密林の賢王 第五話 野試合

 アリストアの事情説明の後、会議の場に集まった者たちはいろいろな課題について検討を行った。

 ロレンソ少佐は、ユニとオオカミたち、それに二人の護衛だけではあまりに心もとないと主張した。

 相手は単独ではなく、曲がりなりにも国家を名乗る集団なのだから、第三軍からそれなりの規模の正規兵を派遣すべきだというのだ。


 これに反対したのは意外にもリディアだった。

「ロレンソ、それはこの調査の目的をはき違えているぞ。

 ユニたちの第一の目的はオークと意志疎通できるかを探ることであって、彼らを攻め滅ぼすために行くのではないのだ」

 アリストアもうなずいている。


「〝第一の目的〟ということは、彼らが人語を解するかどうかの確認だけではなく、積極的に接触して友好的な関係を築けということですか?」

 ロレンソの半ば呆れたような質問に、参謀副総長は再びうなずいた。

「難しい任務だということは承知している。だが最低限、彼らとの交渉ルートを確保してもらいたいのだ」


 ユニは皮肉な笑いを浮かべた。〝難しい任務〟だと? 簡単に言ってくれるものだ。

「今までオークを殺すことで生きてきた私に〝オークとお友達になれ〟とは、なんて素敵なご命令ですこと。

 でも、それは王国にとってどういうメリットがあるのでしょう? まさか、オークと交易をするおつもりですか?」

 ユニは心中の不満を思わず口に出してしまったが、誰も彼女を責められないだろう。


 アリストアは『まぁ、ユニならばそう言うだろうな』と納得しながらも、溜め息をついた。

「ユニよ。さっきも言ったように、われわれは長年オークについて研究してきた。その結果として彼らの身体的な特徴については詳しく知っているが、オークの生活や思考については何も知らないのだ。

 オークと意志疎通ができれば、彼らが何を考えているのかが分かる。それは大きな成果だと断言できるのだよ。

 それにもう一つ、龍、エルフ、ドワーフといった、異世界から飛ばされてこの世界に定着したと思われる種族とは意思疎通ができることが確認されているが、彼らは一様に元の世界の記憶を重要視し、伝承として語り継いでいるのだ。

 オークも恐らくそうだろう。それを知ることができれば、なぜオークがこれだけ辺境に送り込まれるのか、解明するヒントとなるだろう――それがわれわれの見解だ」


「ルカ大公国やナサル首長国連邦との関係は大丈夫なのか?」

 それまで黙していたゴードンが口を開いたので、一同は少し驚いた。


 南部密林は王国領ではない。まして大公国や首長国連邦の領土でもない。

 強いて言えば、サラーム教国家全体の領土ということになるだろうが、実質的にはどこの国のものでもないのだ。

 密林を領有することは容易いが、自国領だと宣言した以上そこに責任が生じ、管理・開発しなくてはならず、当然ながら莫大な経費がかかる。

 だが、密林は無住であるから税収はない。自然産物や資源もない。将来的にも遠隔地で劣悪な環境を開発しようという物好きはいないだろう。要するに領有するメリットがない地域なのだ。


 だが、例えそうであっても、王国が学術調査団を派遣したとなれば、周辺国は当然注目し警戒する。

 そうした根回しは済んでいるのか? ゴードンはそれを確認したのである。

 これには赤龍帝であるリディアが少し感心した様子で答えた。


「大公には非公式だが了解を取っている。首長国連邦は一番近いサキュラが絶賛お家騒動中で、おまけに隣りのナフ国と交戦中だ。街道筋に監視をつけている暇はないだろうが……いずれにしろ、これは内密の調査ということになる」


