密林の賢王 第十九話 オオカミの使者

 ヒュドラは慌てた。

 彼はやっと上半身を坂上のふちに乗り出したばかりで、重量のある下半身は急斜面に残したままである。

 地面に爪を突き立てている前足を離したら、転げ落ちるのが目に見えている。

 そのため、突進してくる鎧騎士に対応できるのは三本の首以外にない。


 それは最も避けたい展開だった。

 前の戦いで油断したヒュドラは首を深く切られていた。その傷はもう塞がっていたが、自慢の鱗までは再生が間に合わず、白い傷跡がはっきりと残っている。

 彼は再び鎧騎士と対決することを覚悟していたが、その時には巨体をぶちかまして敵を圧し潰すつもりだった。

 実際、そうされていたら、アスカはひとたまりもなく倒されていただろう。


 だからこそアスカはこの機を逃さなかった。

 プレートメイルで全身を覆い、大きな盾と長剣を持っているというのに、彼女はそれを感じさせない素早さでヒュドラに迫った。

 あっという間に怪物の胸元に飛び込むと、アスカは身体ごとぶつかるようにして宝剣を真っ直ぐ突き出した。

 鋭い刃は堅い鱗をあっさりと貫通し、柄もとまで怪物の胸に突き刺ささる。


 ヒュドラは醜い叫び声をあげ、三本の首をでたらめに振り回した。

 しかし鞭のような首も、鋭い牙も、死角である胸元に密着している鎧騎士には届かない。

 少しでも離れていれば、その強靭な首で敵を弾き飛ばせるのに……ヒュドラはもどかしさに怒り狂い、吠え続ける。


 突き刺した剣が致命傷を与えていないと覚ったアスカは、力任せに剣を引き抜いた。暗い赤紫色の血が噴き出し、アスカの鎧に飛び散り「ジュッ!」という音を立てて青白い煙があがる。

 血も、金属表面と反応した煙も猛毒であるはずだが、ミスリルの鎧はエルフの加護魔法で炎のブレスも毒の息も遮断してくれた。

 彼女は剣を引き抜くと同時に左手の盾を投げ捨て、両手で剣の柄を握ると身体を沈めた。

 足が地面を蹴り飛び上がるように身を伸ばすと、アスカは全力を込めて一本の首めがけて切りかかる。


 彼女が剣を振るうのと同時に、ヒュドラは前足を突っ張って後方に飛び下がった。

 一瞬でもその判断が遅れていたら、ヒュドラの首の一本は切断されていただろう。

 後先を考えずに危険から逃れたおかげで、狙われた首は浅手を負ったものの無事だった。

 その代わり、怪物の巨体は一瞬宙に浮き、背中から斜面に激突してそのまま坂を転げ落ちていった。


 アスカはすかさず盾を拾い上げると、残されて右往左往しているゴブリンたちに剣を一閃させた。

 たちまち小鬼の首が吹っ飛び、胴が切断され、三人のゴブリンが即死する。

 返す刀でさらに二人のゴブリンをまとめて切り捨てると、アスカは振り返り大声で叫んだ。

「ジャヤ、今だ!」


      *       *


 最後衛でダウワース王、ユニとともに戦況を見守っていたジャヤに、よく通るアスカの声が届いた。

 ジャヤは王とユニの顔を見てうなずくと、周囲を守っていた三十人余りのオークたちに命じた。

「カヤ束に火を放ちなさい! 坂の下へ落とすのです!」


 王の娘の命令によって傍らに山と積まれていたカヤ束を留めていたロープが石斧で切断され、乾燥したカヤ束がころころと軽い音を立てて転がり出す。

 オークたちが松明でそのいくつかに火をつけると、たちまち炎が立ちのぼった。

 彼らは木槍で玉突きのようにカヤ束を転がしていき、ヒュドラが押し潰した柵のあたりから次々に下に落としていった。

 その間にも火は燃え移り、坂を転げ落ちるカヤ束の半数は炎と煙を吹き出している。


 あらかたカヤ束を落とし終わると、オークたちは改めてジャヤの前に横一列で整列した。

 彼らの手には棒のついた投石具――スタッフ・スリングが握られており、受け革には子どもの頭ほどもある素焼きの壺が揺れていた。

 壺には蓋がにかわで接着されて密封状態になっている。その中身はカヤの実を搾った油である(先に落としたカヤ(萱)はアシやススキなどの総称で、樹木のカヤ(榧)とは別の物)。


