白狼の娘 第三話 レンタル召喚士
ヨーコが村に戻ったのは、森に入ってから一時間足らずのことだった。
先ほどとは違い、村の入口には人々が鈴なりで待ち構えている。
彼らは巨大なオオカミに乗って近づいてくる召喚士が、両腕に少女を抱きかかえているのを認めて歓声を上げた。
その人だかりの中から一人の女が飛び出し、まだかなり距離のあるヨーコたちの方へと駆け出した。
長いスカートを両手で腰の辺りまでたくしあげ、白い太腿が見えるのも意に介さず、女は必死で走っていく。慌てた男衆が何人か後を追ったが、まるで追いつけない速度だった。
ヨーコはすぐに気づき、乗っていたオオカミに声をかける。
白狼はゆったりとした歩みを駆け足に切り替え、あっという間に女との距離を詰めた。
「エーファ! エーファ、エーファ!」
彼女は狂ったような叫び声をあげてヨーコの足に縋りついた。巨大なオオカミに対する恐怖を微塵も感じさせない、必死の表情である。
ヨーコはオオカミから滑り降りると、抱えていた少女を母親と思しき女性に渡そうとしたが、それより早く女はヨーコの腕から少女を奪い取り、そのまま覆いかぶさるようにして地面にうずくまった。
ヨーコは苦笑しながらかがみこみ、泣いている母親に優しく声をかけた。
「心配はいりませんよ、娘さんは無事です。
どこも怪我はしていないようですよ」
そう言われた母親は、顔を上げ初めてヨーコの方を見た。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔が呆けたようになったが、少し間を置いてから召喚士の言葉を理解したようだった。
彼女は慌てて抱きしめていた娘から身体を離して、その身体を確かめた。
少女は気を失ったままだったが規則正しい呼吸をしている。召喚士のものなのだろう、上半身には分厚いケープが巻かれている。
母親がケープをそっと取り除くと、質素なワンピースが引き裂かれて裸の胸が目に入った。
彼女は金切り声を上げると娘のスカートをたくし上げ、尿で汚れた下着を引き下ろそうとした。
ヨーコはその手首を掴んだ。男のように強い力で止められた母親は、きっと険しい表情で顔を上げる。
「心配いりません。それは確かめました。私も女です。娘さんが何もされていないことは間違いありません。
不安なのは分かりますが、どうかおうちに連れ帰ってからにしてください」
召喚士はそう言って、素早く左右に視線を走らせた。
二人の周囲を母親を追いかけてきた数人の男たちが取り囲み、心配そうに見守っていたのだ。いくら子どもとはいえ、もう大人になりかけている少女の下半身を晒していいわけがない。
母親はようやく我に返って、この女性召喚士の心遣いを理解した。彼女は慌ててケープで娘の身体を隠し、再びぎゅっと抱きしめた。
ヨーコはどうしていいか分からないでいる男たちに声をかけた。
「娘さんは無事です。
どうかこのお二人を家に送り届けてあげてください」
男たちは何度もうなずき、母親を両側から抱きかかえるようにして連れていった。
ヨーコはその後姿を見送っていたが、ぽんぽんとズボンの汚れを払うと再びロキに跨った。
「さあ、行きましょう」
オオカミは彼女の声にしたがって、ゆっくり歩き出した。
『あの母親、旦那のことは何も聞かなかったな?』
ヨーコは小首を傾げた。
「まぁ、死んだということを聞かされたんでしょうね。
今は夫の死体よりも、生きている娘の方が大事なんだと思うわ」
『そんなもんかね……』
「ええ、母親なんだもの。そんなもんよ」
* *
ヨーコは村の入口で再び肝煎のケネルに迎えられた。
彼女は簡単に状況を説明する。
オークを倒したこと、取り戻した少女は無事で怪我もないこと、父親はあらかた喰われていたこと――である。
そして、腰のベルトに結んでいた包みをはずし、それを肝煎に手渡した。
ずっしりとした包みを手にしたケネルは首を捻った。
「これは……何ですか?」
ヨーコはにっこりと笑って答える。
「連れ去られた男性の一部です。森の獣に持っていかれるといけないので、とりあえず頭だけは持ってきました。
まだ現場には手足が残っていますし、オークの死骸も運ばないといけないですよね?
