密林の賢王 第十六話 偵察報告

 ゴードンは王の許可を得て、午後から投石紐スリングの体験会を実施することになった。これは投石部隊編成のための選抜を兼ねている。

 その準備のため、王は三十人ほどの若いオークを彼のもとに遣わした。通訳はジャヤである。


 彼は村のはずれの土手に十個の的を作った。的と言っても、土手に一メートルほどの丸太を押し付けて十字型の溝を作り、そこに灰を詰めて白くしただけである。

 その的から三十メートルほど離れた地面に線を引けば、練習場の出来上がりだ。


 練習場の設営は十人の若者に手伝わせ、残りの者たちは石集めを頼んだ。

 「拳くらいの大きさを集めてきてくれ」というゴードンの指示だったが、彼らは驚くほどの短時間で石を運んできた。


 オークたちは石器を作るため、日ごろから大量の石を村はずれに集めていた。さまざまな用途の石器を作るには、それぞれ適した石がある。

 当然、集めた石の全てが使われることはなく、かなりの石が不合格品として捨てられることになる。オークの若者たちはそこから石を拾ってきたのだ。


 それを投擲ラインの前にごろごろと積み上げると、簡単に十個の石山ができあがり、たっぷりの予備まで用意された。


 オークたちによる準備が進む間、アスカはゴードンに教わってスリングを試してみた。

 最初は手を離すタイミングが分からず、石が放物線を描いて高く飛んでいったが、アスカは予想外の速度と飛距離に驚いた。

 そして、ゴードンのアドバイスを受けながら二、三度練習すると、彼女はコツが掴めたらしく、後半は投擲した石がすべて的の範囲内に命中した。


 十回の試射を終えたアスカは溜め息をついた。

「これは……知識では知っていたが、やってみると威力が実感できるな。しかも、意外に狙いどおりに飛んでくれる」


 ゴードンは苦笑した。

「いや、あんたは異常に飲み込みが早いよ。

 とは言え、普通の人間でも何度か練習すれば投げ方は覚えられる。数日続ければ命中率も高まるだろうな。

 これは的が近いから真っ直ぐ投げればいいが、遠くに飛ばすなら放物線を描くようにもっと上に向かって投げるんだ。これもちょっと練習すれば、思いどおりの距離に投げることができるぞ。

