第7話 狒々
日はだいぶ傾きかけているが、もはや難所らしき場所はすぎ、伍平の家のある里の近くまでやってきた。
伍平の家は、集落のはずれにある。
「何かいる」
伍平が不意に足を止めた。
後方の人の気配がなくなったことで、どこか油断していたのだろう。伍平に言われるまで、全く気配に気が付かなかった。
その道の脇に、そいつはいた。
獣、だろうか。人より、二回りくらい大きい。鼠色の毛をまとい、大きな口をしている。
「猿じゃない。あれは狒々だ」
伍平が私を庇うように前に立つ。
「あいつは、若い娘をさらおうとするあやかしだ」
ぶるぶると震えながらも、伍平は必死で私を守ろうとしてくれている。
狒々は、私の方を見ながら、ケタケタと笑いはじめた。
奴の手が、ついっと私の方を指をさすと、強い風が巻きあがった。
「もみじちゃん!」
伍平がのばしてくれた手をつかむ前に、私の身体は風にあおられて、谷へと転がり落ちた。
かなり深い谷だ。
「……っ」
積雪のおかげで、それほど大きな傷はなさそうだが、あちこちが痛い。私は、ゆっくりと身体をおこす。
谷川だろうか。足元に細く水が流れている。
かなり上から落ちてきたようだ。見上げても、どこから来たのかわからない。あるのは、雪をかぶった木々だけだ。伍平の姿は当然なく、声も聞こえない。
「伍平さん!」
声をあげたものの、返事はない。静かな谷に私の声が響くだけだ。
どうしようかと、辺りの様子を調べようとした時、大きく積もった雪が吹き上がった。
「何?」
真っ白になった渦から、先程の狒々が現れた。狒々だけでは無い。よく似ているが、狒々よりはかなり小さい。おそらくはこれは猿だろう。猿の群れが、私を取り囲む。狒々は、私の方に手を伸ばしてきた。
「気二、イッタ。嫁二スル」
カタコトの言葉。
どうやら、コイツは人間の女性をさらって嫁にするあやかしらしい。
「えっと。断りたいんだけど」
いい加減にして欲しい。
嫁になんかなりたくないから、天界から、逃げたのに。あやかしからも求婚されるとは。
しかも、有無を言わさず、強引な展開っぽい。猿も歯ぐきをみせ、威嚇している。
さすがに、数が多く走っては逃げられそうもない。
「私は第六天魔王の姪なの。ただの娘と思っては怪我をするわよ」
私は胸をはって堂々と名乗り、自信たっぷりに笑んでみせた。
「第六天魔王」
狒々の顔に動揺が浮かぶ。第六天魔王の名は、地上でも恐れられているらしい。さすがの陛下も地上に影響を与えることは、滅多にないはずだけど。
火球よ
私は手元に小さな火を灯す。
ふっと息を吹きかけると炎が吹き上がる。実は、これ、破壊力は全くなく、周囲を照らすだけの魔術。はったりもいいところだが、相手が、火を恐れる獣の場合には、効果的だ。大技を使うには、魔力の残量が不安だから、節約しておきたい。天界と違って、無尽蔵に力が使える訳では無いのだ。
「どきなさい」
私は猿たちに命じる。猿は狒々の顔色を見ながらも、後ずさりを始めた。
「ヤメロ」
狒々が声をあげる。
「焼かれたくなければ、去りなさい」
私は息を吹きかけるフリをして、狒々を睨みつける。
猿たちが逃走をはじめ、狒々だけが残された。
「安心して。今なら、逃がしてあげるわよ。逃げるのも、勇気よね」
はったりをかまして、私は笑ってみせる。
「許サヌ」
狒々が腕を振り上げ、突進してきた。吹きあげた炎をものともしていない。
まずい。切り替えなきゃ。そう思った時、目の前の狒々が炎に巻かれ、絶叫を上げた。
「え?」
私の炎ではない。強い魔力を帯びた炎だ。狒々は、炎に焼かれながら姿が消えていく。
絶句した私の前に、ひらりと天から男が、舞い降りる。
「地獄の炎で送ってやるから、お前の世界に帰れ。それにコイツは俺の嫁だ」
身にまとっているのは、天界の衣。ぶっきらぼうな言葉使い。
圧倒的な魔力の炎の中、狒々は焼かれていく。
「
間違えようのない、天界でも屈指の派手で強力な魔力を持つ、私の従兄だ。
「全く、手ぬるいぞ。何、やってやがる」
晦冥は、呆れたように私を見る。
「どうして、ここに?」
「狒々を追ってたら、お前の魔力を感知した」
晦冥は肩をすくめる。
「狒々を追って?」
炎が消えるとともに、狒々の姿もなくなった。
「世の中、お前が考えるより複雑なんだよ」
キョトンとした私に呆れたように、晦冥はため息をついた。
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