荷車とかが必要ですし、皆さん手伝ってくださいね」
きわめて愛想のよい表情で要請された村人たちは、慌ててて道具を集めに走った。
牛用の荷車はロキが軽々と曳き、ヨーコは肝煎と十数人の村人を森の中へと案内した。
凄惨な現場での後片付けは村人に任せる。
ばらばらに喰い散らかされた人間の残骸や、首を半分食い千切られたオークの死骸が荷車に積み込まれた。
村人の大半が耐え切れずに吐き戻し、すでに土に染み込んでいた糞尿や吐瀉物の臭いと混じり合って、酷い臭いの中での作業だった。
監督の肝煎も何度も吐き気を催したが、責任感の故かどうにか
村人を手伝うでもなく、その様子をにこにこしながら見守るヨーコだけは平然としている。
「亡くなられた方は埋葬するとして、オークはどうなさるのですか?」
彼女は青白い顔をしたケネルに質問した。
「ええ、親郷を通して軍に報告を上げなければなりません。
オークは大きさや体重を測れば、現地で処分していいそうです。
ただ、その姿絵を描いて報告書に添付するように言われてるのですが……村に絵の描ける者がいるかどうか」
「あら、それなら私が描きましょうか?
こう見えて子どものころからお絵描きは得意なんですよ」
ケネルはあからさまにほっとした表情を浮かべて礼を言おうとしたが、急に口ごもった。
「そっ……それはありがたいのですが、……その、いいのでしょうか?」
「はい? 何か問題がありますか?」
肝煎はすでに荷車に積み込まれたオークの死骸に目をやった。
「あれを……その、若いお嬢さんに描けと言うのは……」
荷台からはオークの足がはみ出している。そして、そのつけ根では棒状のモノがでろんと半立ちになっている。死後硬直で萎む気配はなさそうだった。
ヨーコは吹き出して、ばしんと肝煎の背中を叩いた。
「あらあら、いやですわ!
でも、平気ですよ。お茄子だとでも思えばどうということはありませんから」
酸っぱい腐臭の漂う森の中に、およそ不釣り合いな若い娘の笑い声が、けらけらといつまでも響き渡っていた。
* *
翌日の午前中にオークの火葬が済むと、ヨーコは肝煎のケネルとともに、親郷であるクリル村へと向かっていた。
二人とも親郷の村長への報告があったし、この当時の軍はオークの情報を必死で集めていたので、その聴取も行われることになっていた。
ケネルは「ついでですから」というヨーコの勧めでロキの背に同乗させてもらうことになった。
クリル村までは三十キロ以上の距離があり、サイジ村には馬がなかったので、その申し出はありがたいものだった。
ただ、オオカミの背に乗るというのは、農夫のケネルにとって相当に勇気のいることだった。
しかも、ヨーコは彼女の前に肝煎を座らせ、背後から抱きかかえるようにしてロキの毛並みを掴んでいたので、彼の背中には召喚士の豊かな乳房がもろに押しつけられる格好となった。
オオカミが歩くたびにそれがゆさゆさと揺れるのだ。まだ男盛りであるケネルには拷問に近い旅である。
当のヨーコはまったく気にならないようで、のんびりとした口調であれこれ世間話を持ちかけてくる。
「あの亡くなった方の奥さんは、大丈夫でしたか?」
「えっ? ああ、アシュリンのことですか?
