第三話 家族の真実
夜の十時にお開きになり電車で家路についた。ほろ酔い加減の心地好い気怠さに電車の中は包まれている。金曜日の夜のサラリーマンの顔は一週間の中では一番輝いているのかもしれない。目の前に座る父親より少し若い男性がにんまり微笑むのを見てふとそう思った。
家に入るとリビングで父が一人晩酌をしていた。
「お帰り。遅かったな」
「ちょっと飲んできた」
「仕事はどうだ?」
「うん、これからかな。まだわからない」
「そうか」
「お前も飲むか?」
「うん、その前にシャワーしてくる」
父と二人で飲むことなんて初めてかもしれない。バーに行ったがほとんど飲めなかったし酔えなかったので、少しお酒が欲しかった。
シャワーの後、父と同じ焼酎を炭酸水で割って飲んだ。
テレビのニュースにあれこれ意見を言い合いながら他愛もない時間が過ぎていく。久しぶりに家にいてホッとできる瞬間だった。
「ねえ、どうして私が離婚をした時、許してくれたの?」
離婚を決めて両親に話をした時、母は大反対したのだがそれを父が収めてくれた。家に戻れたのも父のおかげだった。
「子供もいなかったし離婚するなら早い方がいいと思ったからな」
「そう」
何となくだが父自身が離婚をしたかったのかもしれないという思いが頭を過る。
母は弟にだけ愛情を注いでいた。彼が学校に行かなくなるまでのことだ。それからは精神を病み病院通いが続いている。薬のせいかヒステリーは少なくなっていたが情緒は安定していない。母がまともだったら父は離婚を言い出していたのかもしれない。父は自分の感情をわざと無くしている。抑えているのとも違う、感情を無かったことにしているのだ。きっと、そうでもしていないと長かった銀行勤めも家での生活も成り立たなかったのだろう。
そんなふうに父親のことを考えたのは初めてだった。真奈美の事務所に通うようになって変わり始めた自分を意識していた。
翌日、事務所に入ると真奈美が外出するところだった。
「お留守番お願いね」
「はい、いってらっしゃいませ。お気をつけて」
「ありがとう、いってきます」
仕事のやり方を自分なりに工夫してみるようになった。エクセルでスケジュール管理表を自分なりに作ってみたり、電話での対応を記録してそこから新たなビジネスの展開を模索したりしてみた。無駄なことや失敗もあったが真奈美から喜ばれることも増え、仕事の面白さを理解していった。
いつものバーで真奈美と二人で飲んでいた。
「そう、お母さんはご病気なの」
「はい、心のですが」
「でもそれが一番厄介よね」
「もう慣れました。掃除や洗濯は何とかしてくれていますし、料理もできているので」
「外出はできないのね」
「はい、買い物は週末に私がまとめてしています」
「そう。旅行に誘ってもダメなの?」
「旅行に誘ったことなんてなかったです。私も余裕がなくて」
「お父さんとは?」
「あの二人は何ていうか、険悪な関係ではないのですが、二人でいることを避けているような感じで・・・」
「そうなのね。うちの両親と言っても養父母だけれども、年中喧嘩しているのに、一緒に旅行に行っているからね。まあ、それぞれの夫婦の形があるから」
「でも、ちょっと思ったのですが、父は離婚した方が幸せだったのではないかと」
「そうなの?」
「はい、形だけの家族を維持しているくらいなら壊してしまった方が幸せになれたのかもしれないって。弟も自立できたかもしれないし母も心が壊れなくてすんだのかもしれないって。もう二十年ですから今更なのですが」
父親が亡くなった。起きてこない父を起しに行った実智子が眠るように亡くなっている父を発見した。救急車を呼びその後警察も来て検視もしていたがあっさりと病死と判断された。
葬儀を仕切ってくれたのは弟だった。顔を合わせていなかった二十年で彼は思いのほか大人になっていた。
葬儀から帰宅し母親はすぐに自分の部屋にこもってしまった。父が亡くなってから家事が一切できなくなっていた。
「何か作ろうか。パスタでいい?」
「うん、お願い」
弟が台所に立つ。実智子はリビングのソファーで動けなくなっていた。ぼんやり弟を見る。そこにいるのは自分が知っている弟でもなければ引きこもりの男性の姿でもなかった。