 ジャヤの「落としてください!」という号令で、彼らは一斉に棒を振りかぶると、二、三歩助走をつけて空高く壺を放り投げた。

 急角度の放物線を描いて中空高く放り上げられた壺は、ほとんど真上から坂の下へと落下し、地面に、転げ落ちてもがいているヒュドラに、そして混乱しているゴブリンたちに当たり、軽い音とともに砕け散って中の油をぶちまけた。

 彼らの間にはすでに火のついたカヤ束が大量に転がっており、そこにも油がかかって火の勢いがあっという間に激しくなった。


 上空からが次々に素焼きの壺が降り注ぎ、無差別に油を振り撒いていく。

 炎は滑るように油を伝って燃え広がり、坂の下の空き地はあっという間に炎に包まれ、黒い煙がもうもうと立ち上った。

 火に包まれたゴブリンたちは激しい死の踊りを舞って次々に倒れた。油を浴びなかった者たちも、一帯を包み込んだ熱風に喉と肺を焼かれてばたばたと死んでいった。


 この惨状に驚いたのは、坂をよじ登ってオークに襲いかかっていたゴブリンたちである。

 彼らはそれまでの死を恐れぬ攻撃から一転して逃げ出した。

 ゴブリンたちが勇猛なのは、後から続々と仲間が登ってくると信ずればこそだ。それが絶たれた今、彼らはただの弱々しい小鬼に過ぎない。


 坂の上では、すでにゴブリンの奇襲部隊が殲滅され、防柵に取りついていた敵もすべて逃げ出してしまった。

 ダウワース王とジャヤ、そしてユニやアスカ、ゴードンたちは防柵のあたりから坂の下を眺めおろした。

 黒煙がもうもうとして下の様子ははっきり分からないが、恐らく二、三百のゴブリンが焼死しただろう。


「ヒュドラも焼け死んだかな?」

 ダウワースが不安気にユニに訊ねる。

「そう都合のいい話だと助かりますけど、ドラゴンの血を引いていますから多分ぴんぴんしてると思いますよ。

 それよりこの熱で身体が乾ききっているはず。奴は相当苦しいはずですが、何をぐずぐずしてるのかしら?」

 ユニはじりじりして怪物のある動きを待っていた。


「ゴブリンどもの後衛も様子見らしいな。くそっ、あいつらまた増えたのか、千人以上いるぞ。うんざりするな。

 こっちはもう弾切れだ。オークたちに石拾いを命じるか?」

 ゴードンの言うとおり、煙越しに見える後方には、まだ黒々としたゴブリンの集団が健在だった。


「もう少しだけ……様子を見て。

 これでヒュドラが目覚めなかったら何もかもやり直しよ。お願い、正気に戻って!」

 ユニの小さな叫びには焦りの色が滲んでいた。


      *       *


 坂の上から転がり落ちて仰向けになったヒュドラは、しばらく起き上がれず四肢をばたばたさせてもがいていた。

 そのうちにどうにか長い首をつっかえ棒のようにして身体を起こして横に転がることができた。ついでに十人ばかりゴブリンを潰したようだ。


 起き上がってみると、いつの間にか周囲には火のついたカヤ束が転がっており、空からはひっきりなしに壺が降ってきてあたり一面を油まみれにしていた。

 ヒュドラが戸惑ううちに、火は呆れるような速さで燃え広がり、あっという間に周囲が炎で包まれた。油は彼の身体にも降り注ぎ、炎はヒュドラの巨体をも包み込もうとしていた。


