白狼の娘 第五話 母娘

 ヨーコが辺境に着いたその日にオーク討伐を命じられたのが、このサイジ村であった。

 彼女はあっさりとその依頼をこなし、必要な手続きを済ませたあとは、すぐに親郷に戻っている。土地も村人もまったく見ず知らずであったから、それは別に不思議なことではない。


 だから近くを通りかかったからといって、わざわざ顔を出す義理はなかった。

 それでも彼女が「寄っていこう」と言い出したのは、やはり夢に見た誘拐事件が棘となって心に刺さっていたからだ。

 簡単に言うと、彼女がオークから救った少女のことが気になったのである。


      *       *


 街道から外れるとすぐに村の入口が見える。

 門番は当番制なのだろう、二人の男は初めて見る顔だった。

 彼らは傍らにホーク(武器代わりの農具)を立てかけ、胡坐あぐらをかいて何かの藁製品を編んでいた。二人は傭兵でも何でもない、ただの農民である。辺境の開拓村にそうそう不審者など現れないから、門番が暇な時間を内職で有効活用するのは当然のことだった。


 器用に藁沓の底らしきものを編み上げていた門番は、その手もとに突然影が差したものだからふと顔を上げた。

 彼の視界は白いオオカミの巨大な顔で占められていた。恐ろしい獣は「ふんふん」と匂いを嗅ぎながら覗き込んでいる。


「おわわわぁーーーーっ!」

 門番は編みかけの藁沓を放り出して後ずさった。相方の門番の方も驚きに固まっていたが、すぐにその白狼が三か月前に村を救ってくれた幻獣であることに気がついた。

 牛よりも大きなオオカミなど、そう何匹もいてたまるものではない。


「こっ、これはこれは。召喚士さまじゃねえですか! お久しぶりでごぜいます」

 彼はぎこちなく敬礼をして、無難な挨拶をすることができた。

 腰を抜かしていた最初の門番も、どうにか正気を取り戻して立ち上がった。


 確かに巨大なオオカミの背には、柔らかな笑顔を浮かべた若い娘が跨っている。

「ごきげんよう。ちょっと近くを通りかかったものですから、懐かしくてお寄りしました。

 誘拐された女の子の――エーファちゃんでしたっけ? お見舞いをしたいのですが、通ってもいいかしら?」


 ヨーコがとろけるような声で語りかけると、門番たちは顔を真っ赤にして二、三度うなずいた。

「アシュリンの家は、あそこですだ。もうじき昼飯時ですから、二人ともおるはずです」

 彼が指をさした方向に、小さな家――というより小屋に近い藁葺きの建物があった。


「ありがとう。ちょっとお邪魔しますわね」

 ヨーコは門番に愛想のよい笑顔を振りまき、小さく頭を下げて村に入っていった。


 門番に言われた家の戸を叩くと、少しして扉が開いた。

 出てきた女性は見覚えのある顔――少女の母親であるアシュリンだ。

 まだ三十歳くらいのはずだが、ひっつめにした黒髪には白髪が混じっている。痩せて神経質そうな顔には怪訝な表情が浮かぶ。

 だが、相手の後方に巨大な白狼の姿を認めたアシュリンは、すぐにこの若い娘が召喚士であることを思い出した。


「あらまぁ! 召喚士さまではありませんか。その節は大変お世話になりました。

 あの時は私も気が動転していて――お礼もせずに失礼しました。

 さっ、狭い家ですがどうぞお入りください」


 アシュリンに迎え入れられると、家の中にはぷんと料理の匂いが立ち込めている。

 居間には小さなテーブルと椅子があり、そこには母親と同じ黒い髪を長く伸ばした少女がきょとんした顔で座っている。

 ヨーコはエーファに近寄ると、履いていないスカートを摘まむ真似をし、優雅に膝を折って貴族風の挨拶をした。


「ごきげんよう。ヨーコ・マクレーンよ。

 私は初めてではないけれど、あなたは気を失っていたから覚えていなわよね?