「仕事していたのね」
「えっ何?」
「うん、今はいいや」
何だか考えることが多すぎてもう全てがどうでもよくなっていた。
実智子が勝手に想像していた弟の姿が間違っていたのだ。父親のことも誤解だらけであったし母親のことだって思い違いをしていた。
「どうぞ。あるもので作ったから美味しくないかもしれないけど」
「ありがとう」
一口食べて実智子は唸った。玉葱とベーコンだけの具材だったがとても美味しいペペロンチーノになっていた。
「あんたどうしてこんなことができるの?」
「何だよ。作ったことなかったっけ?親父とお袋には作ったことあったよ」
「そうなの?私だけが知らなかったのね」
「姉ちゃんが知らないことだらけだよ。この家は」
「どうしてそうなったのかしら」
「姉ちゃんが避けていたからだろう」
実智子は家族と向き合うことを避けていた。同じ家に住みながら誰とも関わらないように暮らしてきたのだ。
「いつから仕事していたの?」
「株のこと?」
「株式投資をしていたのね。知らなかったわ」
「もう高校生の頃からかな」
「えっ、嘘」
「そうだよ。親父から教わってね」
「本当に?お父さんが・・・」
「親父は俺が引きこもっていることを咎めることはなかった」
「そう言えば、あんたって暴れない引きこもりだったわね」
「何だよ、それ」
「だって結構他所で聞くのは引きこもりと暴れることってイコールじゃない」
「他所は知らないけれども俺は違うし、色々と決めつけてしまうのは良くないよ」
「大音量の音楽は何だったの?」
「ああ、株式トレードって九時から始まるのだけれどもその動きを見ている時に音楽があると俺の場合は集中できるからね。そして午後三時に終わるから音楽止めて一度寝る。今度は夜中にアメリカの株の動きを見ている。その時は一応気を使ってヘッドホン使っているからね」
「知らなかった。私への嫌がらせだと思っていた。三時に静かになっていたのね」
「そこ?」
「三時だったのね。終わるのって」
「だからそこかよ」
「いやいや、株ね。お父さんがね」
「親父って株に詳しかったよ。でも自分ではやらなかったから俺に託したのかな。勿論銘柄の支持はなかったけれど」
「銀行員には制約があるからね」
「何より親父は家でできることすればいいって言ってくれて株を教えてくれた」
「お母さんはどう言っていたの?」
「お袋は何も知らない。俺が学校に行かなくなってから俺に関心を無くしているからね。感情さえ無くしている」
「そうね。お母さんと私もちゃんと向き合ったことがなかった。お母さんの感情なんて見向きもしたことがなかったわ」
仕事を一週間休んだ。真奈美も春香も実智子が遠慮したため葬儀に来ることはなかったが、二人からの思いやりは十分伝わっていた。
「少しは落ち着いた?何かできることがあったら何でも言ってね」
春香がいつものバーで優しく言ってくれた。
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
「弟さんが色々やってくれたって言っていたわね」
真奈美には葬儀のことや弟のことを話していた。
「そうなの?引きこもり青年が」
「引きこもりだったのですが、ちゃんとしたディトレーダーだったのです」
「そうなの?儲けているの?」
「まあそんなに沢山儲かっているわけではないようですが」
「お父様が亡くなられて見えてきたことがあったのね」
「はい、私が見てこなかっただけなのですが」
「引きこもりだとこうであるはずだ、とか思い込んでしまうと本当の姿は見えなくなるのかもね」
「ねえさんなんて、引きこもりの持論を展開したりしてね」
「ちょっと恥ずかしいわね。私も思い込むとそれしか見えなくなるからね」
「私が勝手に父のことも弟のことも解釈をしていて。そして母のことも」
「お母さんは心を病んでいたのだっけ?」
「だから私は母を避けていました。なるべく顔を合わせないようにしてきたし、話をしないようにしてきてしまって」
「仕方がないわよ」
「弟が学校に行けなくなるまでは母はとっても強い人でした。性格もきつく、言葉の一つ一つが威圧的で自分が正しくて誰よりも偉くて、そういう態度だったのです」
