密林の賢王 第十四話 恐慌
ゴブリンたちが防柵を乗り越え始めたのを見て、ユニはライガの背に飛び乗った。
『加勢しなくていいのか? あのままじゃいずれ飲み込まれちまうぞ』
ライガの問いに彼女は首を振った。
「多分ね。だからこそ急ぐのよ。助けている暇はないわ」
オオカミはそれきり黙った。そして地面を蹴ると、あっという間に森の中に姿を消した。
でたらめに生い茂った密林の中を、ライガは矢のように駆け抜ける。その背後には、いつの間にか七頭の仲間たちが従っていた。
ゴブリンたちが密集している坂の下はちょっとした空き地となっていた。
この坂はオークだけでなく、さまざまな森の動物たちが頻繁に上り下りしているところなので、踏み荒らされて樹木が育たないのだ。
オオカミたちはその空き地が切れ、樹木が繁茂する地帯の崖上まで走り抜き、その縁でいったん止まった。
ライガの背越しに崖下を覗いたユニは、その意外に大きい高低差にちょっとした恐怖を覚えた。
「だっ、大丈夫なんでしょうね? ……結構高そうよ」
『うん? そうか。大したことはないと思うが……。
高さより、木の枝が邪魔だな。ユニ、引っかかるなよ!
飛び降りる途中で落ちられたら、俺にはどうしようもないぞ」
「そうね、できるだけあんたにしがみついているわ」
不安そうなユニに、ヨミが横からアドバイスをくれる。
『顔をくっつけるのはだめよ。着地のショックがまともに伝わって脳震盪を起こすから。
低い姿勢でも上半身は起こしておくことね』
『ああ、そうした方がいいな。……まぁ、そもそもユニなら枝に引っかかりはしないだろうさ。胸が小さいのはこういう時に便利だな』
ユニは失礼なオオカミの後頭部を拳骨で殴ったが、ライガは平気な顔をしている。
彼はユニの緊張を解こうとして、わざとそんなことを言ったのだ。それはユニも十分に分かっている。
『じゃあ行くぞ』
ライガはいきなり姿勢を低くする。
「えっ? ちょっ待って、心の準備が――」
『口を閉じろ、舌を噛むぞ!』
オオカミが怒鳴った時には、もう彼らは空中に飛び出していた。
落下する気持ちの悪い浮遊感、ライガの巨体で折れ、飛び散る小枝や葉、下から吹き上げる風……それらをいっぺんに感じた後は、凄まじい衝撃が待っていた。
ライガは着地の瞬間、四肢で衝撃をうまく殺していたが、五メートルの高さから落下した際の運動エネルギーは想像以上のものがあった。
ヨミの助言でユニは上半身を起こしていたが、彼女の筋力で重い頭部を支えることができず、顔面をライガの肩で強打した。
オオカミの分厚い毛皮と盛り上がった筋肉がなければ、酷い目に遭ったことだろう。
『おい、大丈夫か? 鼻血でも出たのか?』
ライガが振り向くと、ユニは赤くなった鼻を手で押さえながら、ぶんぶんと首を振った。
「ぐう~っ……」と呻いたまま痛みをこらえていて、喋れないようだった。
着地の瞬間、ユニが打ったのは顔だけでなかった。浮かしていた腰もオオカミの身体に打ちつけたのだが、運の悪いことに背骨で大事なところを強打したのだ。男が股間を打つと地獄のような苦しみを味わうと言うが、女だって痛い。
『なにぃ? あそこを打ったのか……あー、そりゃまぁ、その、何だ……頑張れ』
ライガのよく分からない慰めは何の役にも立たず、ユニが復活するまでは数分を要した。
* *
ユニとオオカミたちは森の中を慎重に進み、茂みの切れ目から坂下の敵の様子を観察した。
『それで、横腹に食らいついたのはいいが、具体的にはどうする?
