第二話 実智子の再出発
実智子は有名私立大学を卒業後銀行に就職するも三年で退職をした。その後モーゲージバンクなどを派遣社員として転々とするも職が定まらず四十歳をとうに過ぎていた。
ファイナンシャルプランナーの資格を活かして仕事を得ようと小さな会計事務所に面接に行くが採用を断られ途方に暮れていた。
隣の部屋では高校生の時から引きこもりになっている弟の翔が音楽を大音量で聞いていた。夜になると静かになるのだが、昼間の九時頃から夕方になるまで規則正しく音楽をかける。実智子に家を出ろと言っているかのように。
実智子も早々に実家から出て一人暮らしを始めたかった。あのまま銀行に残っていればそれも叶ったであろうが、銀行時代の収入がピークで後は右肩下がりになっている。七十歳になる父親がまだ知り合いの会社に勤めているおかげで、家にお金を入れることなくここで生活できているが、心は荒むばかりだった。
締め切ったカーテンの隙間から真夏の太陽が無理やり射し込む。スナック菓子の食べかけと自棄飲みしたビールの空き缶が散乱した部屋のベッドに横になり、再放送のサスペンスドラマを見ていた。
突然、どこがマナーモードなのか携帯電話が机を振動でたたきだす。おもむろに出ると今日面接に行った会計事務所からだった。
「紹介したい税理士事務所があるのだけれど、どうかしら」
「はい、是非お願いします」
全く迷うことなく二つ返事で答えていた。
面接で初めて会った副所長の女性の声が天使の音色で耳に届く。本当は中年女性にありがちな濁声だったのだが。
行きつけの地下にあるバーのカウンターで真奈美は一人ジントニックを飲んでいた。少し遅れて春香がやってきた。
「お待たせ。いつもごめんなさいね」
「いいえ、ねえさんとの待ち合わせでもしないとこうして一人で飲む機会もなくて」
「相変わらず忙しい?」
「自分のペースでやらせていただいているので、それほどでも」
「人を探しているって言っていたわよね」
「はい」
「面接に来た子だけれどね、うちの事務所だと合わないけれど、あなたのところならどうかなって思って」
「ありがとうございます。助かります」
「実はね、その子何だかあなたと同じ匂いがしてね」
「匂いですか?」
「そう、似ているとかではなくてね」
「そう言えばねえさん、何とかの匂いがするって口癖ですよね」
「そうね。勘ね。何となくわかるのよ。育ちとか、生きている環境とかが」
「体臭とは違って霊感に近い感じですよね」
「そうかな。今回のはね、育った環境やタイプは全く違うのだけれども、何かが近いというか。まあ、いつもの通り適当なのだけれどね」
「で、どういう人なのですか?」
「元銀行員だったかな、中流家庭で育ってエリート意識は高いけれども、中身がないというか、まあ、育てがいはあるかな」
「それが私と近いですか?」
「そこはあなたとは全く違うのよね。あなたはどちらかというと外見はクールのくせに中身は熱い女だからね」
「それって褒めています?」
「褒めているわよ。あなたの場合は組織に向いていないだけで、やる気も能力もあるのだから」
「会ってみたいような、でも会いたくないような」
「同じ匂いなのに全く違うからちょっと興味をもったの」
「小さな税理士事務所の事務なんて地味で面白味もないと敬遠されませんか?」
「彼女はもう他に行くところはないわね。あなたと同じ年だし。銀行出身で転職を重ねていて特に何ができるってものがないからね。なんかこう積み重ねてきたことがないのよね。中途半端な資格はあったかな。今どき資格持っていてもね」
「何だかぼろくそですね」
「あっごめんなさい。それなのになぜ紹介してくるのかってことよね」
指定された喫茶店に入ると副所長の春香が大きく手を振った。
草間春香は小柄だがふくよかでお笑いタレントの上沼恵美子を彷彿とさせるとても明るい感じの五十代の女性だった。隣の席には自分と同じ年代のショートカットの似合うシャープな印象の女性がいた。
「座って。こちらうちの事務所から独立した相沢真奈美さん。この方が広田実智子さん」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
「二人は確か同じ年よ」
「広田さんは仕事への拘りってありますか」
「拘りですか?」
「いきなり難しい質問をしてごめんなさいね。今まで私の仕事を手伝ってくれていた人が妊娠したのをきっかけに辞めるので、仕事よりプライベートを大切にするのかそうでないのか確認したくて」
