災厄の日々 第九話 エルゼ川の戦い③

 強行偵察隊は全員が敵兵の死体から引っ剥がした軍服と鎧を身につけていた。

 ケルトニア軍は一応見張りを立てていたが、それは帝国側の軍としての大きな動きを監視するもので、闇に紛れた小規模な偵察隊は無事に川を渡ることができた。

 渡河してしまうとすぐに森に入り、彼らは拍子抜けするくらいに順調に進んでいった。


 ロングボウの最大射程は五百メートルほどなので、それを活かすためにも弓兵隊は川からそう遠くない地点に展開しているはずである。

 案の定、偵察隊が森に入って三十メートルも進まぬうちに、先の方から怒号と大勢の人間が立てるざわめきが聞こえてきた。

 そこへ向かう途中、イザークたちは何人ものケルトニア兵とすれ違ったが、彼らを再編成で移動中の小部隊だと思ったのか、声すらかけられない。


 やがて彼らは森の中から少し開けた草地へと抜け出た。

 目の前では大勢の弓兵が人の背丈ほどもあるロングボウを握って整列し、指揮官らしき男が怒鳴りながら矢継ぎ早に指示を発していた。


 護衛兵に選抜された若い一等兵たちには、その黒々とした人影は何万人もの大集団に感じられたが、経験豊富な先任下士官は小さく舌打ちをした。

「魔導士殿、まずいですね。奴ら、分散配置してやがります」

「そうだな曹長。

 見たところ四百人程度だ。昨日の攻撃からすれば、敵弓兵は数千人規模のはずだからな。恐らく一定の間隔で同じような弓兵隊を配置しているはずだ。

 まずはこの位置を念話で送ってから、別の部隊を探そう」


 ラパンは目を閉じて精神を集中させる。エルゼ川対岸の自軍の方向へ意識を伸ばしていくと、白い明かりのようなイメージを感じ取った。そこに向かって拡散していた意識を束ねていくと、向こうの方でも開いた扇子を突然閉じたように意識が濃密になり、こちらの意識とつながった。

 川岸近くに潜んでいる中継役の通信魔導士と意識が接触したのだ。


 ラパンは現在の位置座標と敵の人数を送る。魔導士は体感や目視で、そうした数値をかなり正確に把握する訓練を飽きるほど繰り返してきたのだ。

「よし、送った」

 彼は目を開いてそう言うと、次の目標を求めて移動を開始した。


 偵察隊は身を隠せる森に戻り、そのまま川に沿って進んだ。敵弓兵隊が川に対して縦列で展開するはずはないからだった。

 問題はその間隔である。部隊の間隔が広ければ安全だが、あまりに広がり過ぎると戦力集中の利点が失われる。


 彼らは移動を開始して五分も経たないうちに次の弓兵部隊に出くわした。

 初めの部隊から距離は約二百メートル、兵力はやはり四百人規模である。

 彼らは再びその位置を念話で送ってから移動し、またも同間隔・同規模の弓兵隊を見つけてさらに報告を送った。

 ラパン少尉の報告は中継の魔導士を介して逐次司令部へと伝えられる。

 その司令部から「それ以上の偵察は不要、間もなく攻撃がある。ただちにその場を離れ、帰還せよ」との命令の念話が送られてきた。


 偵察隊は指令に従いただちにその場を離脱したが、その背後で警戒の叫び声が上がった。

「敵の魔導通信を感知! 気をつけろ、帝国の魔導士が紛れ込んでいるぞ!」

 こうなれば、なおのこと長居は無用だった。走って目立たないよう、だができるだけ急いで彼らはエルゼ川を目指した。

 また何人かのケルトニア兵とすれ違ったが、やはり味方だと思っているのか彼らの存在は無視された。


「おい、そこの部隊、ちょっと待て!」

 完全にすれ違う直前、敵の指揮官らしき兵士が大声を出し、イザークたちは無言で立ち止まった。

 呼び止めた男は部下が持っていた松明を奪い取ると、それを突き出した。

 炎の明かりに照らされ、偵察隊が着込んでいるケルトニア軍の革鎧がてらてらと輝く。

 男はその胸についた部隊章に目を凝らした。


「お前ら、見ない顔だな。

 その鎧の部隊章、殉職された司令官殿の直衛部隊のものだな?

