第8話 晦冥

「複雑ってどういう意味?」

 晦冥は、軽く肩をすくめた。辺りはしんと静まり返っている。

 銀色だった雪が、朱に染まり始め、影は長くなってきた。

「地上界ってのは、天界と地獄界を繋いでいるから、両方の影響を受けている」

「そうね」

 私は空を見る。細長い月がみえた。この月の満ち欠けによって、世界はつながっている。

 満月の時は、天界。新月の時は、地獄界。地上界というのは、ふたつの界の力が混じりあって、混とんとした世界だ。今はまさに、天界と地獄界の力が混ざり合う時だ。

「だからこそ、この世界が常にどちらかに傾いたら、どうなる?」

「……どうなるの?」

 そんなこと、考えたこともない。月は常に満ち欠けを続けるし、それが当たり前だと思っていた。

「均衡が破れた時、間違いなく、天界か地獄界のどちらかが消滅する」

「消滅?」

 ちょっと想像がつかない。

「少なくとも、界のつながりが切れてしまう」

 晦冥は大きく息を吸った。

「天界と地獄界は、雑多な地上界の生命の思念、欲望、願望から発する『力』の上に成り立っている。つながりが消えてしまえば、いずれはやせ細ってしまう」

「ふーん」

 今は絶妙に均衡が取れているってことなんだろう。

「地獄界が、何かしようとしているってこと?」

「まあな」

 晦冥が頷く。

「あっちにはバカが多いんだ。地上界の『力』は、二種類あるからこそ、二つの世界が成立する。それを一つだけにすれば、地上界だって滅びるということに気づいていない。地上界が滅びれば、当然、地獄界だって滅びる」

 私はまじまじと従兄の顔を見る。こんな真面目に世界を論じる男だと知らなかった。

 すぐ宮廷から逃げ出しているし、政治とか全然興味なさそうだったのに。

 不覚にも、胸がドキリとした。

「ひょっとして、天界を守るために、地上界に降りてきてるの?」

 実は陛下のご意思だったりとか?

 晦冥は、首を振った。

「俺は、地上界の渾沌とした空気が好きでね。別段、天界を守ろうとしているわけではない。この世界の均衡を保とうとしているだけだ。親父がどう思っているかは知らんが、黙認されている。本音を言えば、天界がどうなろうが、知らん」

「へぇ」

 らしい、といえばらしい。

 晦冥が、誰よりも次期第六天魔王になるのにふさわしい魔力を持っているのは、周知の事実である。いささか不真面目な印象はあるけれど、晦冥が玉座に着くと言えば、誰も文句は言わないだろう。言わせないだけの、実力はもっている。

 それに、こうして話してみると、思っていたよりずっと思慮深い。私より、ぜったい玉座に向いていると思う。

「ということは、やっぱり、玉座に着きたくないから、私に押し付けようとした?」

 つい、聞いてしまう。本音を知りたい。

「確かに、玉座はどうでもいい。お前がふさわしいとも思っていない。俺は、兄貴がやればいいと思う」

「じゃあ、なぜ?」

 あの場で、そう言ってくれればいいのに。

「だがそうすると兄貴が、お前を嫁にしようとする」

 突然、私は晦冥に腕をつかまれて、引き寄せられた。

 かつて見たことのないほど、真剣な眼差しで凝視される。いつになく優しい光を宿した瞳。大きく温かで固い胸に抱き寄せられて、私の頭は真っ白になった。

「玉座はいらんが、お前をとられたくはない」

「ちょ、ちょっと待って」

 私は、慌てて一歩下がり、晦冥の身体から離れた。

 あまりに自然に抱き寄せられてしまったせいで、動揺して、流されそうだ。

 胸がドキドキして、顔が熱い。

 ちょ、ちょっと冷静に考えなきゃ。

「い、今まで、そんなこと、言ったことなかったよね?」

 私は大きく息を吸う。

「……なかったか?」

「ないよ!」

 記憶のどこを掘っても、そんなこと言われた覚えは全くない。

「とりあえず、助けてくれてありがとう。ついでと言っては何だけど、私を連れ戻しに来たわけじゃないんだったら、私、伍平さんのところに戻りたいんだけど」

 優しい伍平は、きっと、すごく心配しているはずだ。

「とりあえず、まだ、誰の嫁にもなりたくない。突然、言われても困るよ」

「……わかった」

 晦冥はうなずいた。

「今日のところは、退く。とりあえず礼だけは、もらっておく」

 言うなり、晦冥は私の身体を抱き寄せて、唇を押し付けた。

 絶句する私を抱いたまま、パチンと指を鳴らす。

 一瞬、視界が暗くなり、浮遊感を感じた。

「ちょっっ」

 抗議をしようとした私は、いつの間にか山道に戻っていた。

 日が沈みかけている。

「もみじちゃん! ああ、もみじちゃん、やっとみつけた!」

 伍平が、私を見つけて駆け寄ってきた。

「伍平さん!」

 気の良い伍平は、ずっと私を探していてくれたのだろう。声がかれかけている。

「大丈夫? ケガはない?」

「すみません。ご心配をかけました」

 伍平の手を取りながら、私は頭を下げる。晦冥の姿はどこにもない。

「急に風が吹いたら、もみじちゃんがいなくなって」

「……そうですね」

 いろいろなことがありすぎて、私は何をどう話すべきかわからなくて。

「たぶん、神様が助けてくれたんです」

 説明することを諦めることにした。

 天に、星が輝き始めていた。

 

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