第四話 謎の写真

 実智子が仕事から帰ると母は暗い父の部屋に独りでいた。

「お母さん、どうしたの?」

「お帰り。ちょっとね」

 最近の母は以前とは打って変わって家事を取りつかれたように完璧にこなしていた。

「すぐにご飯を食べる?」

「お風呂に入ってからにする」

「じゃあ、用意しておくわ」

「うん、お願い」

 風呂から出ると夕食が用意されてあった。

「ビール飲む?」

「うん」

「じゃあ一緒に飲もうか」

「お母さん飲めるの?」

「もう薬は飲んでいないから、飲めるのよ」

「何だか表情が違うね」

「何だか霧が晴れた感じなの。頭の中の」

 父が亡くなったことがきっかけなのだと実智子は思ったが、口には出せなかった。

「そうだ、私来月フランスに行ってくるから」

「フランス?」

「そうよ。パリやプロヴァンスなどに行く予定」

「誰と?」

「独りでよ」

「独りで?大丈夫なの?」

「言ってなかったっけ?学生時代に少しだけ住んでいたことがあったのよ」

「嘘?」

 突然の大声に振り返ると弟の翔がリビングの入り口に立っていた。

「ええ、私も始めて聞いた」

「まあ、そういうことだから家のことはよろしく」

「何日間?」

「三週間ほど」

「そんなに?」

「駄目かしら」

「駄目じゃないけれど。びっくりした」

 食事がすむと片づけをして、母は先に休むと言って自分の部屋に行ってしまった。


「ねえ、ちょっと話があるのだけれど、俺の部屋に来てくれない?」

 母がいなくなるのを待っていたかのように翔が言う。

「いいわよ」

 翔の部屋に入るのは大人になってから初めてだった。大きなパソコン画面が数台あり書棚には難しい本が整然と並んでいる。掃除が行き届いた過ごしやすい部屋だ。

「そんなにジロジロ見るなよ」

「ごめん、ごめん。だってちょっとびっくりしちゃって」。

「まあ、いいから、ここ座って」

 独り用のソファーに腰掛けた。

「親父の写真の件だけれど」

「うん」

「ちょっと調べた」

「えっ、調べたの」

「何だか気になっちゃってさ」

「わかるけれども」

「で、どうやって調べたの?」

「篠田さんっているだろ、学生時代からの親父の親友」

「ああ、昔はよく家に遊びにいらしていた」

「その人が先日訪ねてきてね」

「そうだったの」

「お葬式の日は海外にいたとかでさ」

「うん、それで」

「結構話が弾んで、流れであの写真を見せた」

「そう」

「そしたらその女性を知っているって言っていて」

「そうなの?」

「篠田さんの行きつけのバーでバーテンダーだった人らしい」

「お父さんとそこで知り合ったのね」

「そうみたい。その店を紹介したのが篠田さんだって。篠田さんも後から知ったらしいけれど親父は随分独りで通っていて、その女性と親しくなったらしい」

「・・・」

 父親の昔の恋話はあまり聞きたくはなかった。

「そのバーっていうのが篠田さんの友達が経営していたらしく彼女はそこに雇われていた。それもただの従業員じゃなくてそのオーナーの従妹だそうで」

「じゃあ、今どうしているか知っているのね」

「それが篠田さんは親父たちが結婚してすぐに海外勤務で日本を離れていたからそのバーの友だちやその女性とも付き合いが途切れていたらしい」

「じゃあわからないのね」

「そこで、篠田さんが調べてくれることになった」

「調べる?」

「なんかさ、気になっていたのだって、篠田さんも」

「どうして?」

「親父は篠田さんと飲むと意味ありげにバーの話しをするも詳しくは何も語らなかったそうだから」

「調べるのね」

「篠田さんは今リタイアされて暇だからって言ってくれた」

「そう」

「気に入らない?」

「いや、そうじゃなくて、お父さんの昔のことって知るべきなのかな」

「僕もそう思ったけどあの写真は調べて欲しいってことかなって考え直した。それで急なのだけれど、今週の土曜日に篠田さんと茨城まで行くことになった」

「茨城?」

「そう、茨城って言っても電車で二時間くらいの場所らしいから。そこでそのバーのマスターが今喫茶店をやっているのだって」

「あなたも行くの?」

「そう、姉ちゃんもどう?」

「そうね」

「どっちでもいいよ。無理にとは言わない」

「行くわ。あの写真を見た時から気になっていたもの」

 以前の実智子なら調べることにも事実を知りに行くことにも反対だったかもしれない。見るべきものに蓋をしてきたことへの後悔が実智子の足を動かした。


 上野駅で篠田と待ち合わせをして茨城に向かう特急電車に乗り込んだ。久しぶりに会う篠田は昔の面影のままスラッとしていて思い出の中と印象は変わらなかった。ロマンスグレーの髪と眼尻の周りの小皺が時の経過を物語ってはいたが。