「そうですね。結婚は一度したのですが、別れてしまって。だからと言って仕事人間でもなくて」
「広田さんはプライドが高過ぎるのかも。それでいて芯が無い感じね」
春香がいつもの調子で口を挟む。
「ねえさん、言い過ぎです。ごめんなさいね。びっくりするでしょう。あまり気にしないでね。私にとってこの人は前の勤め先の上司というよりかは本当のお姉さんみたいな存在なの。この人は人を分析してしまう癖があってね。私も散々言われているわ」
「銀行に勤めて数年で結婚をして、あの頃は何だか全てが順調でした。でも、仕事と家庭の両立ができなくて銀行を辞めました。それから家庭も上手くいかなくなり、人生の歯車が壊れたというか」
「目的もなく親が認める会社に入って、世間の言う通りに結婚をして、あなたには自分というものがなかったのね」
「こうやってずけずけと言う人に会ったのって初めてよね」
「はい。でも、良い機会です」
実智子は真奈美の税理士事務所に勤めることが決まった。
本当のことを言えば、もう二度と会いたくはない二人だった。でも、もうここでしか働く場はない。それに会いたくはないが自分には必要な人たちのようにも感じていた。
真奈美の事務所に通い始めて三カ月経った頃、実智子は真奈美と春香の行きつけのバーに誘われた。
「そろそろ退屈していない?」
開口一番に春香は質問をしてきた。
「いえ、そんなことは」
「だって、税理士事務所の事務なんて書類整理と入力作業ばかりでしょう」
実智子は回答に困った。実際にそう思っていた。
「私はその書類整理と入力作業、昔は手書きで帳面につけていたけれども、それが好きだったのよね」
「えっ、そうなのですか?」
真奈美の言葉に実智子は驚いた。
「そうよ。だから税理士になったと言っても過言ではないかな」
「いつ頃から税理士を目指されたのですか?」
「高校を決める時からかな。うちは魚屋をしていたのだけれど、そこに毎月帳簿を付けに来る女性がいてね、その人と仲良くなって税理士という仕事を知ったの。大学に通わなくてもなれる職業だと知って、これだって思ったのよね」
「大学に行かなくても?」
「そう、大学に行かなくても自立できる方法を中学三年生の頃から探していたの。家はそれほどお金持ちじゃなかったしね。両親は無理をしてでも私を大学に通わせると言ってくれた。でも、個人商店だったからだんだんと景気が悪くなっているのを感じていて、無理はさせたくなくてね。それに女子大生がチャラチャラしているニュースを見たりしてああいう風には成りたくないと思ったことも大きいけれども」
「私は女子大生になってチャラチャラしたいって思っていて、それが原動力で受験に頑張れました」
「チャラチャラしたかった人としたくなかった人ってことね」
「どういうことですか?」
「いや、二人の違いを考えていたのよ、ずっと」
「ずっと?」
真奈美が怪訝そうな顔で聞く。実智子は意味も解らず黙っていた。
「実智子さんはどうしてチャラチャラしたかったの?」
「何だかカッコよく見えたからですかね。皆もそうだったし。あまり深くは考えていなかったです」
「私はその皆と同じというのに抵抗があったわ」
「そこなのかもね。大きな違いは」
春香の断言に誰も口を挟めない。
「お母さんってどんな方?」
「教育熱心でプライドの高い人です」
「本当にごめんなさいね。ねえさん、最初から立ち入り過ぎ」
さすがに真奈美が止めに入る。
「そうかしら。でも親との関係って大事だから」
「私は大丈夫です。母親は専業主婦で教育熱心でしたけれども、心から私に興味はなかったというか、弟ばかりを可愛がっていました」
「二人姉弟?」
「そうです」
「弟さんは何なさっているの?」
「ねえさん、もう家族の話は止めましょうよ」
「いいえ、もしよろしかったら聞いてください。弟は二十年近く引きこもり状態です」
「あら、それは大変ね」
「父親が働いているのでまだ何とかなっていますが、もう七十歳過ぎたのでこれからが心配です」
実智子は今まで他人には知られたくなかったことまで話していた。この人たちに心を開くことで自分を変えるきっかけにしたかった。
振り返れば表面だけを取り繕った人生だった。大学進学も就職も親に認められるため、そして世間に合格サインを貰うために選んだ結果だった。
「私なんて子供もいなければ結婚したことすらないので言う資格はないのだけれども、引きこもりってやっぱり原因は親にあるわよね」
「どうしてですか?」
真奈美は少し咎める口調で春香に言う。
「だって社会に出るより家が一番居心地よくさせてしまったのでしょう」
