災厄の日々 第十話 ホフマン家

 イムラエルは夢を見ていた。母が誕生日の時だけに作ってくれる、大好きな鶏のシチューを食べている幸せな夢だった。

 冷蔵庫が普及していないこの時代、豚、羊、牛肉などは塩蔵が当たり前で新鮮さとは程遠かった。唯一、手に入りやすい新鮮な生肉は各家で飼われている鶏を絞めたもので、鶏肉料理は当時の家庭料理では最高のご馳走である。

 イムラエルはテーブルにつき、一刻も早くシチューを頬張りたかったが、何者かがぺちぺちと彼の頬を叩き続け、それを邪魔する。

 我慢できなくなった彼は、がばっと身を起こしてうるさそうに大声で文句を言った。

「誰だよ、もう!」


 目を開くと髭面の見知らぬ男がイムラエルの顔を覗き込んでいる。

 身を起こしたのも大声を出したのも彼の夢の中の話で、実際には赤毛の男の子はうっすらと目を開け「ううん」と唸っただけだったのだ。


「やっと目を覚ましたな……。

 坊主、自分の名前が言えるか?」

 真剣な表情で問う男は、悪い人には見えなかった。


「イムラエル……です」

 かすれた声で答えた子どもに、男はにかっと白い歯を見せて笑った。青い瞳の目が糸のように細くなり、目尻にたくさんの皺が寄った。

「よし、いいぞ。

 ずいぶん立派な名前だな、お母さんが付けてくれたのか?」

 赤毛の子どもは素直に頷いた。

「昔、お母さんが暮らしていたお屋敷で、とっても優しいお兄ちゃんが読んでくれた絵本に出てきた天使様の名前なんだって。

 お母さんはそのお話が大好きで、僕が小さいころ、いつも寝る前に話してくれたんだ」


 イムラエルという田舎人には大げさな名前に、イザークはなんとなく聞き覚えがあったのだが、そう言われてようやく思い出した。サラがまだ三、四歳のころ、せがまれて毎晩のように読んでやった絵本に出てくる天使の名。それがイムラエルだった。


 貧しい孤児の女の子が新年の前夜、大雪の中で街角でろうそくを売るのだが、誰も買ってくれず、少女は寒さに耐えきれずに売り物のろうそくに火をつけ、凍えた手を暖める。少女はそのまま眠るように凍死してしまうのだが、哀れに思った天使イムラエルが彼女を天上の神のみもとに連れていくという、悲しい物語だった。


