第三章 密林の賢王
密林の賢王 第一話 オークを狩る者
リスト王国は温暖な地域だとよく言われている。
国の西側にはコルドラ大山脈が連なるため、北西の季節風に運ばれてくる雪雲は山脈の西側で雪を降らせ、東側の王国には冷たく乾いた風が吹く。
そのため冬季でも雪が少なく晴れる日が多いのでそのように言われるのだが、実際にはそれなりに寒い。その中でも二月は乾燥した季節風が吹き荒れ、身体に
ユニがしている薄手の革手袋からはじんじんと冷気が染み込んでくる。
寒さで感覚がなくならないよう、彼女は指を何度も開いたり閉じたりしながら、手槍のようなものを構えてじっと待ち続けている。
ナガサという巨大な包丁のような山刀の柄は空洞になっていて、そこに棒を差し込んで目釘と楔を打ち、革紐できつく縛ったもの――それが手槍の正体だ。
ユニはスギの巨木を背にして息を殺している。
分厚い底の革ブーツからは、茶色く枯れたスギの葉が堆積した柔らかな土の感覚が伝わってくる。
ふと、しんと静まり返った冷気が乱れ、かすかな熱気と獣臭が波のように押し寄せてきた。
「ユニ、そっちに追い込むぞ! 油断するなっ!」
ハヤトの警告が脳内に響き渡ると同時に、目の前六メートルほど先の枯れた茨の藪が小枝を撒き散らして爆発した。
鋭い棘を物ともせずに、その怪物は藪を無理やり突破して姿を現した。
身長二メートルはある太った巨体、冬だというのに革の腰巻きだけの半裸で、吹き出す汗で全身から白い湯気が上がっている。
見た目は人間に似ているが、猫背の長い腕、唇から長く突き出した下顎の犬歯、豚のような耳は、人間たちが〝オーク(鬼)〟と呼ぶ異形の者であることを示している。
オークはばらばらと飛び散る茨の破片を振り払って、思いがけずに飛び出した空き地に虚をつかれたように立ち止まる。
素早く周囲を見渡すと、目の前に手槍を構えた人間の女の姿を認めた。
「ちびっこいメスだ!」
一瞬でオークの脳が沸騰した。
彼は見たこともない巨大なオオカミの群れに突然襲われ、逃げている最中だったはずだが、そんなことは瞬間的に吹き飛んだ。
武装した集団は恐ろしいが、一人なら人間は簡単に叩き殺せる相手だ。
まずは手加減して殴って気絶させよう!
それから思う存分犯してやる!
飽きたら身体を引き裂いて、柔らかい
オークの頭脳は身勝手な妄想で溢れかえり、彼は手にした棍棒を振りかざし、威嚇の叫びを
わずか二歩の跳躍でオークは女の前に立ちはだかり、逃げ道を塞ぐはずだった。
しかしその直前、彼の真横から灰色の巨大な塊が飛び出して振り上げた腕にぞぶりと牙を潜り込ませ、その勢いのまま鬼の巨体を地面に引きずり倒した。
すかさずユニが飛びかかり、仰向けに転がった相手に手槍を突き立てる。
穂先に括りつけられたナガサの鋭い片刃がオークの太い首をさくりと切り裂き、切断された頸動脈から噴水のような鮮血がほとばしり、血の霧が視界を真っ赤に染める。
「あっ、バカっ!」
ライガの怒声が響くのと、断末魔のオークが噛みついているオオカミごと腕を振るったのは同時だった。
恐るべき膂力で三メートルを超すライガの巨体が振り回されて宙を舞い、軽率な攻撃を仕掛けたユニの身体にまともにぶち当たった。
小柄な彼女は数メートルも吹っ飛ばされ、背中からスギの木の幹に激突する。
地面に叩きつけられたライガは、オークにとどめを刺すべく即座に立ち上がったが、その必要はないようだった。
オークの首から噴き出す鮮血はもう勢いを失っている。心臓が鼓動を止めようとしているのだ。
大の字になって横たわる怪物の身体はびくびくと何度か小さく痙攣し、腰巻から顔を出していた怒張した陰茎があっという間に萎んでいく。
もうオークは脅威たり得ないと判断したライガは、急いでユニのもとに駆けつけた。
そのころには追い立て役の群れのオオカミたちも現れ、スギの根元で倒れこんでいる彼女の周囲に集まって、心配そうに顔を覗き込んだ。
「おい、ユニ。生きているか?」
ライガが声をかけると、意外なことに彼女はすぐに目を開いて顔を上げた。
「えっ? あっ、……ああライガか」
ユニはむくりと身体を起こして左右にひねり、腕を回して自己点検をする。
「うん、なんか大丈夫みたいだわ……」
彼女がそう言ったとたん、ライガの怒りが爆発した。
「このバカっ! 無茶をするなって何回言えば分かるんだ!