「本人の問題でもあるでしょう」
「勿論そうよ。だけれども早い段階で親が社会すなわち家の外での活動を後押ししないと駄目じゃない」
「でも今って発達障害や精神疾患の問題もあるから一概には言えないし・・・」
春香と真奈美の話を黙って聞くだけの実智子だった。
「だからって、発達障害の子が皆引きこもりになるわけでもなければ、精神疾患の人が外に出られないわけでもないじゃない。頑張って克服して自分にできることを見つけている人も沢山いらっしゃるわ。何だか引きこもりって親自身が認められなかった子を外に出さなかった結果のような気がしてね」
「そうだと思います」
実智子は自分でもビックリするくらいはっきりと答えていた。
「母親は自分の思い通りの子どもが欲しかったようです。男の子には特に理想があったみたいで、弟は小学生から塾通いで中学受験をして母親の希望通りになっていました。それが高校生になったあたりから家から外に出られなくなってしまい、今に至ります」
「お父様はどう思っているのかしら?」
「父は教育には一切口を挟まなくて、母親のせいだと言っています」
「何だか他人事ね」
「はい、弟は父とは顔も合わせません」
「でも二十年って長いわよね」
「もうそれが我が家では当たり前になってしまって」
両親のことを他人に聞かれたこともなければ話したことなんて初めてのことである。聞かれることも話すことも不思議と嫌ではなかった。むしろ誰かに話したかったのかもしれない。心の中にあった得体の知れない霧が晴れるような感覚すらある。
友人と言える人は何人もいる。いると今迄思ってきた。高校生時代も大学生時代もそれなりに上手く振る舞っていたし就職してからも友人関係でのトラブルはなかった。なかったことが問題だったのかもしれない。誰かと本音で話し合ったことはないし、ましてや自分のことをちゃんと語ったこともなかった。
銀行に就職して二十七歳で結婚するも二年後には別れていた。離婚する前に銀行も辞めていたので行き場がなくしぶしぶ実家に帰ったのだが、両親も弟も歓迎ムードではなかった。早くお金を貯めて独り立ちすることを考えていたが実現することはなかった。気が付くと派遣社員としての仕事しか得ることができず十年以上が過ぎた。派遣社員でも最初の頃は年収も人並みにはあったのだがそれも長くは続かず、派遣先が変わるたびに時給は下がる一方だったし働ける時間も短くなるばかりだった。
そして今回、派遣先の業績不振を理由に継続を見送られてしまった。それ迄だったらすぐに次の職場で働けたのだが、年齢のせいか世の中の不況のせいか、きっと理由はいくつもあるのだろうが、数か月経っても次の派遣先を見つけることができなかった。そんな中で得た仕事だった。藁にも縋る思いとはこういうことを言うのか。仕事の内容をあれこれ吟味する余裕もなかった。
「今は良いソフトが出ているから簡単だけど昔はエクセルで表計算してキャッシュフロー表を作っていましたね」
真奈美が昔を懐かしむ。
「私なんて自腹で四十万円もするパソコンを買ってエクセルやワードを覚えたわよ。もう何十年も前の話だけれども」
二人の会話がいつの間にか仕事の話になっていた。
「実智子さんは派遣社員になってからパソコンを覚えたの?」
「そうです。銀行では独自のシステムに入力するくらいなのでパソコンには縁がありませんでした」
「今では銀行員も仕事でメールとかするようになったけれども個人のメールアドレスはまだ全員がもっているわけではないものね。銀行出てからが大変よね」
「あの頃の銀行ではエクセルやワードは必要ありませんでした。三十歳前に派遣社員になってそれからパソコンを必死で覚えました。今の年齢で一からエクセルやワードをマスターしろと言われたら無理かもしれません」
「そうよね」
「銀行は何で辞めたの?」
春香がどんな質問をしてきても、もう驚きもしなくなっていた。
「私は結婚しても仕事を続けたかったのですが、仕事をするなら家事も全部しろと言われて、最初のうちは頑張っていました。でも、元夫からは完璧な食事や塵一つない部屋を望まれて」
「それで仕事を辞めたわけね」
「はい、でも私は専業主婦には向いていなくて、すぐに離婚をしてしまいました」
「結婚する前にちゃんと家事の分担とか仕事をしていいかとか話し合わなかったの?」
「働いていいよとは言われていたので。でもあんなに完璧な家事を求めているとまではわかりませんでした」
「そうよね。家事の分担って難しい」
「真奈美は意外と家事やるよね」
「そうなのですか?」
