災厄の日々 第十一話 騎士の誓い

 イムラエルがホフマン家に来てから二週間が経った。

 その日の午前中、トルガ村はちょっとしたパニックに陥っていた。

 立派な馬に乗った軍人とその従者らしい男二人、そして二人乗りの一頭立て馬車が村を訪れたからだ。

 その小さいが豪華な造りの馬車の扉には、双頭有翼の蛇の紋章が描かれている。


 辺境の農民でも知っている、エーデルシュタイン侯爵家の紋章である。

 帝国貴族の紋章はたいてい剣やハルバートなどの武器、獅子や竜といったモチーフが使われており、数ある貴族の中で蛇を家紋に採用しているのは、かの侯爵家のみであった。

 よくよく見ると、身なりのよい軍人の馬具にも同じ紋章が描かれている。

 こんな片田舎に侯爵家の血筋の者が訪れるなどありえない話だったので、村人たちは農作業を放り出して道端に集まり、あれこれ噂をしながら見守っていた。


 すると従者の一人が見物の村人の方に近づき、ホフマン家の場所を訊ねてきた。

 おかげで村人たちの疑問は少し晴れることになった。ホフマン家の現当主であるイザークは、徴兵期間を過ぎても軍人として勤務しており、曹長という応召の一般兵では望みうる最高の階級を得ていた。軍関係者が訪れることがない訳ではない。


 ホフマン家は没落以前に建てられたので、ひなびた村ではひときわ目立つ大きな建物だった。

 訪問者たちは広い家の前庭に馬車を寄せ、馬から降りた軍人が扉をノックして、開いた扉から中に入っていった。

 扉を開けて出迎えたのはホフマン家の主婦なのだろうが、その見た目の幼さに若い軍人は驚いたようだった。


「侯爵家のクラウス中尉様ですね?

