密林の賢王 第二十話 ヒュドラ覚醒

 二時間後、散々遊び倒したリディアとオオカミ姉妹、そしてお目付け役のヒルダは、赤城の最深部にある巨大な召喚の間にいた。

 リディアは泥と芝生にまみれた執務服を着替え、糊のきいた軍の制服を身につけている。四神獣の一柱、赤龍ドレイクへの敬意を一応忘れていないのだ。


 その神獣は彼女たちの目の前に悠々と寝そべっていた。

 赤銅色の鱗は艶めかしい曲線を描いて金属光沢を放っている。巨大なドラゴン族でも正統と言われる赤龍(炎龍)は特に大きく、長い尻尾を含めると体長が二十メートルを超す。

 二千人の兵士を収容できるとされる広い召喚の間は、ドレイクの巨体で半分以上占められていた。


 常に召喚士とともにある幻獣と違い、国の護り手である四神獣は通常幻獣界で暮らしている。国に何事もなければ、呼び出されるのは十日に一回程度だ。

 もちろん緊急時を含めて必要な時には、四帝の召喚に応じてくれる。

 神獣の召喚は秘儀とされており、今回もリディア一人がまず召喚の間に入ってドレイクを呼び出したのだ。


『ん? 変わった顔ぶれだな。何かあったのか?』

 低く厚みのある声が、びりびりと頭の中に響いた。ドラゴンは召喚主以外でも、彼が注意を向けた生物に自由に意志を伝えることができる。


 リディアは二頭のオオカミを連れ、一歩前に進み出た。

「このオオカミたちを覚えているか? ユニという召喚士が連れていた者たちだ。

 ユニは今、南部密林でオークとともにゴブリンと戦っているのだが、小鬼どもはヒュドラを使役しているため苦戦しているらしい。

 それで、ドレイクにヒュドラについて知っていることを教えてほしい――この二頭がそいう書簡を持ってきたというわけだ」


『ゴブリンがヒュドラを使役だと? 馬鹿なことを言うな!』

 ドレイクの言葉とともに、誇りを傷つけられた憤怒の感情がダイレクトに飛び込んでくる。

 まるで物理的な力で殴られたような衝撃があり、慣れていないヒルダは頭がくらくらして倒れそうになった。

 オオカミ姉妹は平気なのか、尻尾をふりふりしてドラゴンを見上げている。


『どういうことか詳しく説明――いや、直接お前たちの頭の中を覗いた方が早いな……。

 オオカミたちよ、名は何と言う?』

 訊ねられた姉妹は物怖じせずに元気に答えた。

『ジェシカだぜ!』

『シェンカだよ~』


 オオカミたちの声は、ドレイクを中継する形でリディアやヒルダにも聞こえた。

 ドラゴンは〝面白そうな奴らだ〟と少し興味を抱いたらしい。彼女たちの頭上高くにあった首をおろし、オオカミ姉妹の顔をしげしげと覗き込んだ。

『今からお前たちの身体を乗っ取らせてもらうが、構わないか?

 記憶を探るだけだから、少し気持ち悪くなるかもしれないが危険はないはずだ』


『いいよー!』

『おけー! それ、前にもやったし』

 ドレイクは〝意外だ〟という顔をした。


『ほう……そんなことができる奴が他にいるとはな。誰にやられたのだ?』

『でっかい巨人のおっちゃん!』

『三人兄弟だった!』


 龍はしばし絶句した。そして両目の瞬膜を閉じて首を振った。

『エンシェント・ジャイアント――それも〝始まりの三兄弟〟だと?

 にわかには信じがたい話だが……まぁ、それも記憶をたどればいい話か。

 ではやるぞ』


 ドレイクは瞬膜を閉じたまま姉妹に顔を近づけると、上唇の先でシェンカの頭に軽く触れた。

 次の瞬間、ドラゴンとオオカミは凍りついたように動きを止め、その場に固まった。

 ジェシカが『ずるいー! おっちゃん、あたしもあたしも!』と言って騒ぐのを、リディアとヒルダが二人がかりで抑え込む。


 ドレイクが目蓋と瞬膜を同時に開け、動きを取り戻したのは二十分ほども経ってからだった。

 床近くまでおろしていた首が再びもたげられたが、よほど心を動かされたらしく、目を開いてからもしばらく無言のままだった。

 やがて彼はぼそりとつぶやいた。

『ウエマクの奴……何を企んでやがる……』


      *       *


 身体を奪われていたジェシカも元に戻っていた。

 さすがに頭がくらくらするらしく、何度も頭を振ってくしゃみをする。

 リディアが「よく頑張ったわね、偉いぞ」とオオカミの耳元でささやき、頭を撫でてやると元気を取り戻したらしく、嬉しそうに尻尾を振っている。


『何と言うか……久しぶりに面白いものを見たな。ユニという娘は運命の神の玩具かと疑いたくなるな。言うに事欠いてオークどもと一緒に戦っているとはな!

