第71話:【外伝】セーレの過去1

※セーレ視点。読まなくても本編にはほぼ影響ありません。


◇◇◇


ゆう、一緒に逃げよう」

 兄が今にも泣きだしそうな表情で、手を差し出してくる。兄の容姿は、少し茶色っぽい黒髪に黒い瞳。私もこれくらいの色だったら目立たずにすんだのに。と羨ましく思う。

「この家からですか?」

「うん」

「当てがあるのですか?」

「どこか……保護してもらえるところに……」

「裏から手を回されたら終わりだと思います。そして、そこから連れ戻されたら、今より状況が悪くなるのではないでしょうか」

 この家は、金もあるしそれなりに顔も利く。私は小学生で兄は中学生だ。子ども二人でどうにかできるとは思えない。

「……ああ……。そうだね。やっぱり悠は……賢いね」

 賢くはない。ただ、全てを諦めていて、消極的なだけだ。

 兄は差し出していた手を下ろすと、俯いて私の前から去って行った。


 兄とは別段親しくはなかった。食事以外ではあまり顔を合わさず、家の中で会話することなどほぼなかったので、性格もよく知らない。

 ただ、近頃は成績のことで度々怒られていた様子なので、その辺りが原因での行動だったのだろうか。


 あの出来事の数日後に、兄は家から遠く離れた岬から身を投げた。

しかし、運よくというべきか悪いというべきか一命はとりとめて、表向きは事故扱いで病院に搬送された。兄の意識はしばらく戻らずに、母は半狂乱となった。


 あの時、兄の手を取っていれば、何か変わったのだろうか。

 なぜ、兄は私を連れて行こうとしたのだろう。私を哀れに思ったのか、いや……、私を頼ったのかもしれない。救いの手を差し伸べているようで、手を取ってほしかったのは……。

