、お休み」
やっと目を自分で閉じた。さらに五分ほどして静かに枕元を離れる。リビングに降りると妻は後かたづけを済ませ、ソファで新聞を読んでいる。
「相変わらずね、寝つきの悪い子」
妻は言った。二人のお茶を入れて私もソファに座る。
「今日さ、さっちゃんおかしなこと言うんだ。前の道を下がった所に生垣のある古い家あるだろう。そこの前を通りかかってね、このお家のお爺ちゃんとお祖母ちゃんテレビ見ているっていうんだ。しかもその家の息子さんのような中年の人が怒ってて怖い人だって、確かに怒り顔で玄関から出て来てね、買い物か何かで外出したんだけど、あの人は怖い人だって頻りに言うんだよ。どう思う」
「又~、この前は小犬がさっちゃんに怯えたって話でしょう。今度は家の中の様子が見えるっていうの、どうかしてるわ。少しばかり聴覚がよいから色んな音が聞こえるんでしょう。気にしなくてもいいわよ」
「そうかな、ただ、聞こえるだけじゃない何かがありそうだよ」
「何なの、それ、又、超能力っていうんじゃないでしょうね」
「いや、やっぱり、さっちゃんは他の子と違うんじゃないかな」
「小さい子どもって、それぞれに変わった所があるものよ、気にしなくても良いじゃない」
「そうかな・・・・・・」
小さな坪庭にも秋が深まり、日に日に冷たい北風が通りを吹き抜けるようになると、直ぐに熱を出すさっちゃんの散歩は控えることになる。初めは駄々をこねて困らせたが、その内に絵本を見たりCDで童謡を聞いて覚えるのが楽しいらしく、片っ端から引っ張り出して部屋中に散らかす。片付けを教えなきゃと思うが面倒になって自分でやってしまう。
日曜日、夕方、今日は久しぶりで妻が料理を作ってくれる。少し気が晴れて書きかけの原稿用紙を広げていると、二階へ上がる階段で物音がし、さっちゃんの泣き声がした。珍しい、めったに泣かないのでどうしたのだろうと行って見た。階段の下でさっちゃんが座り込んでべそべそと泣いている。妻がそれを見下ろしていた。
「どうしたんだ」
「慌てているから、二段目から落ちたようなのよ」
「えっ、大丈夫か、えっ、さっちゃん、どこを打った。見せてご覧」
私はズボンをたくし上げてどこを打ったのか、腫れはないかを確かめてみた。しかし、目立った外傷はない。
「うむ、大丈夫そうだな」
さっちゃんは立ち上がりかけて、直ぐに尻餅をついた。
「いたい・・・・・・」
「どこが痛いの、えっ、どの辺」
「わからない。でもいたい」
「あなた、骨にでも異常があったらいけないわ、お医者さんに連れて行ってくれない」
「ああ、そうだな、しかし、今日は日曜日だ。休日診療の医者を探さにゃ」
私は毎月配られる広報を手に取った。そこには休日に当番のように診療してくれる医者がかかれている。その間もさっちゃんは痛い痛いと泣いている。
「生憎、内科の医者ばかりだな、外科がないよ」
「そんなこと、言ってられないわよ、電話して診てもらえるか聞いてみてよ」
「そうだな」
私は携帯で一番近くの電話番号を押した。暫く、呼び出し音の後、年配らしい人の声、出来事を話して、診察の是非を聞く。取りあえず来てくれと言う返事だった。
「じゃ、行ってくるよ」
私はさっちゃんを抱き上げると一瞬、痛いと喚いた。母子手帳を持って車へ向かった。歩いても十分以内の場所だ。ただ、変に抱いて骨に異常があっては大変だと思ったから車にした。後部座席の幼児シートに座らせ車を発進させる。
「さっちゃん、まだ、痛い?」
「うん、まだまだいたいよ、いたいよ」
「階段から落ちたからね、痛いのは当たり前だよ。お医者さんに行ったら痛い痛いって喚(わめ)嗅(か)ないでね」
「うん、いたいけどいわない」