 その時、赤毛の子どもは「ハッ」と気づいたように周囲を見回した。そしてベッドの上で静かに横たわる母親の姿を見つけてほっと安堵の息をついた。

「よかった、お母さん無事だったんだ。敵の兵隊が来て、お母さんをいじめていたんだ。僕、お母さんを助けようとしたんだけど……後のことは覚えてないや」


 イザークは悲しそうな顔で首を横に振った。

「いいか、イムラエル。落ち着いて聞くんだ。

 お前のお母さんは亡くなった。よく見ろ、今ここに眠っているのはお母さんの抜け殻に過ぎん。

 お母さんの魂は、お前が教えてもらった話のように、天使が天上の神のみもとに連れていったんだ。

 悲しいことだが、もうどうにもならん。

 だがな、お前のお母さんをいじめていた奴は、俺がかたきをとって殺したぞ。

 この部屋は酷い臭いがしているだろう? それはベッドの下に転がっている男が死に際に洩らしたクソの匂いだ。

 お前のお母さんを殺したケルトニアのクソ野郎は、そいつに相応しいクソまみれの死を迎えて地獄に落ちた。

 悲しむなとは言わないが、それだけは覚えておけ」


 母の死を告げられたイムラエルは呆然として立ち尽くしていた。泣き叫びもしなかったが、目の焦点が合っていない。

 イザークは彼の両肩を掴んで、がくがくと乱暴に揺すってその意識を呼び戻す。子どもの状態があまりよくないと判断したのだ。

 彼は懐から小さな麻の袋を取り出した。


「両手を広げて出せ」

 赤毛の子どもはのろのろと、だが素直に言うことを聞く。その手の平にイザークは袋の中身を出した。

 それは帝国兵の携行糧食――煎って塩味をつけたヒマワリの種だった。


「これを喰え。

 塩味がするから、それを舐めてから殻を割って、殻だけ吐き出すんだ」

 初めは緩慢な動きで種を口にした子どもだったが、すぐにがつがつとヒマワリをむさぼりはじめた。


「ゆっくりだ! すぐに飲み込むんじゃない!」

 再びがくがくと身体を揺さぶって、イザークは厳しい口調で叱りつけた。

「いいか、殻の塩を舐めた唾液はすぐに飲み込んでもいい。

 だが、中身の方は我慢しろ! 噛みながら百を数えるんだ。そうすればどんどん唾が出てきて甘くなってくる。

 百を数えたら、水をゆっくり口に含んで飲み込め。それから次の種を食べるんだ」

 彼はそう言って、革の水筒も渡した。


 三日間、水しか飲んでいなかった子どもは、夢中になって種を齧り、言われたとおりに時間をかけて飲み込んだ。

 その間にイザークは根気よく言い聞かせた。

「いいか、これから川に行く。お前、トルガ村は知っているか?」

 赤毛の子は、噛んだ回数を数えながらこくりと頷いた。


「なら、川を舟で下っていけばトルガ村の手前の大きな浅瀬に流れ着くことも知っているな?」

 男の子は再び頷いた。それはこの辺の子どもなら誰でも川遊びで学ぶ常識だった。


「よし、だったら浅瀬に着いたら舟を降りて、そこからトルガ村へ行け。

 村に着いたら誰でもいいから場所を聞いて、ホフマン家を訪ねろ。

 そこに俺の女房がいる。リベルカという名だが、お前のお母さんとは、小さい頃からの親友だった女だ。

 俺の女房に会ったら、自分はサラの子だと言え、そして俺――俺はイザークだ――俺からだと言ってこれを見せるんだ」


 彼はそう言って、自分の首から細い鎖を取って、それを赤毛の子の首にかけてやった。鎖の先には小さな袋がぶら下がっている。

「そうすれば、俺の女房はお前の面倒を見てくれるはずだ。

 家にはイアコフという名の子どももいる。お前と同じくらいの金髪の男の子だ。少し恥ずかしがり屋だが、きっとお前と友達になってくれるはずだ。

 分かったな!」


 イムラエルは素直に頷いた――というか、まだ少し朦朧としている様子だった。

 イザークはテーブルの上に転がっていた包帯(ケルトニア兵が傷の手当てに使ったものらしい)で自分と子どもの傷口を縛ると、扉を開けて外に出た。

 そして――家に火をかけた。


「お前のお母さんをネズミに齧らせたくはないからな。

 辛いだろうが、お別れだ」

 イムラエルは泣きも叫びもしなかった。ただ、イザークに縋りつくようにして背中に隠れ、じっと炎を包まれる自分の家を睨みつけていた。


 イザークは子どもを連れてすぐ近くを流れる川に向かった。

 少年時代に何度も遊びに来ていた村なので、勝手は知っている。

 案の定、川岸には村人が日常的に使っている多くの舟が繋がれていた。

 その小舟の一つに赤毛の子を乗せると、水筒とヒマワリの種をもう一袋持たせた。

「トルガ村じゃ当分川の水が飲めないだろうな……。

 いいか、トルガ村に着いたら、ホフマン家に行くんだ。忘れるな!」


 彼はもやいを解きながら、再び子どもに言い聞かせた。

 その背後から警戒した声がかけられる。

「おい、お前! そこで何をしている?