 主人に――イザークに何かあったのでしょうか!」

 クラウスに口を開く間も与えず、蒼白な顔でその女性は訊いてきた。


「確かに私はクラウスですが、先日少佐に昇進いたしました。

 イザーク曹長の奥方ですね?」

 彼女は慌ててスカートを摘まんで膝を軽く折り、こうべを垂れた。

「しっ、失礼いたしました、クラウス少佐様。

 私はイザークの妻、リベルカと申します。

 田舎者ゆえ礼儀を知りません。どうかご無礼をお許しください」


 クラウス少佐は若者らしい爽やかな笑顔を見せた。

「お気になさらずに。私のことは曹長から?」

「はい、主人からの手紙で伺っております。

 貴族の出を鼻にかけることもない、将来有望な方だと……あっ、また私ったら失礼なことを!」


 御曹司は、今度は白い歯を見せて笑い声を立てた。

「よいのです。

 しかし、それは誉め過ぎですね。

 曹長からは数えきれないほど助けられ、導いてもらいました。私は感謝しているのですよ」

 そう言ってリベルカの顔を見たクラウスは、彼女が訊きたいことを我慢して必死に耐えている表情に気がつき、はっとした。


「これは私の方こそ失礼しました。

 ご主人は生きております。それをまず第一に伝えるべきでした」

 彼は胸に手を当てて頭を下げた。

 リベルカは明らかに安堵の表情を見せながら、顔を赤くした。

「そんな……どうか頭をお上げくださいまし。

 でも、主人が無事と聞いてほっといたしました。

 さっ、どうぞ奥にお入りになってお座りください」


 リベルカの案内で、クラウス少佐は居間の頑丈なテーブルとは少し不似合いな椅子に腰をかけた。

 どこからか出してきた客用の椅子らしく、古びてはいるがなかなか良い品だ――貴族である彼は目が肥えていたので、すぐにそれと気づいた。

 従者の一人は彼の後ろで立ったままで、もう一人の従者は家に入らず外で馬の世話をしている。

 てきぱきとお茶の用意をするリベルカの背中に、クラウスは気さくな口調で声をかけた。


「先ほどは少し驚きました。曹長の奥方がこんなに若く美しい方だとは思わなかったのです。

 女性にこんなことを訊くのは不作法だと知っていますが、これは訊くなという方が無理な話でしょう。

 奥方はおいくつなのですか?」

 リベルカはカップにお茶を注ぎながら笑った。

「もう二十七歳ですわ。これでも十歳の子どもがいる、おばさんですのよ。結婚した時の主人の歳に並んだことになりますわ。私は十六の小娘でしたの」


 少佐はますます驚いた表情を浮かべた。

「それは……いえ、二十七歳でも十分若いのですが……その、奥方はどう見ても十代にしか思えません」

 彼女は頬を赤く染めながらカップを少佐の前に置いた。


「私はその……このとおりの童顔ですから仕方がないのですが、主人とはよく親子に間違えられたりして困ることの方が多いのです。

 さ、よろしければ召し上がってください。田舎の手焼き菓子ですからお口には合わないかもしれませんが」


 リベルカはバターのよい香りのするクッキーを乗せた小皿を差し出した。

 皿もカップも乳のような白い肌の陶磁器に異国の唐草模様が深い藍色で描かれている。一目で輸入ものと分かる、これも結構な代物だった。


「ところで、今日はどのようなご用でこんな田舎までいらしたのでしょう。

 主人の無事を伝えるため……とは思えませんが?」

 少女のようなあどけない顔で訊ねるイベルカを目の前にして、クラウスは顔を曇らせた。


「誠に申し上げにくいのですが……。

 奥方は『無事』とおっしゃいましたが、実を言うとイザーク曹長は生きてはおりますが無事ではないのです。

 軍機に触れるのであまり詳しくはお話しできないのですが、先の戦闘で曹長は大変危険で重要な任務に志願されました。

 その結果、わが軍は辛くも勝利を収めることができましたが、ご主人が率いた部隊は曹長を除いて全滅いたしました。

 ただ一人生き延びた曹長は全軍の英雄として讃えられております。

 しかし、群がる敵軍と一人で戦い続けた曹長は重傷を負い、現在パッサブ市の軍病院に入院されています」


 イベルカの手元で「ガチャリ」という陶器のぶつかる音がした。

「それで……主人の容態はどうなのでしょう?」

 少佐は沈痛な表情で淡々と告げた。

「未だ意識は回復していません。

 正直に申しますと、軍人としての復帰は不可能です。恐らく軍を退役することになると思います。

 肩の腱が切られて右腕はわずかしか上がりません。左手は中指から小指まで三本を失っております。左足も深く傷つき、一生引きずることになると医者が言っておりました。

 それと……右目を失明しております」


 イベルカは蒼白な顔で唇を噛んでいたが、泣きわめくことをしなかった。

 彼女の気丈な様子に救われたように、少佐は話を続けた。

「今日お訪ねしたのは曹長の容態を伝えるためと、あなたをお迎えするためです」

 イベルカは「え?」という表情で顔を上げた。


「実際、曹長の容態は芳しくありません。

 私は彼の上官として――いえ、それ以上に多くの恩義を受けた後輩として、ご家族を彼に会わせておくべきだと判断いたしました。

 本来、軍病院への民間人の立ち入りは禁止されていますが、私が働きかけて特別に許可を取っております。侯爵という家柄は、こういう時にこそ使うものでしょう。

 幸いパッサブ市には、わが侯爵家が避暑に使っている別邸があります。そこに部屋を用意させましたので、好きなだけお使いください。

 突然の話で恐縮ですが、私もすぐに軍務に戻らねばなりません。承知であれば、これから数時間でご用意をいただきたいのです。

 ――それと、申し上げにくいのですが、ご子息の面会許可までは取れませんでした。済みませんが帯同はご遠慮願います」


 クラウスの後ろに立って控えていた従者の顔色が「え?」と一瞬変化してすぐに元に戻ったが、誰もそんなことには気づかなかった。


 リベルカは白い顔色のまま立ち上がった。

「少佐様のご配慮には、なんと感謝を申し上げたらよいのか分かりません。

 子どもの世話は隣家の奥様にお願いしてきます。

 準備に三……いえ、二時間だけいただけますでしょうか?」


「勿論ですとも」

 クラウス少佐は頷いた。

「では失礼いたします」

 そう言ってリベルカは少佐を居間に残して部屋を出た。

 ついでに廊下でのぞき見していた金髪と赤毛の二人の男の子の耳も引っ張っていく。


「いいこと、話を聞いていたでしょうけど、あなたたちは連れて行けないの。

 食事の世話なんかはお隣りのリンドおばさんにお願いしておくわ。

 何か困ったことがあったら、バドおじさんに相談するのよ。

 イム、イアコフのことをお願いね!」

 慌しく着替えを鞄に詰めながら、彼女は最後の一言だけはイムラエルの正面に向き直って、その目を見ながら頼んだ。

 赤毛の子はしっかりと頷いた。

「任せて。僕はイアコフの騎士だから、誰にも傷つけさせないよ」


 イアコフの方は明らかに不満そうだった。

「僕、あの少佐殿は嫌いだな。

 あいつ、お母さんの胸ばっかりじろじろ見てたよ」

「そんなこと言うもんじゃありません」

 母親は息子の告げ口を一蹴した。彼女自身、その視線は当然感じていたが、それは相手が男性であれば当たり前に浴びせられるものだったので、リベルカは馴れっこになっていたのだ。