 誰でも二百メートルくらい楽々飛ばせるし、熟練者なら簡単に三百以上飛ばす。

 スタッフ・スリングも試してみろ。こっちの方が覚えるのは簡単だから、すぐにできるはずだ」


 アスカはゴードンに渡された棒を握ってみた。構造が単純なだけに見ただけで直感的に使い方が理解できる。

 しかも今度は両手で棒を持つことになるから、さっきゴードンがやって見せたように、より大きく重い石でも飛ばすことができる。


 アスカが石をセットし投げ釣りの要領で棒を振り抜くと、自動で革紐が抜けて石がもの凄い勢いで飛んでいく。

 これも数回練習しただけで、彼女はあっさりと投げ方を体得してしまった。


「なるほど、スリングは紐を離すタイミングを掴むのが少し難しいが、こっちの方だと勝手に抜けてくれるのか。

 それにしても……手軽で威力も飛距離も申し分なくコストもかからないというのに、どうしてスリングが廃れたんだろうな?」


 ゴードンは肩をすくめた。

「軍学校じゃそこまで教えないか……。

 弓矢が発展して強力になったこともあるんだが、簡単に言えば危ないからだ。そのせいで運用――はっきり言えば戦力集中が難しい」


「どういうことだ?」

「まぁ、お前ならそのうち自分で気がつくだろうさ。

 それよりアスカ、そのくらいできるなら十分だ。お前もオークに教えるのを手伝ってくれ」


      *       *


 アスカたちが忙しく準備をしている間、ユニは宿舎の中にいた。

 彼女だけではない。ライガとヨミ、彼らの娘であるミナと夫のハヤト、そして孫に当たるジェシカとシェンカの姉妹もいる。

 ユニは姉妹のオオカミの首に丈夫な革紐を結びつけていた。


『何だかなぁ……そいつは犬の首輪みたいで気分が悪いな』

 ハヤトが不満そうに唸ったが、姉妹の方はさほど気にしていないようだった。

『そうか? あたしはカッコいいと思うけどー』

『んだんだ、オサレだべ。とーちゃん、心配するとハゲるぞ』


 ユニは苦笑しながら革紐に付けられた金属の筒に、油紙で包んだ紙束を入れた。

「いい、ジェシカの首につけた手紙は、赤城の門衛に読んでもらうのよ。シェンカの方のは、絶対にリディア以外の人に渡しちゃだめよ。わかった?」

『らじゃ!』

『かしこまりー!』


『しかし……こいつらで大丈夫なのか?』

 ライガが疑いの声をあげると、ハヤトが勢い込んで同意する。

『そうだぞユニ! 何なら俺が行こうか? その方が早いぞ』


『何バカなことを言ってるの! あんたはゴブリンと戦わなきゃダメでしょう。

 それともなに? このたちを戦場に出した方がいいわけ?

 この間だって、危うくゴブリンにやられそうだったこと、もう忘れたのかしら?』


 ミナにぴしゃりとやり込められたハヤトは口をつぐんだ。口で女に敵わないのは、人間もオオカミも変わらないのだ。

「まぁまぁ、ミナの言うとおりよ。お使いはこの子たちの方が適役よ。

 それに、これはあたしの勘だけど、彼女たちはリディアと相性がいいと思うの」


『それで、赤龍帝への手紙には何が書いてあるの?』

 孫娘の毛並みに乱れがないか点検しながらヨミが訊ねたが、ユニはいたずらっぽく笑って答える。


「伝書鳩は街道から離れる時に全部放しちゃったでしょ? その後の出来事の報告よ。あまりに書くことが多すぎて、短くまとめるのに苦労したわ。

 それと、……あとはちょっとした保険ね」


 ユニは姉妹の首を両手で抱き寄せ、頬ずりをした。

「それじゃ頼んだわよ! くれぐれも気をつけてね」

『ユニ姉、心配性だなー。あたしたち大丈夫よ、ねっシェンカ?』

『うん、万一の時のために合言葉も決めたもん』


 ユニはたまらずに吹き出した。

「あんたたちに合言葉なんて必要ないじゃない! でも、なんて決めたの? やっぱり『山』『川』かしら」

『ちっちっち、古すぎて笑えねーぜ。いい? あたしが〝チェックメイト・キングツー〟なわけよ』

『そんであたしが〝ホワイト・ルーク〟ね! どお? カッコいいでしょ』


      *       *


 その後、ユニは薬師のハルマ婆ちゃんに約束した薬草づくりにかかりきりになっていた。オークの女衆が大量の薬草を採ってきてくれたのだが、実演を交えてその加工法を指導しなければならなかったのだ。

 彼女がへとへとになって宿舎に戻ってくると、ジャヤがちょうど夕飯を運んできたところだった。

 アスカとゴードンも戻っていて、二人ともユニ同様にぐったりとしている。


「そっちはどうだったの? オークにスリングを教えてたんでしょう」

「そうだな……うん、大盛況だったよ」

 アスカは疲れたように笑った。


「アスカさまは大変だったんですよ! 集まったオークは四百人くらいいましたからね。その一人ひとりにお手本で石を投げて見せ、手取り足取り教えてさしあげたんですから。

 もう、本当に凄い体力ですわ! 人間にしておくのが惜しいくらいです」

 ユニたちの前に肉入りのスープの入った椀を並べながら、ジャヤが躍起になって説明する。


「おいおい嬢ちゃん、俺だって半分のオークを引き受けたんだぞ? 少しはこっちも褒めてくれよ」

「はいはい、ゴードンさまも頑張りました!」

 ジャヤのそっけない返事に苦笑いを浮かべながら、ゴードンはその日の練習場の様子をユニに教えてくれた。


      *       *


 実際に教えてみると、アスカほどではないが、オークたちもまた勘がよかった。

 彼らが見た目以上に器用であるのと、人間より腕が長く投擲に適した体型だったことが幸いしたのだろう。

 ほとんどのオークは十個の石を投げる間にこつを掴んでくれた。


 始めはゴードンとアスカがジャヤの通訳で一人ずつ教えていたが、ゴードンは呑み込みの早くて見込みがありそうなオークを、その場で次々に助手に採用していった。

 オーク語を話せる彼らの方が、投げ方を教えるには都合がよかったのだ。


 しばらくすると、アスカとゴードンは教えるのを助手たちに任せて監督役に回った。助言が必要と判断した時だけジャヤの通訳で指導することにした。


 アスカが上手く投げられずに苦労している若いオークを見つけ、手を取って姿勢を直し、身振りで投げ方を修正してやると、彼が放った石は三十メートル先の的の真ん中に命中した。