 あいつらは全滅したはずだが……貴様ら幽霊じゃないと言うなら、どういうことか説明してみろ」


 イザークはゆっくりと前に進み出た。

「これは内密に願いたいのですが、実を言うと……」

 曹長はそう言って素早く左右を確かめると、声を潜めた。

 敵の指揮官はつられてイザークの口元に耳を近づけた。


「どさっ」

 重い音をあげて男の頭が地面に落ちた。

 イザークが抜き打ちざまに剣をはね上げ、敵指揮官の首を切断したのだ。

 同時に「やれっ!」と小声で叫んだが、その必要はなかった。

 ラパン少尉を除く兵たちは、曹長の行動に合わせて無言で敵に斬りかかっていた。


 先頭にいた敵兵は、サウルとファルマンの両一等兵に脇腹と首を同時に刺し貫かれて即死した。

 その後方にいた五人の敵兵には、襲いかかる相手に対して剣を抜く時間があった。

 ケルトニア兵たちは剣を打ち合わせながら、口々に「敵襲ーーーーっ!」と叫び続けた。


 地面に転がった松明の明かりに斬り合う兵士たちの姿が浮かび上がる。

 剣と剣とが「ガッ」「ゴンッ」という鈍い音を立て、白い火花が散った。

 イザーク曹長は自分の身体に寄りかかっていた首なし死体を、どうにか横に蹴り飛ばした。


 ケルトニア兵と激しく打ち合っている四人の部下たちの一人が振り返って叫ぶ。

「曹長殿! ここはわれわれが食い止めます!

 すぐに敵が来ます、曹長殿は魔道士殿をお連れしてください!」

 イザークは迷わなかった。敵兵に深く食い込んだ剣をどうにか引き抜いた二人の部下に命令する。

「サウル、ファルマン、ついてこい!」

 そして四人の部下たちに向かって怒鳴った。

「貴様ら、一分でも長く時間を稼げ! 俺が行くまで、先に地獄で待っていろ!」

 彼はそのまま走り出した。サウルとファルマンも黙ってそれに続く。二人が最後に仲間たちを振り返った時、松明の火で赤く照らされた四人の若者たちは、いずれも凄絶な笑みを顔に浮かべていた。


 ラパン魔道士を中心にして、イザークたち四人は走り出した。

 曹長は走りながら魔道士の方へ手を伸ばしてみた。その身体に触れる数十センチ手前でその手は見えない壁に拒絶された。

 ラパンは自分の周囲に対物防御障壁を張っていたのだ。

 それでいい――イザークは心中で頷いた。魔道士さえ無事ならそれでいいのだ。警護するイザークたちまで障壁に取り込んでは、彼を守って戦うことができない。


 川までは約三十メートル、走れば十数秒とかからないはずだが、その半分も行かないうちに行く手を敵兵に阻まれた。

 四人のケルトニア兵が茂みの中から無言で飛び出し、その内の一人が槍をラパンに向けて突き出した。

 槍の穂先は魔導士が展開する障壁にはじかれ、その兵は予想外の出来事に体勢を崩してつんのめった。

 イザークは、目の前に差し出されたその両腕を斬り飛ばした。

 続いて斬りかかってきた敵兵の剣を弾き返すと、その反動を利用してもう一人の首筋にひゅっと剣を走らせる。

 切っ先で頸動脈を切断された敵兵は、鮮血を噴水のように撒き散らしてその場にうずくまる。

 なおも襲ってくる二人の敵兵の剣を受けながら、イザークは振り返らずに怒鳴った。

「サウル、ファルマン! 川は目の前だ、魔導士殿と先に行け!