どうしてハヤトとトキが追いついて、オークの動きを完全に封じるまで待てないんだ!」
ライガが鼻の周りに皺を寄せ、鋭く長い牙をむき出しにして怒る様子は、もの凄い迫力があった。
しかしその表情も怒声も、ユニにはあまり効かないことをライガは知っていた。彼らは長い付き合いなのだ。
どうせこれ以上怒鳴っても、ヨミに
「……それで、お前なんで無事なんだ?
あの勢いだ、死んでもおかしくないはずだが……骨も折れていないのはさすがに変だぞ」
ユニもうなずいて、今しがたの出来事を必死に思い返した。
「それが確かに変なのよ。
木に激突した時、まるで柔らかい空気の壁に押し返されたような感じがしたの。
ほら、マリウスの障壁魔法にぶつかった時みたいな感じ……。
……あー、なんか分かってきた! これ、何かの魔法よ。絶対マリウスの仕業だわ!」
「それならあの小僧に感謝するんだな。
ほれ、無事だって言うなら、やることを済ましてしまえ」
ユニはライガに促され、すっかり冷たくなったオークのもとへ近づくと死体の脇に膝をついた。
地面に転がっている手槍とは別のナガサを腰の鞘から引き抜くと、まずオークの片耳を切り取った。
これはオークを倒した証拠となり、耳の皺模様は個体識別のために記録されるのだ。
次いでユニはオークの太鼓腹にナガサを突き刺し、みぞおちのあたりから下腹部まで一気に浅く引き裂く。
もう心臓が止まっているので血はあまり出ない。黄色い皮下脂肪の塊りをかき分けると、黄土色の胃袋が現れる。
ナガサでその胃壁も切り開くと、たちまちむっとする生臭く酸っぱい臭いが周囲に広がった。
それは胃の内容物を確かめるための行為だが、このオークのそれはほとんど空っぽで、わずかに未消化の木の皮や何かの実の皮や種が残っているだけである。
血で汚れた手袋とナガサの刀身を堅く絞った布で
「外れ。こいつ、昨日からろくなものを食べてないわ。
子羊を襲った奴なら、羊毛や骨のかけらが残っているはずだもの……。
仕方ないわ、また一から捜索ね」
* *
ユニとオオカミたちが村に戻ってきたのは、まだ昼前のことだった。
にこにこしながら出迎えてくれた
分かりやすい彼の表情に苦笑しながら、ユニは戦果の説明をした。
「そんな顔しないでください。とりあえずオークは仕留めました。
ただ、そいつは羊を襲った奴じゃありませんでした。
午後からもう一度森に入ります。
その前に、はぐれオークの駆除証明を出してください」
彼女はそう言って、油紙に包んだオークの耳を手渡した。
「依頼のオークでないなら、報酬は出せませんよ?」
肝煎はユニの顔を覗き込みながら、おずおずと言った。
「分かっています。国からの支給がありますから気にしないでください」
彼女の答えを聞いて、肝煎の表情はたちまち明るくなる。
依頼したものではないが、村に近い森に潜んでいたオークである。早晩家畜を襲うのは間違いない。
そうなったら村は報奨金を出して召喚士を呼ぶしかなくなる。それを無償で駆除してくれたのだから、喜ぶのは当然だった。
「いやぁ、さすがはオーク狩の名人と言われるユニさんだ。少し割高だが、あんたを頼んでよかったよ。
それじゃ、さっそく証明書を出しますんで、役屋へ来てください」
ほくほく顔で歩き出す肝煎に続きながら、ユニは訊ねた。
「今回の報酬は賄い付きで銀貨十二枚ですから、別に高くはないと思いますけど?」
肝煎は「ああ」という納得顔で答えた。
「ユニさんはしばらく辺境を留守にしていたからご存じないのでしょうな。