 電車の中では当り障りのない今日の本題からは離れたことばかりを三人ともあえて話していた。

 地方都市の駅はどこも似通っている。小さな駅ビルと直結しているが人通りはそれほど多くはなかった。

 駅から出て数分のところにその喫茶店はあった。

「いらっしゃい」

 東京でバーを何店舗も経営していたというマスターはこの町では少しだけ垢抜けているように思えた。店の作りも田舎によくありがちなわざとらしいものではなく、極シンプルで洗練されていた。

「貸し切りにしてくれたの?」

 表の看板に『貸し切り』とあるのを見つけて、篠田はドアを開けるなり言った。

「うん、その方がいいと思ってね」

「すみません。私たちのために」

 挨拶の前に私は頭を下げた。

「いいや、僕も気になっていたことだから。まあ座って」

 何だかとても緊張してくる。

「あの写真の人は僕の母方の従妹でね」

「はい」

「マスターは私の高校の時の先輩でね。だからよくお店には行っていたから彼女が初めてお店で働くようになった頃も覚えているよ」

 篠田はとても懐かしそうだった。

「彼女が働きだして数年後に僕は二軒目の店をオープンして彼女には最初の店を任せていた」

「僕と君たちのお父さんが行った時には彼女が一人でカウンターに立っていたな。その後すぐに僕は海外勤務になってしまったからしばらくは疎遠になってしまって・・・」

「そうだったね。篠田としばらくたって再会した時は最初の店は閉めてしまって三軒目の店で会ったはずだ」

「そう、帰国して君たちのお父さんと会った時、彼女のいた店の話にもなってそこに行こうとしたらマスターからその店もなければ彼女ももういないと聞いて、彼ががっかりしたことを覚えているよ」

「本題から反れたかな。ごめんね。彼女の名前は響子というのだけれど、僕には結婚すると言って店を辞めたけれども、結婚しないで子どもを産んでいた」

 子どもというフレーズに実智子の心臓が高鳴る。

「結婚はしていなかったのですか?」

「そのようだ。僕には詳しいことを話したがらなかったからね。それに彼女の母親も僕の母親もすでに亡くなっているから彼女のことを知る機会が無かったし、僕もあえて調べようともしてこなかった。彼女も子どもが四歳の時に亡くなっている」

 写真の女性が亡くなっていると聞いて不謹慎にもホッとしている実智子だった。

「そのお子さんはどうされたのですか?」

 冷静を装い翔が質問をする。

「今回、彼女の父方の親戚を訪ねて行った。そこで彼女の子とは会えたよ。君たちのお父さんが持っていた写真と同じ写真をその子も持っていてね」

 実智子と翔は顔を見合わせる。二人ともただ戸惑っていた。


 帰りの電車の中で三人はほぼ無言だった。写真の人に子どもがいて今はどこかで元気でいる。その子が自分たちと血が繋がっていることは二枚の写真が物語っているようにしか思えなかった。


 夕飯を一緒にどうかと篠田に誘われたが二人とも丁重に断った。早く姉弟だけで話をしたかった。最寄りのスーパーでお弁当を買ってきて二人で食べることにした。

 「ちゃんとその人の今を聞いてきた方がよかったのかな?」

 「そうね」

 翔の疑問は実智子の疑問でもあった。

 「でも、何だかそっとしておいてあげたい気も・・・」

 「そうなのだよな。俺たちがいきなり行っても迷惑なだけだよな。その人の気持ちもあるし」

 「お父さんはその子の存在すら知らなかったわけよね」

 「それをあの写真の女性が望んだ」

 「そうよね。きっと、私たち家族のために」

 

 次の日、実智子は自分の部屋を片付けようとしていた。クローゼットには入りきらない洋服の山。散乱するバッグたち。それらを眺めながら途方に暮れる。『片付けられない女たち』、というテレビ番組か本があったらしいが自分は確実に片付けられない女の一人である自覚があったためかその内容は見られなかった。本来なら自分の欠点をちゃんと把握して克服する努力をするべきである。それはわかっている。だが、何をどうすべきなのか探すことさえできないでいた。

「姉ちゃんいる?」

 弟が部屋のドアを突然開けた。

「何これ?汚い部屋」

「どうせ私は片付けられない女ですよ」

 不貞腐れた顔を弟に向ける。

「片付けられないっていうより買物依存症じゃないか?」

「買物依存症?」

「服やバッグがあり過ぎだろう」

「そうね」

「お昼何か作るからさ一緒に食べてそれからだな」

「手伝ってくれるの?」

「うん、ネットで売ろう」

「売るの?」

「だってこんなに必要ないでしょう」

「そうだけれど」

 弟が作ったカレーを食べて弟の指示で服やバッグを分類していった。

「ねえ、ところでさ、お金大丈夫なのか?こんなに買物をしていて。ブランド品ばっかりじゃない」

「リボ払いに追われ、銀行のカードローンに追われ、私は今大変お金に困っています」

「そうやっておどけて言えるようになったのは進歩かもね」

「そうかな。実は最近になってやっと買物に行かなくても大丈夫な精神状態になったの」

「今の仕事になってから、姉ちゃんも変わったよな」

「そうお?」

「うん、親父の件もあったけれど、それだけじゃないよ」

「それまではね。時々無性にデパートに行きたくなることがあってね。お店の人とも仲良くなっているから私のためにお取り置きしてくれていたりして、お金もないのに買っていたのよ」