車は古びた医院の狭い駐車場に入った。周りの植え込みはどれも太く年月を経てきている。いかにも私で最後です、あと継ぎはおりませんと雰囲気が物語っている。
思った通り、出てきた医者はかなりの高齢のである。
「どうしました」
電話で症状を伝えたはずなのにもう一度、同じことを喋らされる。
「じゃ、これに」
医者に言われるままに丸椅子にさっちゃんを座らせる。私はしゃがんでさっちゃんの右足のズボンを捲し上げて言った。
「この辺りが痛い痛いと申しますので」
「はあ、外傷はありませんな。お嬢ちゃん、どこが痛い?」
「・・・・・・」
「もう、痛くないのかな」
「・・・・・・」
「さっちゃん、痛い所を言いなさい」
「ぜんぶ」
「じゃ、ここはどうかな、痛い?」
「・・・・・・」
「こっちはどうかな?」
「・・・・・・」
「おかしいな、全体が痛いって言ってるのに、部分的に抑えても痛くないらしい。じゃ、これはどうかな」
医者はさっちゃんの両足の太ももを両手で抱えるように持つとグッと締め付けるようん圧迫した。さっちゃんは顔を顰めている。私は何だかおかしいなと疑問を持ち始める。
「・・・・・・」
「痛くないのか?、じゃ、これはどうだ」
医者は剥きになっているような感じだ。明らかにさっちゃんの腿をつねっているのだ。さっちゃんはそれでも・・・・・・。歯を食いしばっている。
「・・・・・・・」
「この子はちょっとおかしいですね。余程、感覚が麻痺しているとしか考えられない。打撲より先に精神科へ連れていくべきですね。うちでは治療の方法がありません」
老医師は立ち上がった。
「そうですか、お世話になりました。どうもありがとうございました」
私は医者の方に腹を立てていた。
「変わったお子さんだ」
嫌味のような言葉を背にさっちゃんの手を引いて医院を出た。ここの医者、もう少し幼児の心理を勉強しろよ、我慢していることぐらい顔を見ればわかりそうなものじゃないか・・・・・・。私はぶつぶつと口の中で愚痴りながら車に向かった。
「さっちゃん、まだ痛い」
「うううん、もういたくない。さっきおいしゃさんがつねったところ、いたい」
「何で痛いって言わなかったの、さっちゃん」
「・・・・・・・」
「痛いっていえば、お医者さん、つねらなかったと思うよ」
「だって、だれでもつねったらいたいでしょう。だから、がまんしてしてたの」
やっぱりそうだった。私はあの時、“この子我慢しているんですよって”医者に言うべきだったと思った。そして、ここへ来る車中で打ったところが痛いのは当たり前だから、痛い痛いと喚かないように言った、あれがさっちゃんのブレーキになっていたんだと思い当たった。
さっちゃんは私の腕から下りて、自分でさっさと車に乗り込んだのを見て、もう大丈夫だろうと思った。単なる打撲で一時的に痛かっただけだった。私は自宅に向かって車を走らせた。
妻は玄関のドアを開けながら私の目を覗き込んだ。目で大丈夫?と問うている。
「ああ、大丈夫だ。もう痛くないようだし、単なる打撲で痛かっただけみたい」
「じゃ、骨にも異常はないのね」
「ああ、ないと思うよ」
「あなたが思うじゃなくて、お医者は何て言ったの」
「この子、おかしいから精神科へ連れて行けってさ、馬鹿みたい。医者はどこが痛いのか探していたみたいだけど、さっちゃん痛い所言わないんだ。我慢してたみたい。それで、医者もとうとう精神科に連れて行けってさ。やはり小児科でないと無理だな。子供の心理がわかっちゃいない」
「何、それ、さっちゃんが余程変わった子だってことじゃないの」
「う~む、そうかもしれない。色々と他の子とは違っているからね」
「例えば・・・・・・」
「見ていたように人の家の中の様子を話すのは想像だけとは思えないしね」
「また、超能力の話」
「う~む、そうは言わないけど・・・・・・」
