第12話 弥彦
伍平は間もなく目を覚ましたが、男は高熱を出した。意識はもうろうとした感じで、会話は成り立たない。
冷たい手ぬぐいを額にのせてやっても、あっという間に熱くなってしまう。
「困ったなあ。医者を呼ぶべきかなあ」
伍平が呟く。医者はこの里にはおらず、山の向こうのあの町まで行かないといけないそうだ。
外の吹雪はやんでいたけれど、もう辺りは暗くなり始めている。伍平とて、体調が万全といえない状態だから、あの山道を使って医者を呼びに行くのは無理だ。
「私、呼んできましょうか?」
「それは、ダメだよ。女子供は、夜の雪山を歩いてはいけない」
強い口調で、伍平に止められる。
「山の神さまってのは、決まりを守らないと、残酷な仕打ちをなさる」
「そうね。この人も心配ではあるけれど、それとこれとは別よ」
「でも……」
「ダメよ」
反論しかけた私は、タミにピシャリと止められた。
正直、なりふり構わず飛んでいけば、町までは一瞬だ。それほど危険はないだろうと思う。
ただ、帰りは医者と一緒だから、そういうわけにはいかないし、そもそも、飛んでいくから大丈夫なんて、言うわけにもいかない。
「今、薬湯をつくっているわ。それで、何とか治ってくれるといいんだけど」
そういえば、ぐらぐらと鍋が煮え、独特なにおいが家の中に漂っている。食欲とか全然誘わないにおいだ。
ひょい、と鍋の中をのぞくと、干した薬草と思しきものを煎じているようだ。
「全然、美味しそうじゃないですね」
「そうね。良薬は口に苦しっていうじゃない?」
タミは薬湯を湯飲みに注いだ。
「薬でも、美味しい方が断然いいと思うんですけどね」
「そうかもね」
さすがにそのままでは熱すぎるので、少し冷ましてから飲ませるらしい。
それにしても。
この二人、本当に親切だなあって思う。この家の経済状態から見て、私を養うのだって、難しいだろうに、行き倒れの旅人の手当ても何の迷いもなく行う。ちょっとお人よしすぎるともいえるけど、簡単にできることじゃない。
神さまが本当にいるなら、この人たちがむくわれる世の中にしてあげて欲しい。
でも。天界に住む住人が神さまだとしたら、私が幸せにしないといけない。優しさに甘えてばかりでなく、私が、この人たちを幸せにしてあげなくっちゃ。
「冷めたら、もみじちゃん、そのさじで飲ませてあげて」
「はい」
私は薬湯の入った湯飲みと木のさじを持って、男のそばに座った。
私は、伍平に手伝ってもらいながら、木のさじで薬湯を飲ませる。かなり苦労はしたけれど、ようやくに薬湯を飲ませることができた。
「これで良くなってくれるといいですね」
「そうだねえ」
男の額にのせてあったてぬぐいに手をかけると、男の手が私の手をつかんだ。
「……ゆき」
うわごとだろうか。男の唇が声を発する。
雪、というのは、雪女のことだろう。私を彼女と間違えているのだろう。
「大丈夫ですよ」
私が男の手を握り返すと、男の口元が少しだけ微笑んだように見えた。
何か、夢を見ているのかもしれない。
「景色を見せよ」
私は小声で呟くと、そっと男の額に手をのせて、目を閉じた。
夢見の術だ。
これを使うと、相手が見ている夢の景色をのぞくことができる。もっとも、かなり断片的だし、夢と記憶は違うので、必ずしも真実がわかるわけではないんだけど。それでも、何かわかるかもしれない。
小さな家が見えた。
部屋の中央に火が燃えている。
三和土にむしろを敷いただけの粗末な家だ。家財道具もほとんど見当たらない。
住んでいるのは二人だけのようだ。
「どうぞ」
若く美しい女性が微笑みながら、湯気の立つ椀を男に差し出した。
女の顔に見覚えがある。長い髪は黒髪だが、先ほどの雪女とよく似ていた。
外は吹雪だろうか。風が戸板を叩いている。
「このあたりは、山桜が綺麗だって聞くけど、本当かい?」
男は椀を受け取りながら、女に話しかける。
「そう……かもしれません」
女は曖昧に答えた。やや悲しそうに瞳を伏せる。
「私は、春になる前に、よそへといかねばならないので」
「……知らないのか?」
「ええ。ごめんなさい」
申し訳なさそうに、女が答えた。
「今年くらい、少し長居はできないのか? 私はおまえと、ずっとそばにいたい」
男は手をのばして、女の手を握る。女は困ったようにうつむいた。
「春になったら、あなたも、私もここから出ていく。山であなたをお助けしたとき、そう約束いたしましたよね?」
「……ゆき」
「春になれば、里までの道ができます。そうなれば、安全に山を下りられますから」
「私はおまえとともに、里に下りたい。それがかなわぬなら、このまま山で暮らしたい。おまえを離したくない」
男は女の身体を抱き寄せる。
「弥彦さん……」
女は男に身をゆだねながらも、首を振る。
「季節を変えられないように、約束もまた、変えられません。許して」
女の目から、一筋の涙がこぼれる。
「季節を変える……」
女を抱きしめながら、男が呟いた。何事かを決意したかのように見える。
「もみじちゃん?」
不意に声を掛けられて、私は慌てて男の額から手を離す。
伍平が心配そうに私を見ていた。
時間にしては、大した時間じゃなかったと思うけれど、ちょっと不審な行動だったかもしれない。
「熱、なかなかさがりませんね」
言いながら、濡れたてぬぐいを男の額にのせる。
「薬湯が効いてくれば、下がると思うよ」
「そうですね」
伍平の言葉に頷き、手桶の水を変えるために、外に出る。夕闇の中、雪原だけがやけに白く感じた。
手桶に雪を詰めながら、私は雪女の言葉を思い出す。
『春まではともにいるとあれほど誓ったのに。あと長くても、ひと月の我慢が出来なかった男よ』
雪女は、彼女を捨て、逃げだしたと言っていた。
でも、男の夢を見る限り、雪女がゆきであったなら、とてもそんなことをするようには思えない。
二人の間に何があって、この男は、雪女のもとを去ったのだろう。
見上げた空に、ゆっくりと月が昇り始めていた。
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