 彼はなぜ、突然周囲が燃え上がったのか、理解できないままでいた。頭がぼんやりとして、考えること自体が面倒くさかったのだ。

 ヒュドラは下等と言われながらもドラゴンの一族を自任していた。炎は全身を覆う自慢の鱗に何のダメージも与えず、彼は己の防御力の素晴らしさを実感していた。

 むしろ問題なのは身体の乾燥の方だった。


 もともとが水棲生物であるヒュドラは湿気を好む――というより、乾燥した環境では生きていけなかった。

 そのため、彼の全身の皮膚からは汗のように粘性のある液体が出て、鱗の隙間から少しずつ滲んで身体を乾燥から守っていた。

 それが炎と熱気でどんどん蒸発していき、彼の頭脳に危険信号を送ってきたのだ。


 こういう時はどうすればよかったのだろう?

 ヒュドラは必死に考えるが、頭の中に霞がかかっているようで、答えがうまく出てこない。

『俺はなぜこんなところにいるのだ?』

『どうして黄色い小鬼どもに、いいように使われているのだ?』

 余計な疑問がぐるぐると渦巻いて、大切な〝何か〟がなかなか出てこない。


 彼が煩悶している間にも、周囲の地面は乾き、大気は熱せられ、身体は乾き続けている。

 身体の奥底から発せられる危険信号が頭の中でうるさく鳴り響き続け、ヒュドラはとうとうブチ切れてしまった。

『もういい! もう何も考えない! 俺は俺がしたいことをするんだ!」


 ヒュドラの三本の首が上空に向けてもたげられ、三つの頭が天を仰いだ。

 何が起こるのだろうと固唾を呑んで見守るユニとオークたちは、次の瞬間耳を塞いでその場にしゃがみこんだ。

 ヒュドラの鋭い牙が生えた口が裂けんばかりに大きく開かれ、悲鳴にも似た壮絶な咆哮をあげたのである。


      *       *


 ――話は数日前に戻る。


 王国南部の要、赤城市は高い城壁に囲まれた城塞都市である。

 かつては城壁内で市民の暮らしのすべてが賄われていたが、人口の増加と経済の発展に伴い、人々は城壁外にその活動範囲を広げていった。

 いわゆる〝新市街〟であり、現在では城壁内の旧市街より遥かに多い人口を擁している。

 しかし、あくまで赤城市の守りは城壁にあり、出入国の管理も城門が担っていた。


 赤城市の正面玄関とも言える城門は、多くの住民や市民が行き交っていた。

 基本的に城内から外へ出る人間は余程のことがない限り自由に通ることができる。その一方で、入城に際しては必ず身分証明の呈示が必要となる。

 そのため、城門には通過手続きを担当する事務官が常時十人前後詰めており、武器を手にして睨みをきかす門衛は比較的暇を持て余している。


 その日の午前中、門衛の当番だった若い兵士は、先輩でもある同僚に声をかけた。

「あれは早馬でしょうか? 商人たちが慌てて道を開けていますが……」

 訊ねられたもう一人も、とっくに気づいている。

「いや、人が乗っているようには見えないが……それに馬にしては小さくないか?」


 真っ直ぐに伸びる大通りの遥か先、もうもうと土煙をあげて二つの黒い塊りがかなりの勢いで向かってくるのだ。

 二人の門衛は顔を見合わせてうなずく。先輩が鎗を構えて大通りの真ん中に立つ間、後輩の兵士は呼び鈴の紐を引っ張って待機中の兵士に急を知らせるとともに、入城の手続きをしていた人たちに避難を呼びかけた。


 すぐに数人の兵士が休憩室から飛び出してきた。

「あれか?」

 今やかなりの距離まで近づいてきた不審者を認め、待機していた兵士は緊張した面持ちで道の先を指し示す。

「はい……馬にしては小さいような気がしますし、第一騎乗する人間の姿が見えません」


 とりあえず、その場の兵士たちは鎗を連ねて不審者の突破を防ぐことにした。


 不審者との距離は百メートルを切り、その姿がはっきりとした。大型犬か、さもなくばオオカミである。

「オオカミだとしたらかなりデカいな……」

 誰かがつぶやいた言葉に、「はっ」と気づいたように古参の兵士が振り返った。

「おい、デカいオオカミって言ったら、あの召喚士――〝オーク殺しのユニ〟の幻獣じゃないのか?」


 門衛たちがわいわいと騒いでいるうちに、オオカミ姉妹は彼らの数メートル手前で急停止してくれた。いきなり襲ってこないことを知った門衛たちは、一様に安堵の表情を浮かべる。