 なんだその子どもは?」


 イザークは無言で小舟を蹴り、流れに乗せた。

 そして苦笑いを浮かべながらゆっくりと振り返った。

 十メートルほど先から、抜刀した二人のケルトニア兵が近づいてくる。


「右腕はやはり上がらないか……。左でやった方がまだマシだな。

 くそっ、昔しごいてくれた軍曹殿が言ってたっけ。『利き手を怪我した時に備えて、剣は両方で扱えるようにしておけ』。

 もっと言うことを聞いときゃよかったな……」

 彼は抜身の剣を左手に持ち替えると、ゆっくりと歩き出した。


      *       *


 その日、トルガ村の川原では、村の老人たちが総出で萱刈りをしていた。

 雪が降る前に葦を刈り取って束にして乾燥させ、屋根の葺き替えに使うためである。

 まだ日は高いが作業は終わったところで、直会なおらいと称するお楽しみの宴会が始まろうとしていた。

 焚き火をおこすために流木を拾っていた一人の老人が、ふと上流から小舟が流れてくるのに気がついた。

 舟は浅瀬に乗り上げて止まり、やがて中から子どもが立ち上がった。


「なんじゃ? 今時分に川遊びでもあるまいし……」

 老人がいぶかし気に見ていると、舟から降りた子どもは貧血でも起こしたように、そのままばったりと川の中に倒れた。

 男は慌てた。浅瀬とはいえ、子どもは顔を水の中に突っ込んだまま動かない。このままだと溺れ死ぬのは間違いない。

 彼は走り出しながら大声を上げて仲間の老人たちにも急を知らせた。


 すぐに十人ほどの爺婆が集まり、助け起こされた子どもの顔を覗き込んだ。

「この赤毛……、隣村の炭屋のせがれじゃないか?」

「ああ、間違いない! この二、三年は親父の手伝いで一緒に来ていたからな。

 なんて酷い顔をしているんだ? 相当弱っているな。また、なんだって一人で舟に……あ!」


 老人たちは突然に気がつき、顔を見合わせた。シュトレイラ村はトルガ村の上流十キロほどの対岸にある。

 あの辺でいくさが始まったという噂はここにも届いていた――というより、昨日から雨も降っていないのに川が濁り、異臭がしていたのだ。

 上流で人馬が死んで、死骸が川に放置されていることは明らかであった。つまり、この子どもは戦火を免れてきたのだろう。


「おい、大丈夫か? しっかりしろ!」

 揺さぶられた子どもはうっすらと目を開けた。

 そして弱々しい動きで老人たちに鎖のようなものを握った手を差し出した。

「ホフマン……リベルカさんに」

 赤毛の子はかすれた声でそうつぶやくと、再び気を失った。


「……この子、なんだってイザークの嫁さんのことを?

 と、とにかくホフマンとこに運ぼう。

 誰か、先生を呼びにやってくれ!」


 老人たちは訳がわからないなりに、子どもを抱きかかえ、ぞろぞろとホフマン家に向かった。

 そのうちの一人は、村に住み着いているバドという老魔導士に往診を依頼するため走っていった。


 バドは軍を退役した魔導士だったが、回復系魔法を使い、医学的な知識や経験もあったため、村では魔導士としてよりも医者として扱われていた。

 その辺の事情はイザークの中隊付魔導士のラパンと同様で、近隣の村でも重傷病者が出ると六十キロほど北にあるパッサブ市の大きな病院よりも、トルガ村のバドの方を頼りにして担ぎ込むのが常だった。

 ついでに言えば、バドはイザークの妻であるリベルカの大叔父にあたり、事情があって身寄りのなくなった彼女を八歳の時に引き取って親代わりで育てていたという関係である。


 老人たちが赤毛の少年を抱えてホフマン家を訪ねた時、リベルカはちょうど夕飯の支度をしているところだった。

 彼らがノックもせずにどやどやと中に入ると、一人息子のイアコフがちょこんと椅子に座って本を読んでいた。

 金髪の少年が目を丸くして固まっていると、物音を聞きつけたリベルカがすぐに顔を出した。


「あらまぁ、爺っちゃんたち、なんの騒ぎですか?