 それから二時間後、二人乗り・・・・の馬車に一人乗り込んだリベルカが、騎馬の軍人に先導されて村を出ていくのを、大勢の村人たちが見送ることとなった。


      *       *


 パッサブ市の軍病院でイザーク曹長が目を覚ましたのは、彼が意識を失ってから二十日も経ったころだった。

 彼の五感には、病院の白い壁の眩しさ、開けられた窓から入ってくる晩秋の風、そしてつんとする消毒液の臭いが伝わってきた。その刺激臭でぼんやりしていた意識が徐々にはっきりとしてくる。


 片目には包帯がされているらしく、左目しか開かない。四肢は何かで固定されているようで動かすことができなかった。

 それでも、自分がまだ生きているという事実は、再び妻や子どもに会えるのだという希望となって、彼に力を与えてくれた。

 頭を可能な限り左右に動かし、曹長は見える片目で状況を把握しようとした。

 白い壁は目の前にある。ここは個室らしい。


 軍病院で手当てされていることは納得がいくが、下士官である自分は当然大部屋に入れられるはずだ。士官――それも佐官でもない限り、個室などという贅沢は許されない。

 そして顔を壁と反対の方に向けた時、ベッド脇の丸椅子に座っている人物が視界に入った。

 その初老の男は軍人ではなく、きちんとした三つ揃えを着込んでいた。


 男はイザークが意識を取り戻していることを把握しながら、曹長が自分に気づくまで声を掛けずにじっと待っていたようだった。

「お気づきになりましたな。

 なんとも頑健なお方だ。お医者様は十中八九、助からないだろうと言われておりましたが……」

「あんたは……誰だ?」

 イザークは自分が声を出せることを確認して少しほっとしているようだった。


「私はエーデルシュタイン侯爵家の別邸を管理しております執事、セバスチャンと申します。以後お見知りおきを」

 男はそう言いつつも、頭は下げなかった。

「私はクラウス様のお言いつけでここに詰めておりました。

 あなた様が意識を取り戻したら、いろいろとお伝えせねばならないことがございますのでね。

 あなた様が虫の息の状態で発見されてから、もう三週間近くが経っております。その間にクラウス様は少佐に昇進され、第三十七歩兵連隊に大隊長として転出しております。

 ここを出発されたのは一昨日のことでした。クラウス様は元上官として、あなた様に直接お伝えするおつもりでぎりぎりまで出発を延引されたのですが、やむを得ず私めに後を託されたのです」


「そうか、それはご苦労なこった。

 その伝言とやらの前に、こっちの質問に答えてくれ。

 戦闘はどうなった? 魔導士――ラパン殿は無事なのか?」


 セバスチャンは首を横に振った。

「魔導士殿は味方に合流する直前で戦死されたと聞いております。

 偵察隊で生き延びたのは、あなた様お一人です。

 戦闘の方は……結果だけを申し上げれば、帝国軍はエルゼ川の渡河に成功して西岸に橋頭保を築いたということです。

 多大な犠牲を出したとは聞いておりますが、それ以上のことは軍人でない私にはなんとも……」


 イザークは溜め息をついた。

「そうか……ダメだったか。

 それで中隊長殿――ああ、今は大隊長殿で少佐殿か、その伝言ってのは何だ?」


 執事はつとめて感情を抑えた口調で簡潔にイザークが受けた傷と後遺症について説明し、退院後の除隊は免れないだろうと伝えた。

「しかしながら、あなた様の英雄的行動は軍上層部から高く評価されました(それを進言したのがクラウス様だということをお忘れなく)。

 その結果、あなた様は准尉待遇で除隊することになるはずです。お分かりでしょうが、余程のことがなければ応召一般兵が士官になれることはございません。

 それともう一つ、大事なことがございます」

「何だ、まだあるのか?」

「あなた様の奥様がお亡くなりになりました」


「な……んだと?」

 イザークは身を起こそうとしたが、身動きができなかった。

「どういうことだ! なんでリベルカが死んだんだ?」

「……お気の毒なことです」

 無表情のままでセバスチャンが弔意を述べた。


「クラウス様は奥様にあなた様の状態を伝えるため、自らトルガ村まで足をお運びになりました。しかも軍病院にねじ込んで、事前に奥様の面会許可まで取って差し上げたのです。なんと情け深い……。