 俺はこいつらを片付けたら後を追う!」


 二人の部下は「魔道士殿、お早く!」と声をかけて走り出した。

 イザークは迷いのない部下の行動に満足し、二対一のありがたくない戦いに立ち向かったが、その耳にたった今駆け出したばかりのファルマンの怒声が聞こえてきた。

『くそっ、もう新手か!』

 心の中で呪いの言葉を吐きながら、彼は絶望的な状況に皮肉な笑みを浮かべていた。

 ――こうなることは半ば分かっていたのだ。


 イザークは敵が下段から打ち込んできた剣を滑らすように受け流して、そのまま敵の下腹に剣先をねじ込んだ。

 彼の剣は、革鎧の継ぎ目から深々と突き刺さり、冷たい秋の夜気にむっとする生臭い匂いが溢れ、白い湯気が上がった。


 イザークはそのまま剣を引き抜こうとしたが、刺された敵兵はその剣を両手で掴んで離さない。

 ずるりと剣が引かれ、刃を掴んだ敵兵の指がばらばらと落ちたが、相手はなおも剣を抱えたままだった。

 その間にもう一人の敵兵が背後に回り、大上段に剣を振りかざしてイザークの肩口のあたりに叩きつけた。

 そこを守っていたのは、わずかに鎧の革紐だけだったので、敵の剣はあっさりとそれを切断して皮膚を切り裂き肩甲骨にめり込んだ。


 イザークは自分の剣の柄から手を離すと腰のナイフを引き抜き、振り向きざまに相手の脇腹を切り裂いた。

 敵兵は絶叫をあげて離れたが、刃渡り十センチほどのナイフでは致命傷を与えられなかった。

 剣を持った敵にナイフ一本で立ち向かう彼に勝ち目はない。イザーク曹長は自らの死を覚悟した。

 数メートル先からは、サウルとファルマンが敵兵と切り結んでいる金属音がなおも聞こえてくる。


 その時である。轟音とともに森が沸騰した。

 彼らのわずか十メートル後方で、人と土と樹木が夜空に向かって一斉に舞い上がったのだ。

 爆発の範囲は、奥行きこそないものの横に長く広がり、千メートル以上に及んでいた。


 三キロ以上離れたアインシュット城にいるはずの魔道士は、強行偵察隊の報告をその魔法に正確に反映させ発動させた。驚くべき技量だとしか言えない。

 肩に重傷を負ったイザーク曹長にそれを感心するような余裕はなかった。至近距離の爆発から十数秒後、上空から怒涛の勢いで降ってきた土砂の塊で頭を打ち、彼の意識はそこで途絶えた。


 ケルトニア側がせっかく分散配置をした弓兵隊の三部隊分がそっくり爆裂魔法の餌食となった。その数、実に千二百名である。

 同時に帝国兵が一万を超す残存兵で吶喊とっかんして突撃を開始した。

 エルゼ川の両岸に怒号と絶叫が響き渡り、川は流れる血と多数の死体で濁り、飲み水を数日にわたって奪われた下流の農民たちは怨嗟の声をあげることとなった。


      *       *


 エルゼ川の戦いは、結果として帝国軍が渡河を強行し、接近戦に向かないロングボウ部隊に急迫したことで、ケルトニア軍が撤退した。

 帝国はエルゼ川西岸に橋頭堡を築き、当初の目的を達成したが、この戦いは帝国の敗北、それも希に見る大敗北として記録されることになった。


 確かにマグス中尉の爆裂魔法はケルトニア軍に痛打を与えた。しかし、それでもなおケルトニア弓兵は三千人近く生き残っていた。彼らは復讐に燃え、撤退命令が発出されるその瞬間まで、突撃する帝国兵に弓の雨を降らせ続けた。

 渡河を待ち構えていたケルトニア歩兵は頑強に抵抗し、騎兵部隊は各所で帝国歩兵に対する錐のような突撃を繰り返した。


 この夜の帝国兵死傷者は実に五千人を超えた。二日間の戦いでケルトニア軍の死傷者が三千人に満たない(しかもその大半がマグス中尉個人のスコアだった)のに対し、帝国軍はその四倍近く、一万六千人を超すという、局地戦では前代未聞の人的被害を出したのである。