玄関先での話にさっちゃんはさっさとリビングへ、二人も後を追う。
「さっちゃん、階段は危ないよ、慌てないように上り下りしなくちゃ」
さっちゃんはもう好きな絵本を見て話を聞いていない。あの騒動は一体何だったのか、子供はそんなものだと言われればそうかも知れない。食事まで僅かな時間だが、書斎に入った。原稿用紙を広げたが何となく落ち着かない。直ぐに閉じてリビングに戻った。丁度、食卓に用意が整いつつあった。
十一月の末、今年も残すところ一か月、さっちゃんも部屋で過ごすことが多くなった。大方は絵本や童謡を聞き、最近妻が買った日本昔話のDVDを見て過ごす。そのセリフを覚え、ストーリーと共に語り真似をする。身振りや声音までそっくりに、私たちも思わず笑いだす。それは題目を変えお正月の実家への里帰りにまでお供することになる。そこでも一躍、人気者になって得意満面であった。でも、そこまで発育していてもおむつが取れない。こればかりが遅れているのである。
「おむつかえてちょうだい・・・・・・」
言葉が先行している分、こうして催促されることもあった。
二月、寒さと温かさが交互にやって来る。そんな風の穏やかな晴れた日、もうそろそろ昼になりそうな時刻だったが、短時間なら良いかと、自分自身の欲求もあって散歩に連れ出すことにした。久しぶりの外出である。
公園に向かったのである。ワンワンの散歩は朝の内に終わっているのか姿は見えない。その代わりか、同じような幼児の姿が目立つ。滑り台に親子で乗っていたり、ブランコに腰かけている親子もいる。どこもこの日和に誘われて出てくるのであろう。
中に砂場でぼんやりと佇む幼児がいる。お母さんが傍で他の子を見ながら言っている。
「さあ、優ちゃんも皆と遊んだら」
しかし、その子は反応しない。それをじっと見つめていたさっちゃん、つかつかとそのお母さんに近づくとその子のお母さんに言ったものだ。
「おかあさん、この子のおむつかえてあげてね、こまってるよ」
「えっ」
お母さんは一瞬、目を見張った。同じくらいの子が突然、忠告と思しきことを言いに来たのだ。私は驚いて駆け寄った。
「すみません、余計な事を言って」
そのお母さん、心の広い方で良かったと思った。さっちゃんへの返答の言葉に優しさが籠っていた。
「あ~ら、ありがとう。優ちゃんのおむつの事、心配してくれて。まだ、優ちゃん、口が達者じゃないの、直ぐ見てみるわね」
そのお母さん、優ちゃんを抱えるとバッグを持って公園のベンチへ向かってゆく、さっちゃんはその後ろ姿をじっと見つめている。横座りして優ちゃんのおむつを替えるお母さんを遠目で見ている。
やがて立たせた優ちゃんの手を引いて、そのお母さんは再び砂場へとやってきた。真っ直ぐにお母さんはさっちゃんに向かってきて言った。
「ありがとう。あれじゃ優ちゃんも気持ち悪くって、遊んではいられなかったわ。どうしてわかったのかしら?」
「だって、きもちわるいよって、いってたよ」
「あら、私には聞こえなかったわ」
「さっちゃんにはきこえた」
「あ~らさっちゃんっていうの。さっちゃんありがとう」
二人の会話を聞いていた私は中へ入るべきかを迷っていた。それに気付いたお母さんが私に向き直った。
「あの~、お父さん、凄いですね、お宅のお嬢ちゃん。他の子のおむつが濡れてるの分かった何て、御幾つ?」
「はい、まだ一歳半を少し回った所で」
「まあ、そうですか、お早いですわね、女の子だからかも知れないけど、それにしても、しっかり話されるし、うちの子がおむつ濡らしているなんて、大人だってわからないわ」
「発育が早いのでしょうね、二十歳になれば普通の人ってあれですよ」
「まあ、御冗談を、将来が楽しみですわね。うちの子も一歳ともう八か月になるのですけど、まだ、片言しか話せなくって」