 その子は?」

 エプロンの裾で濡れた手を拭きながら、リベルカが驚いた声を出した。

 まるで娘のような可愛らしい声だったが、彼女はその声に似つかわしい童顔で、大きな目と濃い眉、豊かな黒い髪をポニーテールにしていた。

 見た目は子どもっぽく十代と言っても通りそうだったが、実際には二十七歳である。少女のような外見でただ一か所、胸だけが不釣り合いに大きく、ゆったりとした服で隠していたがどうしようもなく膨らみが目立っていた。

 彼女に言わせると、息子を妊娠した時から大きくなりはじめ、出産して授乳をしていたころはもっと凄かったらしい。これでも一時よりはだいぶしぼんだのだという。


 口々に話し出した老人たちから、どうにか大体の事情を聞き取った彼女は、とりあえず彼らに指示して赤毛の子どもをベッドに運ばせたが、服がずぶ濡れだったので寝かせる前に婆さんたちに頼んで脱がしてもらい、その間に息子の着替えを持ってきて着替えさせた。


 子どもの裸はひどく痩せていた。年は息子のイアコフと同じくらいに見えたが、赤毛の少年はずっと背が高く、着替えは丈が足りない。

 寝かせた少年の額にへばりついている濡れた赤毛をかき上げてやると、汚れた包帯が巻かれた顔は、左のこめかみから頬骨のあたりまでどす黒く変色しており、血は止まっているものの額に浅くない傷があった。


「確かに炭売りのアレフさんの子どもよね。どうして家やあたしの名を……?」

 首を捻るリベルカに、老人の一人が思い出したようにポケットに手を突っ込んだ。

「そういやこの子、あんたの名を呼びながらこれを渡そうとしていたな」

 爺さんはそう言って、リベルカに細い鎖の塊りを手渡した。

「これを……?」


 彼女は鎖を摘まみ上げた。細いが丈夫そうな鎖は銀製で、硫化して黒光りしていた。鎖には小さな袋が革紐で結ばれぶら下がっている。

 彼女は袋の口紐を解いて外してみたが、その瞬間に「あっ!」と声を上げた。

「これ、あたしがイザークに贈った指輪だわ! どうしてこの子が……?

 まさか、イザークに何かあったのかしら!」


 そのころになって、やっとバド魔導士が到着した。

 彼はホフマン家に入るとベッドに群がっている老人たちを追い払い、てきぱきとした動作で少年の容態を診た。

 診察は十五分ほどで終わり、バドは椅子に座ったまま見守るリベルカたちに向き直った。


「とりあえず、この子に特段の治療は必要ない。額の傷は縫うほど深くはない。消毒して薬を塗ったから大丈夫じゃろう。

 倒れたのは疲労と空腹によるもんじゃな。この二、三日何も食っていなかったようだ。

 リベルカ、この子が目を覚ましたら、温めたヤギの乳を飲ませてあげなさい。食事は消化の良さそうなものを少しずつ食べさせることだな。

 多分、すぐに元気になるじゃろう。

 もし、容態に急な変化があったらわしを呼ぶがいい」


 そう言って老魔導士は帰り支度を始めた。

 そして、子どもは安静に寝かせるのが一番だと、野次馬根性丸出しで居座っている老人たちを追い出しながら家を出て行った。


      *       *


 赤毛の子が目を覚ましたのは、その夜の九時頃だった。

 リベルカは温かいミルクとスープ、そしてバターを塗ったパンをゆっくりと食べさせながら、出来るだけ急かさないよう気をつけて彼に事情を聞いた。

 子どもはイムラエルだと名乗った。

 そして、シュトレイラ村がケルトニア軍に襲われ、父のアレフを含めた村人が虐殺され、食糧が根こそぎ略奪されたこと、自分と母親は屋根裏部屋にいて難を逃れずっと隠れていたこと、今日になって食糧を探しに出ようとしたところをケルトニア兵に見つかり母親が襲われたこと、それを助けようとして敵兵を包丁で刺したが殴り倒されて気を失ったこと――を、ぽつぽつと話し出した。