 元気そうで嬉しいわ」

 少女は戸惑った表情で小さな声を出した。

「あの、召喚士さま……なの?」


 ヨーコはにっこりと笑ってうなずいた。

 エーファはどうしていいか分からず、助けを求めるように母親の顔を見た。

「マクレーン様はあのオークを倒して、食べられる寸前だったあんたを助けてくれた、命の恩人なのよ。

 ほら、座ってないで、ちゃんと立ってお礼を言いなさい」


 アシュリンにたしなめられたエーファは慌てて立ち上がり、ぴょこんと頭を下げた。

「あっ、あのっ! 母ちゃん――母から聞いています。

 マクレーン様、あたしを助けてくれてありがとうございますっ!」


 ヨーコはころころと笑い、空いている椅子を引いて腰をおろした。

「座ってちょうだい。それから、私のことはヨーコでいいわ。

 変わった名前でしょう? 私の家系には東洋人の血が入っていてね、女の子はみんな東洋風の名前がつけられるんですって」


 彼女の柔らかな声と優し気な笑顔はエーファを落ち着かせ、安心させた。少女は自分の椅子に戻り、食い入るように若い召喚士を見つめている。

 ヨーコの服装は質素で動きやすい狩人に近いものだったが、彼女は少女にとっては〝都会の女性〟だったのだ。

 子どもから女になりかけている十二歳のエーファには、ヨーコの美しい容貌、上品な言葉遣いや仕草が眩しく見えて仕方がなかった。


 ヨーコも改めてエーファを観察していた。

 少し痩せ気味で、切れ長の目と小さな唇は母親譲りなのだろう。何も見逃すまいとしている黒い瞳には活力がみなぎっていて、いかにも賢そうな印象を与えている。


「粗末なもので恥ずかしいのですが、よろしければマクレーン様も召し上がってください」

 アシュリンがそう言ってヨーコの前にスープの皿と黒パンの入ったバスケットを置く。

「奥様も、ヨーコとお呼びください。正直〝マクレーン様〟は慣れなくて気恥ずかしいのです。

 お食事、遠慮なくちょうだいしますね。さっきからお腹が鳴ったらどうしようって、気が気じゃなかったの」


 ヨーコは「うふふ」と小さく笑って、エーファとアシュリンの席にも皿が置かれるのを待った。

 料理が揃い、アシュリンも席に着いたところで、ヨーコは「いただきます」と言ってスープを口にした。

「……あら、美味しいわ」

 思わず洩れた感想には、ちょっとした驚きが混じっている。


 ありあわせの野菜と豆が少しだけ入ったスープは、塩だけで味付けされたもののように見えたが、思いのほか味わいがあった。

 肉はひとかけらも入っていないが、よく見ればスープの表面には脂の玉が浮いている。貧しいながら何か工夫しているのだろう。

 黒パンは固くぼそぼそとしていたが、自家製らしい山羊のバターは濃厚で塩気が強く、それを補ってくれる。


 食卓に上ったのはそれだけの、本当に質素なものだったが、食後のお茶(あまり上等な茶葉ではなかった)を啜りながらヨーコは満足の溜め息をついた。

 彼女に出された食器も茶器も粗末なものだったが縁など欠けておらず、この家では客用のものなのだろう。


 お茶を楽しみながら、三人の女性は〝あの日以外〟のことをさまざま報告し合った。アシュリンもヨーコも、暗黙の了解で少女の父親につながる話題を慎重に避けていたのだ。


 エーファはヨーコが辺境に来る以前、王都や白城市にいたことを知るとひどく興奮した。

 辺境の住民にとって〝都会〟とは、もっとも近い四古都の一つ、蒼城市のことであった。国内最大の都市である白城市や王城があるリンデルシアは、お伽話に出てくる夢の都のような感覚だったのだ。


「えっ! じゃあヨーコさんは貴族さまに会ったことがあるの?」

 目をきらきらさせて勢い込むエーファに、ヨーコは苦笑するしかなかった。

「ええ、何人かは会ったことがあるわよ。でも、それはお仕事のためね。

 私の雇い主はお金持ちが多かったけど、貴族でお金持ちって案外少ないのよ。今は商人の方がよほど良い暮らしをしているわね」


「でも会ったことはあるのね! 素敵だわ!

