密林の賢王 第十八話 滑り坂攻防戦
ゴブリン軍の先頭はもう坂の下まで二百メートルの距離に迫っていた。その後方の茂みからは次々に後続が現れ、黒い波のように隙間なく空き地を埋め尽くしていった。
彼らは皆、一様に坂の上を見上げている。
その上まで登れば、数の少ないオークどもを蹴散らせる。これだけの数で攻めれば、いかに防柵があろうと奴らに支え切れるはずがないのだ。
そしてこの坂さえ突破してしまえば、オークの村まで攻め入ることなど容易い。
どうせ村に残るのは女や子どもばかりだろう。思う存分殺戮し、すべての食い物を奪い尽くしてやる。
すると、その坂の上からばっと黒いものが飛び出したのが目に入った。
『鳥の群れでも飛び立ったのか?』
最初、彼らは呑気にそんなことを考えたが、すぐにその黒い粒々が緩い放物線を描きながら、どんどん大きく迫ってくるのに気づいた。
「おい、あれは……石かな?」
一人のゴブリンが、肩を触れ合って進む隣りの仲間に話しかけた。
返事があるだろうと思っていたゴブリンの耳に飛び込んできたのは、「ぱきゃっ」という何かが砕ける、とても軽い音だった。
彼が思わず横を振り向くと、そこにあったはずの朋輩の頭が消えていた。
あったのは下顎と何本か残った黄色い乱ぐい歯、そしてでろでろと踊っている長い舌、視認できるのはそれだけで、残りはわけのわからない赤い肉塊だった。
たちまち彼の周辺で悲鳴が上がった。数十人の仲間が、ばたばたと倒れていく。
「おい、また来るぞ!」
誰かの叫び声に慌てて振り返ると、また上空から黒い塊りが降り注いでくる。同時に、坂の上からは次の石がもの凄い勢いで飛び出していた。
石が降り注ぐたびに、ゴブリンたちは物も言わずに倒れていった。
悲鳴をあげられるのは運のいい証拠だ。手足にでも当たって骨が砕けただけで済んだのだろう。生きているからこそ叫ぶことができるのだ。
だが、大半のゴブリンは石が当たった時点で即死していた。
頭蓋をスイカのように割られる者、胸骨に石がめり込んで心臓を破裂させる者、無防備な腹に大穴を開けられて内臓を撒き散らす者――まさにこの世の地獄と言ってよい光景が、そこら中で繰り広げられていた。
投石攻撃は間断なく続いた。
一度に石を放つのは三十数発だが、投げた横列は素早く後ろに下がり、替わりに石を投石紐にセットした列が前に出て、投石態勢に入る。
下がった列は、積み上げられた山から石を補充して、前列が投げ終わるのを待つ。
オークたちはこれを三段構えで繰り返すことによって、連続して石の雨を降らせ続けた。
百人の投石隊が一人十回投げただけで千個の石の雨が降る。
滑り坂に積み上げられた石の山はおよそ三千個余り、オークたちは疲れを知らず、ますます意気盛んであった。
今までの訓練では、ただ的を狙って半分以上当てたらゴードンから褒められた。「うまく投げたい」という妙な向上心がオークたちを突き動かしていたが、的に当てても特別な達成感は感じなかったのだ。
それが実戦では、ほとんど無駄弾がなく敵が倒れていく。一つ投げれば血しぶきが上がり、二つ投げれば脳漿が飛び散るのだ。オークたちの凶暴な興奮は、投石を重ねるたびにいや増していく。
一方的な殺戮が戦場を支配し、眼下の地面を血みどろの泥濘に変えていった。
狙われたゴブリンたちには何一つ防ぐ手段がなかった。彼らには鎧もない、兜もない、盾もない。ただ怯えて泣き叫び、小便を洩らして逃げ惑うしかないのだ。
最初に投石の被害に遭ったのは、ゴブリン軍の先頭だった。