 あの時の兄の表情が脳裏に浮かび、その次に、病室で意識のないまま横たわっていた姿が浮かぶ。

 手を取らずとも、もっと何か言えたはずだ。兄が自殺しようと思い至った過程には、きっと私の言動も影響しているはずだ。

 そこまで考えたところで、なんだか息苦しくなってきて、まともに呼吸ができなくなってくる。

 感情なんて邪魔になるだけなのに、なぜ考えてしまったのだろう。

 扉の外から、使用人のしげるが呼ぶ声が聞こえてくるが、返事ができない。

 しばらくすると、遠慮がちに扉が開かれる。

「失礼しま……お嬢様!?」

 茂が慌てて傍らに来て覗き込んでくる。

「どうされました? 医者を……」

「やめ……て」

 そんなことをしたら、祖父に何を言われるかわからない。

 茂は困惑した後に、ゆっくりと私の背中を撫でる。

「おそらく過呼吸です。落ち着いて、ゆっくり息を……」

 背中に温かさを感じながら、茂の声を聞いていれば徐々に静まってきて、呼吸が楽になってくる。


「も……、大丈夫です」

 少し頭がくらくらしているが、だいぶ具合はよくなった。

「旦那様か奥様をお呼びしますか?」

 茂の言葉に首を横に振る。

「必要ありません」

「……わかりました」

 茂が私の背中から手を離して距離を取る。背中から温もりが離れていったことを少し寂しく思った。

「世話をかけました。ところで、何か用でしたか?」

「お茶を……」

「そうですか。いただきましょう」

「かしこまりました。ああ、しかし少し冷めてしまったかと。淹れ直して……」

「いえ、そのままで結構です」

 椅子に座って紅茶に口をつける。口を付けた紅茶は、たいして冷めてはいなかった。

 いつもならすぐに退室していくはずの茂が、心配そうに私のことを眺めている。

「もう問題ありません。一人にしていただけますか」

「……はい。では、何かございましたらお声掛けください。それでは失礼いたします」

「ええ。……ありがとう」

 本当はもう少し傍にいてほしい気持ちもあったが、それを言うことはできなかった。



 兄が飛び降りてからしばらく経って、そろそろ小学5年になろうかという頃。

 リビングの前を通りかかると、両親が何事か話しているのが聞こえてくる。今日は喧嘩をしていないようだが、どことなく重苦しい空気が伝わってくる。

 そして、しばらくすると母が私の部屋を訪れる。

「ああ、セニヤ。ごめんね」

 母は部屋に来るなり、涙を流しながら私を抱きしめ、そう言った。母は兄を連れて国に帰るのだという。私を連れていけないことを何度も謝る。

「私は大丈夫です。お母様」

 ほんの少しだけ微笑んで母の顔を見る。自分と同じ、白に近い金の髪に青い瞳の母。

 母のことはそれほど嫌いではなかった。たまに歌を歌って聞かせてくれるのが好きだった。でも、母がいなくなることで、両親の喧嘩を聞かなくてすむようになるのであれば、そちらの方が私にとっては有難かった。まぁ、本音を言えば一緒に連れて行ってほしかったけれど、それはできなかったのだろう。


 翌日、母は兄を連れて家を出て行った。

「悠、お前は優秀な子だ。これからはお父さんと頑張っていこう」

「はい、お父様」

 愛想笑いを浮かべて答えれば、父は満足したのか部屋から出て行く。その日以降、父の口から兄の名前が出ることはなかった。

 父は、思い通りにならないことがあると不機嫌になるから苦手だ。


 祖父が、家を去った母に対して挨拶もできないのかなどと罵っている。祖父の隣にいた祖母は無関心を決め込んでいる人で口を開かない。祖母は相手にする必要がないから、ある意味楽な人だ。

 祖父はこの家で一番苦手、いや嫌いな人だ。両親の結婚に反対していたらしく、その子どもの私や兄のことも当然気に入らないようで、ことあるごとに難癖をつけられる。父とも喧嘩が多く、声を聞くだけで気が滅入る。

「悠」

 夜、たまたま廊下ですれ違った祖父の声に顔を上げる。祖父は不機嫌そうな表情で私を見ている。

「こんばんは、お爺様」

「なんだその顔は。今、睨んでいただろう」

「いえ、そのようなことは……」

 笑顔を浮かべれば、髪を引っ張られて、その拍子に何本か髪が抜ける。どんな表情をしても怒られる。理不尽なことこの上ない。

「気に入らん顔だ。全く、ろくでもない母親の子はろくでもないな」

 母はともかく、私が何をしたというのだろう。

「せめて、お前はあの兄のように家名に泥を塗るようなことはするなよ」

 そう言うと、祖父は私を蹴り飛ばして去っていった。

 当然痛かったが、この程度ですんだことにほっとした。

 床から立ち上がって、乱れた服を直して自室へと帰る。その途中に父の部屋の前を通ると、父と使用人の茂が話をしているのが聞こえてくる。

「旦那様、差し出がましいようですが、これ以上習い事を増やされては悠様のお身体が……」

「君に意見など求めていない」

「……失礼いたしました」

 音を立てずに自室に戻って、ため息をつく。蹴られた箇所が痛んでベッドに寝転がっていると、遠慮がちにノックが聞こえる。

「お嬢様。もう、おやすみになられましたか?」

 先ほど父と話していた茂の声だ。

「いいえ、どうぞ」

 起き上がって、ベッドに腰掛ける。

「失礼いたします。来週から習い事を増やしたいと旦那様が……」

「はい。部屋の前を通りかかった時に聞こえました」

「そうでございますか。それで……」

「茂さん」

「はい」

「私のことで、父に意見をするのはやめてください」

「し、しかし……」

「あなたの立場が悪くなって、いなくなられては困ります」

 そう言うと、茂は困った表情を浮かべる。

 もし茂がいなくなって新しい人がきて、それが合わない人だったらと思うと面倒だ。

 この人はこの家で唯一、私を普通の子どもとして見てくれている。それが失われてしまったらと思うと悲しいのだろう。そんなことですら、どこか客観的に思いながら今後の予定を聞いて、それから就寝の挨拶をする。