 ――さて、ヒュドラの話だったな。事情は分かった。

 リディアよ。これから話すことを書簡でユニに伝えてやれ。このオオカミたちでは語彙が不足してうまく伝わるまい』

 赤龍帝は黙ってうなずき、ちらりとヒルダの方を見やった。

 有能な副官は、すでに書類挟みを開いて速記の態勢に入っている。


『知っていることと言っても、そう多くはないぞ。

 ヒュドラはドラゴンの血を引いているとはいえ、血が薄すぎて俺たちは一族と認めていない。せいぜいが眷属といった扱いだ。

 だから、正直俺たちもあまり関心を抱かないのだ』


『ただ、ゴブリンがヒュドラを奴隷のように扱っているという話はどうにも納得がいかん。

 あいつらは一応知性を備えている。ドラゴンのように高邁な思想を理解できるほどではないが、人間程度には物が考えられるはずだ。

 それがゴブリンに使われているということは、何かからくりがあるのだろうな。

 オオカミの記憶を見る限り、ゴブリンどもが使っている黄色い液体が鍵だと思うが……それ以上は何とも言えん』


「その〝黄色い液体〟については何も知らないの?」

 リディアの質問に、ドレイクは天井を見上げて考え込んだ。

『……確か、リザードマンのある部族が、ヒュドラに食われないように身体を黄色く塗っていたという話は聞いたことがある。

 何でも原料は豆だということだ』


『豆?』

『ああ。名前までは知らん。蔦みたいな植物で、秋になるとさやから豆を収穫するそうだ。

 口が曲がるほど渋いらしくて、その汁を身体に塗ると悪食のヒュドラも嫌がって食べられないと聞いている』

 リディアが「へえ~」という顔をするのを見て、ジェシカが勢い込んで吠えた。

『あたし、黄色いゴブリン齧ったけど、舌が痺れて感覚がなくなるくらい渋かった!』


『ああ、それはシェンカの記憶にもあったな。

 ただ、リザードマンたちがヒュドラを操ったなんて話は聞いたことがない。

 つまり、俺の知識はあまり役に立たないということだ』


「あたしが魔導院で勉強していたころ、軍にはヒュドラを召喚した国家召喚士がいて、その能力がかなり明らかにされてたけど……。

 たしか巨体と複数の首、剣も鎗も通さない堅い鱗が特徴で、最大の武器は毒だと教えられていたわね。

 ねえドレイク、ヒュドラには他に特殊能力とかはないの?」


 リディアは必死で頭を回転させ、ユニの役に立つ情報を引き出そうと努めていた。

 今のままではせっかく頼ってきた召喚士に、何も吉報を届けられないではないか。


『超自然的な力か? 一応はあるぞ。下等とはいえドラゴンの血は入っているからな。

 ――ただ、あまり役に立つ代物じゃない。

 ヒュドラは湿地帯を棲家にしているだけに、乾いた環境が苦手だ。体表から粘液を出して鱗を保護しているが、あまりに乾燥が続くと鱗にひびが入って脆くなってしまうんだ。

 だから、日照りが続いた時には、雲を呼んで雨を降らせることができる。一時的なスコールのようなものだな。

 天候を操るのだから超自然的な特殊能力だと言えるが、ただの雨だ。それで敵を攻撃できるわけじゃない』


 リディアは明らかに落胆の色を見せた。

「つまりヒュドラの弱点は乾燥だけど、危なくなれば雨を呼ぶことができるってことね?

 これじゃあんまりユニの役には立たないわね……」


『だから最初に言っただろう? 知っていることはそう多くないって。

 俺が持っているヒュドラの知識はそれだけだ。

 もう帰っていいか? 俺はいろいろと考えねばならんことがある』

 ドレイクはオオカミ姉妹をちらりと見て、そう言った。声音からはそわそわしている感じが伝わってくる。

 先ほど覗いたシェンカの記憶に、よほど気になることがあったようだ。


      *       *


 リディアはヒルダの力を借り、赤龍の言葉をできるだけそのまま書き綴った。自分では気づかなかったが、ユニならばドラゴンの言葉に何かを見出すかもしれない――そんな気がしてならなかったからだ。