そこはあっという間にミンチと化した赤い塊りを地面にぶちまけて壊滅した。すると投石はその距離を伸ばし、中盤の部隊へと狙いを変える。
成す
しかしまだ何が起きているのか理解していない後続部隊と衝突し、彼らはたちまち逃げ場を失って渋滞してしまう。
逃げようとする臆病者を押しとどめる後続と、生き延びるのに必死な敗残兵の間で起きた醜い言い争いは、仲間同士の殺し合いに発展した。
混乱するゴブリンたちを嘲笑うように、その上空からさらに射線を延ばした石が降り注いでくる。
* *
烏合の衆に見えるゴブリンの中にも、指揮官を務める族長たちがいる。
壊滅する部隊を見た彼らは判断を迫られた。進むか、さもなくば逃げるかだ。
恐らく死者は軽く千人を超している。ここで逃げたら族長たちはただの愚か者になってしまい、その権威どころか地位そのものが怪しくなる。逃げるという選択肢はありえなかった。
ならば、進むしかない。
坂の下まで辿り着けば、少なくともあの石から逃れられそうだった。
よく見れば、石が飛んでくるのにはわずかだが間隔がある。
「走れーっ! ここに留まれば死ぬだけだ! 坂の下まで走り抜くんだ!」
族長たちは声を張り上げて部下を叱咤する。そして、自ら率先して走り出した。
混乱に陥った兵士は判断力を失う。彼らはどうしていいいか分からないのだ。
そこへ命令が下された。
ゴブリン兵たちはその命に縋りつき、一斉に走り出した。
たちまち坂の上から狙いを変えた石が飛んできて、疾走するゴブリンの多くを卵のように叩き潰した。
それでも、闇雲に駆け抜けたゴブリンたちは坂の下に取りついた。その数は千五百ほどである。
坂の下はオークの投石部隊からは死角になっている。投石はぱたりと止んだ。
実を言えば、オークたちは三千個もあった石を投げ尽くしていたのだ。
戦場に撒き散らされた無数の死骸を数える余裕はなかったが、恐らく敵の半数近くを潰したという手応えがあった。
アスカは自身が指揮する槍隊を配置につけ、坂を登ってくるゴブリンを待ち構えた。
役目を終えた投石部隊は満足そうに次の任務に向かう。
と言っても、彼らの役目は槍を手にして待機し、体力の回復に努めることだった。
つまりは予備隊である。
オークたちは前方で見事な隊列を組んで敵を待ち受ける仲間の雄姿を頼もしく眺めながら、互いに自らの戦果をがやがやと話し合っていた。
中にはまだ余っていた石を名残惜しそうに振り回している者もいる。
その少し緩んだ空気を切り裂くように、突然甲高い
同時に横手の茂みの中からゴブリンたちが飛び出し、喚き声を上げながら投石部隊に襲いかかってきたのだ。
「くそっ! こいつら、どうやって崖を登ってきたんだ?」
ゴードンは悪態をつきながらも、部下たちに応戦を命じた。
「槍を手にした者は
石を持っている者は、そのまま振り回して叩き潰せ!」
茂みから次々に飛び出してきたゴブリンは、投石部隊を圧倒する人数だった。恐らく五百人はいるだろう。
殺到するゴブリンの内、正面の者たちは槍を構えたオークたちに止められたが、それに倍する敵が迂回して側面に襲いかかってくる。
まだ投石紐を手にしていたオークたちは、歯を剥いて飛びかかってくるゴブリンの頭に石を振り下ろした。〝サップ〟あるいは〝ブラック・ジャック〟と呼ばれる殴打武器の要領である。
十分に回転させずただ振り回しただけでも、革に包まれた拳大の石は恐ろしい凶器となってゴブリンの頭蓋を叩き割った。
オークたちは群がるゴブリンに槍を突き刺し、石を振り回し、空いた手で殴りつけ、足で蹴りつけたが、あっという間に数に勝る敵との乱戦になった。