 その途端、オークは振り返ってアスカの両肩を掴み、的の方を指さしてオーク語で喚き出した。


「おい見てくれ! 俺の投げた石が、あんな凄い勢いで的に当たったぞ! 凄え、すげえぜ! あんたたちもすげえが、俺だってすげえ! なっ、そう思うだろう?」

 興奮していた若者は、オーク語でそう叫んでいたのだ。

 彼は目をきらきらと輝かせ、満面に笑みを浮かべながらアスカの肩をがくがく揺すぶり、伝わるはずのない言葉で夢中になって捲し立てる。


 慌てて通訳に駆けつけようとしたジャヤを手で制して、アスカは笑って若者の背中をばんばんと叩いた。

 彼女には若者の言っていることが痛いほどに伝わっていたのだ。


 練習を開始して二時間ほど経って、ようやくすべてのオークが試し投げを終えた。ゴードンは集まったオークの数を見て、夕方までかかることを覚悟していたのだが、後半は助手になるオークが増え、相当はかどったのだ。


 オークたちが子どものように無邪気にはしゃいで石を投げている間、ゴードンは助手にしたオークたちの名をジャヤに聞き、持っていた手帳に書きつけていた。


 一通り試技が終わった後、ゴードンはオークたちを集めて投石部隊に採用する者を発表し、明日から早速訓練に入ることを告げた。そのほとんどは、彼が見込みありと判断して助手に採用したオークたちだった。


 大いにやる気になっていたオークたちから多少の不満は出たが、ゴードンが選んだ者の実力は彼らも目の前で見ていたので、揉めるようなことはなかった。

 そこでこの〝石投げ体験会〟は終了、解散となるはずだったが……ゴードンたちが帰りかけても、まだ半分以上のオークが残ってスリングで遊び続けていた。


 彼らは石投げに夢中になってしまい、数人のグループをいくつも作って勝手に対抗戦を始めてしまった。

 そう言えば聞こえはいいが、実際は〝賭け〟である。


 ゴードンたちは放っておくわけにいかず、その場に残ることになった。

 もうその時点でオークたちの目が血走り、頭が沸騰しつつあったからだ。

 案の定、あっという間に〝どっちの石が的に近かった〟で争いが頻発し、殴り合いの喧嘩が起こる始末だった。

 通訳のジャヤを含め、ゴードンとアスカは勝負の判定や喧嘩の仲裁に翻弄され、むしろこの番外の騒動で疲れ果てたのである。


      *       *


 翌日からゴードンの投石部隊は本格的な訓練を開始した。

 通訳には王の長女であるシバという女オークがついてくれた。


 ゴードンにもオークの顔の違いや年齢が、村で過ごすうちにある程度見分けられるようになっていた。

 シバはジャヤとよく似た顔をしていたが、既婚者だけあって言葉や仕草に落ち着きがあり、ついでに見事な太鼓腹と巨大な乳房を誇らしげに揺らして貫禄十分の女性だった。


 ジャヤはこの姉を「美人で羨ましい。自分も姉くらいに太りたい」と口癖のように言っていたが、ゴードンには理解しがたい気持ちである。

 彼女の中原語はたどたどしく、ジャヤと比べられるレベルではなかったが、軍事訓練に大した語彙はいらないので、思ったより不自由しないで済んだ。


 部隊の練習は、半分以上の石を的に当てることから始め、的との距離をだんだん離していって、距離の出し方を身体に叩き込んでいった。

 ゴードンはあえてコントロールが難しいスリングで訓練させた。扱いやすいスタッフ・スリングで楽をしてしまうと、後から普通のスリングで覚えるのに、かえって時間がかかるためだ。