 そうは言っても、帝国がエルゼ川西岸へ進出する足がかりを掴んだのは事実だった。

 罠にはまり、崩壊寸前だった帝国軍を救ったのは、たった一人の魔道中尉であり、ミア・マグスと爆裂魔法の名は敵味方の全軍に轟くことになった。

 そのため軍司令部と高魔研も、救国の英雄に対して命令違反の処罰を出すことができなかった。


 一方で、攻撃軍司令官のハボック中将は、敵の撤退を確認した翌日、上層部に対する報告書を書き上げた後、服毒自殺をした。

 また、マグス中尉の魔法攻撃を成功させた強行偵察隊を輩出した中隊指揮官、クラウス中尉は叙勲を受け二階級特進して少佐となり(肝心のマグス中尉は大尉昇進に留まったのに、である)、大隊長を拝命して別の連隊に転出することになった。


 その強行偵察隊だが、ラパン魔道中尉は爆裂魔法が炸裂した直後、とっさに対物障壁を重ねがけして障壁範囲を広げ、サウル一等兵とファルマン一等兵をその中に取り込んだ。そして大量に降り注ぐ岩、土砂、樹木から身を守り、それらに埋もれるようにしてじっと身を潜め続けた。

 ラパン中尉は魔力切れを起こす寸前まで、約三時間にわたってその状態で耐え続けた。


 剣戟けんげきと絶叫に彩られた戦争の音楽が彼らの周囲を通り過ぎ、森の奥へと移動したのを確認して、ラパンはようやく防御魔法を解いた。

 もう自力で歩けないほど消耗した魔道士を、二人の若者は両脇から抱きかかえるようにして川に向かい、帝国兵の死体がごろごろと転がっているエルゼ川をゆっくりと渡っていった。

 岸から緩い斜面を這い上がり、とっくに夜が明けた河川敷に立った三人の目の前には、長大な矢に射貫かれて殺された友軍の死骸が延々と転がる凄惨な景色が広がっていた。


 呆然として歩き出した三人を、馬に乗った一人の伝令兵が見つけ、ケルトニアの鎧と軍服をまとった彼らに対し、警戒して馬上槍を構えながら近づいてきた。

 しかし、幸いなことにその伝令兵はファルマン一等兵の同期で顔見知りだった。死んだと思われた強行偵察隊が戻ってきたことに、伝令兵は驚愕するとともに喜びを爆発させ、彼はただちに馬を駆って第三中隊(彼らは突撃から除外された数少ない予備部隊・・・・だった)へ急報した。


 中隊の全員が英雄を迎えに駆け出すのを、さすがに司令部の幕僚たちも止められなかった。

 懐かしい戦友が歓声をあげて走ってくるのを、中年の魔道士と二人の若い一等兵も気づき、三人は笑って手を振って自分たちが元気だということを伝えようとした。


 だが、そのラパン魔道中尉の手がぴくりと止まった。彼は何かを感じたのだ。

 同時に、何度も戦場で聞かされた悪魔の泣き声が鳴り響いた。

「ヒィィィィーーーーーーッン!」

 甲高い鏑矢かぶらやの音――ケルトニア弓兵のロングボウが敵の戦意をくじき、パニックを起こさせるために最初に撃ち込む音響矢であった。


「ロングボウだ! 伏せろーーーっ!」

 ラパンはそう叫ぼうとした。実際に口を開き「ロン」という音までは発することはできた。


 だが、そこまでだった。明るい空を黒いこう(穀物を食い尽くすバッタの大群)のような矢の雲が覆い尽くし、「ズブズブズブッ」という鈍い音を立てて河川敷に突き刺さり、周囲はあっという間に針の山となった。「シャシャシャシャシャーッ」という風切り音が、遅れて後から追いついてくる錯覚すらあった。


