密林の賢王 第十七話 ゴブリン襲来

 ユニは床にうずくまって泣き続けた。手も足も抱え込んで、胎児のような格好になっている。

 アスカは慌てて駆け寄ろうとした。ゴードンも立ち上がり、その後に続く。


 だがユニとアスカの間に、ライガがのっそりと割って入った。

 オオカミは頭をアスカの鎧の胸に圧しつけ、彼女をむりやり下がらせた。そしてじっと彼女の目を覗き込む。


「どいてくれライガ、ユニの様子がおかしいのはお前にだって分かるだろう!」

 アスカはそう叫んでオオカミの脇をすり抜けようとしたが、ライガは大きな体をすばやく寄せて立ち塞がる。


「ライガ……。ユニを――そっとしておけと言っているのか?」

 オオカミはひょいと頭を下げた。うなずいたようでもあり、謝ったようにも見える。


 そこへ突然宿舎の入口のむしろを跳ね上げてヨミが飛び込んできた。

 彼女はちらりとアスカたちを横目で見ると、すたすたと床に縮こまっているユニのもとに歩み寄る。

 そして彼女を大きな口でそっと咥え上げるとずるずる引きずり、さっきまでライガが占領していた干し草の寝床に連れていった。


 ヨミはユニを寝かせると、ぼふっと音をさせてその横に寝そべる。

 そして自分の腹の方にしゃくり泣いているユニを抱き寄せ、髪や頬をゆっくりと舐めつづけた。


 ライガは相変わらずアスカとゴードンを近寄らせまいとしていたが敵意は見せず、むしろゆっくりと尻尾を振っている。

 アスカは自分をじっと見上げているオオカミと正面から向き合った。

 やがて彼女は小さく溜め息をついた。


「……分かった。ユニはお前とヨミに任せる。

 私たちはここを遠慮すればよいのだな?」

 ライガが再び頭を下げたのを見ると、アスカの解釈は間違っていないらしい。


 アスカはゴードンの方に顔を向けた。

「ゴードン、ここを出るぞ。

 王に頼んで泊まらせてもらおう」

 彼女はそう言うと、身の回りの品を袋に詰め始めた。


 ゴードンは面食らっている。

「ああ、別にそれは構わないが……お前、オオカミとも話せたのか?」


 アスカは首を捻る。

「いや、全然分からない。

 だがライガの目を見ていると、何となく彼の言いたいことが伝わってくるんだ」


「そんな……もんかね」

 ゴードンは首を振った。彼にはオオカミの表情が分からないが、アスカがそう言うならそうなのだろう。

 アスカは嘘を言わないひとだ――彼はその点を疑わず、自分を納得させた。


 二人はすぐに支度を終え、宿舎を出ようとした。

 ライガが入口まで見送るように付いてきた。

 アスカが振り返り、穏やかなライガの表情を見て笑みを浮かべた。


「ほら、ゴードン。ライガを見てみろ。

 『ユニのことは俺たちに任せろ』と言っているようだろう?」

 ゴードンは肩をすくめて外へ出た。アスカもその後に続く。


 ライガは二人が出ていくのを見届けると、ユニとヨミの側に戻った。

『俺が言ったのは〝ユニはヒステリーの発作を起こしただけだから心配するな〟だったんだがな……。

 まあ、当たらずとも遠からずって奴だ』


      *       *


 アスカとゴードンは王の住居に泊めてもらい、朝食もそこでご馳走になった。

 ユニの方にはジャヤが朝食を運んでいったが、ライガが彼女を中に入れなかった。

 アスカはユニのことが心配だったが、何しろゴブリンの襲撃が迫っているので、やることが山ほどあった。


 アスカとゴードンが遅い昼食を摂るために王の住居に戻ってくると、驚いたことに中でユニが待っていた。

「ユニ! 寝てなくていいのか?」

 アスカが駆け寄ってユニの両肩を掴んでも、傍らのライガは邪魔をしなかった。


 ユニは照れくさそうに笑って頭を下げた。

「アスカもゴードンもごめん。みっともないところを見せちゃったわね。

 もう落ち着いたから大丈夫」


 そうは言うがユニの顔色は酷いものだった、目の下には黒ずんだ〝くま〟が浮かんでおり、一晩でげっそりと憔悴していることが明らかである。

 ユニはアスカとゴードンの顔を見て、彼らの無言の感想を感じ取り、大きく溜め息をついた。


「あー、やっぱり説明しなくちゃ駄目よね?