 オークの体つきは投石と相性がいいだけあって、彼らの上達ぶりはゴードンも驚くほどだった。

 それだけでなく部隊が昼食で休憩になると、どこからともなくオークたちが集まってきて、空いた練習場で勝手に石投げを始めるのだ。


 ゴードンはそれを黙認して止めなかった。

 オークたちは石投げを楽しんでおり、それは悪いことではない。

 彼らは「狩りで使うのだ」と張り切っていたが、密林の中では投石具は使いづらく、予備動作が必要なので獲物に気づかれてしまうだろう。


 狩りならば直接手で石を投げる方がよほど有効だ。

 彼らはすぐにそのことに気づくだろう。その上でこの道具をどう使っていくのかは、オークたちに任せるしかないのだ。


      *       *


 アスカの方は槍の基礎訓練を行いながら、ゴードンがやったのと同じ方式で指揮官候補を選抜していった。

 その上で彼らを班別に分け、それぞれに指揮官を配して命令は絶対であることを叩き込んだ。


 この班分けと指揮官の配備には、ジャヤの助言が大いに役立った。

 彼女はオークたちの家系、育ち、仲の良し悪しまでこと細かに把握していたのだ。


「この村は国そのものですし、みんな家族のようなものですから……」

 ジャヤはそう謙遜したが、これはそう容易いことではない。言葉の覚えもそうだが、彼女がいかに優秀かを物語っていた。


「いや、助かるよ。お前は頭がいい。少なくとも私はそう思う」

 オークよりも背の高い女騎士の礼と誉め言葉に、彼女は真っ赤になった。アスカの言い方はぶっきらぼうだったが、それだけに真情がこもっている。

 ジャヤはアスカのそんなところが大好きだった。


 班分けが済むと、アスカは陣形の説明に移った。

 これまでオークたちは、柵に拠って槍を突き出す者と、その背後で柵を乗り越えてきた敵に対処する二手に分かれていた。

 これでは、前衛の部隊が敵を防いでいる間、後衛部隊は遊んでいることになる。

 かといって柵の長さの関係から、全員を前に配置する余地はない。


 アスカはオークを三段に分けた。柵の前にしゃがんで隙間から槍を突き出す役、その後ろに立って上から突き下ろす役、そして後衛である。

 当然しゃがんで敵を突き落とす役が最も負担が大きい。

 そこである程度の時間が経ったら彼らを後退させ、後ろで立っていた者たちにその位置と交代させた。

 同時に後衛が前に出て、しゃがんだ者たちの後ろに立って槍を振るわせる。

 後退した最前列は後衛に下がり、体力の回復に努めることができる。


 これを指揮官の号令に合わせて、集団が揃って素早く動けるよう、何度も訓練を繰り返した。

 始めはオーク同士でぶつかったり、動きがばらばらでまごついたりしたが、三日も経つとかなり機敏に動けるようになってきた。

 毎日のように訓練の視察に来ていた王は、オークたちの統率がとれた動きに感心し、大いに喜んでいた。


      *       *


 ゴブリンの本拠を探りに行っていたオオカミたちが帰ってきたのは、彼らが出発して五日後のことだった。

 ライガは状況の説明のためにユニたちの宿舎にやってきたが、入ってくるなり干し草の寝床の上に身を投げだし、長々と伸びをした。

「ちょっと、ライガ。そこあたしの寝床よ!」


 ユニの抗議を無視して、オオカミは目を閉じたまま偵察の報告を始めたが、その前に悪態をつくことを忘れなかった。

『いいかユニ、俺はもう二度とゴブリンの巣穴を調べ回るなんて〝糞ったれ〟な仕事は受けないからな!