実はこの冬はやたらとオークの襲撃が多い上に、最近はオーク退治をする召喚士さんが増えてきたんですよ。
それでかなり相場が下がっていましてね、今はオーク一頭で銀貨十枚が相場ですな。
あなたは特別ですよ」
ユニは帝国での冒険から懐かしい辺境に戻ってきた。
そして再びオークを狩る日常を取り戻したのだが、〝オークが増えている〟ことはすでに実感していた。
エルフの魔道王ネクタリウスに与えられた〝オークの秘密とその裏にある真実を探れ〟という課題は、ずっとユニの頭に居座っている。
そのため彼女はオークの変化に敏感にならざるを得ない。
考え込みながら役屋に入ったユニは、しばらくその中にいる人物に注意を払わなかった。
「おかえりなさい、早かったですね」
聞きなれた声音にわれに返った彼女は、目の前に笑顔で立っているマリウスにようやく気がづいた。
「げしっ!」
いきなり鈍い音が響く。
ユニが反射的にマリウスの脛をつま先に鉄のカップを仕込んだブーツで蹴り飛ばしたのだ。
「痛っ! 何するんですか、いきなり!」
涙目で抗議するマリウスの膝の裏を、ユニはなおも「げしげし」と蹴り続けた。
「やかましいっ! あんたあたしに魔法で何かしたでしょ、白状しなさい!」
先に役屋に入っていた肝煎は、目を丸くして硬直している。
ユニは基本的に親しい人物以外には礼儀正しく、ごく丁寧な物言いをする。
肝煎は参謀本部からの使いだという青年に、彼女がいきなり乱暴な口調で蹴りを入れたのに驚いたのだ。
ユニは肝煎のなんとも言えない視線にはっと気づき、顔を赤らめて取り繕った。
「すっ、済みません。マリウスは旧知の仲ですから気にしないでください。
ほんの挨拶みたいなもんです」
「挨拶で人を蹴るなんて馬でもしませんよ」
マリウスは涙目で膨れている。
ユニは咳払いをしてその場をごまかし、オークを仕留めた際に起きた不思議な出来事を説明した。
マリウスはぽんと手を叩いて納得した。
「ああ、なるほど! うまいこと魔法が発動しましたか、よかったですね」
ユニはじろりと青年を睨みつける。
「やっぱりあんた、何かやったのね?」
そのやり取りを聞いていた肝煎は、ますます混乱したようだった。
「魔法? 魔法ってなんのことですか?」
彼の驚き方でユニはやっと思い出した。王国の民衆にとって召喚術以外の魔法はおとぎ話の世界なのだ。もちろん肝煎はマリウスが魔導士だとは夢にも思っていない。
「なっ、なんでもありませんのよ! おほほほほ……。
お騒がせしてごめんなさい。さっ、証明書の発行をお願いします」
ユニは肝煎の太った背中を押し出すようにして執務室へと入っていった。
* *
不審顔の肝煎をあやすようにして無事にオークの駆除証明書を手にしたユニは、そそくさと役屋を後にした。
もちろんマリウスを連れ出すのも忘れない。
村でユニの世話係をしてくれている肝煎の娘夫婦の家に顔を出し、昼食のバターつきパンと牛乳を受け取ると、オオカミたちが待機している村外の草地に戻った。
冬ではあるが陽だまりの草地に座ると、あまり寒さも気にならない。
当たり前のように二人に密着して寄り添うオオカミたちの分厚い毛皮は寒気を防ぎ、一層快適さを増してくれる。
ユニはパンとミルクをマリウスに分け与え、役屋で中断した話の続きを促した。
彼の話によれば、魔導士たちが日常的に身にまとっている〝マジックシールド〟をユニにかけたのだという。
マジックシールドはカウンターマジックの一種で、弓矢などの飛び道具に襲われた際に自動発動する防御魔法である。