「あなたも大変だったでしょう」
「私はそんな母親から文句を言われないように生きてきました。母の望むことをすることだけを考えて」
「どんな母親もそういうところはあるわよ」
「私を育ててくれた母親だってそうだったわよ。ただ違っているのは、私の養母は自分の考えを押し付けることがなかったわ。いつも自分で考えなさいって言われていた。私の姉、実の娘に対してもね」
「私の母は子供たちが考えることを許してはくれなかった」
「だから弟さんは学校に行けなくなった」
「そして母は弟が学校をやめてから自信をなくしてしまったようでした。ママ友たちのボス的な存在だったこともあって今度は誰とも会えなくなり彼女自身が引きこもるようになりました」
「それまで立派なことを言っていたのでしょうね。ママ友たちの前で」
「はい、もう恥ずかしいぐらい自分の息子を自慢していたし、教育論なるものを偉そうに話していました」
「落差があり過ぎね」
「その頃私は就職したばかりで家のことには全く関心がありませんでした。関わらないように無視していました。結婚をして家を出ることばかりを考えていて、実際その通りにして」
「その後、離婚をして家に戻ったのよね?」
「はい、仕事を辞めていたので戻るしかなくて」
「お母様は許してくれたの?」
「最初は絶対に駄目だって言われました。ましてや戻ってくるのは世間体が悪いと」
「そうよね」
「それが、父が母を取り成してくれたのです。今思えば昔ならあり得なかったことで。あの頃は自分のことで精一杯で他の人のことを考える余裕がなかったので気が付かなかったのですが」
「そうか、以前のお母様ならあなたを許すことはなかったのね」
「そうなのです。絶対に許さなかったでしょうし、家にも戻れなかったはずなのです。あの頃から母は父の言うことに従うようになっていた」
「お父様は離婚することについてどう言っていたの?」
「離婚する前、彼との関係に悩んでいる時に実家に帰ったことがありました。母とは何も話せなかったのですが、父からは離婚してもいいぞ、とふいに言われました。父の方が離婚には反対すると思っていたので意外で」
「だからお父様自身が離婚をしたかったのかもしれないと思ったのね」
「はい、そうです。それに、実は父の書類を整理していて古い手帳を見つけました」
「古い手帳?」
「はい、四十年以上前の一冊だけが机の引き出しの奥にしまってあって」
「それ以外の古い手帳は残っていなかったの?」
「はい、キレイに片付いていました。何だか死期を悟っていたみたいに」
「で、その手帳には何があったの?」
「ねえさんあまり根掘り葉掘りは」
「あらごめんなさい。話たくなかったらいいのよ」
「いいえ、今日は聞いて貰いたくて来たのですから」
言い出し難かったが春香の強引さと真奈美の距離を置いた優しさが実智子の言葉を滑らかにする。
「女性と映した写真が一枚挟んでありました」
「女の人との写真か。お母様には見せていないのでしょう」
「はい。一緒に見つけたので弟は知っていますが。」
「四十年以上前ってことは・・・」
「結婚する直前のものだと思います」
「二人の女性の間で揺れていたのかしら」
「母の父、私たちの祖父は父の銀行と関係があったそうで父はもう結婚するしか選択肢がなかったようです」
「それと同時期に他に好きな女性ができてしまったのね」
「だから父は離婚をしたかった。でも弟が学校をやめ、母が心を壊し抜け出せないことを悟った。そんな感じです」
「それがお父様の愛なのね」
「そうね。そういう愛し方もあるのかも」
「そう言って貰えると心が軽くなります。父はそれでよかったのかなって、ずっと考えていて」
「まあ、本当のところはわかるはずもないけれども、お父様は腹を括ってあなた達家族を守っていたのよ」
「父は幸せだったのでしょうか?」
「愛する対象がいるってことは幸せなことだと私は思うけれど」
真相はわからない。どんなに考えてみてもわからないだろう。それもありなのだと言い聞かせていた。
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