 家にいるのも憂鬱だが、学校も憂鬱だ。

 外国人なのになぜ日本人の名前なのだとか、日本語上手だとか。子どもというものは言葉に遠慮がない。クラス替え直後のこの時期は特に煩い。

 休憩時間になると、アニメやゲームの話が聞こえてくる。自分には全く関わりのない話だ。聞いたところでわからないし、話を振られても困る。

 教科書にはもう用がないし、ひと眠りしようかと思っていると、同じクラスの女の子が話しかけてくる。

「こんにちは!」

「……こんにちは」

 活発そうな女の子は、空いていた私の前の席に座って笑いかけてくる。

黄野瀬きのせ七海ななみです。よろしく!」

黒銀くろがね悠です」

「髪の色、綺麗だね」

「……黒髪の方がいいと思いますけど」

「そうかなぁ? きらきらしてて、すごく綺麗だよ」

 そんなことはない。窓から差し込んだ陽の光が当たった七海の黒髪の方が、よほど綺麗だと思う。陽に照らされた端の髪が茶色く透き通って輝いている。

「悠って呼んでいい?」

「好きにしてください」

「じゃー、悠。わたしのことも七海でいいよ。悠は好きなアニメとかゲームある?」

「いいえ、どちらもわかりません」

「そうなんだ。家では何してるの?」


 ああ、煩い。


「すみません、図書室に本返しにいかないといけないので、失礼します」

 本など借りていないが、そういうことにした。

「そっかー。またね」


 その翌日も、その翌日も休憩時間になると七海に話しかけられる。

 その度に何か理由をつけて教室から消える。話す話題などもない。接し方がわからない。早く諦めてほしい。そう思って次の日は話しかけられる前に、逃げるように図書室へと滑り込む。

 読みたい本など特になかったので、部屋の奥にあった図鑑を適当に取る。

「あっ! いたー!」

 七海の声に驚いて、手に持っていた図鑑を足の上に落とす。

 痛かったが、なんでもないふりをして図鑑を拾って本棚に戻そうとする。

「今、足の上落としたよね? 大丈夫? 痛くない?」

 こんなに重量があるのだ。痛いに決まっているだろう。

「別に……」

「そう? じゃー、よかった。悠は昆虫好きなの?」

「好きではありません」

「でもそれ、昆虫の本だよね?」

 図鑑の表紙を見るとトンボや蝶々などが描かれている。

 丁寧に対応するのが面倒になってきて、七海を睨みつける。

「……なんで、私に話しかけるの?」

「うん。仲良くなりたいから」

「私は、仲良くなりたくないから放っておいて」

「なんで?」

「なんでって……」

 言葉の通じない七海に頭が痛くなってくる。

「わたしは悠と仲良くなりたいよ。悠はすごく可愛いし……。あとね、わたしたちちょっと似てるかなぁって思って」

「一ミリも似てないと思うけど」

 容姿も、性格もまるで似ていない。七海は、すぐに皆と打ち解けて仲良くなれるタイプだ。

「悠の家、お金持ちでしょ? よく、クラスの子とかおばさんたちが話してる」

「それが?」

「うちは、おじーちゃんが政治家だったから、わたしもなんかよく陰で言われるんだよねー。だから似てるかなって。ああでも、お金持ちじゃないの。おじーちゃんがギャンブルで使っちゃって」

「……そう」

 それには多少同情する。

「おじーちゃん、めちゃくちゃうるさくって嫌い」

「ふぅん……」

 まぁ、嫌いというところには共感できるので、確かに多少は似ているかもしれない。

「うん、でもこの前、おじーちゃん死んじゃって」

「それは、ご愁傷様」

 羨ましい限りだ。

「……しゅうしょう? 優勝? うん。そうなの。うるさいのいなくなって、すごく嬉しい。優勝!」

 満面の笑みで七海が言うので、私はしばし言葉を失った。

「……あの、さ」

「なぁに?」

「それ、絶対他の人に言っちゃダメ」

「なんで?」

 なんで、って。そりゃ不謹慎だとか世間からどう思われるとか、色々あるだろう。誰が聞いているかもわからないのだ。

「なんでも」

「うーん。おばーちゃんに言っちゃったなぁ」

「え……」

「でも、おばーちゃん、めっちゃ笑ってて、お菓子くれたよ?」

 だめだ、わからない。

 わからないけど。

 なぜだか、少し気分がよくなった。


「ねーねー。一緒に帰ろう?」

 下校時間になると七海に話しかけられる。

「迎えがあるから……」

「じゃー、校門まで」

「……うん」

 靴に履き替えて校庭に出ると、七海が私の手を取って歩き出す。同じ年頃の子と手を繋いだことなどなくてドキドキする。少し痛いくらいに握ってくる七海の手は、柔らかくて温かい。

 校門に着くと茂が待っていた。私と七海の姿を見ると少し驚いたような顔をしている。

「そちらの方は?」

「友だちの七海です!」

 七海が元気に挨拶をする。

「いえ、友だちでは……」

「友だちだよ!」

 七海の言葉になぜか顔が熱くなってくる。

「それじゃー。また明日ね、悠!」

 七海が手を振って去っていき、茂はそれ以上何も言わずに微笑んで車のドアを開ける。


 少しだけ学校に行くのが楽しみになった。

 でも、七海はまた話しかけてくれるのだろうか?