今日はもうだいぶ落ち着いたようです。リーアムのことは気の毒でしたね。
こんなことを言っちゃいかんのでしょうが、娘のエーファが
ヨーコは「あらあら」と小さく溜め息をついた。
耳の後ろから彼女の暖かい息がかかり、肝煎はびくんと背をそらした。
「その、娘さんの容態はいかがでした?」
「けっ、今朝にはもう気がついて、思ったよりは元気なようでした。
ただ、リーアムのことを少しでも思い出させる話をすると、途端に泣き
まぁ、目の前で父親を殴り殺されたんじゃ無理もないですけど……」
「それは……お気の毒だわ」
ヨーコの声は同情に満ちたものだったが、ケネルはなぜかそこに寒々としたものを感じて、思わず身体をぶるっと振るわせた。
* *
ヨーコはサイジ村に着いてわずか一時間ほどで依頼されたオークを倒し、約束された銀貨十五枚の報酬を手にした。当時、中流階級の平均月収が銀貨五枚と言われていた時代である。これはもう、濡れ手に粟の楽な仕事だと彼女は思った。
しかし世の中はそう甘くはない。オークを狩った後に親郷から求められた報告は詳細なもので、その作成には数日を要した。さらにオークの情報に飢えていた軍による事情聴取は断続的に行われ、一週間近くにわたって長時間の拘束を余儀なくされた。
彼女が自由の身になったのは約半月後のことだったが、クリル村との契約は六か月である。オークの襲撃がなくとも、彼女には月に銀貨二枚が保証されていたから、親郷にはヨーコを遊ばせる気が毛頭なかった。たとえオークが出なくても、彼女は契約によって畑を荒らす害獣の駆除に駆り出された。
畑にも当然のように獣除けの防柵が施されていたが、イノシシは穴を掘って中に入り込むし、シカは軽々と柵を飛び越えた。折しも晩春であり、多くの作物が柔らかい芽を出したばかりである。獣たちはそれらを人間が用意した〝ご馳走〟とばかりに食い荒らす。
ヨーコとロキは、こうした大型害獣を狩ることに忙しかった。これらの獣は、いくら倒してもオークと違って報酬が出ない。
しかも彼女たちが多少の数を駆除したとしても、被害が収まるのはあくまで一時的である。シカもイノシシも、いずれは数を増やしてまた畑を荒らすことになる。
そんなことは開拓民たちだって百も承知だが、無償で(実際には親郷が手当てを出しているが)目に見える被害を減らしてくれる召喚士の存在は大いに歓迎されたのである。
ヨーコの方でも決してただ働きにはならなかった。狩った獲物はヨーコのものであるから、それは肉と毛皮を取るために引き取ってもらえ、数をこなせば結構な収入となった。
また面白いことに、開拓村の人々からはロキの糞を譲ってくれという申し出が殺到し、それも馬鹿にならない収入となった。オオカミの糞を土に混ぜ込んで畑の周囲に撒くと、作物を荒らす動物たちがその臭いを恐れて近づかなくなるらしい。
おかげで排便するたびにヨーコが回収しようとじっと待ち構えているので、ロキは酷く閉口した。
そんなこんなで忙しく飛び回っていたヨーコとロキだったが、しばらくするとどうにか害獣の被害も落ち着いてきた。
彼女が辺境に来て三か月を過ぎたころには、親郷でのんびり休養する日も多くなった。彼女は酒を飲まないので、もっぱら村長の女房であるサラという主婦のもとに入り浸り、彼女の焼くアップルパイやパウンドケーキを食べながら、お喋りにいそしんでいた。
その日の午後もヨーコは村長宅の台所でサラとお茶をしながら、ある枝郷で起きた不倫事件の噂について、熱心に意見を戦わせていたところだった。ロキは外の日陰でうつらうつらしている。
そこへ突然村長であるトーマスが現れた。
「おや、あんた。寄合に出てたんじゃないのかい? そんなに汗をかいてどうしたのよ」
驚いた女房の問いに答えず、トーマスは額の汗をハンカチで拭いながらどっかりと椅子に座った。