さすがに数が多すぎるぞ』
ライガの言うとおりだが、ユニは最初から目標を決めていた。黄色いゴブリンである。
「いい? まずはまっすぐ突っ込むわよ。ゴブリンは踏みつけるか弾き飛ばす。いちいち相手にしないこと。
それで敵の中央まで突破したら、黄色く身体を塗ったゴブリンをできるだけ倒してちょうだい。
奇襲を受けて、敵が
奴らが立ち直ったとみたら即座に戦いを中止して、向こう側の森まで駆け抜けるの。ね、単純な作戦でしょ?」
ライガは何も答えなかった。
もし、彼が人間だったら、オーバーな仕草で肩をすくめたことだろう。
ユニは背中に回していた短槍を手に取って構えた。
「それじゃ、行くわよ。突撃!」
オオカミたちは一斉に森を飛び出し、坂の下のゴブリンの群れへと突進した。
ゴブリンたちは坂の上を見上げるばかりで、左右にはまったく注意を払っていない。
そのため、オオカミの接近に気づいた時には、もう巨大な獣の息遣いが聞こえる距離に近づいていた。
オオカミたちは恐ろしい表情と低い唸り声を上げながら、錐のようにゴブリンの群れに突っ込んだ。
人間の子ども程度の体格しかない小鬼たちは、オオカミの巨体に弾き飛ばされて宙に舞う。
群れは噛みつく手間を惜しんで、ただひたすらゴブリンをなぎ倒していった。
荒れ狂うオオカミの群れはあっという間に中心部の黄色いゴブリンたちの中に飛び込んだ。
そこからが本番――殺戮の開始だった。
オオカミたちは次々にゴブリンたちを噛み殺して回った。
彼らの巨大な顎と鋭い牙は、子どものようなゴブリンを一瞬で噛み砕いた。例え堅い頭蓋骨であろうと「ぱきっ」という軽い音で砕け散る。
オオカミは「べっ」と口中に溢れたぶよぶよるす脳みそと骨の欠片を吐き出し、次の獲物に牙を剥ける。
手足を噛めば骨が砕け、首を噛めば頭部が千切れ、胴を噛めば内臓が飛び散った。
ユニも手当たり次第に短槍で切りつける。
黄色いゴブリンたちは巨大で恐ろしい獣たちの襲撃に成すすべなく、きーきーと悲鳴をあげて逃げ惑った。
何人かの勇気あるゴブリンが立ち向かってきたが、彼らの持つ石のナイフや自慢の顎も、オオカミの分厚い毛皮に傷すらつけられなかった。
逆に小鬼の数倍もある巨体に弾き飛ばされ、太い脚が仰向けに転がったゴブリンの腹を踏み抜く。
たちまち潰された腹から腸が踊るようにはみ出し、小鬼は口から血の泡を吐いて絶命した。
ユニはライガの背の上で短槍を振り回し続けた。
槍と言っても、ナガサが先端となっているそれは
突いたら抜かなければならないので、ユニは〝切る〟ことに専念した。
ゴブリンたちはオオカミに騎乗したユニよりもずっと低い位置にいる。
首を狙いたかったが位置関係からそれは困難だった。
だからユニは〝目〟を狙った。
鋭いナガサの切っ先で、ゴブリンの顔面を薙ぎ払うと眼球が切り裂かれて絶叫が響く。
疾走するオオカミの上からなのでそうそう狙いは定まらず、外れる方がはるかに多かった。
棒の先に取り付けられたナガサが振り回わされ、
命には別状ないが、あいつらはもう満足な食事が摂れないだろう。
頭蓋骨で受け取めたゴブリンは血を撒き散らしながら吹っ飛ばされたが、そっちの方が幸運だったかもしれない。
時間にして五分も経たないうちに、百人はいた黄色いゴブリンのあらかたが地面に転がっていた。
数人はどうにか逃げ出して無事だったようだが、ほぼ殲滅に近い。
そのころになって、ようやく周囲のゴブリンたちはパニックから立ち直った。
敵は恐ろしい獣だが、よくよく見れば八頭しかいない。この圧倒する人数で取り囲めば倒せるはずだ。
彼らは密集しながらユニたちを取り囲もうとした。
ユニはライガの背の上からゴブリンの変化を抜け目なく読み取る。
「ライガ、みんな、そろそろ潮時よ!