「まあ、ねえさんよりはね」
「私は料理を全くしないからね。真奈美の彼のダニエルは何もしないでしょう?」
「ダニエル?彼氏さんですか?」
「そう、外国人とお付き合いしているの」
「もう長いわよね」
「まあ、一緒に暮らしているわけではないので。週に一度やってくる自活できているペットのようなものです」
「料理を食べさせているのよね」
「まあ、そうですね。基本、家で料理を作って食べるのがデートですから。彼のおかげで和食ができるようになりました」
「ダニエルさんは和食好きなのですか?」
「そうなの。だから日本にいるのよね」
「真奈美さんはお幸せですね」
「そうね。仕事も充実しているし、彼とも仲良くしているし、他に望みはないかな」
「結婚はしないのですか?」
「そうね。両親が外国人との結婚に反対をしていてね。それに結婚しなくても今が幸せだからね。子供ができていたらちゃんとしていたかもしれないけれども、結婚する理由がないのよ。私たちには」
「結婚する理由ですか」
「実智子さんの場合はどうだったの?」
「私は結婚することだけを考えていました。早く家を出たかったのもあって。何となく付き合うようになって、当たり前のように結婚式を挙げていて、その時は何の疑問もなかったのですが・・・」
「でも、その人のことを好きだったのでしょう?」
「さっき真奈美さんが彼のために和食料理ができるようになったっておしゃってましたけれど、私の場合はそうはならなかった。彼のための料理も掃除も家事全般が苦痛で仕様がなかったです」
「私はダニエルと最初に会った時に私がこの人を幸せにするって思ったのよね。それが今でも続いているの」
「幸せにして欲しい、ではなく?」
「そう、私は私で幸せになるのだから私のできる範囲で彼を幸せにしてあげようって」
「そういう発想は私にはなかった・・・」
「私だってそれまでの失敗した恋愛の時は抱かなかったわね」
「外国人の方ということは真奈美さん英語が話せるのですか。すごい」
「話せないわよ。相手が片言の日本語を喋るからそれで成り立っているの。だからあまり深い話なんてしたことないわね」
「そうなのですか?相手の考えていることを知りたいとは思わない?」
「あまり思ったこともないわね。家族のこととか少しずつ分かってくることもあるけれども私も全てを話そうと思ってもいないし、彼も二人にとっての必要なことしか話さないしね」
「私は元夫との会話を重視し過ぎていました。毎日、今日何があったのかを私は話したかったし、彼からも聞きたかった。でもそれを彼は望んではいなかった。それが私には愛が無いと感じてしまって」
「会話なんて必要ないわよ。カップルにおいてはね。スキンシップよ、大事なのは」
「ねえさんがいうと何だかイヤらしい」
「なによ。愛について語っているだけじゃない」
「私は夫婦の関係において何か大切なことを見落としていたみたいです」
「そういうことって教えられることでもなければ理屈で考えることでもなくて、きっと天から降ってくるものなのかもね。私なんてそれがないまま、おばあさんになってしまったけれども」
「ねえさんは大恋愛を経験しているから」
「そうなのですか?」
「まあね。大昔ね。不倫だったけれども」
「詳しくは話してくれないのよね」
「知りたくもないでしょう?」
「ええまあ・・・」
実智子は何だか楽しくなってきていた。初めて友だちというか仲間を得た感覚だった。それまでどこか自分の人生を自分で決めて歩いてはいなかった。まずはそのことがわかっただけでも幸運だと素直に思えた。
「結婚に失敗した自分がとっても惨めに思えていたのですが、お二人を見ていたら少し勇気を貰えました」
「仕事さえあれば女も一人で生きて行けるからね」
「私は仕事も中途半端で家でも居心地が悪くて」
「だったらまず、仕事をちゃんとしないとね。まだ今の仕事の意味はわかっていないでしょうけれどもやる気があればどうとでもなるわよ」
「どうすれば」
「それは自分で考えないと」
「うちの仕事はまだまだ奥が深いわよ。今は雑用みたいに思っているかもしれないけれどもやることは色々あるからね。実智子さん次第です」
「はい」
返事をしつつもどうすればいいのか皆目見当がつかない。自分で考えて仕事をしてきたことなんてないのかもしれない。言われたことを必死でこなすことに精一杯で自分で何かを決めて実行してはこなかったことに今になってやっと気が付いた。
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