アスカは槍隊の最後衛となる一列を割いて、側面からの突撃を命じた。
百人の槍隊は、鋭く尖った木槍を繰り出してゴブリンの背後から突進し、たちまち血しぶきと絶叫が響き渡った。
反対側からはユニの号令でオオカミたちが突入し、片っ端からゴブリンを噛み殺して荒れ狂っている。
後衛部隊が乱戦となっている中、正面では坂をよじ登ってきたゴブリンたちと防柵に依った槍隊との攻防が始まっていた。
下方の空き地に千を超す屍をさらしながら、ゴブリンの数はなお千五百ほど。側面から奇襲をかけてきた別働隊と併せると二千人になる。
オークたちのほぼ五倍である。さらにまだ坂の下までたどり着いていない後続まで見える。
投石部隊の先制攻撃が効き、今はまだオークたちが優勢に戦いを支配していたが、時間が経てば数で押されるのが目に見えていた。
じりじりしながら戦況を見守っているオーク王のもとには、新たな凶報が届いた。
前衛で槍を振るう部隊から「ヒュドラが出たぞ!」という警戒の叫びが上がったのだ。
ダウワースの傍らにいたユニは、激しい攻防が続いている防柵のすぐ後ろまで走っていき、坂の下を覗き込んだ。
オークが言ったように、横手の茂みの中からのそのそと出てくるヒュドラの巨体が見える。
その茂みは前回の戦いでユニとオオカミたちが奇襲をかけた地点である。
「何であっちから……ヒュドラは何をしていたのかしら?」
考え込むユニの肩を、がっしりとした大きな手が乱暴に捕まえ、引き戻した。
「危険だぞ! 下がるんだ」
そう叫びながら、アスカがユニを突き飛ばす。
そして、オークの防衛線を突破して飛びかかってきたゴブリンを、抜き手で一刀のもとに両断した。
腹のあたりで二つに分かれたゴブリンは、悲鳴を上げる
アスカは習慣で「ぶんっ」と剣に血振りをくれたが、ミスリルで鍛えられたアスカの宝剣には一滴の血もついていない。
突き飛ばされて尻餅をついたユニは、すぐに立ち上がってアスカの背後に駆け寄る。
そして面貌を下ろした兜で表情の見えないアスカに向けて怒鳴った。
「奴ら、ヒュドラを踏み台にして崖を登ったのよ!
よくもそんな危ないことを……」
アスカは振り返らずにうなずく。
「ならば、ヒュドラが戻ってきたからには、もう奇襲部隊の後続はないということだな!
あっちはゴードンがどうにかしてくれそうだ。
となると、今度はヒュドラが問題か……。見ろ! もう奴が坂をよじ登り始めたぞ!」
戦況はアスカの言うとおりだ。
後衛で奇襲を受けた投石部隊は、槍隊やオオカミたちの援軍を受けて混乱を脱しつつあった。
ゴブリンの戦略は、一人のオークに七、八人が群がって動きを止め、オークの肉を囓り取って出血を強いるというものだ。
ゴブリンに肉を噛み取られるのは激しい苦痛を伴うが、それでオークがすぐに倒れることはなく、彼らは逞しい足を踏ん張って耐え続けた。
その間に援軍の槍隊が次々にゴブリンを突き刺してひっぱがす。
オオカミたちは巨大な顎と牙で小鬼を簡単に噛み砕き、強靱な首の力で放り投げていく。
ゴードンもハルバートを生き物のように操り、彼が一振りするたびにゴブリンの首が二つ、三つと同時に飛び散った。
ゴブリンの数が減るにつれて、
体中の噛み傷からだらだらと血を流し、全身を真っ赤に染めたオークたちは弱っているどころか怒り狂い、残るゴブリンを引っ剥がしては殴り殺し、蹴り殺した。
後衛部隊への奇襲は、すでに帰趨が明らかになっていた。
ヒュドラは首を伸ばせば四メートルほどの高さになる。
奇襲部隊のゴブリンたちは、ヒュドラの鱗に手をかけて身体をよじ登り、三本の首を伝って崖の縁に飛びつき、登ってきたのだ。