向こうの茂みまで向かうわ。行って!」
ユニの号令でオオカミたちは再び一本の錐となった。
立ちはだかるゴブリンたちを薙ぎ倒して、出てきた時とは反対側の茂みを目指して疾走する。
しかし、体勢を立て直した小鬼たちは意外にしぶとかった。
跳ね飛ばされようと、踏み潰されようと、彼らはオオカミの長い脚にしがみつき、絶命する瞬間まで縋りついて止めようとする。
前足なら噛みついて始末できるが、後ろ足に取りつかれるとやっかいだった。
オオカミたちは走っていればこそ、小鬼の群れを一蹴できた。だが、いったん足を止められるとわらわらと群がってくるゴブリンにうまく対処ができない。
特にライガに騎乗しているユニは、格好の目標だった。
ゴブリンの歯や石刃はオオカミの毛皮には無力でも、この人間になら十分に通用する。
爪を立て、皮膚を引き裂き、肉を食いちぎることができるはずだ。
ユニは鉄板を仕込んだ分厚いブーツでゴブリンを蹴り飛ばし、短槍で真上から小鬼を突き刺して次々に払い落としたが、敵の数は圧倒的だった。
砂糖に群がるアリのようにユニに向かって飛びかかり、何人かは爪を彼女のズボンに引っかけてよじ登ってきた。
ユニは右手に短槍を持ったまま、左手で腰からもう一本のナガサを抜き、逆手に持ってゴブリンの
今度はナガサを逆手のまま振るう。彼女の太腿にまさに噛みつこうとしていた小鬼の口が切り裂かれ、数本の黄色い歯と舌の先が飛び散った。
ユニがゴブリンに取りつかれたのに気づいたヨミとヨーコが慌てて両脇につき、荒れ狂ってゴブリンたちを噛み殺しまくった。
女衆が駆けつけなかったら、今ごろユニは地面に引きずり下ろされていただろう。
一息ついたユニは周囲を見回したが、オオカミたちはいずれも苦戦していた。
ハヤトとトキはどうにか奮戦して死体の山を築いていたが、小柄なジェシカとシェンカはゴブリンたちに狙われて、小鬼を身に纏ったミノムシのようになっていた。母親のミナが必死で娘たちのフォローに回っているが、ゴブリンどもに呑み込まれそうだった。
「まずいわね……円陣を組んで防御に専念した方がよくない?」
ユニの提案にライガが怒鳴りつける。
『駄目だ! 潰されるのは時間の問題だぞ。どうにかして突破のきっかけを作るんだ!」
「そう言われたって――って、何よあれ!」
ユニが言い返そうとしたその時、ちょうど坂の上から真っ黒い塊りが転げ落ちてくるのが目に入る。
アスカという思わぬ強敵に驚いたヒュドラが、撤退のため自ら坂を落ちてきたのだ。
堅い鱗に全身を覆われたヒュドラは、五メートル程度の坂を転げるくらい何ともない。
酷い目に遭ったのはゴブリンの方である。
もの凄い勢いで転がってくるヒュドラは数十人のゴブリンを圧し潰し、どうにか止まった。
そして何事もなかったかのように短い脚で地面を踏みしめ、三本の首をゆらりと持ち上げる。
後を追うようにして転げ落ちてきた黄色いゴブリンたちは、地面に叩きつけられてヒュドラの後方で呻いている。
怪物は首を傾げた。
黄色い小鬼どもはもっといたはずだが……どういうわけか地面に転がって死んでいるか、重傷を負ってうずくまっている。
きーきー騒いでいるのは、あの忌々しい黄色いのを塗っていないただのゴブリンばかりだ。
あまり回転のよくないヒュドラの頭脳も、ようやく状況を理解したらしい。
『とにかく、今日は酷い目に遭った。いつもなら食い応えのあるオークを捕まえられるから、大人しく小鬼どもの言うことを聞いていたが、今日はもう止めだ!