 彼女は通信用の薄くて丈夫な紙に細かい文字でびっしりと赤龍の言葉を書き込み、通信筒に入れて姉妹の首輪に結び付けた。


 ジェシカとシェンカは即座に赤城を出ると、南に向けて走り去っていった。

 そのまま彼女たちは眠らずに走り続け、わずか二日足らずでオークの村に戻ってきたのだった。


 姉妹がユニのもとに駆けつけると、なぜか宿舎に人間は彼女だけで、ライガばかりかヨミまでが側に寄り添っていた。

 ユニの顔色は悪く、ジェシカたちに気づくと無理に笑顔を作ってねぎらってくれたが、様子がおかしいことが明らかだった。


『ユニ姉ー、どうしたのー?』

『ぽんぽん痛いのかー? 女の子の日かー?』


 心配する孫娘たちから守るように、ヨミが割って入る。

『大丈夫よ。ユニはちょっと疲れただけなの。

 あんたたちはろくに眠らずに走ってきたんでしょ?

 ミナのところにいって、何か食べ物をもらったら少し眠りなさい』


 案外素直に姉妹が出ていったのは、ユニの体調を案じてのことなのだろう。

 ユニは姉妹の首から外した通信筒から書簡を取り出し、熱心に目を通していた。

 一度通読し、さらにもう一度じっくりと読み直す。


 そして彼女は「駄目だぁ~!」と喚いて、大の字に手足を広げてそのまま後ろに倒れた、

 分厚く敷かれていた干し草のベッドに「ぼふっ」と音を立てて全身が沈み、細かい葉や茎が舞い飛ぶ。

 心配したヨミが顔を覗き込むと、ユニは両手を伸ばして母さんヨミの首を抱えこむと、そのまま強引に抱き寄せた。


「どーしよー、母さん! 赤龍の情報も大して役に立ちそうにないわ。

 アスカやゴードンがあんなに頑張っているのに、あたしは何もできないの?」

 ユニはオオカミの毛並みに顔を押しつけ、子どものように泣きじゃくった。


 ヨミはユニの頭を優しく押しのけると、涙と鼻水に汚れた顔をていねいに舐め取った。

『はいはい、落ち着かないといい知恵なんて浮かばないものよ。

 まだ感情が不安定ね。あなたの薬に鎮静剤はないの? あるならそれでも飲んでみたら?』


 ユニは〝いやいや〟をするように首を振った。

「駄目よ、あれを飲むと感情は抑えられるけど、頭がぼうっとなって何も考えられなくなるもの……」

 彼女はそう言いかけたきり、突然無言になった。

 そしてがばっと起き上がると、近くに置いてあった背嚢に手を伸ばす。


『ユニ……どうしたの?』

 心配そうに声をかけるヨミに答えず、彼女は背嚢の中身を取り出し、底の方に手をつっこんだ。

 異変を感じたライガも近寄ってきた。


 ユニは背嚢から油紙で包まれた小さな手帳を取り出した。

 素早く包みを開き、手帳の頁をめくる。

『なんだ、それは?』

 覗き込むライガに、ユニは邪険そうに答える。


「リリス(すでに転生した辺境の召喚士で薬師)からもらった処方の写しよ。……確か鎮静剤のもあったはずだわ……あった!

 ええと……カンゾウにウイキョウ末、そして主成分は苦豆の粉末。

 蔓性の黄色い豆で、大森林で採集。渋みが強いので強い焼酎で渋抜きをした上で乾燥、粉末にする……これだわ!」


『あの黄色い液体の原料が分かったってことなのか?』

 ライガの問いにばっと振り返ったユニの表情は一変していた。

 目が変にぎらぎらとしているのは不安だが、力強い意志の光も宿っている。


「ええ、そうよ! それだけじゃないわ。この苦豆って強い鎮静作用があるのよ。

 恐らくヒュドラはねぐらである池に苦豆の汁を流され続けて、まともな思考力を奪われているんだと思うわ』


『だが、変じゃないか? ドラゴンの一族は毒への耐性が強いはずだぞ。

 あいつ自身が毒を持っているのに、そんな豆の汁が効くのか?』

「本家のドラゴンほど抵抗力が強くないのかも――それに一応は薬で毒じゃないからね。

 どっちにしろヒュドラに対して鎮静効果は長続きしないはずよ。もうそろそろ身体が順応していてもおかしくないと思う。

 あとはきっかけ――何か強い刺激があれば、正気に戻せるかもしれないわ」


『なら、赤龍が言った〝雨を降らせる〟能力を発揮させてみたらどうかしら?