 このほかにも、実務的な打ち合わせが延々と続いた。

 赤城市との緊急連絡は密林に入るまでは伝書鳩を使い、それ以降はオオカミを伝令にすることとした。

 旅に必要な物資は荷車に載せてユニのオオカミたちが曳くこととなった。

 アスカとゴードンは馬で街道を行くが、密林ではオオカミに乗ることになった。

 ――要するに、全てがオオカミ頼りということである。ユニが会議の席上で爆発しなかったのは、奇跡とも言えた。


      *       *


「どげんかせんといかんわ……!」

『だからぁ! どこの方言だよ、それ?』

 ユニの独り言に面倒くさそうにライガが突っ込む。


 ユニは頬を膨らませてヨミに抱きついた。

「母さ~ん(ヨミのこと)、ライガがいぢめる~!」

 ヨミが彼女の頬を舐めてなだめる。

『はいはい、どうしたのよユニ? 何か悩みごとなの?』


 ユニたちが赤城市を発って三日目である。予定では明日、街道を離れて密林に入る分岐点に到達するはずだった。

 南街道を南下する旅は順調であった。


 北の帝国で大隧道が不通になっている影響で隊商の往来は少ない。それでも一日に何度かは彼らとすれ違うのだが、彼らは荷車を曳く巨大なオオカミに驚愕した。

 こうした噂話は街道でつながる王国・大公国の双方にあっという間に広がる。赤龍帝が大公国にだけは事前の了解を取ったのもこのためだった。


 旅程自体は順調であったが、問題がないわけではない。

 ユニ、アスカ、ゴードンという、少人数の編成だというのに、その仲がぎくしゃくしているのだ。ユニとアスカは気の置けない友人であるから問題はない。問題なのはゴードンである。


 彼は真面目で寡黙な男だった。そうは言っても話しかければ返事をするし、最低限必要なことは自分から口を開く。

 ただ、その相手はなぜかユニと決まっていて、アスカに対しては口をきかないだけでなく、近寄ろうともしないのだ。

 アスカがまた寡黙な方なので、彼女もゴードンに対して話しかけることがなく、むしろ見知らぬ男と関りを持たずに済むことを喜んでいるように見えた。

 まぁ、それはユニの偏見かもしれないが、少なくともアスカの方にもこの状態を積極的に解消しようとする意志がないのは確かだった。


 アスカは第四軍で指揮官として大勢の男の部下を抱えている。彼女が部下に慕われており、気さくに冗談を言い合っているのを、ユニは何度も目の当たりにしているので、これはどうにも解せなかった。

 ゴードンにもアスカにも「どうして口をきかないの?」と露骨には聞きづらい。

 結局、相談できる人間がいないユニにとって、話を聞いてくれる相手はオオカミしかいないのだ。

 「どげんかせんと……」は、ライガとヨミを相談に引き込むためのユニの小芝居である。オオカミ夫婦もそれを承知の上で乗ってくれたのだ。


「ゴードンとアスカの仲をどうにかしたいのよ。

 母さんだってあの二人の様子を見たでしょ。

 なんであんなによそよそしいのかしら?」


 ヨミは埃で汚れたユニの顔を舐め取りながら、考え深げに答えた。

『アスカは……なんだかゴードンのことを妙に意識しているように見えるわ』

 予想外の返事にユニは驚いた。

「えっ、そうなの? 全然そんな風には見えないけど――」

『アスカの視線をよく観察してみなさい。

 あの、ゴードンが背中を見せている時、よく彼のことを見つめてるわよ。

 それで、ゴードンが振り返ると慌てて目を逸らせるの。少し赤くなってね。

 あれは、何か思うところがあるって顔よ! あたしには分かるわ、女の勘ってやつね』


 男女の機微にはまるでうといユニは「へえ~」と素直に感心し、尊敬のまなざしでヨミを見上げた。

 ヨミは群れの二頭、ミナとトキの母親であるが、ほかのオオカミからも〝母さん〟と呼ばれている(ジェシカとシェンカの姉妹だけは、実母と区別するため〝ばーちゃん〟と呼ぶが)。

 ユニも同じように呼んでいるが、彼女の場合は本当の母親のように頼ったり甘えたりしていた。


『俺から見ればくだらない話だがな、ゴードンの方は〝男のプライド〟が邪魔をしているようだな。

 アスカは女で、ゴードンよりも背が高くて、軍の指揮官で、あの鎧姿だろう?