 二頭のオオカミは古参兵士を交渉相手と決めたらしく、ゆっくり歩いていくと兵士の少し手前で並んでお座りし、はあはあと荒い息をつきながら大きくしっぽを振った。


 彼女たちは呆気に取られている門衛の顔をきらきらした瞳で見つめると、シェンカがやおら前足をあげてジェシカの胸の上あたりをばしっと叩いた。

 そして再び兵士の顔を見てしっぽを激しく振る。


 よく見ると、オオカミたちの首には太い革紐が回されており、ジェシカが叩いた辺りに金属製の小さな筒が巻きつけらている。

「その筒を取れって言うのか?」

 門衛が腰を引きながら訊ねると、ジェシカは大きくクシャミをしながらうなずいた。


 しかし門衛の方はなかなか手が出せない。なにせ相手は体長二メートル近い巨大オオカミ(実際には姉妹は群れで一番小さいのだが)である。下手に手を出して齧られたら、手首の先が無くなることを覚悟しなければならないのだ。


 なかなか筒をとってくれない門衛たちに業を煮やしたのか、シェンカは立ち上がってジェシカの前に回ると、姉の首に回している革紐を口で咥え、「ぶつり」と噛み取った。そしてすたすたと門衛の前まで歩いていき、その足元の地面にぽとんと金属筒のついた革紐を落とした。

 彼女はまた一メートルほど離れた妹の横に戻って〝お座り〟し、ばたばたと尻尾を振り回すのだった。


 門衛は足元の筒を拾い上げ、ねじ式の蓋を捻って中から薄手の紙を引っ張り出した。

 細かく小さな文字で書かれた手紙には、「このオオカミたちは二級召喚士ユニ・ドルイディアの使う幻獣であり、赤龍帝リディア様宛の親書を託してある。至急赤龍帝にお取次ぎ願いたい」と書かれていた。

 なお、ご丁寧に「オオカミたちには親書をリディア様本人以外には決して渡すなと命じているので、無理やり奪うような真似は大変危険で、命の保証はできない」――との物騒な忠告も付け加えられている。


 門衛はただちに馬に飛び乗り、赤城に急を知らせに走った。

 城からはすぐにオオカミたちを通すようにとの命令が帰ってきて、ジェシカたちは堂々と兵士に先導されてリディアのもとに向かうこととなった。


      *       *


「お前たちがユニの群れの姉妹だな? 見かけたことはあるが、ちゃんと顔を合わせるのは初めてだ。よろしく頼むぞ」

 リディアの執務室に通されたオオカミ姉妹を、赤龍帝は歓迎してくれた。

 ちょうど昼食とお茶を含めた休憩が終わり、午後の執務が始まったところである。


 彼女はこれまでユニの側につき従うライガとは何度も会っていたが、群れのオオカミたちは見たことはあってもほとんど没交渉だった。

 何しろオオカミたちはユニだけに関心を持っていて、主人に危害を加えない限りほかの人間には興味を示さなかった。そのため彼らの方からリディアに近づいてくることはなかったのだ。


 ところが、二頭揃って行儀よく〝お座り〟をしているこの姉妹は、尻尾を千切れんばかりに振り、きらきらした目でじっとリディアを見つめている。全身が好奇心の塊りといった印象である。