 ラパン魔道少尉の喉には黒くて長くて太い、ロングボウの矢が突き刺さり、頸椎を砕き、彼の身体をそのまま地面に縫い付けた。

 まるで昆虫標本にされた甲虫のように、首のほかに両腕、両足も矢が射貫き、哀れな魔道士は大の字の格好で斜めに宙に浮かんでいた。

 両脇についていた二人の若者の運命も同じだった。特にサウル一等兵は、後頭部から二本の矢が突き刺さり、顔面にやじりが突き出したことで、後に遺体が回収された際には顔の見分けがつかなくなっていた。


      *       *


 イザーク曹長が意識を取り戻し、半ば土砂に埋もれていた身体を引き起こしたのは、ラパン魔道士が最期を遂げた半時ほど後のことだった。

 覆い被さっていた土砂が圧迫して包帯の役目を果たしたのか、肩から背中にかけての傷の出血は止まっていた。

 起き上がった彼はまだ意識が朦朧としており、のろのろと歩き出したものの、それは目的のある行動ではなかった。途中で転がっていた友軍の死体から剣を拾い上げたのも無意識のうちだった。


 彼がどうにか意識と理性を取り戻したのは、突然森を抜けて小さな集落がある場違いな平地に出たからだった。

 その村には見覚えがあった。シュトレイラ村だ。

 彼の故郷であるトルガ村からは十キロほどしか離れていない、いわば隣村で、イザークも若いころは何度も遊びにきたことがある。

 この村はもともとエルザ川の東岸にあったのだが、洪水で川の流れが変わって現在は西岸になっている。そのため帝国領の〝飛び地〟のような扱いになっていた。


 見覚えがあるのは家々だけではなかった。そこかしこに転がっている村人の死体も、子どもを除けば多くが見覚えのある顔だった。

 恐らくケルトニア軍に殺されたのだろう。死体は多くが老人や女性、子どもであった。

 村は死んだように静まりかえっていた。周囲には腐臭が漂っていて、虐殺が行われたのは一、二日前のことらしい。


 イザークはその時になって、自分が剣を手にしていることに気づいて苦笑した。

 試しに剣を振ってみようとしたが、腕が水平までしか上がらなかった。それ以上に上げようにも力が入らないのだ。多分肩の腱を切られたせいだろう。

 腕を回してみるとかなり痛みがあり、傷口からじくじくと出血する感覚があった。とにかく包帯で傷を縛ろう。傷薬があれば言うことがない。

 彼は見覚えのない一軒の家の扉に手をかけた。その家は比較的新しかったので、空き家ではないだろうと見当をつけたのだ。


 音を立てないよう、そっと扉を開けた瞬間、彼は家の中に人の気配があることに気づいた。

 剣は振りかぶれないが、突き刺すことはできるだろう。イザークは柄を握り直すと、そっと中の様子を伺った。

 一瞬で何が行われているかが理解できた。


 狭い部屋の片隅に置かれたベッドの上で、女の身体にのしかかったケルトニア兵がズボンを膝下まで下げ、裸の尻をこちらに見せて腰を振っていたのだ。

 血に染まったベッド近くの壁には、十歳くらいの細い男の子が足を投げ出し、もたれかかるようにして座っていた。顔面が血だらけでぴくりとも動かない。もう死んでいるのかもしれなかった。


 イザークは身体を家の中に滑り込ませると、ゆっくりと男の背後から声をかけた。

「おい、お楽しみだな。友軍はとっくに移動したぞ。こんなところで何をしている?」

 男はびくっとして振り返ったが、ケルトニアの軍装を見て安心したらしく、再び腰を振り始めた。


「なんだ、お前もやりたいのか?

 順番だ、もう少し待てよ。もうちょっとなんだ」


 イザークは呆れたように再び警告した。

「聞こえないのか? 友軍はもう移動した。

 帝国軍が森の奥まで入り込んでいるんだ。ぐずぐずしていると敵に取り囲まれるぞ。

 集結地点を聞いてないのか? 女を強姦するやるのに忙しくて遅れましたなんて言った日にゃ、懲罰房行きじゃ済まないぞ」


「だからもうちょっとでイキそうなんだから、待てって!