 お昼を食べながらでいいでしょ」

 彼女はそう言って奥へ入っていった。


 王はアスカたち以上に忙しく、朝から不在のままだった。

 昼食はジャヤが用意してくれたが、配膳が終わるとユニが詫びて彼女には遠慮してもらった。


      *       *


 ユニはこれまで二百人近いオークを殺してきた。

 その彼女にとって言葉が通じ、知性・感情・文化を持った密林オークの存在は認めがたいものだった。

 それを認めたら、ユニの精神は罪悪感で圧し潰されてしまう気がするからだ。


 そのため、この任務の初めからユニはそのことを意識して考えないようにしていた。

 だが、オークの国で過ごす日々が重なるごとにその矛盾が重くのしかかってきて、彼女の心は悲鳴をあげ続けていたのだ。


 それが昨夜、アスカの「オークは人間だ」という言葉で決壊した。

 ライガは〝ヒステリー〟と言ったが、精神がパニックを起こし、感情が爆発したのである。


 ユニはそうしたことを淡々と説明した。それが説明できるということは、彼女の精神が落ち着きを取り戻している証拠であった。

「それで、今はもう納得ができているのか?」

 アスカの質問にユニは首を横に振った。


「まさか。そんな簡単には解決するほど軽い問題じゃないわよ。

 とにかく、彼らのことは認めるしかないわ。でも、あたしたちはオークのことを何も知らないままなの。

 密林オークが本来のオークの姿だとしたら、辺境に出るオークが何者なのか?