 奴らの悪臭に比べれば、オークの村の方が百倍マシだぞ。

 まったく、ゴブリンどもは永遠に糞溜めに溺れる呪いにかけられてしまえ!』


「はいはい、愚痴はそのくらいで十分よ。それで、ゴブリンの規模は掴めたの?」

『あいつらは地面に巣穴を掘って、その中で暮らしている。

 だから巣穴の中にどのくらいのクソどもが詰まっているのか、まったく分からないな』


「あら、あんたたちの自慢の鼻でも嗅ぎ分けられないの?」

 ユニのからかいに、ライガは憮然とした声で答える。

『あいつらはそれぞれの巣穴の中に便所を作って、そこに糞尿を溜め込んでいるんだ。喰い残しの骨や皮はおろか、死んだ仲間の死体までそこに投げ捨てるらしい。

 そのせいで奴らの巣穴からはもの凄い悪臭がする。とても中の人数なんて判別できるわけがない。

 俺たちの嗅覚は繊細なんだ。あんな悪臭を嗅がされるなんて、ご先祖に申し訳が立たんぞ』


「ふ~ん。じゃあ、結局ゴブリンがどれくらいの人数か分からなかったのね?」

 それは見え透いた挑発だったが、それを無視するのはオオカミのプライドが許さなかった。


『馬鹿を言うな! なんのためにこれだけ日数をかけたと思ってる。

 俺たちは手分けして、主要な巣穴を見張り続けたんだ。

 奴らは一日中巣穴に籠っているわけじゃない。食糧を得るために必ず外に出てくる。

 俺たちは狩りのために出てきたゴブリンどもを数えた。狩りと言っても、奴らの場合は〝虫採り〟だ。地面を掘ったり腐った木をひっくり返してイモムシやミミズを集める。

 あとは木に登って鳥の卵を盗み、ついでに木の実も採る。動物で捕まえるのはネズミがせいぜいだが、それが奴らにとっては一番のご馳走らしい』


 ライガは鼻に皺を寄せ、心底嫌そうな顔をした。

『何日か観察したが、だいたい一つの巣穴から出てくる連中は四十から六十、平均して五十といったところだ。

 こいつらがそのまま戦力と言っていいだろう。当然巣穴には女とガキどもが残っているだろうから、人口はその倍と考えればいい。

 こうした巣穴がそこら中に掘られている――全部で百五十を超していたな。

 だから単純計算で奴らの人口は一万五千、戦力は七千五百ということになる。

 しかも、毎日のように北から五人から十人の集団が入ってきているから、もっと多めに見積もった方がいいだろう』


「ということは、総兵力は八千でなおも増加中ってところか。

 奴らがその気なら、五、六千人で襲ってくる可能性があるってことね。大体予想したとおりだわ。

 それで、ヒュドラの方はどうだった?」


『ああ、そっちも酷いもんだった。

 ヒュドラの臭いをたどってみたが、奴が潜んでいるのはゴブリンの巣穴から徒歩で半日くらい離れた湿地帯だった。

 ぬかるんだ草地の中に大小三つの沼があって、ヒュドラはそのどれかに潜っているらしい。

 だが、いずれの沼も例の黄色い液の臭いが残っていた。それよりも周囲の泥に大量の腐った魚が放置されててな、ゴブリンの巣穴ほどじゃないが、こっちも酷い臭いだった。

 例の黄色いゴブリンがいつも二十人くらい見張りに立っていたぞ。嫌気がさしたヒュドラが逃げ出さないよう、見張っているんだろう』


「その腐った魚って……黄色い染料のせいかしら?」

『多分な。あれは毒じゃないが、身体が麻痺するんだろう。浮かび上がったまま呼吸ができずに死んだんじゃないのか?

 これは俺の想像だが、ゴブリンどもがヒュドラを使いたい時には、沼にあの液を流すんだろう。

 沼の魚が激減して餌が獲れないヒュドラは、オークを捕食するため嫌々ゴブリンに従ってるんだと思うな』


「そうか……あの染料が忌避剤になっているとはいえ、強大なヒュドラがおとなしく従っているのは変だと思ってたのよね。

 襲撃に間があくのは、ヒュドラが空腹になるのを待っていたからか……」


『空腹って言えば、ゴブリンどもも食い物に困っているようだったぞ。

 獲物をめぐる巣穴同士の争いがあちこちで起きていた。イモムシを取り合って殺し合いをしてるんだぜ。見ているだけで反吐が出そうだったよ。

 奴らが執拗にオークの領分に攻め入ってくるのは、そのせいもあるようだ』


 ライガの感想に、ユニは首を傾げた。

「ゴブリンが攻めてくるのは、オークの領域が豊かだと思い込んでいるからでしょう?