 ヒュドラにとっては命の危機に瀕した時の緊急避難みたいなものなんでしょう? もしユニの推測――』

 ヨミの提案が終わらないうちに、ユニは「それよ!」と叫んでオオカミに抱き着いていた。


      *       *


 再び滑り坂の戦闘に戻る。


 灼熱地獄と化した坂の下で、ヒュドラは苦しみを吐き出すような咆哮をあげた。

 不気味で、ひどく悲し気な叫びは、戦いに疲弊した双方の兵士の動きをしばし停止させ、戦場に響き渡った。


 すると突然、上空に黒いシミのようなものが生まれた。それは水に墨を流したようにあっと言う間に広がり、黒雲となって渦を巻き始めた。

 黒雲は厚く、低く、体積をどんどん増しながら増殖し、辺りにぼつぼつと雨粒が落ち出した。

 まばらな雨は突然、バケツの底が抜けたかと思うような勢いの土砂降りとなった。豪雨が地面を穿つ騒音で、隣の者との会話もできないほどだった。


 油が燃える黒煙で覆われていた坂の下では火も煙も消え、代わりに白い水蒸気がもうもうと立ち上り、咆哮を続けているヒュドラの姿を完全に覆い隠していた。

 焼き払われた地帯の周辺には、難を逃れたゴブリンがまだ数百人残っており、その中には身体を黄色く染めた者も数十人混じっていた。

 車軸を流すような豪雨は、あっという間に染料を洗い流してしまったが、彼らはあまりの事態の急変に、自分が無防備な状態に陥ったことに気づいていない。


 豪雨は燃え広がった地面を水浸しにして冷やしてくれた。どうやらヒュドラに近づけそうだった。

 ゴブリンたちは水蒸気で見通しが利かない中、彼らの奴隷である怪物の安否を確かめようと恐る恐る進んでいった。

 その目の前に、白い蒸気を押しのけるようにして突如巨大な塊りが出現した。


 ヒュドラはそれまでとは桁違いの素早さでゴブリンの群れに殺到し、太く短い足と太った胴体でゴブリンを圧し潰した。

 同時に三本の首を縦横に振り回し、小柄な小鬼たちを空高く弾き飛ばした。

 頭上に放り投げられたゴブリンが甲高い悲鳴をあげながら落下してくると、ヒュドラは鋭い牙が並ぶ口を開けて器用に受け止め、あっという間に噛み砕き飲み込んでしまった。


 ヒュドラは雨を浴びて完全に精気を取り戻していた。青緑色に濡れて輝く鱗がうねり、首がのたうち、尾が鞭のようにしなった。

 ゴブリンたちは暴風のような怪物の暴れように総崩れとなり、たちまち算を乱して逃げ出した。

 後方で様子を窺っていた後続部隊は、とっくの昔に森に隠れたのか姿を消している。


 ヒュドラはそれを負わず、骨折して逃げることができずに泣き喚いているゴブリンをひょいひょいと咥えては、ばきばきと音を立てて咀嚼していった。

 いつの間にか頭上の黒雲は消え去り、激しかった雨も止んでいる。

 坂の下では投石で砕かれたゴブリンが人の形を失い、泥と混じってぐちゃぐちゃになっている。さらに槍に貫かれて坂の上から転げ落ちてきた戦死者、表面が炭化した焼死体があちこちに転がり、今またヒュドラの犠牲となった死骸が追加された。


 坂の上ではオークたちが防柵の先まで集まって、ゴブリンたちの敗走を見守っていた。

 当然、その中にはダウワース王、ユニ、アスカ、ゴードンがいる。

 しばらくして、ヒュドラは腹がくちくなったのか怒りが収まったのか、三本の首をもたげてオークたちを見上げた。


 たちまちオークたちの間に緊張が走り、アスカは宝剣の柄に手をかける。

 ヒュドラが再び襲ってくるのならば迎え撃つ。今度こそ、この場で倒さなければ、ゴブリンは諦めずに襲撃を繰り返すだろう。そうなればオークたちに未来はないのだ。


『オ前タチ、偉イ奴、誰ダ? 話アル』

 唐突に坂の上のオークたちの頭の中に声が響いた。耳障りでたどたどしい話し方だったが、オークにも人間にも、オオカミたちにすらその声(というよりも思念)は届いていた。

 誰もが顔を見合わせたが、その声なき声はヒュドラが発したとしか思えなかったのだ。


 ダウワースは意を決して一歩踏み出した。真っ赤なマントをばさりと跳ね除けると、王は大声で答えた。

「俺が密林オークのおさ、賢王ダウワースだ!

 ヒュドラよ、話を聞こうではないか!」

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