 それはゴブリンとの戦いが終わって、ダウワース王から詳しく聞き出さない限り分からないもの。一時棚上げにするしかないじゃない」


「……と、まぁ偉そうに言ったけど、午前中ずっとライガとヨミからお説教されてたことの受け売りよ」

 そう言ってユニは笑った。恥ずかしいのか頬が少し赤くなる。

 アスカはその表情を見ながら『うん、いい兆候だな』と少し安心した。


「それとね、お使いに出していたジェシカとシェンカが戻ってきたのよ。

 あの姉妹の前で暗い顔をしてたら姉ちゃん失格だもの。元気になるしかないわ」

 そう言ったあと、ユニは表情を一変させた。

「それで、赤龍帝からの返事をもらったんだけど、その件について王を交えて相談したいの」


 ユニは二人にここで待つようにと言って、自分はライガとともに王を探しに行くと立ち上がった。

「リディアの返事は王さまが揃ったら教えてあげるわ。面白いわよ!」

 彼女はそう言って、アスカの脇をすり抜けようとした。

 その途端、彼女は足をもつれさせ、転びそうになった。

 すかさずアスカがユニの細い胴を抱きかかえ、まるでぬいぐるみでもあるかのように軽々と持ち上げ、とんと地面に立たせた。


 アスカはまるで泣き出しそうな困った顔をして、ユニの耳元にささやく。

「あまり無理をするな。お前の味方はオオカミだけではないことを忘れるな」

 ユニはくしゃくしゃな顔をして、黙って飛び出していった。


      *       *


 しばらくすると、ユニは滑り坂への石の運搬を指示していたダウワースを捕まえ、緊急の話があるとむりやり引っ張ってきた。

 彼女はアスカとゴードン、オーク王に加えてジャヤにも同席してもらい、赤龍帝からもたらされた情報を伝え、それを基にしたある作戦を提案した。

 その作戦は一同の賛同を得て、さっそくその準備が進められることになった。


 ただでさえ多忙な王は、新たな仕事が追加されたことに頭を抱えた。

「俺の身体はひとつしかないんだぞ!」

 すると、アスカが首を傾げた。

「ならば、ジャヤに任せればいいだろう?」


 王は〝意外だ〟という表情で問い返した。

「いや、こいつはまだ子どもだし、それは無理だろう」


 アスカは王のぽかんとした顔を見て吹き出した。

「いやいや、ダウワース王。ジャヤは立派な大人だぞ。

 この仕事はジャヤにこそ適任だと私は思うな」


 ユニはうなずいてきっぱりと言った。

「末っ子が可愛いのは分かりますが、彼女の能力は公平に評価すべきですよ。

 ジャヤは間違いなく〝賢王の娘〟です」


      *       *


 この日の午後には、百人の先発隊が滑り坂に向けて出発した。現在坂を守っている警備部隊と交代するためだ。

 警備部隊はアスカとゴードンの訓練を受けていないため、そのまま残して戦闘に参加させても混乱するだけである。


 翌朝には、三百人の本隊がダウワース王に率いられて出発した。先遣隊と併せて四百人という数は、相当の無理をしたオークたちが出せる最大戦力と言っていい。

 ユニとオオカミたち、アスカ、ゴードンも同行する。そしてジャヤも当然の顔をして参加していた。


 オークは女性を戦場に連れていくことを嫌ったが、貴重な通訳である彼女がいなくては困るのだ。

 通訳ができる長姉のシバは懐妊中のため、さすがに村に残された。


 部隊は徒歩である。緊急時であれば走るのだが、まだゴブリンを発見したという報告は入っていない。

 滑り坂は国の中心である村から北東、約十キロの地点にある。徒歩でも二時間半ほどの距離だから意外に近い。

 もしここを突破された場合、ゴブリンの大軍が村を襲うのが目に見えている。


 オーク本隊が滑り坂に到着すると、現地は混乱の真っ最中だった。まるで王の到着を待っていたように、見張り所の偵察員から「ゴブリン発見」の報が飛び込んできたのだ。

 見張りは登っている木の幹を棒で叩いて、その回数で敵の発見、進む方向などをリレー方式で伝達する仕組みになっている。


 アスカとゴードンは即座に部隊の配置にかかった。各班(小隊に当たる)の指揮官に命じ、事前に決めてあった位置につかせるのだが、やはり訓練どおりにはいかず、最初は混乱する班が多かった。


 しかし二人は場慣れしているのか、鬼軍曹そのもので容赦がなかった。片言のオーク語で怒鳴りながらまごつくオークの後頭部をどつき、時には蹴りを入れて配置を急がせる。

 あっという間に混沌としていた坂の上は、統制の取れた動きを取り戻してきれいな陣形が完成した。


 ユニはジャヤの隣りに立って、その様子を半ば呆れながら眺めていた。

「な、なんか二人とも凄いわ。それに本当にオークの言葉で話してる――っていうか怒鳴ってるわね。

 あれ、ジャヤちゃんが教えたの?」


 ジャヤは苦笑しながら首を振った。

「いえ、お二人はいつの間にか覚えてしまいました。私の方がびっくりしています。

 ただ、アスカさまの方が何と言うかその……」

「ん? アスカのオーク語が変なの?」


 ジャヤはぶんぶんと顔を振って、顔を赤らめた。

「いえ、決して! アスカさまはお上手に話されています。

 ただ、その……言葉遣いが男性、いえ戦士そのものなので――つまり、ちょっと女性としては汚い言葉をお使いなのです」


 ユニは何となく察しがついた。どこの世界でも兵士たちの言葉遣いは荒く、下品なものである。

「えーと、つまりその……かなりアレのなのね? ……その、性的な意味で」

 ジャヤは真っ赤になってこくんとうなずいた。

 つまりアスカの怒声には、〝玉〟とか〝尻の穴〟とか、性行為や変態行為を意味する用語がふんだんに散りばめられているらしい。


「アスカはそのことに気づいているのかしら? ――いえ、そんなわけないわね。

 その辺は後でジャヤちゃんが指導してあげてちょうだい。アスカはそっち方面にはもの凄く〝うぶ〟だから、優しくね。

 ――それにしても、ゴードンの部下たちは見事なものね……」


 ユニが感嘆の溜め息を洩らしたのも無理はない。

 ゴードンが指揮する百人のオーク投石部隊は、三十数人の横列をきれいに揃え、しかもその後方には二段の後衛が控えている。


 その飛距離と威力、そしてコストの低さといいことづくめの投石具スリングであったが、弱点も存在した。

 それは密集隊形がとれないことである。


 これが弓矢であれば、弓兵が密集し一斉に射ることが可能で、雨のように降り注ぐ矢の威力は凄まじいものとなる。

 集団戦闘が常識の人間の戦争では、ただこの欠点のために投石が衰退した(もっとも、攻城兵器、あるいは逆に城の防衛兵器としての大型投石器カタパルトは立派に現役で、各地の戦場で使われていた)。


