密林の賢王 第三話 パジャマ会談
翌日の早朝、ユニは赤城市に向けて出立した。
オオカミたちの足であれば、カイラ村からは三日もあれば着く距離なので、もっとゆっくりしてもよかったのだが、ユニは赤城市の様子が気にかかっていたのだ。
吸血鬼事件が解決した後、彼女はすぐに黒城市に向かったため、その後の状況はマリウスからの伝聞でしか把握していない。
南方人は陽気で人懐っこい。だが、ユニが最後に記憶しているのは、長期の不安に晒された挙句の疲れ果てた人々の顔だった。
吸血鬼の脅威は消えたというのに、街には無理に夜間収容した壁外住民の糞尿の臭いが漂い、賑やかだった新市街はスラムのように荒れ果てていた。
あれから半年以上経っているのだから、きっと復興しているに違いない。ユニはそれを一刻も早く自分の目で見て、安心したかった。後始末を赤龍帝やアリストアに任せて、さっさと逃げ出した自分に赦しを与えたかったのだ。
しかし、南方人はしたたかで逞しかった。
城壁外に広がる新市街は以前にもまして活気に満ち、人々の表情は底抜けに明るく、ユニの不安が
ユニは、自分が胸に抱いていた罪悪感を少し恥ずかしく思いながら城門に向かう。
門衛にはすでに指示が届いているらしく、ユニはすぐさま赤城へと案内された。
赤い御影石で組まれた壁や床に豪奢な絨毯(赤城市の特産品)で飾りたてた城内を進み、いくつかの階段を上がっていくと、中枢部である赤龍帝の執務エリアにたどりつく。
上層階の入り口にはハルバートを構えた衛兵が二人立っていて、その前で赤龍帝の副官の一人、ロレンソ少佐が出迎えてくれた。
「お久しぶりです、ロレンソ少佐」
「おお、ユニ殿! 一別以来ですな。息災そうで何よりです。
お早いお着き、お陰で助かりました。われら家臣一同を代表してお礼申し上げます」
「はい? 助かったって……何かあったのですか?」
ロレンソは少し困ったような笑いを浮かべた。
「実は姫さま――いや、リディア様がユニ殿に会いたがっておりまして、毎日毎日、まだかまだかと責められるものですから……ほとほと困っておったのです」
「え、ああ……それはお気の毒に」
ユニも曖昧な笑みを浮かべるしかない。
敵対するサラーム教諸国と対峙する王国南部地方の軍事拠点、赤城市の軍民を統治する赤龍帝リディアは、四帝の中で最も若く、まだ二十歳を過ぎたばかりであった。
少女と言ってもよいその可憐な外見から、赤城市民に〝姫さま〟と呼ばれ愛されているが、実際には勝ち気で無鉄砲、派手好きのがさつな娘だった。
もちろん、彼女は四帝の立場を十分にわきまえていて、軍政でも民政でも類稀な指導力を発揮しているのだが、普段猫を被っている分、身近な者――特に副官のロレンソやヒルダに対しては、甘え方と我儘が度を越しているのだ。
もっとも
「今の時間帯、ここから先は男子禁制でしてな。私は中に入れませんので、どうかお一人で進んでください」
ロレンソが当然のように言うので、ユニは少し慌てた。
「え、案内なしに一人で入ってよいのですか?
私はリディア様の居場所も知らないのですが……」
「何、心配いりません。回廊を歩いていれば、姫さまの方が見つけてくれるはずです。
それでは、私は仕事がありますので、また後ほど……」
副官が行ってしまったため、ユニは仕方なく回廊をゆっくりと歩いていった。
ロレンソの言葉は大げさでもなんでもなかった。一つ目の角を曲がった途端、先の方から聞き覚えのある若い娘の声が響いてきたのだ。
「ユーーーーニーーーーィィィ!」
三十メートルも先の回廊の角から小柄な少女が飛び出し、腕をぶんぶん振り回してこちらに走ってくる。
驚いたことに彼女はズロースこそかろうじて穿いているものの、ほぼ素っ裸だった。
背中まで伸びた黒髪は、濡れて重そうな束をつくって左右に大きく振れ、華奢な身体の割に立派な胸の膨らみは、走るたびに上下に揺れている。
ユニが唖然として立ち尽くしていると、その数秒後に廊下の角からもう一人の女性が飛び出してきた。
彼女は両手に大きなバスタオルを持って、必死の形相でリディアを追いかけている。
きちんと結い上げた銀色の髪、
リディアはユニまであと十メートルというところで、追いついたヒルダのタックルを受けて床に倒された。
回廊の床には分厚い絨毯が敷き詰められているので怪我はないはずだが、両手をバンザイしてガニ股でうつ伏せに倒れている赤龍帝は、まるで踏み潰されたカエルのようだ。
ヒルダに捕まった拍子にズロースが半分ほどずり下がり、白く丸いお尻がむき出しとなっている。
「いったぁ~い!」
鼻の頭を赤くしたリディアが顔を上げて抗議の声を発すると、その後頭部をヒルダの平手がぴしゃりと張り飛ばす。
「もうっ! あなたって人はっ! なんだって言うことを聞いてくれないんですかっ! わっ、私がいつもどれだけ心配をっ……!」
全力疾走したヒルダはぜいぜいと肩で息をしながら、涙声でぺちぺちリディアの背中やお尻を叩く。
さすがに放っておけなくなったユニは、二人のもとに駆け寄って仲裁に入った。
「まぁまぁヒルダさん、ちょっと落ち着いて。
リディア様も……うわぁ! ずぶ濡れじゃありませんか?