幸い、黄色い奴らはいなくなったから、ほかの連中を何匹か喰らって棲家に帰ろう。ついでに今までの腹いせに、小鬼どもをいじめてやろう』
方針が決まったヒュドラは、目を細めて満足そうに唸った(多分、彼としては笑ったのだろう)。
そしてゆっくりと縦長の瞳を見開くと、短い脚をばたばたと回転させ、予想外の素早さでゴブリンの群れに突っ込んでいった。
オオカミの襲撃からやっと立ち直り、敵を圧殺する目前だったゴブリンたちは再び
オークを殺し、柵を破る鈍重な奴隷だと思っていたヒュドラが、自分たちに牙を向けてきたのだ。
頼みの黄色いゴブリンはいつの間にか姿を消している。
もう、これが限界だった。圧倒的な数の力も、この沼の怪物には何の意味もなかった。
集団心理で死をも恐れぬ獰猛な戦士と化していたゴブリンたちは、あっという間に弱々しいただの下等生物に戻ってしまった。
まだ五百人以上残っていた軍勢は総崩れになり、散り散りになって逃走を始めた。
それを追いかけるようにしてヒュドラの巨体が遠ざかり、密林の中に消えていった。
坂の下に残されたのは、呆然としているユニとオオカミたち。そして数えるのも馬鹿らしくなるほどのゴブリンの死体だった。
ユニはライガの背から滑り降り、「死ぬかと思った……」と一言つぶやいてその場にへたりこんだ。
その彼女の耳に「げぇげぇ」という嘔吐する音が聞こえてくる。
慌てて周囲を見回すと、オオカミたちが苦しそうな顔で吐いたり咳き込んでいる。
ライガもユニが乗っている間は我慢していたのか、やはり大量の涎を垂らして「げぇげぇ」やり始めた。
「ちょっと、ライガ! みんなもどうしたのよ! まさか毒?
あの黄色い染料って毒だったの?」
ライガが咳き込みながら涙目でどうにか答えた。
『馬鹿、毒だったらゴブリン自身がまっ先にやられているだろう。
あの黄色い奴、もの凄く苦い――いや、渋いんだ! 舌が麻痺するくらい酷い渋さだ。
あれじゃヒュドラが喰わないのも無理ないな』
* *
しばらくしてダウワース王をはじめとしたオークたち、そしてアスカとゴードン、ジャヤも坂を下ってきた。
オークたちはまだ息のあるゴブリンを無表情で突き殺し、とどめをさして回った。
「ユニ、大丈夫か? ずいぶん暴れてくれたな」
オーク王は周辺に転がっている黄色いゴブリンの死体の山を顔をしかめて眺めた。
「何が〝ユニは軍人じゃないから〟だ。結局お前が一番ゴブリンを殺したじゃないか」
ユニは苦笑いで答えた。
「おかげでゴブリンの山に圧し潰されて死ぬ寸前でしたけどね。
アスカがヒュドラを追い払ってくれたんでしょ? ありがとう、命拾いをしたわ」
兜を背中の方にはね上げ、顔を出しているアスカの表情はさえない。
「ヒュドラは明らかに油断していた。恐らく、次はそう簡単ではないぞ。
戦ってみて分かったが、あの怪物は腐っても龍の眷属だ。それなりに知恵があるようだ。
それにゴブリンは……あの数の力は侮れない。むしろヒュドラよりも脅威だ。
とにかく、いろいろと対策を練る必要があるな」
ユニもうなずいた。
「ええ、でもさすがにこれで数日は襲ってこないでしょう。
時間の猶予が何よりありがたいわ」
そして彼女は王の方を向いた。
「ダウワース王、味方の損害は?」
王の表情も勝者のものではなかった。
「無傷の奴の方が少ない。死んだのは三十人を超えている。アスカがヒュドラを防いでくれたというのに、みんなゴブリンに寄ってたかって殺された。
ユニは見てないだろうが、死んだ奴の有様は酷いもんだぞ。全身の皮膚を齧り取られて赤剥けになって、皮を剥いだ
認めるよ。俺たちはゴブリンを――いや、あの数の暴力を甘く見ていた」
アスカが王の肩をぽんと叩いた。
「考えるのは村に帰ってからにしよう」
ユニも同意する。
「ええ、早く負傷者の手当てをした方がいいですね。
ゴブリンに毒はないけど、奴らに齧られた痕を放置すると傷口から腐って命に関わります。
とりあえず、齧られて怪我をしているオークには、今すぐ水で傷口を洗うよう指示を出してください」
「分かった!」
王はそう言うと、振り返って幹部らしいオークのもとへ歩いていった。
その背で風にあおられた深紅のマントがぶわりと膨らみ、ばたばたと
王の後姿を見送るアスカが、ぼそりとつぶやいた。
「こうして戦場で見ると、何だかあのマントが頼りがいがあって格好よく見えてくるな……」
ユニも同意する。
「あたしもそう思ってた。……ねぇ、あたしたちオークの感性に毒されてきたんじゃないかしら?」
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