 それは最初から分かっていたことよ」


『そういう意味じゃないさ。

 オークとの戦いになれば、数百人単位でゴブリンが死ぬだろう?

 奴らにとっちゃ敵の数を減らすのと、自分たちの口減らしが同時にできる〝一石二鳥〟なんだよ。

 群れを大きくしようとして北からの仲間を受け入れながら、一方では戦場で仲間の命をすり潰しているんだ。

 俺にはゴブリンの思考が理解できん――いや、理解したいと思わんな』


「その意見には全面的に賛成だわ。

 ほかに何か変わったことはなかった?」


『あるぞ』

 ライガは至極あっさりと答えた。


『今朝の話だ。奴ら、あの黄色い染料の原料らしい木の実を大量に積み上げて、汁を搾り始めた。

 恐らくあと二、三日で襲ってくるぞ』


      *       *


 ユニはアスカたちにライガの報告をかいつまんで説明した。

 この件をダウワース王に伝えるため、ジャヤが王のもとに走る。


「敵の襲来が明後日だと仮定して、前の戦いから九日か……思ったより早かったわね。

 あんたたちの可愛い部下たちは仕上がってるの?」

 ユニのからかいに対して、アスカは生真面目な顔でうなずく。


「ああ、オークはユニが考えているより部下として優秀だぞ。

 特にゴードンの投石部隊は、王国軍に編入したいくらいだ」

 彼女はそう答えたあと、しばらく無言で上を向いていた。


「……アスカ? どうかしたの?」

 怪訝な顔をしたユニに、アスカは我に返ったように首を振って笑った。


「いや、まさか自分がオークを率いて戦うことになるとは思いもしなかったからな……。

 ゴードンもそうだが、私もオーク語をかなり覚えたぞ。本当に片言だが、少しなら会話もできる」


 またアスカは黙り込んだ。何かを深く考えている顔だった。

 ユニは何故だか声がかけられず、次の言葉を待っていた。


 しばらくたって、やっとアスカが口を開いた。

「私は……ずっとオークは人類の敵、滅ぼすべき怪物、人々を脅かす害獣だと思っていた。

 だがな、断言できる。少なくとも密林のオークたちは……〝人間〟だぞ?」


「…………」

 ユニは答えることができなかった。

 突然にそんなことを言いだしたアスカが、見知らぬ人のように思える。


 ユニは恐れていた。だから〝そのこと〟を無意識のうちに考えまいとしていたのに……。

 彼女が罪悪感から自分の心を守ろうとして閉じこもっていた薄い殻を、アスカは一言で無慈悲に打ち砕いてしまった。


 一瞬のうちに、これまで何十、何百となく殺してきたオークの記憶が、鮮明な映像となって脳裏に蘇ってくる。初めて辺境でオークを殺したのは、彼女がまだ二十歳になる前のことだった。


 オオカミたちにずたずたに噛み裂かれ、血だらけで虫の息になったオークの首に、ユニは震える手でナガサを振り下ろした。

 よく砥がれた真新しいナガサは、さくりと抵抗なくオークの肉を切り、切断された頸動脈から噴水のような鮮血が噴き出した。

 真っ赤な血がユニの顔にかかり、目に入って視界が真っ赤になった。


 彼女は慌てて服の袖で目を拭う。

 流れる涙とともに視界が戻ってくると、彼女の目に息絶えたオークの表情が飛び込んでいた。

 半開きの白目、だらりと口からはみ出た舌、血の泡が混じったよだれ――だが、その顔には見覚えがあった。

 それは……ジャヤの顔だった。


      *       *


 アスカとゴードン、そしてライガまで、急に黙り込んだユニを不思議そうに見ていた。

 すると呆けたような彼女の顔がみるみる歪み、目からぼろぼろと涙がこぼれだした。


「おい、ユニ! どうしたのだ?」

 アスカが驚いて声をかける。

「あああああああああああーーーーーっ!」

 突然ユニは悲鳴を上げ、両手で頭を抱えてその場にうずくまってしまった。

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