「まず俺にも茶を一杯くれ! ……ヨーコさん、あんたをさんざん探し回ってたんだよ。まさか俺の家にいたとはな」
ヨーコは首を傾げた。サラはさっそく普段使いのカップを取り出して茶を注いでいる。
「あらあら、それはごめんなさいね。
何かあったのですか?」
村長は女房の淹れたぬるいお茶をごくりと飲んで、ふうっと息をついだ。
「いやね、さっきまで近隣の村長同士の寄合をやってたんだよ。今回はうちの村が当番でね」
――辺境の村々では、村を取り仕切る者を
もちろん年貢はそれぞれの家ごとに課されているのだが、国に納める場合は村単位となっている。したがって災害や病害といった事情で決められた年貢を納められない家が出た場合は村全体でそれをカバーする。もしもカバーしきれない場合には、肝煎が個人的にそれを補填しなければならないのだ。
そのため肝煎は村民の信頼を得た人物であると同時に、村一番の働き者で稼ぎ頭でなくては務まらない。
親郷であっても肝煎は当然存在するが、多くの枝郷を取りまとめる親郷の肝煎は特に〝村長〟と呼ばれ、辺境においては絶大な権力を有していた。現在の我々の感覚で言えば、県知事に相当すると思っていい。
その村長同士の寄合が、このクリル村で開かれていたのである。
お茶を飲んで落ち着いた村長は、ヨーコの手を両手で包むように握ると、ぐいと身を乗り出した。たちまちサラのこめかみに静脈が浮かび上がり、ぴくぴくと痙攣する。
「実はな、またオークが出たんだ。それであんたに討伐を頼みたい!」
ヨーコは首を傾げたままうなずいた。
「それはもう……私はそのために来たのですから構いませんが、一体どの村に出たのですか?」
「ハイネ村だ。一昨日のことだが、羊が二頭やられたらしい」
「ハイネ……村、ですか?」
ヨーコは眉根を寄せた。彼女は辺境の地理に詳しくないが、クリル村の各枝郷は害獣退治で回っているので当然記憶している。
だがその村の名は、初めて聞くものだった。
「それは……どこの村ですか?」
台所のテーブルの上に「だんっ!」という派手な音を立てて、ジャムの瓶が叩きつけられた。若い娘の手を握って離さぬ夫への、サラの無言の抗議である。
当の旦那はそれをまったく理解していなかったが、女であるヨーコはさすがに「これはまずい」と気づき、村長の手を振りほどいて両手を自分の太腿の間に引っ込めた。
「ああ、そうか。済まなかったね。ハイネはあんたがオーク退治をしたサイジ村の北隣の村だ。親郷はヒデン村だね」
「でも、私はクリル村と契約していますよね? よその村に行ってもよいのでか?」
トーマスは心配ないと請け合った。
「ヒデンの村長は間抜けなんだよ。オークの被害が出てから慌てて召喚士を探したって、間に合うわけがないだろう。
それでうちに泣きついてきたんだよ。あんたを貸してくれってな。
幸いうちはあれ以来オークが出ていないし、まぁ、お隣さんの頼みだ。俺だって鬼じゃないからな、人道的な見地ってやつでその申し出を受けたのさ」
ヨーコは溜め息をついた。
「えーと……もちろん、ここと同じく銀貨十枚の報酬はいただけるのですね?」
村長は当然だとばかりにうなずく。
「それは心配しなくていい。それに他郷のことだ、距離も遠い。足代として銅貨二十枚を出すよう話をつけてある。
もちろん、討伐までの食事代も向こうの負担だから、あんたに迷惑はかけないよ」
ヨーコは目の前の皿に残っていたアップルパイを、素早くナプキンで包んでしまい込むと立ち上がった。
「分かりました。ただちにハイネ村に向かいます」
彼女は部屋を出ようとしたが、村長とすれ違う時にふと思いついたように立ち止まり、彼の耳元でささやいた。
「それで、仲介料はいくら上乗せしたんですか?」
トーマスはにやりと笑うだけで、何も答えなかった。
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