 彼はまるで他人事のように父の死や、母の危機をぼんやりとした表情で語ったが、リベルカは思わず涙した。彼の母親がどんな目に遭ったのか想像できたからだ。

「それで……気がついたら、兵隊さんが――イザークさんがいました。

 お母さんはベッドの上で死んでいて、お母さんを襲った敵兵もベッドに下に落ちて死んでいました。

 イザークさんがかたきを取ってくれたって言ってました……すごく臭かった。

 ……僕は結局、なんにも役に立たなかったんだ。

 イザークさんはヒマワリの種を食べさせてくれて、それから僕にその鎖をかけてトルガ村のホフマン家に行けって言われました。

 リベルカさんはお母さんの友達だから、この鎖を見せたらきっと助けてくれるって……」


「友達? あなたのお母さんと?

 待って、イムラエル。あなたのお母さんの名前はなんて言うの?」

「サラ……」

「サラって……まさか、サラ・ブライトン! あなた、サラの子どもなの?」

 赤毛の子はこくりと頷いた。


「なんてことなの! サラが隣村にいたなんて……!

 あたしは十年も気づかないで、あのの旦那さんから炭や薪を買っていたの?

 ――それで、イザークはどうなったの?」

 彼女は勢い込んで訊いたが、それこそが一番知りたいことだった。


「イザークさんは僕を舟に乗せてくれて、最後に見た時はケルトニアの兵隊と戦っていました。

 二対一だったし、あの人は怪我をしていてたから……でも、後は分かりません」

 リベルカは溜め息をついたが、すぐに子どもへの気遣いを取り戻した。

「そう……なのね。

 ごめんなさい。辛いことばかり思い出させて。

 さあ、食べ終わったら寝ましょうね」


      *       *


 翌日、イムラエルは目に見えて元気になっていた。

 しかしリベルカはベッドから降りることを許さず、丸一日寝て食べることだけに専念させた。

 イアコフはイムラエルが起きている時の相手を自分から引き受け、自分のお気に入りの本をベッドの脇に積み上げた。

 人見知りするたちのイアコフにしては珍しいことだった。


 夕食の時(イムラエルは眠っていた)、イアコフは目を輝かせて母に報告をした。

「お母さん、イムは凄いんだよ!

 ちゃんと本が読めるんだ。難しい単語は読めないこともあるけど、ほとんど一人で読みとおせるの。

 なのにイムは冬の間しか学校に行ってないんだって!

 この村でイムくらいに本が読める子なんて見たことないもの、それにイムは九九も全部言えて、三桁の掛け算や割り算も暗算でできるんだよ! みんなお父さんとお母さんに教わったんだって。

 僕、びっくりしちゃった。もし、イムが一年学校に通える子だったら、僕も抜かれているかもしれないな」


 リベルカは驚きながらも半分納得していた。

 イムラエルの母、サラもとても成績が良かったのだ。二人は同学年でともに年間通いだったが、リベルカはいつも彼女に宿題を教わっていたものだ。


 帝国では中学までが義務教育として定められていたが、それは都市部だけの話で、農村部では小学校さえ卒業すればよいとされていた。

 農村では子どもも欠くことのできない労働力だったので、たいていは農閑期に当たる十二月から三月までの四か月間だけ学校に通った。

 子どもを通年学校に通わせているのは、農村でも比較的裕福な地主や自作農の子に限られていたのだ。

 イアコフの場合、内向的な少年で勉強が好きだったこともあって通年通学をしていたが、それは父であるイザークの強い希望でもあった。

 没落したとはいえ、村の名家であるホフマン家の嫡男として、それは譲れない一線だったのだ。


「それで、あなたはイムラエルが頭のいい子だって分かってどう思ったの?」

 金髪の小柄な子どもは目の輝きを保ったまま、真っ直ぐに母親の顔を見た。

「すっごく嬉しい!