「まずはユニの書簡を見よう」

 そう言ってオオカミに近づこうとするリディアを、副官のヒルダが素早く手で制した。


「お待ちください。万が一ということもございます。通信筒は私が外します」

「……だが、齧られるぞ?」

 リディアが首を傾げながら物騒な脅しをかける。


「かっ、齧るのでございますか? おおおおお、おとなしそうですけど……」

「いや、ユニが門衛に宛てた手紙には、私以外の人間が外そうとすると、ぱっくり齧られると保証していた。

 手首まで齧り取られてむしゃむしゃ喰われるそうだ」

「ひいっ! ほっ、本当でございますか?」


 もちろん嘘であるが、二人の会話を理解したように、二頭はくるりとヒルダの方を見ると、鼻に皺を寄せ牙を剥き出して「うう~っ!」と低く唸って見せた。

 根が臆病なヒルダがびびって青い顔をしたのに満足した姉妹は、再びリディアを見上げると、「はっはっはっ」と舌を出しながら尻尾を限界まで激しく振る。

 赤龍帝はすたすたと姉妹オオカミのもとに歩み寄り、片膝をついてシェンカの首輪から通信筒を外し、中から薄い紙の束を取り出した。

 当たり前だが、オオカミたちはじっとして噛む素振りなど見せない。


 ヒルダが安堵の溜め息をつくのを見た姉妹は、てってってと彼女の側に移動した。

 リディアに書簡を渡したからには、姉妹の役目は終わっている。あとは遊ぶしかないのだ。

 銀色の髪に真っ白な顔をした副官が固まっていると、姉妹は『脅かして悪かった、姉ちゃん』『まーそう緊張するな』と言って(もちろん伝わらない)、前足をヒルダの太腿に「たん」と預けて安心させようとした。


 実を言うと、ヒルダは幼女のころに近所の犬に追いかけられ、尻を噛まれたのがトラウマとなって、犬――特に大型犬が大の苦手なのだ。

 その一瞬、ヒルダが意識を失ったのは秘密である。


 一方リディアは、それまでと一変した真剣な顔でユニの書簡を読んでいた。極めて薄く漉かれた十数枚の通信用紙には、細かい文字でびっしりとこれまでの経緯が書かれ、さらに赤龍帝への依頼がしたためられていた。

 薄い紙を破かないよう、慎重にめくって読み進めた彼女は、「ふむ」と鼻から息を吐き出すと書簡をヒルダの方につき出した。


「読んでみろ。なかなか面白いことが書いているぞ。

 ――こういう報告に接すると、四帝の立場というものが鬱陶しくなってくるな。

 ユニたちの行動、これぞ冒険ではないか!

 文明と知性を持ち人間語を解するオークだと? しかも彼らを指揮してゴブリンの大軍を迎え撃つだと? さらに敵の数は圧倒的で、ヒュドラという怪物まで支配している!