とにかくタオルで体を拭いて、下着は……ヒルダが持っているわね。とっ、とにかく何か着てください!」
ユニとヒルダはとりあえずリディアを立たせ、二人がかりで彼女の身体を大きなバスタオルで包んでごしごしと拭き始めた。
ヒルダは身体の方をユニに任せると、別の大きなタオルでリディアの長い髪を包み、ぱんぱんと両手で叩いて水気を吸い取る。
「リディア様は入浴の最中だったんですよ。
それが突然、湯船の中で『ユニが来たっ!』って叫んで飛び出して行ったんです。
まったく、この跳ねた髪は妖怪アンテナですか!
脱衣所からここまで水だらけにして、おまけにはしたない格好で走り回るなんて……。
先代が見たらなんて言うか……ううっ、情けない!」
半分ヒステリー状態で泣き出すヒルダを、リディアは全く気にしない。こういうのは慣れっこなのだ。
「あら、フレディ(先代の赤龍帝)だったら、若い娘のぴちぴちの裸が見られたって大喜びすると思わよ?」
そう言ってリディアは誇らしげに胸をそらした。小柄な割に豊かで形の良い乳房は、彼女の密かな自慢だった。
「……ん? どうしたのユニ、顔色が悪いわよ?」
「くっ、背は同じくらいだというのに……負けた!」
ユニは目の前で見せびらかすリディアの胸に、がっくりと肩を落とすのみだった。
* *
そんなドタバタ劇を繰り広げた後、ユニは用意されていた客用寝室に案内され、旅装を解いた。入浴と着替えを済ませ、意外に質素な夕食をともにしてから寝室に戻る。
「はて、どうしたものか」とぼんやりしていると、扉がノックされ、ヒルダが迎えにきた。リディアが話をしたがっているので、彼女の私室に来て欲しいというのだ。
「では着替えますから少しお待ちください」
ユニがそう言って戻ろうとするのをヒルダが押しとどめた。
「いえ、そのままで結構です。私もこのとおりの格好ですし」
確かにヒルダはいつもの軍服ではなく、飾り気のない厚手のパジャマにカーディガンを羽織っている。ユニは長袖の綿シャツに膝丈のゆったりとした短ズボンを穿いていた。
リディアの私室は、若い娘らしいひらひらしたレースは見当たらないものの、花を活けた陶磁器や趣味のよい絵画が控えめに飾られ、暖房の効いた居心地の良さそうな小部屋だった。どうもヒルダの好みが反映されているらしい。
リディアはヒルダの奮闘できれいに髪をセットされ、短めのカットズロースにキャミソール、その上から綿入りのナイトガウンを羽織るというくつろいだ格好だった。
三人とも寝間着姿で、ちょっとしたパジャマ・パーティの雰囲気だった。
リディアは相変わらず元気いっぱいだが、ヒルダは疲労の色が濃く、赤い目の下に
三人の娘たち(ヒルダは三十代だったが)は、リディアを挟んでベッドに並んで腰をおろしていた。
リディアは、ユニが赤城市を発った後の出来事を面白おかしく喋り続けた。
あまりに楽しそうなので気が引けたが、ユニは話の合間に口を挟んでみた。
「あの、リディア様?
私のことをお待ちになっていたそうですが……この話のためでしょうか?」
リディアは二十一歳で、ユニより七つ年下だ。魔導院では一緒になったことはないが、ユニはれっきとした先輩である。
にも拘らず、彼女が言葉遣いで敬意を示しているのは、リディアが四帝という特別の地位にあるからにほかならない。
若い娘らしくお喋りを楽しんでいたリディアは、ユニの問いにきょとんとした表情を見せた――が、次の瞬間、いきなり赤龍帝の顔に変わった。
「――まさか。実を言うと、アリストアが来る前にユニと話をしておきたかったのだ。
率直に訊こう、帝国で何を見てきた?」
「参謀副総長にはすべてお話ししましたが……こちらには何も届いていない、と?」
赤龍帝はかぶりを振った。
「いや、あらましは知らされている。もっとも、その書簡は黒蛇帝ヴァルター殿からのものだったがな。
……ユニは、アリストアだったら包み隠さずに知らせたと思うか?」
ユニも同様に首を振ったのを見て、リディアはにやりと笑った。その表情は小娘のものではない。
「やはりそう思うか。
だからこそ、ヴァルター殿が機先を制して我ら三帝に知らせたのだろう。
もっとも、黒蛇帝の知らせも、肝心のところではいろいろとボカしておったがの。
私だってナサル首長国連邦との戦いや、魔人の心臓の全てを彼らに話していないからな、おあいこだ」
「それで……」
リディアが身体を寄せて、下からユニの顔を覗き込んだ。
風呂上がりの香油のよい匂いがふんわりと漂う。
「ユニに直接聞いておきたい。それもアリストアが現れる前に――だ」
ユニにとって、四帝が参謀本部に気を許していないばかりか、彼ら同士ですら牽制し合っているという事実は、ちょっとした驚きだった。
「赤龍――ドレイク様からは何と聞いておられるのですか?