「必要でもないのに?」

「必要だったの。あの時は」

 新しい服や靴やバッグを買うと心が弾んだ。新しい服や靴やバッグを身に着けると、自分の価値が上がったように感じられた。堂々と街を闊歩して貧相な人たちを見下すことが快感だった。

「でもね、貧相ではなかったのよ、その人たちって」

「どういうこと?」

「今一緒に働いている人ってブランド品を全く身に着けていないの。自分のスタイルがちゃんとあって、とっても素敵で似合った格好をしていてね・・・」

「それがカッコいいと思ったわけか」

「そうなの。いつも高いブランド品を身に着けて堂々としていた自分が恥ずかしくなってね」

「それも借金だしな」

「そうなの。何やっているのだろう私って思ったわ」

「すごい進歩だね」

「進歩ね。でも行き詰っている」

「じゃあさ、まずは自分がどうなりたいのか思い描いてみよう」

「自分がどうなりたいのか?」

「そう、実はそれも親父に言われたことだけれどね」

「お父さんが?」

「うん、俺が学校に行けなくなってすぐかな」

「なりたい自分か。ちゃんと考えてみる」

 それから実智子は翔の手助けもあり部屋の断捨離を成功させ、身にまとっていた鎧を脱ぎ捨てた。

 

 実智子が事務所で独り仕事をしていると、春香が元気に入ってきた。彼女はここを休憩所か何かと勘違いしているようで時々ふらっと何の前触れもなくやって来る。来客用のソファーにどんと座り、自分で持ってきたケーキを食べだした。実智子は慌てて彼女の好きなハーブティーを淹れる。

「あなたもここで食べなさい。休憩も大事よ」

「はい、いただきます」

 この時間も実智子は好きだった。春香は色々な話をしてくる。こっちの返事は聞いてなく話したいことを好きなだけ話すと勝手に帰っていく。実智子はただの聞き役でしかない。それがとても楽しく実智子の世界を広げてくれる。だが、今日は少し違った。

「そう言えばさ、最近あなたの雰囲気変わったわね」

「そうですか?」

「服装が違うもの」

「わかります?」

「誰だってわかるわよ。前は何だかブランド品をひけらかしていたじゃない。年の割に短いスカートなんて履いてカマトトぶって」

「はい・・・」

 全くその通りで反論の余地はない。

「髪もその方がいいわよ」

「ありがとうございます」

 長くてウェーブを利かせた髪型からミディアムボブにしていた。服装もシンプルなモノを好むようになっていた。

「あなた借金があるでしょう?」

「どうしてそれを・・・」

「言っているでしょう。私にはわかるのよ。お客様のところに行っても本当にお金のある人か実はカツカツの生活をしている人なのか一発で見抜くからね」

「すごいですね」

「まあ家や持ち物や服装を見ればわかるじゃない。あなただって資産家の娘でもなくてお給料だって多い方ではないはずなのにセレブ気取りだったからね」

「セレブ気取りですか」

「ごめん。言い過ぎたかしら。真奈美がいたら叱られちゃうわ」

「でも、その通りです。弟にお金を借りてカードローンの清算をしました」

「ちゃんと借用書はあるの?」

「はい。所長がそうした方が良いって」

「そうよ。家族だからって踏み倒したら駄目よ」

「はい。しかも弟は断捨離まで手伝ってくれて。バッグや靴がネットで売れました」

「弟さんに頭が上がらないわね」

「全くです」

「そう言えばお父様の写真ってその後何かわかったの?」

「実は弟が父の友達と調べてくれて」

「そうなの」

「先日茨城まで行ってきました」

「茨城?その話真奈美にした?」

「いいえ、まだ誰にもしていません」

「ごめんなさいね。興味本位で聞いてしまって」

「いいえ。実はやっと気持ちが落ち着いたところでして」

「どういうことかしら?」

「父には私たち以外に子どもがいたようなのです」

「あなたと同じ年くらいの?」

「どうしてわかるのですか?」

「勘よ」

 春香が珍しく神妙な顔をして黙り込んでいた。

「まだ人には話さない方がいいわよ。真奈美にも」

「そうですね」

 春香の態度に違和感を覚えたがセンシティブな内容に気を使ってくれただけだと解釈をした。

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