 そう思いながら翌朝教室に向かっていると、後ろから七海に抱き着かれる。

「おはよー! 悠」

「……お、おはよう。七海」

 教室に入ると、七海が私の席に来て白いノートを開く。

「お絵かきしよ」

「……うん。何描けばいいかな……?」

「じゃー、動物」

「うん……」

 家にいる犬を思い浮かべながらノートにペンを走らせていく。

「これはなんでしょう」

 七海が描いた絵を指して言う。足が四本あるということしかわからない。身近な生き物であれば犬か猫が定番だろう。

「猫……?」

「残念、タヌキ~」

 そう言われてもタヌキには見えない。難易度が高い。

「悠のは犬?」

「うん」

「好きなの?」

「……嫌いではないかな」

 犬と関わることがないので、正直よくわからない。

「ふーん。悠は好きなことある? 趣味とか」

「ないよ」

「そうなんだー。じゃー。今度好きな漫画持ってくるから読んでみて」

「……うん」

 学校に持ってきてはダメなのでは。と思いつつも、興味がわいたので頷く。


 翌日、七海から借りた漫画を開く。

 今アニメをやっている有名な少年漫画だと言っていた。

 ページをめくってみるが、読む順番がわからない箇所がある。縦書きだからきっと右上からなのだろうが、コマ割りによってはどこを先に読めばいいのかがわからない。

 首を傾げつつも読んでいると部屋の扉がノックされ、慌てて漫画を隠す。

「はい」

「お飲み物をお持ちしました」

 茂が入ってきて、机に紅茶を置いて去ろうとする。

「あ、茂さん」

「どうかされましたか?」

「えっと……」

「わたくしで力になれるお話でしたら、何なりとお申し付けくださいませ」

「では……。漫画の読み方はわかりますか?」

「漫画の……?」

 茂が首を傾げる。

「……参考書に漫画が描いてあって、文章がいっぱいあったらどちらから読めばいいのか……とか」

「その参考書はどちらに?」

「ええと……。今、手元にはなくて」

 嘘をついていることが少し後ろめたくて、茂から目を逸らす。

「では、少々お待ちくださいませ」

「え……。あ、やっぱり大丈夫……」

 私の言葉は扉の閉まる音にかき消されて、しばらくして茂が本を片手に戻ってくる。

「わたくしの私物でして、参考書ではございませんが」

 茂の手にあったのは漫画だ。

「茂さんは漫画を読むのですね」

「はい。漫画やゲームは好きでございますよ」

 真面目そうな雰囲気で、そんな話は一切しない人だったから意外だ。まぁ、そもそも私がそんな話をしないのだから、知らないのは当たり前の話ではある。

「お嬢様も、興味がございますか?」

「……少し」

「ふふっ。では今度、旦那様に内緒でお持ちいたしましょう」

 茂が人差し指を口の前に持ってきて、ウィンクをする。初めて見るその表情に、しばし視線が釘付けになった。


 少し生きるのが楽しくなった。

 七海とは最初のうちは何を話していいかわからずに頷いているばかりで、そのことで喧嘩をしたりもしたけれど、翌日には七海の機嫌は直っていたし、話しているうちに多少は話せるようにはなったと思う。たぶん。

 漫画は借りたものの、それほど楽しめなかった。私は感情移入というものがあまりできないからかもしれない。それより、茂が貸してくれたゲームの方が面白くて、机の引き出しに隠しておいて少ない自由時間で毎日少しずつ遊んだ。

 ある時、茂が二人でプレイしたいからとゲームの本体をもう一台購入して来てしまった時は、申し訳なく思ったけれど嬉しかった。一緒に敵を倒すのは楽しかった。

 茂もいつもより楽しそうな笑顔を浮かべていて、それも心地がよかった。

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