 軍歴がなく、腕一本で世の中を渡ってきた奴としては、何かと反発があるんだろうよ』


 ヨミに対抗するつもりか、ライガも自分の見解を口にした。

「あら、ライガ。あんたにしてはまともなことを言うのね」

 揺れていたライガの尻尾がぱたりと止まる。

『なんだかお前、ヨミの時と俺に対する扱いが違いすぎないか?』


 ユニは拗ねるライガを無視してヨミに訊ねた。

「じゃあ、ゴードンのわだかまりを解けば、アスカの方は問題ないわけね。

 具体的にはどうしたらいいかしら?

 そりゃ時間をかければお互いを理解していくでしょうけど、早ければ明日には密林に入っちゃうのよ。早急に手を打ちたいの」


 ヨミはぱたぱた尻尾を振って、少し考え込んだ。

『そうね……こういうことは男の人の方がよく分かると思うの。

 ねえ、ライガはどうしたらいいと思う?』


 この賢い女オオカミは、答えが分かっていて夫に花を持たせたのである。

 そうと知らないライガはたちまち上機嫌になった。

『そんな簡単なことも分からないのか? ユニは仕方ないが、ヨミも情けないぞ。

 いいか、ゴードンがモヤモヤしているのは、結局アスカの実力が分からないからだ。

 もっと簡単に言えば、あいつはどっちが強いのかを確かめたいのさ。

 だから、二人を戦わせればいい。けしかけてみろ、あいつら絶対に断らないぞ』


 ユニは「なるほど」という顔をしてうなずいた。

「分かったわ! 二人ともありがとう」

 そう言って彼女は立ち上がり、アスカたちの方へと向かった。


      *       *


 彼らが休憩していたのは街道脇の小さな空き地だった。

 南街道は〝ハラル海〟と呼ばれる岩石砂漠の東端を通っている。

 空き地と言っても大きな岩石がないというだけで、岩がむき出しになった砂漠と大差ない。

 今は昼食を終えてくつろいでいる状態だった。


 アスカは何か書き物をしており、ゴードンは武具の手入れをしていた。

 ユニはその側に腰をおろす。スキンヘッドで浅黒い顔をした男は年配者の雰囲気があるが、近くで見ると案外若そうだった。

 多分、アスカと同じ三十代後半といったところだろう。ついでに言うと、なかなか精悍でいい男振りだった。

 ユニは邪念を振り払って彼に訊ねる。

「剣とハルバート、それに短剣か。あなた、獲物は何が得意なの?」


 ゴードンは視線を合わせないまま答える。

「何でも遣えないと護衛は務まらない。だが、オークが相手だったらハルバートがいいだろうな。

 まぁ、相手を考えずに好みだけで言えば剣になるかな?」

「あら、じゃあアスカと同じね。

 アスカは強いわよ。前に二メートル超えのオークと戦ったのを目の前で見たことがあるわ」


 ゴードンは顔を上げた。その目には明らかな興味が宿っている。

「それで――その戦いはどうなったんだ?」

 ユニは努めて笑顔にならないよう気をつけながら答える。

「凄かったわよ。オークが打ちおろす棍棒を剣ですべて受け止めるの。

 人間とオークの打ち合いなんて見たのは初めてだったわ。

 ……ああ、結果ね。もちろん、アスカが苦もなく倒したわよ」


「……それは、確かに凄いな」

「でも聞いた話じゃ、アシーズもハルバート一本で辺境のオークを倒していたそうよ。

 あなたにもできるの?」

「当然だ。一対一なら負ける気がしない」


 ユニはずいと身体を近づけた。彼女はぎょっとするゴードンの耳元に口を寄せると、こうささやいた。

「じゃあ、アスカとあなた、どっちが強いのかしら?」

「そっ、それは……試してみないと分からん!」

 彼は慌てて身体を離したが、ユニの追及からは逃れられなかった。


「……なら、試してみる? それとも女に負けるのが怖いのかしら……」

「ばっ、馬鹿を言うなっ! 第一、そんな勝手に決めてはアスカ殿に失礼だろう」


 それだけ聞けば十分だった。ユニはその場で立ち上がり、少し離れたところで座っているアスカに向けて手を振った。

「おーい、アスカーー! ゴードンがあなたと試合をしてみたいって!