 それじゃ、ひょっとして舞踏会にも出たことがある?」

 ヨーコはけらけらと笑った。

「あるわよ~! たった一度だけだけど。もちろん、それもお仕事よ」

「あるの? 凄い、すごいわ! ねっ、どんなドレスを着たのか教えてっ!」


「私はただの二級召喚士だから、ドレスなんか持っているわけないでしょ。

 それで依頼主の商人が娘さんのドレスを貸してくれたのよ。

 暗紫色のロングドレスで、小さな水晶の粒が全体に縫い付けられていたから、とっても動きづらかったわ。

 それにね、ドレスを着るにはコルセットで胴が千切れそうになるくらい締め上げなくちゃならないのよ。

 商人の家のメイドさんが手伝ってくれたけど、凄いのよ。紐を力任せに引っ張りながら、足で背中を踏んづけられるの!

 もう死ぬかと思ったわ。舞踏会では美味しそうなお料理がいっぱい出てたけど、苦しくて一口だって食べられないの。あれはもう拷問ね」


 ヨーコはそう言いながら、肩掛け鞄から鉛筆と何かの書きつけを取り出し、裏返してさらさらとドレスの絵を描いていった。

 自分で絵が得意と言うだけあって、かなり上手な女性のドレス姿が描きあがっていく。

 エーファは身を乗り出して食い入るように見つめ、アシュリンもさすがに興味があるのか、感嘆しながら覗き込んでいた。


 ヨーコがその絵をエーファに「あげるわ」と言って渡すと、少女は「ぎゃーっ」と奇声をあげて絵を抱きしめた。

「それ、別に大げさに描いているわけじゃないのよ。本当に胴がそのくらい細くなるの。

 それに胸の開き方も! 上から覗かれたら全部見えるんじゃないかと思って、もの凄く恥ずかしかったわ。

 着付けしてくれたメイドさんに聞いたら、『それが普通でございます。先っぽさえ見えなければよいではございませんか。お嬢様はお胸が豊かですから、殿方を一発で悩殺できますわ』――ですって」


 ヨーコとアシュリンはきわどい話題に声をあげて笑い合っていたが、エーファは真剣にデザイン画を眺めてうっとりとしていた。

 ようやく笑いが収まると、ヨーコはちらりと窓の方を見た。

 窓といっても当然ガラス窓ではない。木の板を跳ね上げる蔀戸しとみどと呼ばれるものだが、半分開けられた隙間から鈴なりとなった人々の顔が家の中を覗いていたのだ。


 ヨーコは苦笑いを浮かべて立ち上がった。

「あらあら、これでは落ち着いてお話しできませんね。

 ちょっと村の方にご挨拶してきますわ」


 彼女は母娘に「失礼」と断って外に出て、集まっていた村人たちに一人ひとり丁寧に挨拶をした。

 その中には肝煎のケネルもいた。

「まあ、ケネルさん。お久しぶりです」

「また会えて嬉しいですよ、ヨーコさん。急にどうしたのですか?

 まさか、またオークが……」


 ヨーコはかぶりを振った。

「ご心配なく。オークが出たのは北のハイネ村ですし、もう駆除は済ませました。

 今はその帰りですけど、懐かしくてつい立ち寄っただけですの」

 肝煎は明らかにほっとしたようだった。

「そうですか、ちっとも知りませんでした。ハイネは隣村と言っても親郷が違いますからね。

 あなたは村の恩人なのですから、うちの村ではいつでも大歓迎ですよ」


 彼女は愛想よくうなずきながら、「それなら……」と野次馬を解散させるよう肝煎に頼み込んだ。

「もちろんです。済みませんでした。

 ヨーコさんはあちこちの村で畑を荒らす獣を退治しているという話ですが、ずっとクリル(親郷)にいてくださるのですか?」

「そうですね、一応契約は十月いっぱいまでですが……その先のことは分かりません。

 もし、それまでの間にクマやイノシシとかが出たら呼んでくださいね」


      *       *


 肝煎は約束を果たして村人を追い返してくれた。彼らはヨーコがにこやかに挨拶し握手をしてくれたので、あまり不平を言わなかった。

「やっぱり都会の娘っこの手はふわふわに柔らかいべ。かかあとはえれえ違いだ」

 鼻の下を伸ばした亭主の耳を憤慨した女房たちが引っ張っていく。彼らにはそれぞれの野良仕事が待っているのだ。


 ヨーコが家の中に戻ると、もうテーブルの上はきれいに片付けられ、台所からは洗い物をする音が聞こえていた。それはエーファの役割らしい。

 母親のアシュリンは出かける支度をしているところだった。頭にスカーフを巻き、顔も布で覆面のように覆っている。日除けと虫除けのためで、野外で農作業をする辺境の女性は、夏であってもこれが普通の格好であった。


「あっ、ヨーコさん。あたしは畑に出なければなりません。申し訳ないですがエーファの相手をしてやってくれませんか?

