第19話 鬼

 瘴気だろうか。

 先ほどからの温泉のにおいがさらに濃厚になってきた。

 私は、袖口で鼻と口をふさぐ。

 薄暗い中からやってきたのは、人の二倍ほどもある『鬼』としか呼べないモノだった。

 頭上に角が生えていて、青銅の色の肌をしている。大きな目は一つだけで、ぎろぎろとした光を放っていた。衣類は、腰蓑をまとっているだけ。大きい口には、鋭い牙。口からよだれが出ている。

 ぐわっと、大きな口を開き、鬼は咆哮を上げ、私の方を見た。これは、ただの脅し。もっとも気の弱い人間なら、この時点で卒倒するかもしれない。

「恐怖のあまり、声も出ないか?」

 低いだみ声で、鬼はにやりと嗤う。

 ふむ。そうか。

「あ……あなたは……何?」

 私は怯えたふりをすることにした。

 構えた棒を後ろ手に隠し、じりじりと後退しながら、足場の良い場所をさぐる。

「うまそうな魔力を持っておるな。フフフ」

 鬼はのしのしと近寄ってくる。強烈な臭いだ。怖くもなんともないけれど、臭いは我慢できぬほどひどくて、演技じゃなくて、本気で涙が出てきた。

「私を、食べるの?」

 出来るだけ、鼻で息をしないようにしながら、私は鬼に問いかけた。

「肉は食わぬよ。生気は吸わせてもらうがな」

 鬼は私を品定めするように手を伸ばしてきた。

「私、死ぬの?」

「命まではとらぬ。そなたは約定通り、田沢の嫁となる。そして、我が力により、里の安全は守られる」

「なるほどね」

 私は後方へと飛ぶ。鬼の手は空を切った。

「何?」

 鬼の目が驚いたように見開かれる。

「つまり、生気を贄に、里の安全を得るってことね。おまけとして、生気を失って、木偶同然になった嫁も手に入るというわけか」

 この鬼は、生気を吸い取る。田沢は、贄を差し出すことによって里の安全を手に入れる。

 生気を失っても『贄』は殺されないから、罪の意識は低いし、下手したら、木偶同然の女の方が、あの男には都合が良いのかもしれない。

 なんにしても、酷い話だ。

「冗談じゃないわ。贄がいつでも、抵抗しないと思ったら大間違い」

 私は、棒に力を込めた。青白い光がにじみ、ひと振りの太刀となる。鬼の腕を斬りつけた。

 鬼は避けようともせず、その腕で、太刀を受け止める。

「何て、分厚い皮膚なの……」

 さすがに驚いた。ちょっとした木なら簡単に倒せるくらいの切れ味はあるはずなのに。完全に刃が当たったはずなのに、切れた感じが全くない。

「ふん。小娘が生意気な」

 鬼が距離を詰める。かなり重量感があるので、動くたびに大地が揺れるような感覚がある。

 図体が大きいこともあり、動きはやや緩慢だ。逃げることは難しくない。だが、岩窟の中は狭く、足場も悪い。距離が詰まってしまうと、分は悪くなる。

 くわっ

 鬼が大きな口を開け、息を吐きだした。もの凄い臭気に、思わず、吐いてしまう。

 臭いの攻撃はきつい。痛みを受けるより、我慢できない。

 その一瞬の隙をつかれ、私は頭をつかみあげられた。鋭い爪が頭に食い込み、血が流れだす。

 太刀を振り回してみるが、うまくいかない。

 鬼は満足そうな笑みを浮かべた。

「月光よ」

 私は必死に声を上げる。洞窟の入り口から青白い光がさしこんできた。

「暗き影よ」

 鬼が私に対抗をして、力ある言葉を唱える。光と影が拮抗する。思ったより、ずっと強い。

「輝け」

 私はさらに畳みかける。

「ぐはっ」

 青白い光に打たれ、鬼が私を手放し、私は岩の上に落ちた。

「痛いっ」

 落ちた瞬間、受け身をとれず、足首をひねった。まずい。動けない。

 鬼の方は、目を押さえて、転げまわっている。

 今のうちに何とかしなくては。

 私は、光の太刀をにぎりしめ、よろよろと立ち上がる。

 ズキン、と足に痛みが走った。さすがに、キツイ。

 その時だった。

「……なんで、俺を呼ばないんだ?」

 不意に風が吹き込んだかと思うと、私の前に男がすくっと立つ。

「晦冥」

 従兄殿は、不機嫌に私を見下ろす。目が怒ってる。

「何かあったら呼べって、言ったぞ。待ってたのに」

「えっと。今、呼ぼうかなーって思ったとこ」

「遅いというか、出てこなきゃ、呼ばなかっただろうが」

 晦冥はムッとした顔のまま、転げまわる鬼の方を見た。

岩鬼がんきだな。地獄の割と位の高い奴だ。お前のことだ。これくらいなら、一人でやれると思ったんだろうけど。最初から二人でやれば、怪我なんかしなくて済んだだろう?」

「ごめん」

 思わず謝る。いや、怪我したの私だし、まだ迷惑はかけてないはずだし、今だって、まだ助けてもらったわけじゃないんだけど。

「何だ、お前はぁ!」

 痛みがおさまったのか、鬼が再び立ち上がったのを見て、晦冥が軽く足を踏み鳴らすと、のたうつような植物の蔓がするすると伸びて、鬼を捕らえた。晦冥の魔力を宿した蔓は、容赦なく鬼を縛り上げる。

 そうか。岩に属するものだから、植物に弱いのか。

 ずいぶんと戦いに慣れているのがわかる。

「岩鬼よ」

 晦冥に名を呼ばれ、鬼は抵抗をやめた。

「お、お前、じゃない。あなたさまは……」

 鬼の顔に怯えが見える。晦冥を知っているようだ。

「俺の嫁によくも『傷』をつけたな」

「よ、嫁? ひいっ、そんな、も、申しわけ……お、お許しを」

 岩鬼は泣き叫ぶ。

「……晦冥、あんた、ひょっとして、地獄界のモノに顔がきくの?」

「少しだけな」

 我が従兄殿は、本当に今まで地上界で、何をしていたんだろう。

 嫁になるかどうかは別として、敵にしないようにしなくては、と、私はひそかに思ったのだった。


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