 奥様は私どもが管理する別邸に荷を解かれ、この病室へ見舞いに訪れました。

 あなた様はまだ意識がなく、お医者様からは回復の望みは薄く、いつ亡くなってもおかしくないとの説明を受けたそうです。

 奥様は非常なショックを受けてわが屋敷に戻られました。

 その夜は食欲がないとのことで、早々にお部屋に引きこもられ、翌朝メイドがご起床のお手伝いに伺いましたところ――ベッドで冷たくなっておられました。

 すぐにお医者様を呼んで診ていただきましたが、死亡が確認されたに過ぎませんでした。奥様はその後、クラウス様の指示で軍病院に搬送され検死を受けましたが、トリカブトの毒による中毒死と判断されました。恐らくはあなた様の容態を悲観しての発作的な自殺ではないかという見立てです。

 ベッド脇の小卓にはコップと水差し、それに包み紙が置かれてあり、その中には少量のトリカブトの根を乾燥させた粉末が残っておりました」


「馬鹿なことを! そんな話が信じ……いや、済まん。なんでもない。

 それでリベルカは今、どうしているんだ」

「奥様が自死されたのは五日前のことでございます。

 すぐにトルガ村に使いが出され、奥様の親戚で親代わりだとおっしゃるバド魔導士様にご遺体を引き渡しました。

 今ごろはすでに埋葬も済んでいるのではないでしょうか」


 軍病院の個室棟の廊下を足早に行き交う看護師たちは、血を吐くような男の絶叫を聞いて一瞬足を止めた。

 そしてすぐに何事もなかったかのように、また歩き出した。

 軍病院ではこうした叫び声など珍しくもなかったからである。


      *       *


 イザークが〝軍の英雄〟として讃えられ、異例の士官(准尉)昇進を果たすだろうという噂は、ほどなくしてトルガ村にももたらされた。

 それは普段なら、村の名誉として宴会の一つも催される慶事だったが、なにしろリベルカの葬式が終わったばかりだったし、肝心のイザークは一向に戻ってこなかったので、あまり話題にされないままに時が流れた。

 母親の遺体に取りすがって絶叫し続けたイアコフと、その側から離れずに声を殺して泣き続けるイムラエルの痛々しい姿を目の当たりにした村人には、そんな残酷なことができようはずもなかった。