 夕食には鶏を絞めますから、もっとまともなお食事をさしあげます。どうか今夜はお泊りください」

 彼女の目には哀願するような光が宿っていた。恐らく娘が眠った後でヨーコと話したいことがあるのだろう。


「それではお言葉に甘えて泊まらせてもらいますわ。

 ただ、鶏を絞めるのはおやめください。宿代がわりと言っては失礼ですが、うちのオオカミに何か肉を獲ってこさせますから」

「でも、娘の恩人にそんなことをさせるわけには……」


 両手を神経質そうに組んだり離したりしているアシュリンはとても心細そうで、今にも倒れそうに見える。ヨーコは突然に彼女の腕を掴むと引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。

 ヨーコの方がアシュリンよりも背が高く、何より力が強い。

 彼女はアシュリンの耳元に唇を近づけ、優しくささやいた。


「辺境で鶏を絞めるなんて年に一度、収穫祭の時くらいのものなんでしょう?

 ご主人を亡くされて大変なことは分かっています。……お願いだから無理をなさらないで。

 どうせロキは自分の食事を獲りにいかなくちゃなりません。私たちはそのお裾分けに預かるだけですから、気にしなくていいのよ」


 ヨーコの柔らかな頬に押しつけられたアシュリンの頭が、小さくうなずくのが伝わってきた。

 若い娘に抱きしめられた年上の主婦の身体が、かたかたと震えているのが憐れだった。


      *       *


 アシュリンが野良仕事に出かけたあと、ヨーコは外でおとなしく待っていたロキに夕食用の肉の調達を頼んだ。

『何が獲れるかは運しだいだが、一応希望は聞いておくぞ』

「そうねぇ……今夜の分だけならウサギでも十分なんだけど、泊めてもらうお礼だから塩漬けにして保存できる大物がいいわ。

 イノシシか仔ジカだったら申し分ないわね」

『よかろう。二時間もあれば何か獲れるだろうから待っていろ……ん?』


 突然ロキがぴんと耳を立てた。

 ヨーコが彼の視線の方を振り返ると、半開きになった扉からエーファの顔が覗いている。

「あら、洗い物は終わったのね。こっちへ来る?」

 彼女が声をかけると、少女は恐るおそる近づいてきた。そしてヨーコのお尻にしがみついて隠れ、オオカミの方を見ている。


「近づいても大丈夫?」

「ええ、ロキはとてもおとなしいオオカミよ。心配いらないわ」

「ロキって言うんだ……。触ったら怒るかしら?」

「そんなことはないわよ」

「噛まない?」

「ええ、もちろん」

「本当に?」


 ヨーコは答える代わりに振り向いてエーファを捕まえ、細い身体をごぼう抜きに持ち上げると、「とん」とロキの前に立たせた。

 ロキはしっぽをゆったりと振り、頭を低くして「ふんふん」と少女の匂いを嗅いでいる。

「ホントにおとなしいのね。それに毛並みがとってもきれいね。何だかきらきら光っているわ」

 エーファが感想を洩らすと、ロキは尻尾をぶんぶんと振りまわした。


「あの、ヨーコさん。ひょっとして……ロキはあたしの言葉が分かるの?」

 ヨーコはうなずいた。

「ええ。私が近くにいれば、頭の中を通して周りの人たちの声も聞こえるのよ」


 エーファは腰が引けながらもそろそろとオオカミに近づき、手を差し出した。

 ロキは手の匂いを嗅いでからぺろりと舐め、その下にぐいと頭を差し入れた。

『小娘、撫でることを許してやる』

 彼は偉そうにそう言ったが、どうやら意図は伝わったようだ。

 エーファは彼女では抱えきれないほど巨大な頭を撫で、耳の後ろや喉元を掻いてみた。オオカミは気持ちよさそうに目を閉じる。


「ちょっと乗ってみる?」

 ヨーコが思いついたように言うと、ロキはその場に〝伏せ〟をした。

 突然のことに固まっているエーファをその背に乗せると、オオカミがゆっくり立ち上がる。