「男の子はじっくりと成長するものですよ。私だってそうだった」
「そんならいいんですが、知恵遅れじゃないかなんて心配して」
「大丈夫ですよ、これからです」
大人が話している傍で、幼児二人はもうお互いを意識しながら砂遊びに興じている。さっちゃんの方は何時覚えたのか、“優ちゃん、そんなことしちゃだめだよ”と言いながら甲斐甲斐しくも世話を焼いている。どう見ても同い年とは思えない。その内に砂場を目指して同年代の幼児たちが三人も寄って来る。彼らが狭い砂場の領分を占領し始めると、さっちゃんと優ちゃんは砂場の外へはじき出された。丁度、砂遊びに飽いた頃だったので簡単に二人は諦めてブランコの方へ走っていく。
予定よりも三十分も長居した公園を後にしたのは十二時少し前になっていた。優ちゃんのお母さんも同じ思いらしく急いで帰って行った。いつも昼食はパン食だ。買い置いた食パンを焼いて、目玉焼きを簡単に作って済ませている。牛乳をレンジにかけているとさっちゃんがやってきた。
「おとうさん、おむつかえてくれない」
「ああ、ちょっとだけ待ってね。さっちゃん、もうそろそろ、おしっこ出そうなの分からないかな。ウンチは分かるんだから、おしっこも分かるようになったら、教えてね」
「いいよ、でそうになったらおしえる」
すべてが分かっている子と話しているようで、何んかどこかちぐはぐな感じの会話である。
三月になっても雪がちらほら降る日がある。だが、佇まいの古い家の庭にはどこも梅の木があって、それらがピンクや白い花が一斉に開き始めたと、帰ってきた妻の言葉であった。気温ではなく確実に春はそこまでやってきていると実感した。さっちゃんもきっと散歩が待ち通しいのだろう。
三月のある晴れた日だった。一大事件が起きる。さっちゃんはそのことを予見するが如く、朝から散歩散歩と私の腕を掴みぱなしだ。締め切りの迫った原稿が気になって午前中に散歩を済ませてしまおうと家を出た。
透き通るような青空である。風も少なく日溜まりは陽炎さえ立っていそうだ。良かった、今日まで待っていてと思った。いつもと同じように住宅街を大通りまで下る。行きかう車のミラーなのかボンネットなのかキッラと光った。ワンワンの散歩が先を行く。でも、さっちゃんはもう犬のお巡りさんの歌は唄わない。卒業したのだろうか。と思いきや小声で口ずさんでいる。自然と出てくるようだ。それでも今までのように一目散に駆けよって行かない分、大分進歩したと言ってよい。大通りはどこかの工事現場を往復するのかダンプカーが列をなして走っている。それらが吐き出す排気ガスを吸わないように道の反対側に寄って公園に辿り付いた。
公園には待ちわびた幼児を連れたママさんで大賑わいだ。その中で見知った姿を見つけたさっちゃんが走り寄って行った。優ちゃんだ。前に見た時より幾分しっかりした足取りになっている。お母さんがにこやかに話しかけている。
「あ~らさっちゃん、お久しぶり、今日は良い天気で良かったね」
「おばちゃん、ゆうちゃんおはなでているよ」
「あら、ほんと、さっちゃん、いつもありがとう」
幼児二人を中に私は優ちゃんのお母さんと何となく二人の遊びを眺めているだけだ。お母さん同士なら何かと話が弾むのだろう。私はどちらかと言えばお愛想の話は苦手なのだ。砂場のさっちゃんが砂を弾き飛ばして自分の髪の毛に振りかけた時には慌てたが、後はブランコに乗る時に手をかける位で後は黙って見ている。大概幼児の遊びは一時間も持たない。新しい子が来ると思えば先にいた子が帰って行く。
さっちゃんは三十分くらいで早、飽きてきたらしい。あっさりしたもので突然立ち上がる。
「ゆうちゃん、さっちゃんかえる。バイバイ」
