第13話 桜
朝になると男の熱は下がった。
目を覚まして、白湯を飲んで、いくぶん生気が戻ってきたようにみえる。ふらふらしてはいるが、なんとか体を起こすことはできるようになった。
男の名前は、弥彦。ここから随分遠い国の生まれで、行商人なのだそうだ。それにしても、彼は特に荷物などは持っていないように見えた。とっくに雪に埋もれていたのかもしれないけれど。
「ふだんは、冬の間は都のほうにいることが多いのですけれど」
弥彦は、タミから粥をうけとると、語り始めた。
「ここより山奥の里から都に帰る途中で迷ってしまったのです」
例年より早い冬の嵐のせいで、道を見失い、山を下りられなかったらしい。
「遭難したの?」
「はい。幸いたまたま通りかかった女性に助けてもらいました。運が良かったのです」
例年より早い吹雪で難儀していた弥彦を、雪女が助けたということだろう。
そして、おそらく、雪女は、この男が好きになって。それで二人きりで生活をしていたのだろう。
「都へ急いでいく用事があったの?」
雪山をおりて帰ろうとしたのには、それなりに理由があるだろう。雪女の話から推察するに、彼女は、『春まで』一緒にいられれば、それでよかったのだ。その約束を弥彦は破った。まだ、春が来るには遠いけれど、雪山を降りる危険と春までの時間を考えたら、待てない時間ではないだろうにって思う。
さっき、勝手にのぞいた夢から見て、一緒にいることが苦痛で仕方ないって感じでもない。
「いえ、都に行くつもりはないです」
弥彦は頭を振った。
「では、なぜ?」
急ぎの用事がないなら、春まで待ってあげればよかったのに。
彼がこうなったのは、雪女の怒りのせいかもしれないけれど、彼女が何もしなくても遭難する危険はあっただろう。彼女との約束も守れたはずだ。
弥彦は、言いづらそうに口を開いた。
「私を助けてくれた人に、桜を見せたいと思いまして」
「桜?」
私だけでなく、伍平もタミも驚いた顔をする。どう考えても、今、桜なんて咲いていない。
「もちろん、普通の山桜はまだ、咲きません。ただ、ここよりかなり南、海のそばに、冬に咲く桜があると聞いたことがあるのです」
「冬に咲く?」
「はい。実際に見たことはないのですが、毎年、冬のさなかに咲き誇るそうです。だから……」
弥彦はうつむいた。
「彼女は、季節を変えられぬように、約定も変えられぬと言った。季節を変えて咲く花を見せれば、約定もまた変えられる、変えてくれるのではないかと思ったのです」
「季節を変えて咲く花ですか……」
弥彦の気持ちは理解できた。
「しかしなあ。仮に桜が本当に咲いていたとしても、ここから海まではかなりある。ハッキリ場所がわかっておればまだしも、そうでないなら、行って帰るころには既に春が近い可能性もあるのではないかな?」
伍平は顎に手をあて、険しい顔をする。
順調に行って帰ってこれたにせよ、ここより奥にあるという雪山に再び分け入り、その山小屋に戻れる保証もない。そもそも、木の枝を折ってもってくるにしても、そんなに長い間、咲いているかどうかも疑問だ。
「それは……」
弥彦はそこまで考えてはいなかったようだ。
彼は、きっと雪が雪女だということに気づいてはいない。だから、春になったら、彼女が地上から消えてしまうことを知らないのだ。春までという約定は、彼女の意志ではどうにもならぬ期限であって、桜を見たところで変えられない。めぐる季節を彼女は変えることをできないのだから。
「浅はかな考えだったかもしれません。ですが、生涯を共にしたいと思う女に出会ったのに、春になったら別れなければならない、二度と会わない、考え直すことはできないと言われて、じっとただ、春を待つことはできなかった」
弥彦は頭を振る。そして手にした椀をそっと下に置き、頭を下げた。
「すみません。そのせいで、あなた方にもご迷惑をおかけして」
「迷惑なんて。好きな人とずっと一緒にいたいのはあたりまえのことよ」
タミが優しく微笑む。
「そうそう。あっしもタミさんが、いなくなるって聞いたら、じっとしておれぬからなあ」
伍平は言いながら、タミの手をそっと握りしめる。
「えっと」
仲良きことは良きことですが。二人の睦まじい様子を見ている弥彦、とっても悲しそうなんだよね。
そりゃあそうだ。きっと、こういう夫婦になりたいって思ったから、家を飛び出してきたんだろうし。
「あ、そうよ。裏の神社にお参りしてきたらどうかしら?」
タミがポンと手を打った。
「なんといっても、もみじちゃんを授けてくださった、霊験あらたかな神さまですもの。きっと願いが叶うわ」
「そうじゃ、それがええ」
伍平とタミが盛り上がる。
えっと。
どうしよう。私、神さまに言われて、ここに来たわけじゃなくて、たまたま落っこちてきただけなんだけど。それを神さまのご利益って思ってもいいんだけど、それを根拠に過剰な期待を神さまにしても、叶えてくれる保証は全くないと思う。あ、そうか。でも。私、花くらいなら、咲かせることできるかも。うん。可能かもしれない。
「その神社って、桜の木、あるんですか?」
「ああ、見事な木があるよ。もっとも、まだ蕾もないだろうけど」
まあ、そうだよね。咲いてないよね。昨日まで猛吹雪だったんだし。そうでなくても、まだ、そんな季節じゃない。
「裏の神社って、すぐ近くなんですか?」
「出てすぐにある裏手の道をのぼったとこだよ。もみじちゃん、行ったことなかった?」
「ないです」
というか。私、まだ、この辺、よく知らない。
「気になるなら、行ってみたら? 今日はお天気が良さそうだし、あそこなら迷うこともないだろう」
弥彦はまだ動けそうもない。伍平は仕事があるし、タミも食事の用意とか忙しそうだ。ということで、とりあえず、私が代理でお参りに行くということになった。
私は家を出て、教えられた神社を目指して歩き始める。
「花を咲かすくらいは、簡単なんだけどなあ。咲いてどうなるもんでもないし」
雪女に弥彦の気持ちを伝えることはできるけど、伝えたところで、約束を変えられない。変える方法を私は知らない。
「晦冥に聞いてみたら、知ってるかなあ」
私は小さくため息をついた。知っていたとしても、連絡手段もない。
「とりあえず、神だのみしてみるか」
私は雪をかぶった鳥居をくぐり、参道を歩き始めた。
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