 どうするー、やるー?」


「おっ、おい! やめろっ!」

 慌てふためくゴードンをユニは無視した。

 一方、アスカはユニの呼びかけを聞くなりがばっと立ち上がり、プレートアーマーをがちゃがちゃさせて向かってきた。


「そうか、ゴードン殿もそう思っていたとはありがたい!

 ぜひやろうではないか。獲物は剣か、ハルバートか?」

 満面の笑顔は子どものようだ。


「アスカったら、そう早まらないでよ。

 ゴードンも剣が得意なんだって。でも怪我はまずいから、木剣で試合った方がいいんじゃない?」

「うむ、それもそうだな。木剣なら荷車に積んでいるはずだ。

 その前にユニ、ちょっと鎧を脱ぐのを手伝ってくれ」


 アスカが鈍銀の金属鎧の留め金を外しだすと、ゴードンが慌ててそれを止める。

「いっ、いや。鎧はそのままでいいだろう。木剣でも当たれば簡単に骨折するんだぞ」

 アスカは首をかしげながら、留め金を外す手を動かし続けた。


「しかし、ゴードン殿は革鎧だろう。それにプレートアーマーは確かに安全だが、剣を振るうスピードや自由度が全然違う。いろんな意味で不公平だ」

「うっ……。わ、分かった。それじゃせめて革鎧はつけてくれ。荷車には俺の予備も積んである。アスカ殿の体格ならちょうどいいだろう。

 うわっ! ちょっと待て! アスカ殿、なんて格好をしているんだっ!

 俺は後ろを向いているから、早く服を着てくれ!」


 プレートアーマーは断熱効果が異様に高いミスリル製(合金だが)であるため、アスカは季節を問わずにぴったりした下着同然の服を着ている。

 鎧を脱いだため、アスカは身体の線がはっきりと分かる姿となって、ゴードンを慌てさせたのだ。


 そんな騒動もあって、うやむやのうちに試合が行われることが確定してしまった。アスカはいそいそと、ゴードンは渋面でそれぞれに身支度を整える。

 オオカミたちがぞろぞろと集まり、大きな輪を作って観客となり、その輪がそのまま試合場となった。

 ユニは審判役になって、二人を向かい合わせて「始めっ」と合図をする。


 互いに一歩踏み出したかと思うと、いきなり「ぶんっ!」という木剣の風切り音が唸り、「かっ!」という木剣で受けとめる乾いた音が響いた。目の前で見ているユニにも、何が起きたのかまったく分からなかった。


 二人は二、三度打ち合ってから、さっと下がって間合いをとった。

 対峙している両者の身長はあまり変わらないが、アスカの方が五センチばかり大きい。逆に体重はゴードンが二十キロ以上上回っているが、アスカの胸板の厚さ、肩や腕の盛り上がった筋肉もなかなかのものだ。


 アスカの表情は明るく、楽しそうだった。

「ゴードン殿、私が女だからか? どうもいらぬ遠慮をさせたようだな。

 では、互いに手を抜かずにいこうか!」

 そう言うなりアスカは袈裟懸けに切りかかる。

 がっちりと受け止めたゴードンは、瞬間顔をゆがめて相手の木剣を払いのけ、飛び下がって再び間合いをとった。

 アスカの重い一撃で木剣を持つ手が痺れたのだ。剣を取り落とさなかったのは、彼の意地がなせるわざである。


「アスカ殿、これは私の方こそ失礼した!

 こちらも手加減しませぬぞ!」

 ゴードンの顔は真剣そのものだった。相手が並の剣士でないことは、今の打ち込みではっきり分かった。


 両者の打ち合いは速度を増し、鋭さがつのり、激しくなるばかりだった。

 審判のユニはもちろん剣の間合いの外にいたが、無意識のうちにじりじりと距離をあけていった。二人がどうやって打ち込み、どうやってそれを防いだかは相変わらず分からないが、少しでも近づいたら危険だと本能的に感じたのだ。