私の手を引くとさっさと公園の出口に向かう。私は慌てて優ちゃんのお母さんに会釈すると、引っ張られるように公園を後にする。いつもように公園の端から北へ折れて住宅街への道まで、最近覚えた象さんの歌を口ずさみながらの道行きである。
住宅街の例の和風住宅の辺りまで帰ってきて少し私は身構えた。又、さっちゃんが何かを感じて立ち止まったからだ。じっと私の顔を見つめている。
「さっちゃん、どうかしたの?」
「・・・・・・・」
言うべきか言わぬでいようか迷っているように見える。
「さっちゃん、お父さん驚かないから、何かあったら言って」
「・・・・・・」
「何もなければ行こうか」
さっちゃんは動かないでじっと何かを探るように目を据えて利き耳を立てているようだ。
「おとうさん、このおうちでいま、ひとがきられたよ」
「ええっ、それって本当!」
私は驚いて辺りを見回した。さっちゃんが前にこの家の中の喧嘩を聞いて、その後、若い息子さんらしい人がそれらしく玄関から飛び出して行ったのを目撃していたからだ。今回もそれに増して状況まで察知したのなら、これは一大事だ。
「それで・・・・・・お家の人はどうしてるの?」
私は少々どぎまぎしながらさっちゃんの反応を待った。
「おじいちゃんとおばあちゃんはかなしそうなかおしてる」
「男の人は、前に飛び出して行った人?」
「たおれてる」
「ええっ、それって切られた人?」
「わかんない」
さっちゃんの状況説明によると、倒れている息子さんを見下ろす老夫婦は悲しい顔をして見下ろしていることになる。お爺さんの方が息子さんを思い余って手にかけてしまったのだろうか。最近ニュースに良くあるあれだ。定職を持たない息子に意見する父親が息子の暴力に耐えかねて思い余って・・・・・・。
「さっちゃん、何か聞こえるかい」
「うううん・・・・・・おばあちゃん、ないてるよ」
「お爺ちゃんは」
「なにかをにらんでいる」
これはいよいよ重大事件の様相を呈してきた。私はスマホをポケットに持ってきている。それを握り締めた。やはり警察に通報すべきだろうか。自分には聞こえない分、確証がない。迷いと言えばそれである。幼児がいう言葉を信用して警察に通報しました。で通用するだろうか。これが何かの間違いなら取り返しがつかない。しかし、さっちゃんの今までの聞こえていた状況は間違いのないことばかりだった。幼児が作り話をするとも思えない。この家で何かが起こっているのは確かなのだ。私はこの家の前をこのまま知らぬ顔で通り過ぎていく勇気はなくなっている。そうかといって警察へ通報するとすればこの目で確かめてからでないと・・・・・・。
考えを巡らせていて私は一つの方策を思いついた。何気ない風を装って訪いを告げることだ。出てくる人がお爺さんかお婆さんか、どちらにせよその態度が事態を告げるに違いない。しかし、凶行現場へ訪問する危険性もある。見られた犯人が逆上する例は多々ある。それと、自然に振舞う必要がある。訪問の目的は何にしようか。はい、何用でしょうかと顔を出された時、尤もらしい用件がいる。
「おとうさん、どうするの、さっちゃんおうちへかえりたい」
「ああ、そうだね、帰ろうな。さっちゃん、今このお家の中、どんな感じ?」
「う~む、わかんない」
もしも凶行が行われたのなら、強盗はその場からの逃走を考えるのだろうが、親子ではその結果の重大性に茫然として騒ぎもならず放心状態のはずだ。そうだ、直ぐには変化は起きない。このまま時間の経過とともにいずれ明らかになる。私が立ち騒いでもこれ以上に何かが起こることでもないだろう。そう思ってさっちゃんの手を引いた。
「さっちゃん、帰ろうか」
「うん」
