密林の賢王 第七話 入国交渉
二頭のオークを目にしたユニは、反射的に腰に手を伸ばした。
そこには二本のナガサ(山刀)が鞘に収まっている。それを抜かなかったのは、まだいくらか理性が残っていたせいだ。
彼女はどうにか手を押しとどめながらも、オオカミたちの配置を確認する。
姿は見えないが、いずれも近いところに気配を感じる。オークが襲ってくれば、すぐにでも飛び出して身動きを封じてくれるはずだ。
目の前のオークたちは、呆れるほどに無防備だった。
一応、木槍を構えているものの、それを仰々しく頭上に持ち上げてぶんぶん振り回している。明らかに侵入者を脅そうとしている動きで、敵を殺そうという気迫がまったく感じられない。
ましてや、自分たちが逆に襲われる可能性など考えてもいないのだろう、脇も、腹も、足も、見事に隙だらけだった。
「あれならあたし一人でも
ユニは最初の一撃で、あの隙だらけの太った腹をナガサでどう切り裂くか――それしか考えられなくなっていた。
戦いに来たのではない、オークと交渉のチャンネルを開きに来たんだ――頭ではそう理解していても、十年近くオークと殺し合いをしてきた身体が言うことを聞いてくれないのだ。
「よせ……殺気がだだ洩れだぞ」
脂汗を浮かべて固まっているユニを、アスカが大きな手で制して後ろに下げた。
「その様子ではうまくいくまい。ここは私に任せろ」
アスカが一歩前に出る。
その途端、呪縛が解けたようにユニの全身から力が抜け、体中の毛穴からどっと汗が吹き出した。
『まずい! まずいまずいまずいまずいっ!
もう一度、任務を思い出して冷静になれ! 鎧を着込んだアスカが前に出る方が絶対にまずい。
ここは自分が交渉役を果たさなければ……』
頭の中では思考が堂々巡りを繰り返す。
少なくともこのオークはいきなり襲ってはこない、友好的に話しかけるのだ。そう言い聞かせて閉じた目を開くと、醜悪なオークの姿が視界いっぱいになる。
その瞬間、ユニの頭の中で次々に鮮明な映像がフラッシュバックしてくるのだ。
踏みにじられた少女の人形、オークの胃の中から出てきた小さな手、胎児ごと腹を喰い破られた農家のおかみさん、犯されて気が触れた若い娘……何度も見てきた悲惨な光景が彼女の脳をぎりぎりと締めあげ、精神が悲鳴をあげた。
気づいた時には、ユニはぐったりしたままゴードンの腕に抱きかかえられていた。
「おい、大丈夫か?
顔色が悪い――っていうレベルじゃない、唇まで土色になっているぞ。
オークには馴れているんじゃなかったのか?
――とにかく、少し座って休んだらどうだ?」
ユニはその手を振りほどいた。
「だっ、大丈夫。ちょっと気分が悪くなっただけよ。
……でも、正直あたしに交渉役は無理みたいだわ。ここはアスカに任すしかないわね」
* *
アスカは無造作に二頭のオークの前に立った。
相手が威嚇するばかりで、殺意が感じられないことには、アスカもとっくに気づいている。
しかも彼女はミスリル製でドワーフの加護魔法がかかったプレートアーマーを身につけている。不意の一撃を喰らっても、木槍程度では大したダメージを受けないだろう。
逆にオークたちの方がパニックとなった。
彼らはこのような金属鎧を初めて見たのだ。しかもこの人間は、女だというのに自分たちよりも背が高い。
そして、何よりも彼らオークを少しも恐れていない。そんな人間は初めてだったのだ。
堂々とオークの面前に立ったアスカだったが、彼女は口下手だった。どう考えても交渉役に向いているとは言えない。
アスカは仁王立ちしたまま黙っている。オークにどう話しかけようか考えているようだった。
後ろからゴードンが小声でささやきかける。
「おい、アスカ! とりあえず何か話しかけてみろ!