「どう? 結構高いでしょう」

「怖いわ、あたしどうしたらいいの?」

 するとヨーコは軽々とロキの背に飛び乗り、エーファを後ろから抱えるようにして彼女を安心させた。

 オオカミはゆっくりと歩き出し、村の門の方へ向かった。


 エーファの家から正門までは二十メートルほどで、少女の乗狼体験もそこまでだった。

 目を丸くしている門番の前でヨーコは背から滑り降り、両手でエーファを抱えて降ろしてやる。

 次の瞬間、ロキは風を残して走り去ってしまった。

 ヨーコは門番に、オオカミが森に狩りに行ったことを伝え、獲物を捕らえて戻ってきたら中に入れてくれるように頼んだ。


      *       *


 ロキは午後三時ころには戻ってきた。口には一頭のイノシシを咥えている。

 まだ若いイノシシらしく体長は一メートルほどあったが、巨大なロキの姿と比べるとまるで仔犬を咥えているようだった。

 ヨーコはさっそくナイフを抜いて、敷き藁の上に寝かせたイノシシの解体にかかろうとしたが、意外なことにエーファが「自分がやる」と言い出した。

 これまでにヒツジやヤギ、ウサギなどは捌いたことがあるが、イノシシは初めてなのでやってみたいと言うのだ。


 エーファは十二歳であり、あと三、四年もすれば嫁に行っても不思議ではなくなる。まともな開拓民の主婦ならば、動物の解体などできて当たり前なのである。

 少女は最初のうちこそヨーコの助言を受けたが、あとは楽々とイノシシの皮を剥いでいく。


 通常であれば内臓は捨てるのであるが、それはロキがきれいさっぱり平らげた。オオカミの食事風景は迫力があり、気の弱い女性なら卒倒しかねないものだったが、エーファは平然としていた。

 内臓以外の肉は、ロキと人間とで山分けにし、毛皮、頭蓋骨や腰骨など食べられない大きな骨(ロキは足やあばらの骨ならばりばりと噛み砕いて食べてしまう)は汚れた敷き藁ごと荷車に載せて、村の外で適当に穴を掘って埋める。


 エーファは今夜食べる分を切り分け、残った肉の塊りを塩漬けにした。その作業が終わると、少女は上機嫌でシチューの支度にとりかかった。

 大きなサイコロ状に切った肉を大鍋にたっぷりと放り込み、脂身から取ったラードで香ばしく炒める。水を加えて野菜を入れ、じっくりと煮始めるとたちまち狭い家の中が美味しそうな匂いでいっぱいになる。さらにまな板の上には、ステーキ用の厚切り肉まで用意されているのである。

 冷蔵技術のない時代である。辺境の民が新鮮な肉にありつけるのは稀なことで、これは夢に見るような贅沢だった。


 夏は日が落ちるのが遅い。アリュリンが戻ってきたのはもう夜の七時近かったが、その頃にはすっかり豪勢な食事ができあがっていた。

 その夜のアリュリン家の食卓は、恐らく辺境一贅沢なものだったろう。


      *       *


 その夜、腹をはちきれんばかりに膨らませたエーファが早々と眠りに落ちると、アシュリンとヨーコは夜遅くまで話し込んだ。


 案の定、エーファの心の傷は癒えておらず、いまだに父親のことに触れられるとヒステリーの発作を起こして泣き叫ぶらしかった。

 村の大人たちは事情を知っているので、エーファの前では気を遣ってくれるが、どうしても子ども同士だとからかう者が出てくる。

 それは必ずしも悪ガキの男の子とは限らず、女の子同士でも陰湿ないじめが起きているらしい。


 アシュリンはこの先、冬になってエーファを学校に行かせるかどうかで悩んでいた。

 王国でも子どもは十二歳までの義務教育制度があった。ただし、田舎においては子どもも重要な労働力なので農繁期は通学が免除されていた。

 したがって都市部を除く多くの子どもたちは、十一月から三月までの五か月間しか学校に通わない。

 エーファは十二歳であるから、次のひと冬は学校に行かなければならない。

 