家の前からようやく離れた。何かしら自分では分からない罪悪感のようなものが残っている。知っていて知らぬ顔のあれだ。しかし、意を決してチャイムを鳴らしていたらどうなっただろう。誰かが玄関に出て来ても家の中の様子を聞き出すことが出来ただろうか。聞くことが出来なかったとしても、様子を伺い知ることが可能だろうか。まさか踏み込むことはできない。結局、何も出来ずにしどろもどろになって恥をかくのが落ちだ。しかし、あのまま、放って置いたらどうなるか、ひょっとして、老夫婦は前途に悲観して自殺・・・・・・。そんなことにでもなったら取り返しがつかない。そんな事を反芻しながら我が家が見えるところまで帰ってきた。すると、どうだろう、めったにないことだがお誂え向きというのはこのことだ。前方から自転車に乗った警察官がやって来るではないか。駅前の派出署の警察官であろう。このまま知らぬふりして家に入ってしまえばそれまでだが、後味は悪い。気になって今晩寝られなくなるかも知れない。警官なら、何気なく訪問し問題が起きていないかどうかを知ることは職務であるはずだ。私はやって来る警察官に相談することで気分が楽になると確信した。
警察官は真っ直ぐに住宅街に向かって上って来る。それを待ちわびる姿勢になった。当然、相手の警官も幼児を連れた男性がぼんやり立ってこっちの方を見続けているのを気にしたであろう。
「どうかしましたか?」
警官は当然の問いかけをした。私は軽く頭を下げてその若い警察官を見た。優しそうな、まだ、警察官になりたてのようなそんな初心さが感じられる。自転車を止めると改めて私を見た。
「何かありましたか」
「はい、あの~、事件かどうかは分かりませんが、この子の事なんです」
「はい、この子はお宅のお子様ですか?」
「はい、今年五月に二才になります。この子、実は少し変わっていまして、非常に聴覚、耳ですね、私には到底聞こえない音が聞こえるらしいんです。そして、その情景まで浮かんでくるというか、特殊な超能力みたいなものがあるようなのです」
「はあ、たまにそう言うお話を聞くことがあります。小さなお子さんには一時期そう言う事があるらしいですね」
「ええ、それで先日、この先の、あの生垣のあるお家、お判りでしょうか」
「ええ、少し古いお家ですね」
「あのお家の前で、家の中の言い争いを聞きましてね、この子の言う事です。息子さんらしいのですが怒って玄関から飛び出していかれました。そんなことがあって、この子が言う事が満更当てずっぽうだとは思えなくなりました」
若い警察官は真剣なまなざしで聞いている。
「処がですね、今日先ほどなんです。散歩であの家の前を通りかかったんですが、この子の言うには家の中で誰かが切られたというんです。倒れた人を見ているお婆さんが泣いているし、お爺さんは怖い顔をして睨んでいるっていうんです。この前の事もあるし、これはただ事ではないと思いましてどうしようかと迷っておりました。丁度、そこへおいでになったと言う分けです」
「そうですか、分かりました。本官が確かめてみましょう」
警察官は自転車を引きながら住宅街の方向へ行きかける。どうするべきか私はそのまま立ち止まっていると、振り返った警察官が言った。
「ご一緒いただけますか、お手間は取らせません」
「はい」
私はさっちゃんの手を引いて後に続いた。
生垣の家は前のまま変化はない。警察官はちっらと私の顔を振り返って、門扉についたチャイムを押した。暫く何ら返答はない。警察官がもう一度チャイムに手を伸ばした時、小さなスピーカーから声がした。
「はい・・・・・・」
「あの、駅前の交番の者ですが、少しよろしいでしょうか」
「はい」
チャイムは切れた。出てくるらしい。私はさっちゃんを抱き上げた。いざとなればその場から逃げなければならないと思った。