お前、それじゃオークを脅しているみたいだぞっ」
そう言うゴードンも口下手な点ではアスカに負けていないのだ。
アスカは「ふむ」とうなずき、できるだけ相手を刺激しないよう、低く穏やかな声で話しかけた。
「私はリスト王国の騎士、アスカ・ノートンという者だ。
お前たちの王に謁見するために、後ろの二人とともにこの密林を訪れた。
王への取次ぎを頼みたい」
言われたオークは互いに顔を見合わせ、何事かオークの言葉で忙しく言い合った。
そして、一頭が半歩前に進み出て、顔の前に手をまっすぐに立て、それを左右に振った。
「お前の言葉は分からない」、あるいは「ここは通せない」だろうか、いずれにしよ拒絶の意志を伝えようとしているのが、オークの表情でなんとなく分かった。
アスカは少し考えて、オークの目の前で自分を指さした。そして密林の奥の方へその指をまっすぐ伸ばした。この先へ進みたいという意味だ。
オークは再び顔の前に手を立てて左右に振る。
彼女は再び同じ動作を繰り返した後、オークと同じように自分の顔の前に手をやり左右に振った。そして大げさに首を傾げてみせる。
すると、オークは大きく首を縦に振ってうなずいた。
アスカは振り返ってゴードンとユニに告げる。
「どうやらこのオークたちは、中原語を理解しているわけではないらしい。
さっきの『人間、帰れ』は、それだけ言えるように教えられたのだろう。
幸い否定や肯定の仕草は人間と変わらないらしい。単純なことならどうにか意志を伝えられそうな感じだな。
だが、森の奥に進むことは拒否されてしまった。さてどうしたものか……」
「……なるほどね。
それじゃ、今度はあたしがやってみるわ」
ユニが少しよろけながら前に出る。
「大丈夫か? 少しは毒気が抜けたようだが……この善良なオークをいじめたら交渉は終わりだぞ?」
アスカのからかいにユニは苦笑する。
「ええ、さっきまでだったら間合いに入った瞬間に金蹴りを喰らわしてたでしょうね。
もう大丈夫よ。オークとのやり取りを見ていたら、だいぶ頭が冷えてきたわ」
大女を押しのけて前に出たユニを見て、オークたちは少しほっとしたようだった。
何しろ今度の女は背が低いし、変な金属鎧も着けていない。
ユニは両手を挙げたままオークの前に立ち、まず敵意のないことを示した。
それから、ゆっくり自分を指さした。
「ユニ」
そして次にアスカを指さし、「アスカ」と言った。
さらに、後ろのゴードンを指さして「ゴードン」と告げる。
これを二度繰り返してから、首を傾げて見せた。
すると、オークはユニを指して「イニ!」、アスカを指して「エスカ!」、ゴードンを指して「グドン!」と言った。
それを聞いたユニは大きくうなずいて笑った。どうやら、自己紹介は成功したようだ。
二頭のオークもにかっと笑い、自分たちを指さして、それぞれ「イデン!」、「オド!」と名乗った。
ユニは彼らを指さし、少し背の高い顔の長い方を「イデン!」、背が低く鼻が広がった方を「オド!」と呼んだ。
オークたちはそれを聞くと嬉しそうに笑って大きくうなずき、顔を見合わせて早口のオーク語で何か興奮したように話し合った。
「ああ、確かにこいつら、辺境のオークとは全然違うわね。
本当に知性があるみたい。なんだか調子が狂うわ」
ユニは相手の機嫌のよさに乗じて、もう一度自分たち三人を指して名を名乗り、次に密林の奥へと指を伸ばした。
途端に笑顔だったオークの顔が厳しくなり、彼らは揃って顔の前に手を立ててぶんぶんと横に振った。
やはり通す気はないようだ。
後ろからゴードンが声をかける。
「手詰まりのようだが、どうするユニ?
相手が二頭なら突破は容易いぞ」
「それは最後の手段。
ちょっと待って、試したいことがあるの」
そう言うと、ユニは背負っていた背嚢をゆっくりとした動作で地面に下ろした。
オークは背嚢自体初めて見るらしく、興味津々で見守っている。
もうユニたちを威嚇することは、完全に忘れ去っているようだった。
ユニは背嚢から大きな塊りを取り出した。包んでいた油紙を取り除くと、少し焦げた葉っぱでさらに包まれている。
それも剥いでいくと、現れたのは大きな肉塊だった。おそらく三キロはあるだろう。
「それは……昨日作っていた羚羊の肉か?」