 大丈夫だよ。そこにガキが転がってるだろう。もう死んでるか?

 そのガキ、母ちゃんを助けようとして包丁で俺を刺しやがった。

 まぁ、ガキの力じゃ革鎧は抜けないんだがな、クソいまいましいことに刃が隙間に入って脇腹を刺されちまった。

 もう血止めはしたし、内臓まではいってねえから心配はいらねえがな。

 部隊に戻ったら、帝国兵と斬り合いになって負傷しましたってことにすりゃあいい。

 軍医殿から縫ってもらえば、うまくしたら傷病休暇を貰えるかもだ」


 イザークは荒い息をして腰を振り続ける男から、子どもの方に視線を移した。近寄って確かめてみると弱っているが息があった。

 こめかみのあたりがどす黒く変色して左目まで腫れ上がっている。額がぱっくりと切れて、今は止まっているが、そこから夥しい血が流れたようだった。

 呼吸は浅く、心臓の鼓動も弱い。打撲と裂傷のためというより、別の理由で根本的に弱っているような感じだった。


 むしろ男の下になっている母親の方が危険に思えた。

 顔は何度も殴られたらしく、表情が分からないほどぼこぼこに腫れ上がっていた。胸のあたりに刺し傷があって出血が続いているほか、右手首が切断され失血死を防ぐためだろう、革紐で傷口の上がきつく縛られている。縛られた先はどす黒く変色し、壊死えしが始まっていた。

 イザークが女の傷を見ているのに気づいた男は、笑いながら言い訳をした。


「へへっ、この女えらく抵抗しやがってよ。腕ぇ斬り飛ばしたらやっと大人しくなりやがった。

 死んじまったら濡れなくなって具合が悪いからよ。優しい俺様が応急手当をしてやったってわけよ。

 まぁ、相当血を流しているから、そう長くはもたねえだろうがな。

 ――くそっ、それにしても何度も唾つけねえと、すぐに乾きやがるな。

 イケるもんもイケやしねえ!」


「なら、手伝ってやろうか?」

 男の足もとの方に回ったイザークは静かに声をかけた。

 同時に、彼が手にした剣が男の裸の尻に近づき、肛門からずぶりと腹に向けて差し込まれた。

 男は「えっ?」と言って振り向いたまま、びくんと身体を痙攣させてあっさりと死んでしまった。

 イザークが剣を引き抜くと、切り裂かれた肛門から鮮血とともに直腸に溜まっていた糞便がでろでろと流れだし、部屋の中がたちまち悪臭で満たされた。


 イザークは男の身体をベッドから蹴り落とすと剣を捨て、女を抱き起こした。

「おい、大丈夫か? しっかりしろ」

 声をかけると、女はのろのろと反応して醜く腫れた顔をこちらに向けたが、膨れあがった瞼で目は見えていないようだった。


 しかし次の瞬間、意識がはっきりしたのか女の目が無理やり見開かれた。

「イムは! イムラエルはどこ?

 あたしの坊やは大丈夫なの?」

 女の残っている左手がイザークの腕を掴み、信じられないほどの力で握ってくる。


 イザークは安心させるように身体を揺すり、低い声でささやいた。

「心配するな。子どもなら大丈夫だ。

 傷はたいしたことはない。ちゃんと息もある。

 だが、だいぶ弱っているようだな。飯は食っているのか?」


 女は彼の言葉に涙を流しながら首を横に振った。

「この三日間、水以外口にしていません。ケルトニア兵が何もかも奪っていきました……。

 村が襲われた時、私と息子はたまたま屋根裏に上がって腐った屋根板の修理をしているところでした。

 村の人は皆殺しにされ、私たちは夜中にそっと下に降りて水瓶の水だけ飲んで……あとは怖くてずっと隠れていました。

 でも今日になってもう空腹に耐えきれず、雑草でもいいから何か口に入れようと思い、扉を開けたところであの男に見つかったのです」


 とぎれとぎれに弱々しい声で女が話すうちに、イザークはかすれているが聞き覚えのある声だと気がついた。

 腫れ上がった顔を両手で挟み、まじまじと見ると少女だったころの面影がよみがえってきた。

「お、お前、サラじゃないか!