ガラガラ、玄関の引き戸が開けられ、頭の白髪が半分くらいの眼鏡をかけた老人が顔を出した。
「はい、こんにちわ、ご苦労様です」
以外に人の好さそうな、しかもにこやかな応対である。
「突然、お邪魔してすみません。この辺りの警邏中でしてご訪問させていただいています」
「ああ、それはご苦労様です」
「処で、何かお困りごととか異常な出来事などありませんか」
「ええ~、今の処、変わった事はありません。しいて言うなら何処の猫かは知りませんが家へ来ては便を垂らしていくのに困っています。何とならかないでしょうかね」
「ああ、そういう苦情は私どもより、地域の自治会や役所の衛生課がいいですね、良くある苦情ですから何とか対処の方法もあるのじゃないでしょうか。それはそうと、ご家族は何人でしょう」
「ええ、家内と二人、それにいい歳をしておりますが息子と三人家族です」
「その息子さん、学生さんですか、お勤めですか」
「いえ、お恥ずかしいですがニートっていうのでしょうか、無職でブラブラしております」
「それじゃ、引きこもりされておられる・・・・・・」
「いえ、それはありません。今日も職安へ行きまして、ようやく再就職が決まった処で安心しております」
「そうですか、それは良かったですね。処でつかぬことをお聞きしますが今、何をしておいでになられました?」
「はい・・・・・・?、あの~テレビを見ておりましたが」
「ああ、テレビをね、お好きですか、時代劇」、
「ははははっ、よくご存で」
「やはりそうですか、分かりました。何かありましたらご連絡ください。どうも、お邪魔いたしました」
「いやいや、どうもご苦労様です」
主人は成り行きを見守っている私を一瞥して踵を返した。警察官の質問には真摯に答えたものの何でそんなことを聞くのだろうと思ったのか、頻りに顔を傾げている。
早とちりと言えばそうだが、よりによって時代劇でのチャンバラで切られた映像を現実と間違うとは・・・・・・。私は自分が間違ったわけではないとの言い訳に自分を納得させてはいたが、幼児の言う言葉を鵜呑みにした保護者の責任はある。向き直った警察官は立てかけた自転車を引いて近寄ってきた。
「お聞きになった通りです。何でもなくて良かったですね」
「すみませんでした。人騒がせでした」
「いえいえ、びっくりされたのは当然だと思います。こうして色んな意味で市民の方々が協力していただけることが大切ですから。今後ともよろしくお願いします」
「それにしても、よく時代劇をみておられたと気付かれましたね」
「ええ、あれくらいの歳の方は大抵時代劇がお好きなのもで、少しカマをかけてみました」
「いや~流石、お巡りさんだ」
「それほどの事もありません。それでは本官はこれで失礼します。お嬢ちゃん、ありがとうね又、何か変わったことがあったら、又、お巡りさんに教えてね。じゃ~」
警察官はさっちゃんの頭に手を添えて言った。私は優しい警察官で良かったと思った。人騒がせもいい加減にしてくれ、といわれ兼ねない出来事だった。しかし、さっちゃんを叱ることも注意することも出来ないと思った。さっちゃんは聞いたまま、目に浮かんだままを私に話しただけだ。それを、重大事件と結び付けた私の早とちりと言うほかない。
「あるいてかえる」
「うむ、そうしよう」
私はさっちゃんを下ろすと手を繋いだ。何だか緊張の糸が一気に緩んで、大した距離の散歩でもないのに疲労感が襲ってきた。
夜、疲れて帰ってきた妻に話を切り出した。初めは聞いていないのではと思うほど無関心だったが、警察官の話になって俄然身を乗り出した。聞き終えた妻はあきれ顔になった。
「だから言ったでしょう。こんな小さい子に超能力何て本気で信じていたからよ。だから早とちりしてしまうの」