 ただ、二人の剣筋に大きな違いがあることだけは段々分かってきた。

 アスカは姿勢を真っ直ぐにし、軸がぶれない。正眼の構えで剣先が常に相手の目を向いている。攻撃から防御、そしてその逆の動きも無駄がなく、滑らかで素早い。

 いかにも正規の教えを受けた教科書的な剣術だった。


 一方のゴードンは脚を大きく開いて腰を落とし、剣は後ろに引いて相手から見えないように構えていた。

 攻撃は下から跳ね上げるような斬撃に加え、執拗に踏み出してくる相手の脛を狙う。上半身を攻撃する場合は突きに徹していた。

 恵まれた体格を生かす上段からの打ちおろしは捨て、変幻自在に意表を突く攻撃を繰り出すのが、彼の戦うスタイルのようだった。


 試合が始まってしばらくは、アスカはゴードンの変則的な攻撃を防ぐので精一杯だった。

 逆にゴードンはアスカの太刀筋が予想しやすいらしく、重い一撃を難なく受け、そらしていた。

 試合はゴードン有利かと思われたが、やがて流れが変わってきた。


 アスカはゴードンの攻撃に慣れてきて、さばきが早くなった。逆にゴードンはアスカの剣圧に押され始め、明らかに体力を消耗していた。

 肩で息をするようになったゴードンは、これ以上長引かせては勝ち目がないと覚った。


 彼は大きく踏み込んで下段から素早い一撃を放つ。これは苦もなくアスカに弾かれたが、想定内だとばかりに頭上に跳ね上げられた剣に全体重をかけて打ちおろした。

 下段からの攻撃、そして下半身ばかりを狙っていただけに、この突然の上段攻撃は意表を突いた。

 アスカの受けが一瞬遅れたが、どうにか顔の寸前で受け止める。彼女の鼻孔に木の焦げる匂いがぷんと香る。

 アスカは身体をのけぞらせてゴードンの剣を全力で押し返した。


 この瞬間をゴードンは狙っていた。突然剣から力を抜くと、素早く手前に引き戻したのだ。

 アスカの木剣は相手を失って空を切った。

 ゴードンの目の前にはがら空きのアスカのわき腹がある。彼はそこに向けて神速の突きを繰り出した。

 それは会心の攻撃だった。


 すでにゴードンはアスカの実力が自分を上回っていると理解していた。それでも「負けたくない!」という思いがある。その突きは、慎重に囮の攻撃を何度も繰り返して、やっと掴んだ千載一遇のチャンスだったのだ。


 ゴードンは「勝った!」と言葉に出そうとしたが、それは果たせなかった。

 あと数センチでアスカの肋骨を突き砕こうという刹那、彼は丸太で腹を殴られたような衝撃を感じ、そのまま後方に吹っ飛ばされて意識を失った。


 アスカもまた機会を窺っていたのだ。下段攻撃を重ねた上での袈裟懸けが襲ってきた時、彼女は「罠だ」と直感した。

 相手の誘いに乗りながら、彼女は反撃の準備をしていた。ゴードンが剣を引いた時、彼女は体勢を崩したと見せかけておいて、その恐るべき膂力で木剣を横殴りにフルスイングしたのだ。