オーク同様に興味深く覗き込んでいたアスカが訊ねる。
ユニは頷いた。
「保存食のつもりで作ったんだけど……塩と香辛料を強めにしたローストアンテロープね」
「それを……どうするんだ?」
ユニは白い歯を見せて笑った。
「決まってるじゃない。古今東西、通してくれない門番には〝賄賂〟が常道でしょう?」
彼女が肉を包む葉を取り除くと、冷えた肉だが十分に香しい匂いが漂う。
じっと見つめているオークも、それが肉だと一目で分かったはずだ。
ユニはゆっくりとした動作で腰のナガサを抜き、肉の端っこを切り取ってオークたちに見せ、それを自分の口に放り込んだ。
オークは「ごくり」と唾を呑み込んでじっと見つめている。
彼女は美味しそうに肉を咀嚼して(わざと音を立てた)、ごくりと飲み込んだ。
これが毒ではないという証明のつもりだったが、その行為は単純にオークの飢餓感を煽ったようだった。
ユニはまた肉塊にナガサを刺し、今度はかなり分厚い肉片を二枚切り出した。
彼女はナガサを鞘にしまってから、肉片を両手に持つと、進み出てオークの方に差し出した。彼らに「食べろ」と促したのだ。
オークたちは困惑したように顔を見合わせたが、欲望には抗えないのか恐る恐る肉を受け取って口に入れた。
もぐもぐと試すように口を動かしていたオークは、突然驚いたように目を見開くと、あっと言う間に飲み込んでしまった。
「ほうっ」
オークたちはとろんとした目で視線を宙にさまよわせながら溜め息をついた。
よほど旨かったらしく、期待を込めた目でユニの手元をじっと見つめている。
「……参ったわ。
あたしの知っているオークだったら、間違いなく肉を奪おうと襲ってくるのに……この子たちはちゃんと我慢している。
まるで……そう、躾された飼い犬みたいだわ」
ユニは笑ってはいるが、そこには複雑な思いがあった。
ユニは気を取り直し、今一度自分たち三人を指さし、密林の奥へと指先を伸ばした。
そしてその後で、肉の塊りを差し出す仕草をした。
「通してくれたらこの肉をやろう」という意味だが、それはちゃんと伝わったようだった。
オークは互いに早口で話し合う――というより言い争っていた。
しかし最終的には肉よりも任務が重要だと結論したらしく、悲愴な表情で(だが
ユニは頭を抱えた。
「なんなのよ、このオークたち!
肉は奪おうとしないわ、任務に忠実だわ――あたしのオーク観がガラガラに崩れていくわ!
ええい、こうなったらもうヤケよ!」
ユニはずかずかとオークの目の前まで行くと、イデンに抱えていた肉の塊りを「どん」と押しつけた。
彼は目を白黒させ、情けない顔でオドに助けを求めたが、ユニは構わず元に戻ると地面に置いた背嚢からロープを取り出した。
そのロープを隣りにいたアスカにかけると、二、三度回して腕ごと胴体を縛る。後ろのゴードンも同様に縛り、二人を縛ったロープの端を持ってオークの方へ行くと、それを彼らに持たせた。
そして背嚢を拾い上げて背負うと、自分の身体にもにもロープをかけてそれをオークに差し出した。
要するに「肉はお前たちにやる。そして三人とも
二頭のオークは面食らっていた。彼らは正直どうしてよいか分からなかったのだ。
この初めて食べる旨い肉は食っていいらしい。そして、人間たちは自分から囚われの身になろうとしている。
彼らはオークの言葉で話し合った末、一つの結論を出した。
とりあえず、肉は貰っておこう。――これは譲れない点で、早々に合意できた。
そして三人の人間は、迷った末に捕虜として連れていくことにした。
追い返すことには失敗したが、脅しても立ち退かない人間に対する対処は指示されていない。
それならば、人間どもを連れ帰って王の指示を仰ごう。奴らは縛り上げて虜囚にしてあるのだから、自分たちが罰せられることはないだろう。
オドはその結論に至ったもう一つの理由を、オークの言葉でイデンに語った。
「それに、この人間たちは俺たちに旨い肉をくれた。こんなに塩の効いた肉は生まれて初めてだ(ユニたちは後で知ったが、オークの国では塩が貴重品だった)。
こいつらはいい奴じゃないかと思うんだ。
こんなに俺たちの国に来たがっているんだ、ちょっぴり肉の礼をしてもいいと思うな」
イデンは満足そうにうなずいた。
「おお、兄弟もそう思うか!