「ああ、そうだな、だけど、警察官も言ってた。幼児の異常な能力の話はよく聞くって」
「それはそこそこにはあるんでしょうけど、そこは幼児の感覚ってことを念頭に置かなくちゃ」
「そうだな、反省したよ」
こんなことがあってからのさっちゃんは余り散歩に行きたがらないようになった。こんな小さな幼児でも心のどこかに傷を負ったのかも知れない。たまによく晴れた日には私の方で誘うようにしている。そんな時も以前のように歌が自然に出てくるわけではなく。明らかに一つの節目を迎えたように見受けられる。
初夏のある日、例の家の前を通った時、さっちゃんは言った。
「今日もテレビ見ているよ」
そう言ったのが最後だったような気がする。さっちゃんの超能力はの発揮はこれで収束していった。それからは一切そのような話を聞くことがなくなった。
保育園から幼稚園へと進んだが、親の欲目かも知れないが他の子よりしっかりした年上の子のように見えた。小学校へ入学しても常に成績は上位、よく遊び、よく出来る子の典型のようなものだ。小学校の高学年になっても、しょっちゅう机にしがみ付いているような勉強熱心でもない。それなのに試験は大概百点を取って来る。中学校に入って勉強が大変だろうと心配して見ていたが、本人はいたってのんびりだ。ある時思い余って聞いてみた。
「さっちゃん、中学校の勉強は大変だろう。いよいよ入試の勉強も始めなくっちゃならないね」
「うん、でも私は大丈夫。皆、塾なんか行って遊ぶ時間もないみたいだけど、授業さえしっかり聞いていたら、試験の時、どんな問題が出るかは見当が付くの。今まで外れたことはないわ」
「へ~山感が当たるってことか」
「そう、大体、先生が問題として出しそうなところが分かるから」
「へ~、そりゃ効率がいい。だけど習っていないことは無理だろう」
「それはそうだけど、教科書と参考書を見ておくだけで十分よ」
「それでも膨大な量の問題の中からこれだと、よく分かるね」
「う~ん、難しくない。先生の考えている事って外れたことないもん」
「・・・・・・・」
これって、いったい何だ。私は二才の頃のさっちゃんの特殊な才能を思い出した。読心術に似て人の気持ちを言い当てていた。あれが継続しているのだろうか。記憶力がずば抜けているというわけでもなく、先生がどの問題を出題しようと考えているのかを知ることが出来るのだという。これはきっとあの幼児の頃の才能がそのまま発展しているに違いない思った。
結局、高校入試も難なく突破。気を揉む私たちをしり目に適当に勉強し、適当に遊んでいるようだ。いくら出題を山感で当てられたとしても、それが解けなければ試験をクリアーすることはできない。ということは解く力を持っているということに他ならない。山感の問題だけを勉強しているわけではない。そう考えると、授業や復習で問題の解を頭の中に入れてしまっているという事なのだ。そう思って安心した。
しかし、山感がすべて的中するというのは一体何がどうなっているのだろう。さっちゃんのこの山感も大人になるまでに、あの幼児の頃の超能力のように消滅してしまうのだろうか。
私は筆を置いて瞼を閉じると両手で軽くマッサージした。一気に書き終えた満足感はない。何か得体の知れないものを取り逃がしたような、そんな心残りがあった。
軽く目を開けると西に傾いた夕陽が裏の垣根を照らしている。遠くの山並みも茜色に染まって一日の終わりを告げているようだ。人間はまだまだ、知らないことが多すぎる。そう思って席を立ち上がりかけた。その時、ドアのノック音がした。
「お父さん、夕食、私作るから、仕事続けて・・・・・・・」
と背後で声がしてドアが閉った。 (完)
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