マリウスの見解では、ユニが弾き飛ばされて木に激突しそうになったのを、矢や石礫同様に物理刺激が急接近したと判断して魔法が発動したのだろうということだった。
「でも、マジックシールドって他人にかけることができるの? しかもあたしは一般人で魔導士じゃないのよ」
マリウスは笑って首を横に振った。
「まず、ユニさんは一般人じゃありませんよ。
それなりに魔力を持っていて魔法を使える魔導士です。
まぁ、帝国の魔導士試験には逆立ちしても受かりませんけどね」
「はあ? いつからあたしが魔導士になったのよ!」
ユニが素っ頓狂な声を上げてもマリウスは動じない。
「お忘れですか? ユニさん、オーク狩りに出る前には必ず〝シカリの巻物〟で
以前にも説明しましたが、あれは立派な魔法――それも防御魔法の一種です。
それが使えるユニさんは、ごく低レベルですけど魔導士だってことになるんです」
ユニはかつて師匠だった〝シカリ爺さん〟から、代々シカリ(狩人集団の長)に伝わる巻物を託されていた。
彼女は師匠から、狩りの仲間たち全員の無事を祈る一種の
遥か昔、エルフが人間に魔法を教える際、複雑なエルフ語を簡略化して人間にも発音できる文字にしたのが神聖文字である。
エルフ語なら一つの単語で済む言葉が、神聖文字で書くと数行分の文章になるという欠点もあったが(エルフが数秒で唱える呪文が、人間だと数十分かかるのはそのため)、この神聖文字のおかげで人間は魔法を手に入れられたのだ。
ユニが受け継いだ
その代わり、一度かけるとその日の行動が終了するまで持続し、どんなに仲間の範囲が広がっても効果が薄れることはなかった。
マリウスがその特性に着目し、この魔法に自身の強力な対魔法障壁を重ねがけすることで、広範囲に及ぶマグス大佐の爆裂魔法を防いだことは記憶に新しい。
「ユニさん、今日も出かける前にオオカミたちにお
その時にこっそりカウンターマジックを重ねがけしてみたんですよ。
いやぁ、そうですか、成功しましたか! うんうん」
一人で悦に入っているマリウスに対して、ユニは仏頂面だった。
「それならそうと、最初から言ってよね!」
「それはダメですよ。ちゃんと発動するかどうかも不明なのに、そんな魔法がかかっているって知ったら、ユニさん絶対無茶しますもん」
周囲で二人の会話をおとなしく聞いていたオオカミたちは、一斉に『うんうん』とうなずいた。
「とにかく、カウンターマジックは発動して、ユニさんは大怪我を免れたわけですよね?」
「まぁ……そういうことになるわね」
「それは僕が魔法をかけたおかげですよね?」
「そ……そういうことになるかしら」
「僕に感謝しても罰は当たりませんよね?」
「そう……とも言えるわね」
だんだんユニの声が小さくなってくる一方で、マリウスはますます調子に乗ってきた。
「なんですか、よく聞こえませんけど?」
「……ありがとう」
「はい?」
「ありがとうって言ってんのよ!
男のくせに、しつこいわよ!」
ライガは目を閉じて溜め息をついた。
『マリウスの小僧は……バカだな』
ヨミも溜め息をついて同調した。
『ええ、わざとやっているとしか思えないわ』
オオカミたちが一様に首を振っている中、悲鳴をあげてユニの蹴りから逃げ回るマリウスの姿を、午後の農作業に向かう村人たちが物珍しそうに眺めていた。
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