 でね、僕がイムに教えてあげられることがあるのも嬉しいんだ。

 イムは僕が教えたことをすぐに覚えてくれる。覚えたことは絶対に忘れないんだよ。

 それだけのことなのに、こんなに嬉しいなんて不思議だね、お母さん!」


 リベルカは微笑んで息子の頭を撫でた。

 自分はずいぶんこの子を甘やかして育てているかもしれない――その思いはいつも彼女を不安にさせていた。

 だが、結局のところ、イアコフはいい子に成長してくれた。

 イムラエルはきっと友人の少ない、自分の一人息子の良き友となるだろう。

 いつだって、イザークは間違ったことをしないのだ。ああ、彼が無事でいてくれたらいいのだけど……。


      *       *


 三日目になると、イムラエルはベッドから離れる許可をもらった。

 彼はみるみる回復していき、額の傷と顔の痣さえなければ普通のやんちゃな男の子に見えた。

 イアコフは一日中彼と一緒で、イムラエルはイアコフだけが知る〝秘密の場所〟を一つ残らず案内されるという、トルガ村初の栄誉に預かった。


 そのころになると、この辺鄙な村にもようやく戦いの様子が伝わってきた。

 帝国軍は苦戦しながらも渡河に成功し、エルゼ川の西岸に橋頭保を築いたらしい。

 占領されていたシュトレイラ村も解放されたが、残念ながらケルトニア軍によって全滅の憂き目にあったという話だった。

 そしてこの戦いにおいて、若く美しい・・・女性魔導士(あくまで噂である)がとてつもない大魔法を操って、敵を駆逐したという不確かな情報も囁かれていた。


 とにかく帝国は勝ったらしい……それだけで村の住民はほっと胸を撫でおろした。

 トルガ村を含めたこの地域はもともとグリシア公国という小国であったが、二十数年前まではケルトニアの支配地域で、当時の圧政は苦い記憶として村人の脳裏に刻まれていたのだ。

 村の住民たちは解放者である帝国に感謝をしており、住民を守ることもできずに滅んだグリシア公国の復活を願う者など一人もいなかった。


 戦勝の知らせは、リベルカの抱える不安をほんの少し軽減したに過ぎない。

 夫であるイザーク・ホフマン曹長の安否など、こんな片田舎に知らせる者などいなかったからだ。

 そして彼女にはもう一つの不安があった。イムラエルのことだ。


 赤毛の少年はすっかり元気になり、イアコフとも兄弟以上に仲良くなっていった。

 リベルカはサラのことやシュトレイラ村での暮らしのことを、折に触れて慎重に聞き出していた。

 イムラエルは素直にそれに応じていたが、両親のこととなると、どこか他人事――感情が欠落したような話しぶりになるのが気になって仕方がなかったのだ。


 しかしその歪みは、程なくイアコフの異様な行動として顕れた。

 イムラエルがホフマン家に来て五日目の夜だった。

 リベルカは自分のベッドではなく、幅のある夫のベッドに枕を移し、両脇にイムラエルとイアコフを寝かせて川の字になって眠っていた(それまでイアコフは自分のベッドで寝ており、母と一緒に寝るのは五歳の時以来であった)。