 俺だ! ほら、トルガ村のイザークだよ!」


 女の白く濁っていた目に光が戻ってきた。

 彼女は信じられないという表情で「イザーク様!」と叫び、彼に抱きついて泣き出した。


 彼女の祖父母はホフマン家がまだ准男爵に列せられて裕福だったころ、家に住み込みで働いていた使用人だった。

 サラはその孫娘だったが、母親が夫の戦死をきっかけに都会に働きに出た際に老夫婦に預けていき、そのまま音信不通となったのだ。


 サラはイザークより十二歳年下で、ほとんど彼の妹のように可愛がられて育った。

 彼女の祖父母はその後相次いで亡くなり、ホフマン家も没落してもう使用人など雇う余裕もなかったが、サラはそのままホフマン家が面倒を見て、家事手伝い程度はするものの使用人というより娘のような扱いであった。


 サラはもう十年以上前、十六歳で近隣のシュコダ村の商家に嫁いだが、その直後に新婚の夫が病死して彼女は家を出された。

 そうした経緯がホフマン家に届いたのは、一年以上経ってからのことだった。

 そのころにはイザークは軍役についており、彼の両親も早くに他界していたので、サラの行方を捜す者もいなかったのだ。


「私は疫病神のように思われてシュコダ村から追い出されましたが、婚家に炭を卸していた今の夫、アレフに拾われてシュトレイラ村で暮らすようになったのです。

 ホフマン家にも知らせようかとも思ったのですが、もうおじさまもおばさまも亡くなっていて、イザーク様は軍にいて、お家にはリベルカ(イザークの妻)しかいなかったものだから……言いづらかったの」


「そうだったのか……もうあまり喋るな、少し休め」

 イザークがそう言ったのは、抱いているサラの身体がだんだん冷たくなり、唇も青白くなってきたことに気づいたからだった。

 しかし、イザークの腕を掴むサラの手には一層力が籠もった。


「後生です、イザーク様。

 夫はケルトニア兵に殺されました。屋根の隙間からこの目で見ました、

 私の子、イムラエルは私が死んだら身寄りがありません。

 どうか、あの子だけは、どうにかしてお助けください!」


 彼女の目には真剣で、死を覚悟した者特有の力――慰めの嘘は通用しない力があった。

「……分かった。俺が必ず――イムラエルだったか? お前の子どもを守ってやろう。

 リベルカはお前と仲がよかったからな。サラの子だと知ったら喜んで面倒を見てくれるだろう。俺たちにもお前の子と同じくらいの男の子がいるんだ。きっといい友だちになってくれるさ」


「ありがとうございます。それを聞いて少し安心しました。やっぱり〝イザークお兄ちゃん〟だわ。

 ……最後に、お願いです。あの子の顔を見せてくださいませんか?」


 イザークは少し躊躇した。子どもの顔は母親ほどではないが、血まみれで酷く腫れ上がっていたからだ。

 だが、この際それは問題ではないと彼は思い直した。

「待っていろ」と言うと、サラの身体をベッドに横たえ、床にうずくまったままの子どものもとに行って彼を抱き上げた。


 まだ意識のない赤毛の子どもは酷く痩せていて、予想よりもずっと軽かった。

 彼は子どもを抱いてベッドに腰をかけると、サラに声をかけた。

「ほら、お前の子どもだぞ……」


 しかし、答えはなかった。彼女は唇にわずかな笑みを浮かべたまま息絶えていた。

 それは絶望の果て、最後になって、やっと手にした希望に縋りついたことで安堵したような、そんな安らかな死に顔だった。

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