 ゴードンの必殺の突きが届くより一瞬早く、彼女の木剣はゴードンの腹部にもろに叩きつけられた。

 革鎧をしていなかったら――いや、していたとしても、普通だったら内臓が破裂して即死していただろう。

 彼が助かったのは、上等の革鎧と鍛え上げられた分厚い腹筋、そして腹を打ちぬかれる瞬間、無意識に身体をひねってわずかに剣圧を逸らせたからだった。


      *       *


 アスカは「からん」という乾いた音をさせて木剣を捨て、仰向けで伸びているゴードンに近づいた。

「ちょっ、アスカ! まさか殺してなんかいなわよね?」

 ユニが恐々こわごわと訊ねるのに答えず、アスカはゴードンを抱き起して身体の状態を慎重に確かめていく。

 やがて上げた顔には笑みが宿っていた。


「どうやら大丈夫らしい。頑丈な男だ……それに運もいい。骨も折れていないようだ。

 う~ん、普通なら死んでるんだがなぁ」

「ちょっと、怖いこと言わないでよ!」


 アスカはゴードンの背後に回ると、背中の真ん中に膝をつけ、両肩を掴んでぐいと手前に引いた。

 彼はどうにか意識を取り戻し、しばらく「げほげほ」と咳き込んでいた。

 アスカはその背中をばんばんと叩いた。


「いやぁ、ゴードン殿――いや、ゴードンと呼んでいいか? 私のこともアスカでいい。

 そなた、どなたか師はおられるのか? 実に変わった太刀筋だった。実際面くらったぞ」

「うっ……あ、ああ。いや、師はいない。剣術は独学だ。

 さすがに正規の剣を学んだ者には勝てないようだな……」


「そんなことはないぞ! ゴードンは強い、実に強いぞ!

 私の部下でそなたと対等に戦える者は、一人か……二人がやっとだな。

 久しぶりに楽しい試合だった。礼を言いたい。

 実を言うと、赤城市を出てからずっと手合わせを願いたかったのだが、少し恥ずかしくてな。

 こんなことなら勇気を出して初日に頼むのだった」


 ゴードンの方は苦笑いを浮かべている。

「謝らねばならんのはこっちだよ、アスカ。

 俺は正直あんたを馬鹿にしていた。

 いくらデカくても所詮は女、将校だろうが何ほどのものかと思っていたんだ。

 だが、あんたの全力の一撃を受けて覚ったよ。『こいつは凄え!』ってな。

 あんたは俺がこれまで出会った人間で一番強いよ。

 ……なんだか負けたんだが、すっきりした気分だ」


 ユニはこれほど饒舌な二人を初めて見たので目を丸くしていたが、ふとアスカの様子がおかしいのに気がついた。

 彼女が頬を赤らめてもじもじしているのだ。

 さっきヨミが言っていたことが頭をかすめる。


「ねえ、アスカ。あなたゴードンに何かまだ言いたいことがあるんじゃないの?

 この際だから思い切って言っちゃいなさいよ!」

 二メートル近い大女は耳まで真っ赤になった。

「そっ……そうだな。

 ゴードン、実はあなたに頼みがあるのだ。……その、もちろん嫌だったら断ってくれていいのだが」


 ゴードンは首をひねった。

「俺にできることなら構わないが……言ってみてくれ」

 アスカは目を伏せて乙女のように恥じらい、小さな声を出した。

「その……させてほしいのだ」


「え? すまん、よく聞こえなかった。もう一度言ってくれないか?」

 ゴードンが困惑したように頼んだが、聞こえなかったのはユニも同じだった。彼女は固唾を呑んでアスカの言葉を待った。


「つまり、その……あなたの頭を触らせてほしいのだ」

「俺の頭を? いや、別に構わないが……汗をかいているぞ?」


「そうか、ありがとう! いや、汗は気にしない」

 アスカはぱぁっと顔を輝かせると、タオルを取り出してゴードンの頭を抱え込むようにして汗をぬぐう。

 そして片手で顔を抱いたまま、スキンヘッドのつるつるした頭を撫でまわし、その感触を存分に堪能した。

 ゴードンはわけが分からず目を白黒させていたが、それよりも顔をもろにアスカの胸のふくらみに押し当てられていることに困惑し、身動きできずに固まっている。


 アスカは上気した顔で「ほうっ」という色っぽい溜め息を吐いた。

「実を言うと、初めて出会った時から、この頭を触ってみたくて仕方がなかったのだ。

 このざらりとした感触は、剃っているのだな? ああっ! 想像したとおりの気持ちのいい手触りだ……」


 ユニは二人を残してその場を離れた。

 とてつもない脱力感に襲われ、どっと疲れたのだ。

 さっきまでオオカミたちと休んでいた場所に戻ると、ぱたりとその場に倒れ込んだ。

 心配したヨミが身体をぴったりと付けて添い寝してくれる。


 ユニはオオカミの首に抱きつくと、分厚い毛並みに顔を埋めて愚痴をこぼした。

「ああ、母さん。あたし、アスカだけはまともだと思ってたんだけど……。

 ちょっとはロマンティックな展開を期待したあたしが馬鹿だったわ!

 どうしてあたしの周りの女って変態ばかりなのかしら?」

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