 学校といっても、校舎があるのは親郷だけで、周辺の枝郷三か村の子どもたちが通う。南北の各二か村には教師が一人派遣されて、役屋で冬の間だけの分校が設置される。

 サイジ村は最北の枝郷であり、隣のソドル村に開かれる分校に通うことになる。

 他村の子どもたちと一緒になると、サイジ村の子どもたちは団結するのでエーファに対するいじめはなくなると予想された。その代わり、ソドル村の子どもたちから格好のからかい対象にされるのが目に見えていたのだ。


 貧しい村では、十歳くらいで学校に行くのを止めさせる家がざらにあった。エーファは頭のよい子で、一通りの読み書きや計算はできていた。残りのひと冬くらい学校に行かなくても、この時代の子どもとしては十分な教養を身につけていた。

 だがアシュリンにしてみれば、勉強が好きで成績もよかった娘を学校にやらないのは躊躇ためらわれた。そして父親が死んで貧乏になったから学校を止めさせた――そう言われることが我慢ならなかったのだ。


 ヨーコは母親の悩みを親身になって聞き、彼女を励ました。結局のところ決断するのはアシュリンであり、他人が意見するようなことではない。ただ聞いてあげることしかできないのだ。

 そして夜が更け、喋り疲れて口をつぐんだアシュリンに、ヨーコは懐から小さな革袋を取り出して手渡した。その手触りですぐに中身が知れる。

「お金……ですか?」


 ヨーコはうなずいた。

「これはあなたのご主人を殺したオークに出た報奨金です。

 あなたは『受け取るわけにはいかない』と言いたいでしょうが、これはあなたに差し上げるのではありません。どうかエーファのためだけに使ってあげてください。

 そしてもう一つ。これを私のほどこしだと思わないでください。

 このお金は亡くなられたご主人が、愛する娘のために遺したものです。

 銀貨十五枚、これからの暮らしを考えれば大した足しにはならないでしょうが、きっとエーファがこれを必要とする時がくるはずです。

 くどいようですが、これは私が渡すのではありません。ご主人がそうさせるのです」


      *       *


 ヨーコは翌日の朝早くにサイジ村を発った。

 彼女とロキを見送ったのは、アシュリンとエーファ、そして肝煎のケネルと二人の門番だけだった。

 アシュリンがずっと泣いているのを、娘のエーファが不思議そうに見ていた。

 もっとも、エーファの方もその日は朝起きてから、隙さえあればヨーコにべったりと抱きついたままだったのだが……。


「また必ずまいります。それまでお元気で」

 若い召喚士は明るく告げると、別れを惜しむでもなくあっさりと村を出ていった。


 街道に戻ってから数キロの間、ヨーコとロキは何も喋らなかった。

「ひょっとしてあなた、機嫌悪くない?」

 とうとうしびれを切らしたヨーコが問いかける。

『……まあな。昨夜は見事な偽善者ぶりだったから、少し呆れてたんだよ』

「あら、聞いていたの? やぁね、すけべ」


 ロキはますます不機嫌になった。

『ふざけるな!

 どういうつもりだ? お前はあんな甘ったるいことをする女ではなかったはずだぞ』

「自己満足に見えた? あれはねぇ……お礼なのよ」

『お礼? 何に対してのだ?』


 ヨーコはしばらく黙ってロキの背で揺られていた。オオカミもあえて返事をかさない。

 そして突然、彼女は思い出しように口を開いた。


「王都や白城市で誘拐された子どもや女性を何度も助けたでしょう?

 あの母娘を見ていたらね、あの仕事って、そう意味のないことでもなかったのかな……って思えたの。

 多分、私は人間に興味をなくしてしまって、何も見えなくなっていたのね。

 うまく説明できないけど、人の声を聞いているようで、それが心に届いていなかったのよ」


「アシュリンとエーファを見てたら、もう一度人に興味を持ってみようかなって気になったのよ。

 あのお金はそのお礼なの。

 あなたは馬鹿にするけれど、この辺境で女が銀貨十五枚を稼ぐって並大抵のことではないのよ。それこそ身体でも売らない限りね」

『……そうか』


 ロキはゆっくりと尻尾を振りながら、自分の十分の一も生きていないヨーコのことを考えていた。


『この娘が人間への興味を取り戻したというのが本当なら、それはよい傾向だ。

 ……ということは、契約が切れたらヨーコは王都に戻るつもりなのだろうな。

 辺境はオオカミの俺にとっては居心地のいい所だから残念だが……まぁ、良しとしよう』

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