 スリングであれスタッフスリングであれ、石を振り回す予備動作が必要となるため投擲者の周囲には一定のスペースが必要となる。万が一にも回転する石が隣りの兵に当たったら、ただでは済まないからだ。

 しかも投擲が失敗して、数メートル手前の地面にめり込むことだって考えられる。それが地面ならいいが、めり込む相手がオークだったら即死は免れない。投石部隊の前に味方がいては危険過ぎるのだ。


 そのため、アスカは柵の前に展開させる槍兵たちを、ゴブリンが坂の下に迫るぎりぎりまで配置しないことにした。

 投石部隊を両脇で挟むように整列し、彼らのお手並み拝見という態勢をとらせたのだ。


      *       *


 刻々と伝えられてくるゴブリン軍の動静は、近づくにつれ具体的になってきた。

 軍勢の規模は三千五百前後、予想よりも多い。ヒュドラは軍勢の中央部分で黄色いゴブリン兵に取り囲まれて追い立てられているということだった。

 小柄なゴブリンたちの間にあって、その巨体は群を抜いている。宝剣と鎧の加護があるとはいえ、ただの人間であるアスカがあれとまともに渡り合ったのは奇跡としか思えなかった。


 ゴブリンたちは、これまでにない大軍に完全に酔いしれていた。誰もが「自分だけはやられない」と確信し、憎いオークどもを食い殺し、豊かな狩場を奪い取ることで頭がいっぱいになっていた。

 そこには恐怖も理性も存在しない。ただ飢えと欲望がないまぜとなった破壊衝動が小鬼たちを熱狂させ、突き動かしている。


 びっしりと密集した黒い集団の先頭は、いよいよ森を抜けて姿を現した。五百メートルほど先だが、もう滑り坂から遠望できる。きーきーという耳障りな叫び声が、風に乗って聞こえてくるほどだ。


 ゴブリンたちの後続は次々に森から抜け出て、広い坂下の空き地を埋め尽くさんばかりになってきた。

 ただ、奇妙なことにヒュドラと黄色ゴブリンたちはいつまで経っても姿を見せなかった。


 オーク側は当然それに気づきいぶかしんだが、今や坂から三百メートルにまで迫り、なおも距離を詰めつつあるゴブリンどもを何とかする方が優先である。


 これが初陣となる投石部隊は大量の獲物を前にして奮い立った。

 距離は十分! 敵は馬鹿丸出しで密集していて、狙いを定める必要もない。


 各指揮官の号令で、最初の横列は投石紐スリングをぶんぶんと振り回し始めた。石の回転は徐々に速くなり、クマバチの羽音のような風切り音は甲高い笛のように変わり、不穏な空気を醸し出すように鳴り響いていく。

 ゴードンは短い期間だが、必死で鍛え上げてきた部下たちの雄姿を満足げに眺めていた。


 この可愛い部下たちは、訓練の間にシバが通訳するゴードンの言葉を一言も聞き逃すまいと、我先に集まってきた。

 訓練は朝食と昼食の間、そしてオークの習慣である昼寝休憩を挟み、夕食の前まで続いたが、彼らは夜間も松明を焚き、夜が明けた早朝から自主練習に明け暮れていた。

 わずか一週間の訓練で、オークたちの命中率は飛躍的に向上し、今では熟練したゴードンと遜色ないレベルにまで達していたのだ。


 ゴードンは傭兵である。隊商の護衛として、己が力を頼りに野盗どもと渡り合ってきた。

 運よく生き延びてベテランとなった最近は、若い連中の面倒を見ることも増えてきた。

 だが、このオークたちのように、はっきりと部下として大勢を指導したのは初めての経験だった。


 部下たちの信頼に満ちた〝きらきら〟とした眼差しは、蜂蜜よりも甘くゴードンの心をとろけさせた。

 もはやオークも人間も関係なかった。そこにいるのは彼が育て上げた頼もしい部下、ただそれだけなのだ。

 今、この戦場で誰よりも高揚し、誇りに満ち溢れているのは俺のほかにいない――彼はそう確信し、全軍の腹にびりびりと響くような大音声だいおんじょうで戦いの火ぶたを切る号令を発した。


「放てーーーーーっ!」

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