 十一月も押し詰まったり、日が暮れるのが早くなって五時過ぎには暗くなっていた。ランプに火を灯して調べ物をしていたバドは、ふと冷たい隙間風を感じて顔を上げた。

 いつのまに開いたのか、扉が少し空いており、その前に幽鬼のような顔をした男が立っていた。


 バドはすぐに男に駆け寄り、扉から顔を出して素早く外の様子を窺うと、男を部屋の中に引き入れた。

 魔導士は男を無理やり椅子にかけさせると、後は彼をほったらかしにして、十五分ほども呪文を唱え続けた。

 やがて魔導士は閉じていた目を開き、ほっと溜め息をついた。


「監視は付いていないようじゃの。

 イザーク、いつ戻った?」

 男は古びた軍用外套のフードを後ろにやると、無精ひげに覆われた顔でぼそりと呟いた。

「……昨日だ。

 丸一日、川原の岩の窪みに隠れていた。用心に越したことはない」


「ああ、そうだな。

 それなら、早く子どもたちのところへ行ってやれ。

 なんだってこっちに寄った?」

 イザークはにやりと笑った。皮肉混じりの、それでいてどこか寂しそうな笑いだった。

とぼけないでくれ。リベルカのことだ。

 何があったのか、教えてくれ」


 バドは溜め息をついた。

「わしはあのを引き取って、八年の短い間だが育ててきた。――というより、わしがあの娘に面倒を見られていたと言う方が正しいかの。

 あれは……お前が死ぬと言われたから、子どもを残して自殺するほど馬鹿な女ではないわ。

 だが、わしは黙ってイベルカの遺体を引き取った。村に戻ったらすぐに埋葬しますとしか言わなんだ。

 案の定、見張りが付いてきよったよ。

 お前、まさか病院で『イベルカが自殺するはずがない』なんて騒がなかったろうな?」


「ああ……」

 短い応えに老魔導士は満足したようだった。

「わしはイベルカをホフマン家の地下室に運び込み、遺体を清めるからと言って人払いをした。検死をするためだ。

 お前には悪いと思ったが、あの娘の身体は――女の部分まで全部調べた。許してくれ」

 イザークは黙って頷いた。

 老魔導士は彼の耳元に口を近づけて、自分が行った検死の結果を小声で伝え始めた。


      *       *


 イザークはホフマン家に帰ってから、人が変わったようになった。

 快活で〝悪童〟として老人たちに知られていた面影はなくなり、寡黙で陰鬱な表情でいることが多くなった。

 彼は不自由な身体で畑を耕し続けた。

 一人で耕作できる面積はたかが知れていたので、残りの畑は人に貸し出した。

 農作物や畑の賃料は少なかったが、士官扱いの年金が支給されたのと、除隊の際に〝英雄的行動〟に対する一時金が支給されたので、暮らしにはそう苦労しなかった。


 イアコフとイムラエルの二人の子どもは、父親の農作業を手伝おうとしたが、イザークはそれを許さなかった。

 そしてイアコフばかりかイムラエルまで通年で学校に通わせた。イアコフはもともと勉強のできる子だったが、イムラエルも負けないくらいに頭がよかった。

 イザークは二人が十一歳になるとバドのもとに通わせ、魔導士の勉強をさせた。

 暇ができると、二人に剣術の稽古もつけてやった。左手一本でも、子どもたちはとうとう最後まで父親に勝てなかった。


 二人が十七歳となった夏の暑い日にイザークは畑で突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。

 その死を看取ったバドは、心臓の発作で苦しんだのは一瞬だったろうと子どもたちに伝え、イアコフに一本の鍵を渡した。

「これはイザークから頼まれておったものじゃ。

 あいつの寝室の棚に鍵のかかる引き出しがあったじゃろう? その鍵だよ。

 中にイザークの日記が入っとるはずだ。そこにお前たちが知りたい全てが書いてあるはずじゃ。

 ……後はお前たちの思いどおりにするがいい」


 そう語った師匠の身体は、急に萎んで小さく見えた。

「こんなことをお前たちに言うのは酷かもしれんが……、あいつはリベルカが死んだと知った時、自分の魂を殺してしまったのだ。

 今まで生きてこられたのは、ただお前たちが成長して独り立ちできる日を待っていたからじゃろうな。

 お前たちの父をもう許してやれ。リベルカのもとへ行かせてやるんじゃ……」


      *       *


 逞しい若者に成長していた二人は、すでに師である老魔導士を遥かに凌駕する才能を示していた。

 軍に入って魔導士の資格試験を受ければ、間違いなく合格するとバドは折り紙を付けて保証した。


 イザークの寂しい葬式が終わった夜、イアコフとイムラエルは鍵で引き出しを開け、二人でイザークの日記を読んだ。そしてすべてを知ったのだ。

 日記を閉じた時には、深夜二時を回っていた。

 イムラエルはイザークの寝室に行って、彼の遺品である剣を持って戻ってきた。


「改めて誓いを立てよう」

 赤毛の青年はそう言って、抜身の刀身を握って柄を金髪の青年に向けて差し出した。

 イアコフは黙って頷き、剣を取ると膝をついたイムラエルの肩に当てて、彼を自らの騎士として任命した。