彼らは五百人もいれば、奇襲で十分オークを混乱させられると踏んでいたのだ。
以前のオークたちだったらそうだろう。
だが、今の彼らはアスカとゴードンによって、隊列を絶対に崩さないこと、集団で行動することを叩き込まれていた。
指揮官の素早い判断と隊列を維持し続けたオークたちは、容易に屈しなかったのである。
一方前衛では、坂をがしがしとよじ登ってくるヒュドラが迫っていた。
その巨体はオークたちが頼みとする防柵を簡単に押し潰すだろう。防衛線に穴が空けば、そこからゴブリンどもが雪崩を打って流れ込んでくるはずだ。
「ヒュドラは私が止める」
そう宣言していたアスカだったが、勝算があってのことではない。宝剣が怪物の鱗を切り裂くことは分かっているが、あの巨体で突進されたら食い止められるのか、まったく自信がなかった。
それでもアスカはヒュドラを迎え撃つため、防柵のオークたちの間に歩み寄った。
そして驚いた顔でこちらを見ているオークたちに、つたないオーク語で怒鳴った。
「大きな敵、来る。クソどもは邪魔だ、どけ!」
全身を鈍い銀色に輝く鎧で覆い、巨大な盾と長大な宝剣を構えた女騎士の姿は周囲を圧倒した。
横幅はともかく、彼女の背はどのオークよりも高いのだ。
彼女は次々に飛びかかってくるゴブリンを盾で殴りつけ、坂の下へと突き落とす。
右手の長剣が一閃すると、ゴブリンの身体はバターのように切り裂かれた。
そのすぐ目の前に、巨大な三本の首がゆらゆらと現れ、坂の縁にかぎ爪のついた短くて太いヒュドラの前足がかかった。
とても太刀打ちできそうもない怪物の出現に、防衛に当たっていたその場のオークたちは、持ち場を離れた。
だが、彼らは逃げたわけではない。アスカの邪魔になるからその場を明け渡しただけなのだ。
オークたちはアスカの両脇で木槍を構えた。ぴたりと揃った槍先は、登ってきたゴブリンたちに狙いをつけ、アスカに近寄らせまいとしている。
ゴブリンたちもまた、ヒュドラに巻き込まれて潰されないよう、両脇に分かれてなだれ込む好機を窺っている。
坂の縁にかかった前足が二本になり、ヒュドラの上半身が乗り出すように坂の上にのしかかり、太い丸太で組んだ防柵をあっさりと潰した。
三本の首は左右にゆらゆらと揺れ、しゅうしゅうと音を立てて毒の息を振りまいた。
アスカは両脇で踏みとどまろうとしているオークたちに怒鳴る。
「危険! ケツの穴どもは下がってクソでもしていろ!」
アスカのオーク語は力強くオークたちの胸に響いた。彼らは自分たちが教えた汚い言葉を平然と使う指揮官の雄姿に感激しつつ指示に従った。
そして、彼女は中原語で一段と腹に響く大声を張り上げた。
「我が名はアスカ・ノートン! リスト王国第四軍、蒼龍帝フロイア・メイナード様の部下である!
縁あって密林のオークに助太刀いたす! ゴブリンどもよ、我が宝剣の餌食になりたくなければ邪魔立てするな!
そしてヒュドラよ! 誇り高いドラゴンの一族でありながら、あくまで汚らわしいゴブリンの言いなりになるというなら、私がお相手しよう!」
空気をびりびりと震わせるような大声は、その場にいたオークやゴブリンを一瞬凍りつかせる。
もちろん彼らに人間の言葉は分からなかったが、彼女の凄まじい気迫と覚悟は十分に伝わっていた。
敵も味方もアスカを見つめている中、彼女は「参る!」と叫ぶなりヒュドラに向かって突進していった。
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