 子どもたちは遊び疲れて早々に寝入り、一人本を読んでいたリベルカも十時を過ぎたころに明かりを消して眠りに落ちた。


 それから一時間も経っただろうか。

 突然、彼女は異変を感じて目を覚ました。

 イムラエルが激しく泣いていたのだ。何か訴えるわけでもなく、ただ泣きじゃくっている。まるで幼児の夜泣きのようだった。

 リベルカは赤毛の子どもを抱きしめて、その顔を自分の胸に押し当てた。

 たちまち寝間着を通して温かい子どもの涙が沁みてくるのを感じる。

 彼女はイアコフが幼いころにそうしてあげたように、ゆっくりと背中をぽんぽんと叩き続けた。


「あなたのお母さんはきっと天国から見守っているわ」

「あなたが元気で生きていくことで、きっとお母さんも安心するわよ」

 ――そんな言葉をかけるべきだったのかもしれない。しかし彼女にはそれができなかった。

 この子にはそんな言葉は届かないだろうと思ったのだ。


 リベルカは黙ってイムラエルを抱きしめ、背中をぽんぽんし続けた。半時ほどもすると、赤毛の子は泣き疲れたまま眠ってしまった。

 それまでの間、彼女の背中の方からは、規則正しいイアコフの寝息が聞こえていたが、わが子が目を覚ましていたことなど母にはお見通しであった。


 朝になって起きてきたイムラエルは何事もなかったかのように元気だった。

 リベルカは何も言わずに、いつものように快活に朝食の支度をしていた。イアコフもいつもと変わらぬ様子だった。

 ――そして、その日の夜も同じことが起きた。

 イムラエルは夜中に突然泣き出し、リベルカは彼が泣き疲れて眠るまで黙って抱きしめ続けた。


 そして次の夜もまた、赤毛の子は泣いた。

 ただ、この夜はいつもと違っていた。

 ひとしきり泣いた後、彼はイベルカの胸にすがって涙に濡れた顔を上げた。


 灯りは消していたが、カーテンの隙間から射してくる月の光で子どもの頬が青白く見えた。

「どうしたの? 何も怖いことなんかないのよ」

 リベルカはそっと囁いた。

「僕はここにいちゃいけないんだ……」

 男の子はしゃくりあげながらそう言った。


 リベルカは少し首を傾げた。

「そんなことないわ。あなたはサラの子どもだもの。ずっとここにいていいのよ。

 あのはあたしの親友だったのよ。何も遠慮することないわ。

 あなたもイアコフのお友達になってくれたでしょ」


 赤毛の子は激しく首を振った。

「違う! この家はイアコフの場所だもの。たとえ友達になったって、ここは僕の場所じゃないんだ。

 僕の場所はお母さんのところなのに……お母さんは死んで……燃えてしまった」

 彼はそう言うと、リベルカの豊かな胸に顔を押しつけ、今度は声を殺して泣き始めた。


 リベルカはいつものように子どもの背中をゆっくりとぽんぽんし続けた。

 そして少しのんびりした口調で話しかけた。

「そうよね。イムの言うとおりなのかもしれないわ。

 でも、サラは天国に行っちゃったでしょ?

 あなたの居場所がなくなっちゃったんだもの……新しくつくるしかないわね」


 彼女は幼子をあやすように痩せた少年の身体を左右に揺らしながら、上を向いて少し考える真似をした。

「そうだわ! 確かにイアコフの友達だったら、夕方には自分の家に帰らなくちゃいけないものね。

 だったら、友達をやめたらどうかしら?」

 少年は再び顔を上げて「え?」という表情をした。


「えっとね、明日からイムはイアコフの友達じゃなくて、騎士ナイトになりなさい。

 知ってるでしょ? 騎士は英雄王や美しい姫君に誓いを立てて、命をかけて守り通すのよ。

 あなたはイアコフと同い年だけど、ずっと背が高いからちょうどいいわ。

 騎士は主君の側を決して離れたりしないのよ?

 だからあなたも、明日からイアコフから離れちゃダメなの。

 そしたら明日から、ここはあなたの居場所になるわ。いい考えでしょ?」


 イムラエルがぽかんとした顔で答えられずにいると、リベルカの背中の方から声がした。

「それ、いいな」

 いつの間にかイアコフが起き上がっていたのだ。

「イム、明日の朝、父さんの剣を借りて〝騎士の誓い〟をしようよ!

 でも、君は僕の家来になるんじゃないよ。明日から僕の剣になるんだ。

 それと、お母さんはああ言ったけど、僕は君と友達でいるのをやめないからな!」


「でも……」

 イムラエルがなおも躊躇ためらっていると、突然イアコフは後ろからリベルカに抱きついたので、彼女は「きゃっ」と小さな悲鳴をあげた。

「君はこの美しい姫君の命令を断るって言うのかい?」

 リベルカに抱かれていた赤毛の少年は、この時下ろしていた両腕を彼女の背中に回し、初めて自分から抱きついた。

 そして胸に顔を埋めたまま小さな声で答えた。

「約束するよ。僕は君の剣になる……!」


 この夜を境に、イムラエルの夜泣きはぴたりと止まった。

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