 あああああっ! 何であたしがそこにいないのかしらっ!」


 リディアの激しい口調に驚いたオオカミたちは、振っていた尻尾をぴたりと止めて心配そうに彼女のもとに近寄った。

 オオカミたちの表情を読み取った赤龍帝は、気まずそうに笑って膝をつき、姉妹の首を両腕で抱いて引き寄せた。

「ごめん、驚かせちゃったかしら。

 ユニの依頼は私が責任をもって果たすから、心配しないでね」


 彼女はそうささやくと立ち上がった。

「ヒルダ、どう思う?」

 若き赤龍帝から手渡された書簡を走り読みしたヒルダは難しい顔をしている。

「そうですね……何というか、ユニがここまで見事に面倒に巻き込まれていることに、まず驚きます」


 副官のあまりに素直な感想に、リディアは思わず吹き出した。

「いや、それはもうユニの運命だろう。確かに見事なまり方だな!」

「私もヒュドラと契約した召喚士のことは見知っております。

 彼は数年前にもう、あちらの世界に旅立ちましたから、ドレイク様のお知恵を借りるという発想は分かりますが……」


「それを聞いてオークたちの置かれた状況をどうひっくり返すというのだ? ――と言いたいのだろう? 同感だな。

 だが、そこがあの召喚士の面白いところだ。多分何か……とんでもない博打を思いつくのだろうな」


 赤龍帝は愉快そうに笑った。

 それを見たジェシカは『難しい話は終わったな?』と判断し、突然立ち上がって前脚をどんとリディアの肩に置いた。

 オオカミは「はっはっはっ」と舌を出しながら、顔を間近に近づけると『遊ぶのか? 遊んでくれるのか?』と言って小柄な赤龍帝の顔を覗き込む。

 きらきらした目で見つめてくるオオカミの心の叫びはリディアに伝わったらしい。


 赤龍帝は無礼なオオカミの足を払いのけ、副官に命じた。

「ヒルダ、午後の予定はすべてキャンセルだ。

 一五〇〇ひとごーまるまる時にドレイクを呼び出す。召喚の間にはこのオオカミたちも入れて、直接赤龍と話をさせよう」


 きびきびと指示を出す赤龍帝の小柄な身体に、今度はシェンカががばっと立ち上がり、前脚をどんと突いた。

 姉と同様に肩に足をかけようとしたのだが、つるつるする絹のブラウスに足が滑り、身体の割に豊かな胸の上に引っかかった。


 シェンカは感動した。

『ジェシカ! このお姉ちゃんユニ姉より胸があるから滑らない! ちょうどいい引っかかりよ』

『そっかー、これは帰ったらユニ姉に意見しなければいかんね。ただでさえ平らな胸なのに、コルセットでぎちぎちに締めているからあたしたちの足場がないというのは問題だわ』


 ユニが聞いたら多分二頭とも鼻面を殴られること間違いない。

 姉妹がリディアの胸を適当な足場として評価していることも知らず、彼女は乳房に押しつけられたシェンカの太い前足を両手でがしっと掴んだ。

「何なの、あんたたち!

 さっきから遊べ遊べって、あたしはこの赤城市を治め、王国第四軍一万を率いる赤龍帝なのよ!

 お前たちと遊んでいる暇はないのが分からないの?」


 リディアはそう言いながらシェンカの首を抱え込むと、引っ張り込むようにしてオオカミの下に身体を潜り込ませた。そしてそのまま素早く腰で跳ね上げながら相手を巻き込み、見事な払い腰でシェンカを投げ飛ばした。

 分厚い絨毯の上に自分より大きな獣を仰向けにすると、彼女はその上にのしかかり、胸といわず腹といわずわしゃわしゃとくすぐりまくった。


 シェンカは『きゃはははは!』と笑いながら、四肢をばたばたさせてリディアを蹴ろうとする。

 すかさずジェシカが『あたしも、あたしもー!』と叫んで飛びかかり、彼女のズボンに噛みついて闇雲に振り回した。

 おかげでリディアのズボンがズロースごと引っ張られ、きれいな白い尻がぺろんと丸出しになった。


「やめんかーっ! 尻がっ、あたしの尻がーっ!」

 リディアもそう叫んだきり笑い過ぎて過呼吸を起こしそうになる。

 ヒルダは目の前でごろごろ転げまわる馬鹿どもの醜態に呆れ果てながら、精一杯の自制心を働かせて確認した。


「それで、リディアさま。

 予定のキャンセルも赤龍召喚の件も承知しましたが、三時からでしたらまだ二時間あります。

 それまではどうされるおつもりなのですか?」


 リディアは抑え込んだシェンカの柔らかな腹毛を思う存分、モフっていたが、副官の事務的な問いにがばっと顔を上げた。

 ヒルダを見上げた彼女の顔は真っ赤に紅潮し、目はオオカミ姉妹とそっくりにきらきらと潤んでいる。

『決まっている、遊ぶぞ! あたしは遊ぶからな!』

 その目は全力で訴えている。

 裸の尻を丸出しにして、二頭のオオカミと取っ組み合いをしているこの馬鹿娘は、もはやヒルダの敬愛する聡明な赤龍帝ではなかった。


 気の毒な副官は眉間に海よりも深い皺を寄せ、山よりも大きな溜め息をついて執務室のドアを開けた。

「分かりました。では城の中庭で、気の済むまで遊んでください。

 ただし、お願いですからズボンと下着は上げてくださいまし」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る