実は俺もそう思っていたんだ。旨いものをくれた奴に親切にしないのは、気持ちが悪いからな」
かくしてユニたち三人はオークの虜囚となって、どうにか彼らの王国への進入に成功したのだった。
* *
三人が連行される道行はどうにも奇妙なものだった。
ユニもオークによって縛られたが実におざなりな縛り方で、ちょっと力を入れれば簡単に脱出できそうだった。
ユニが縛ったアスカとゴードンが似たような雑な縛り方だったので、彼らは同じようにすればいいと考えたようだ。当然、オークたちはきつく縛り直すだろうと思っていたユニには、信じられない行為だ。
第一、彼らはユニたちの武器を取り上げなかった。アスカの長剣は腰に下がったままだったし、ゴードンのハルバートも革紐で肩にかけて背中に回したままである。
オークたちは歩き出すなり、待ちきれなかったように肉にかぶりついた。一口齧るたびに恍惚とした表情を浮かべ、腹をすかせた子どものようにがつがつと食べる。
三キロ近い肉の塊りは、あっと言う間にあらかた食い尽くされてしまった。
ただ、不思議なことに全部は食べず、最後の塊りは残して大事そうに油紙で包み直し、腰に括りつけていた革袋の中にしまい込んだ。
ユニたちはオークの後をついて歩いていったが、彼らは三人を縛ったロープを持つでもなく自由に歩かせていた。
人間が途中で逃亡するかもしれない――などとは露ほども考えていないのが明らかだった。
そしてオークたちは三人にうるさいくらいに話しかけてきた。
もちろんオーク語なので、何を言っているのか分からず答えようもなかったが、身振り手振りを交えどうにかして意志を伝えようと頑張っていることは分かった。
ユニに対しては一番熱心で、その仕草からどうやら調理した肉をもっと作れるのかを聞いている感じだった。
アスカについては、その金属鎧にただならぬ興味を示し、しきりに触って感心していた。
ゴードンの場合は、背中に回したハルバートが気になるようで、斧の刃に恐々と触れてその鋭さに怯えていた。
彼らはユニたちの会話を妨げなかったので、三人は遠慮なくこの奇妙な態度を示すオークについての感想を語り合った。
五人の集団は約十キロ、時間にして二時間以上も賑やかに歩き続けていたが、突然オークたちの様子が変化した。
彼らはユニたちをいったん押しとどめ、背の高いイデンが後ろに回って三人を縛るロープの端を持った。
ずんぐりしたオドの方は、手にした木槍をユニたちの背中に突き付けるような態勢をとった。
二人ともお喋りをやめ、真面目な表情になったところを見ると、どうやらオークたちの集落に近づいたらしい。
ユニは姿を隠したまま付いてきているオオカミたちに村に着いたらしいことを知らせ、何頭かに周囲の状況を探るよう命じた。
果たせるかな、ユニたち一行はその数分に密林を抜け、かなり大きな平地に出た。
そこは自然の空き地ではなく、密林の樹木を伐り開いたもののように思えた。
ざっと見ただけでも五十を超す大型の掘立小屋が立ち並んでおり、そこここにオークが行き交っている。
ユニたちが広場に入ると、すぐに村のオークたちが気づいて寄ってきた。
オークたちは一様に警戒した様子――というより、少し怖がっているような感じで、ユニたちを遠巻きに取り囲んでいる。
そして人間たちを連れて来たオドとイデンに興奮した様子で何事か話しかけている。
二頭がその問いかけに身振りを交えて答えると、周囲のオークから「おおっ」というようなどよめきが起こった。
オドとイデンが胸を張って、得意そうな表情を浮かべているのが滑稽だった。
「ここのオークは、やはり人間の言葉を話せないようね。
ということは、話せるのは噂どおり王とやらだけなのかしら?」
ユニがぼそっと洩らすと、アスカもうなずいた。
「どうもそんな感じだな。
それにしても、このオークたち……なんだか人間みたいだな。
オドとイデンもそうだったが、彼らは私の知っているオークとは根本的に違う種族のようだ。
ゴードンはどうなのだ。お前は密林のオークをよく知っているのだろう?」
彼はかぶりを振った。
「いや、俺の知っているオークは隊商を襲撃してくる奴らだ。殺し合う敵でしかなかったから、相手を知る余裕なんてなかったな。
まぁ言えるのは、こんな……
時間が経つにつれ、ユニたちを取り巻くオークの数は増え続け、その数は軽く百人を超していた。
オドたちも道を開けるよう群衆に呼びかけているようだったが、後ろから押されているのか、最初は遠巻きにしていた群衆の輪が徐々に縮まってきた。
ユニたちは進むことも引くことも叶わず、意味の分からないオーク語の喧騒の中で立ち尽くすしかなかった。
膠着状態は十分以上続いたが、それも唐突に終わりを告げた。
オークたちの喧騒がぴたりと止み、ユニたちを取り囲んでいたオークの群衆が二つに割れた。
ほかのオークよりも少し大柄で体格のよいオークがゆっくりと歩いてくる。
周囲のオークたちは、明らかにそのオークを恐れ敬っている感じだった。
「あー、どうやら王さまの登場だわ」
ユニが少し呆れた口調でつぶやいた。
「どうしてあのオークが王だって分かるんだ?」
ゴードンの質問にユニは「何を分かり切ったことを」という表情を見せた。
「だって、見てよ。あのオーク、真っ赤なマントをつけてるわ」
ユニの言うとおり、そのオークは周囲の同族と同じく腰巻だけの半裸であったが、なぜか派手な深紅のマントをはおっており、それが風にたなびいて揺れていたのである。
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