彼はウエマク様を通していろいろ知っているはずですよね」
赤龍帝は眉根を寄せて、疑わし気な目でユニを睨んだ。
「話に聞いたとおりだ。……ユニは油断がならんな。
神獣同士が意思を通じていることは、四帝以外知らぬはずだぞ?」
ユニは心中で「あら、釣れたわ」と驚く。彼女は四柱の神獣同士が何らかの方法で意思の疎通を図っていると疑っていたので、カマをかけてみたのだ。
「四帝以外が知らないなら、私が知るはずないでしょう?
――分かりました。ウエマク様から口止めされている訳ではありませんから、お話しします。
参謀本部で毎日同じ話をさせられましたから、もう飽き飽きしていますけどね」
* *
ユニの長い話が終わると、リディアはしばらく真面目な顔で考え込んでいた。
その間にヒルダが立ち上がり、お茶とお菓子の支度をする。
「……やはりその魔導王を名乗るエルフがカギだな。
私の生まれる前に、この赤城市で何か関連することがあったようだ――少し調べてみよう。
ユニ、やはり話を聞いてよかった。礼を言うぞ」
「赤龍帝はドレイク様の記憶をどの程度共有しているのですか?」
召喚士が幻獣を初めて現世に呼び出す際、両者には記憶の共有が起きる。
ライガと世間話をすると、彼はよくユニ自身がよく覚えていない幼少時の記憶を口に出すことがある。
逆にユニが知っている幻獣界、すなわちライガの記憶はかなり曖昧で断片的だ。
一般に幻獣は人間より遥かに長命なため膨大な記憶を有していて、記憶の制限は人間の脳の容量を超えないための安全装置だとされている。
「それがほとんどないのだ。多分、四帝と召喚士の一番の違いだろうな。
初の召喚で記憶の共有が起きるのは同じなんだが、そのほとんどは過去の赤龍帝の記憶なんだ。
特に先代の記憶はかなりの量が入ってくる。
私も慣れるまでは混乱したんだよ。なんせ初めて会ったはずのロレンソやヒルダ、それに城の部下たちの顔や名前が全部頭に入っていたからな。
ヒルダについては尻を撫でた時の手の感触まで記憶していたぞ」
「余計なことは言わないでください!」
すかさず副官の小言が飛んできた。彼女は小さなテーブルをリディアたちの前に運び、その上にお茶とチョコレート菓子(南部の名物)の小皿を置いた。
「それじゃ、赤龍の記憶はいちいち聞かないと分からないってことですか。
では……アッシュの故郷、西の森の場所って分かりませんよね?」
リディアはチョコを口の中に放り込んでもぐもぐさせながら答える。「はしたないですっ!」とヒルダが怒っているがどこ吹く風だ。
「んぁー、そりゃにゃらドレイクに聞いたにょ」
それ以上ヒルダを刺激しないよう(あまり度を超すと、彼女はヒステリーの発作を起こすのだ)、しばらくもぐもぐして口の中を片付けてから、リディアは付け加えた。
「サラーム教国家群のさらに南方に黒人国が乱立して広がっているのだが、その西南の果て――西洋海に近いらしいな」
ユニは少し落胆した。
西の森のエルフの新王アッシュは、別れ際に「また会うことになるだろう」という予言を残したが、簡単に行けるような距離ではないようだ。
リディアの方は「もう赤龍帝の役目は完了」とばかりに、元気のあり余る若い娘の表情に戻っている。
「アリストアはアスカを連れてくるらしいぞ、ユニは聞いていたか?」
「アスカが? いえ、初耳です。でもなんで彼女が……」
「ふふふっ、
……あれ? そう言えばアリストアがもう一人連れてくるって言ってたな、誰だっけ――ヒルダは覚えてる?」
銀髪の美女は深い溜め息をついた。
「アシーズ殿です。
ほら、ユニさんがルカ大公国へ向かう隊商に同道した際の警備隊長ですよ」
ユニはアスカのこと以上に驚いた。
「なんだってアシーズさんがアストリア先輩と……!
そもそも、リディア様は今回の召集をどう聞いているのですか?」
リディアは可愛らしい顔を
「はて、私はオークに関する〝学術調査〟だとしか聞いていないぞ?」
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