 背の高い赤毛の青年は、たとえ敵がどんなに強大であろうと、自分がイアコフの剣となって必ず撃ち滅ぼすことを誓った。


 彼らが軍に入隊したのはその三か月後のことだった。


      *       *


「イアコフ、イアコフ! 起きてください、もう時間ですよ?」

 肩を揺すぶられた金髪の青年は「うーん」と唸りながら目を覚ました。


「だいぶうなされていたようですが、悪い夢でも見ましたか?」

 イアコフは大きく手を伸ばし、欠伸あくびをする。

「ああ、なんだか子どものころの長い夢を見た。久しぶりだな……。

 そうか、教務長に呼び出されていたんだっけ?」


 その十分後、二人が揃って教務長室の扉を叩き、中に入ると先客がいた。

 ルーニーだったのだが、それは予想されたことだった。

 少し意外だったのは、教務長のバッカス少将が座る机の隣りにマグス大佐が立っていたことだった。

 二人が気をつけをして申告を済ませると、大佐が口を開いた。


「貴様らが呼び出されたのは、一年の選抜研修課程が修了し、お前たち三人が今期の成績上位者と決まったからだ。まぁ……それは分かり切っていたことだな。

 選抜研修の規定どおり、上位の三人には特典として二階級特進が許される。

 お前らは三人とも曹長だから、魔導少尉となるわけだ。これからも魔導士官の名に恥じぬよう、心して精進せよ」


 マグス大佐がこんなありきたりの訓示をするのは、なんだか滑稽だった。

 口元を緩ませる三人に気づいた大佐は、憮然とした表情で後を続けた。

「それで貴様らの今後だが、これも慣例どおり貴様らには進路の選択権がある。

 上位者は当然引く手あまたで、各部隊からスカウトが来ている。どれを選ぶのも自由だが……ルーニー、お前の買い手はもう決まっている。原隊復帰だ!」


 ルーニーはあんぐりと口を開けた。

「ななな、なぜでありますか、教官殿?

 自分は原隊に帰されるほどのヘマをした記憶がありません……まさか! あの行軍訓練の件ですか?」


 マグス大佐は留飲を下げたかのように、にやにやとした笑いを浮かべた。

「そう慌てるな、馬鹿者!

 貴様のところの大隊長は、よほどお前を手放したくないようだ。名前は出せんが、連隊長を通してお偉いさんを動かしたらしい。

 貴様は連隊直属の魔導士部隊へ副官として配属されることが決まっておる。

 一介の魔導少尉がなれる待遇じゃないぞ。一応拒否もできるが……どうする?」


 ルーニーはびしっと敬礼した。

「もちろん、喜んで拝命いたしますっ!」

「よろしい。後で事務局から必要書類を届けさせる。

 とっとと帰って荷物をまとめろ!」


 ルーニーが足音も軽やかに退出していくと、大佐は残る二人に気のない様子で書類を読み上げた。

「成績トップのイムラエルには西部方面軍の二つの魔導士部隊から引き合いが来ている。

 いずれもルーニー同様、連隊直属の部隊だ。どちらも実質的に大尉クラスのポストだ。好きな方を選べ。

 三位のイアコフは北部方面軍から司令部入りの打診が来ているが……こいつは傑作だな、北の連中、魔導士の貴様を参謀にするつもりだぞ!

 騎馬民族への対応は神経を使うからな。座学トップのお前に期待するところ大なのだろう。

 こいつはもう佐官クラスの待遇だ、文句はあるまい?」


 イアコフとイムラエルは顔を見合わせると頷いた。

 金髪の青年が代表して答える。

「お誘いは光栄ですが、自分たちは原隊復帰を希望します」

 黙ってこの様子を見守っていたバッカス少将が目を丸くしている。


 マグス大佐は「ふん」と鼻でせせら笑った。

「そんなに離れたくないか? まさか貴様ら、同性愛者ではあるまいな?

 あれは神の摂理に反するぞ(あくまで大佐の偏見)。もしそうなら私が手ずから成敗してやる。……まぁ、それは冗談だが、貴様らならそう言うと思ったから、もう一つ進路を用意してやった。

 私は近衛教導団を離れたら独立混成大隊の編成を任されている。

 魔導士中心の強力な戦力を有する部隊だが、火消し役だから激戦地に放り込まれる毎日となる。退屈しないことと、たっぷりの地獄が見られることを保証しよう。

 貴様らはまだまだ教え足らんから、厚遇はせん。

 ただのペーペー扱いでよければ二人まとめて面倒を見てやるが――どうだ?」


 二人の若者はにこりと笑い、声を揃えて即答した。

「よろしくお願いいたします!」


 バッカス少将だけが苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、結局彼は何も言わなかった。

 教務長の机の上には一枚の羊皮紙が置かれていたからだ。

 そこには「研修生の人事においては、マグス大佐の意向を最大限尊重すべし」という短い一文が、祐筆の手になるきれいな筆致で書かれていた。

 ただ、その下には皇帝のサインと花押が記され、玉璽が鮮やかな朱色で押されていたのである。

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