災厄の日々 第六話 尻事件

「くそっ、くそっ、くそっ……畜生っ!」

 寄宿棟の自室に戻るなり、ライアス魔導軍曹は軍帽を床に叩きつけた。

「ライアスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の教官を除かなければならぬと決意した。ライアスには政治がわからぬ。ライアスは、軍の魔道士である……」

「ぱこっ!」

 乾いた音がライアスの後頭部で鳴った。

「なーにどっかの小説みたいなことを言ってるんだよ」


 同室のロバートが丸めたノートを手にしてにやにや笑っている。

「激怒したって……お前、格闘実技でマグス教官殿にいいようにあしらわれて腹立ててんのか?

 やめとけやめとけ。あんな化け物みたいな女に勝てるわけないだろう」


 ライアスは叩かれた後頭部をさすりながら頬を膨らませた。

「だって悔しいじゃないか!

 大佐は女だし、あんだけ小っちゃいんだぞ。体重なんか俺の半分くらいだし、手足だって短いのに……」

「それなのに、あっという間に関節を決められて『教官殿、お許しくださいっ!』って、情けなくも泣き叫びました……ってか?」

 ロバートが親切にも残りのセリフを付け足してくれた。


 彼は汗に湿った体操着を脱いで洗濯籠に放り込むと、タオルで身体を拭きながら忠告した。

「無駄だって。

 教官殿から一本とれるのは、同期の中でもイムとルーニーだけだろ?

 あのイアコフだって手も足もでないんだぞ。俺たち凡人じゃ、百年経っても勝てないよ」


 ライアスはまだむっとした顔つきのままだ。

「イムやルーニーだって、最初の頃は手玉に取られてたじゃないか。

 俺たちだって可能性がないわけじゃないと思うがな……」


      *       *


 マグス大佐は体技訓練の際、研修生と混じって直接彼らの相手をしていた。

 当たり前の話だが、大佐は単純な徒競走や重量挙げといった項目では、男子研修生にまったく及ばない。しかし、それは彼らにとって何の慰めにもならなかった。


 問題は武技や格闘術といった戦闘訓練である。

 いざ戦いとなれば、大佐は無類に強かった。

 もちろん力では若い男子に敵わないのだが、技術と体捌きが凄まじかった。

 武器を手にした打ち合いでは、相手の力をうまく利用して受け流し、身体が泳いだところで打ち込む――かと思えばそうはならない。

 相手が体勢を崩したところで足払いをかける。そしてぶざまに地べたを舐め、潰れたカエルさながらの研修生の背中を、にやにや笑いながら模擬刀でしたたかに打ち据えるのだ。


 それだけならいいのだが、大佐が機嫌のいい時には剣術や槍術の訓練のはずなのに、さらに関節技を決められる。

 一体自分の身体のどこをどうされているのか理解する暇もなく、激痛に脳髄を鷲掴みにされた彼らは、絶叫をあげて教官の足を必死で「ぱんぱん」と叩く。

 あまりの激痛に口からは絶叫が洩れるだけで言葉が出せず、「降参です」という合図が決められたのだ。


 武技でさえこうなのだから、格闘術はさらに恐ろしい。

 訓練では怪我防止のため、拳には中に綿が詰まった革の手袋をつけ、頭にも同じような革のヘッドギアを、胴には革の腹当てを付ける。

 したがって遠慮なく殴る蹴るが許されているのだが、不用意に大佐に打撃や蹴りを放つと、彼女の柔軟な腕が蛇のように絡みつき、あっという間に関節を決められる。

 そのまま大佐が軽い体重を預けるだけで、研修生は抵抗できずに倒されてしまう。


 その後は関節技が連続する地獄のフルコースが待っている。

 涙を流して泣き叫ぶのはいい方で、そのまま気絶してしまう者や、痛みのあまり失禁する者が続出した。

 ロバートが言うようにイムラエルとルーニーも最初の数か月、同じような目に遭っていたが、三か月目くらいから互角の戦いをするようになり、五か月目となった今では一本を取れるようになってきた(それでも三本勝負でやっと一本だったが)。


 今期の研修生でトップを争う二人だからと多くの者は納得していたが、全軍から選抜されたという自負を持った若い彼らの自尊心プライドは、大佐によって悲鳴を上げさせられるたびにズタズタにされたのだ。


 大佐が教官として赴任して以来、彼女が担当する体技訓練と魔法実技の時間は地獄と化した。

 体訓では恥辱を味わうことになり、休日前の土曜には体力を根こそぎ奪われる行軍訓練が恒例となった。

 魔法実技では、大佐の新型魔法が容赦なく研修生に襲いかかった。

 怪我人が続出し、他の教官や軍医から抗議があったが、彼女は一切聞く耳を持たなかった。


 つい最近も、魔法実技を開始する前の訓示で、大佐はこんなことを言った。

「これは私の持論だが、人を教える上で一人の人間が十分に目を配るには、四十人を切るのが理想的だと思っている。妥協しても五十人未満だろう。

 それから言えば、貴様らの五十八人という人数は多すぎる。

 私は赴任以来、これを改善するため十人は殺すつもりであった。

 しかし、残念ながら貴様らはまだ誰も死んでいない。

 私の実技がきついと泣き言を言う輩は今からでも遅くない。遠慮なく死ね!

 訓練中の事故死でも一階級特進となり、遺族年金も上がる。貴様らのご両親もさぞお喜びになるだろう!」


 これほど過酷なしごきに遭いながら、研修生たちが大佐に従っていたのは、それが〝いじめ〟ではなく正当な理論に基づいた修練だったからだ。

 大佐は〝なぜこの訓練が必要なのか〟を論理だてて説明することを厭わなかった。

 研修生が課題をうまくこなせない時は、きちんとその原因を分析して指摘し、その解決法とそれを可能にする訓練法まで指導した。

 特に重大なミスを冒した生徒は教官室に呼び出しを受け、じっくりと説諭した。

 そのレポートが研修生たちに注目され、あっという間に全員が写しを取って自主的に研究されるようになった経緯は、すでに述べたとおりである。


 その当然の結果として、今期の研修生たち全体の成績が急上昇を遂げている事実を、彼ら自身が一番よく知っていたのだ。

 ――そうは言っても、鬼のような女教官に対する恨みつらみは厳然として存在した。それは成績上昇への感謝とはまったくの別問題だった。


 今期のトップを争う三羽烏――中でも二位のルーニーはすっかり大佐に心酔していたし、三位のイアコフは何かといえば大佐の教官室に入り浸り、首位のイムラエルも当然のようにそれに付き合っていた。

 この三人を除く五十五名の研修生たちの場合、マグス大佐への感情は〝愛憎半ばする〟というのが正直なところだった。


      *       *


「俺は決めたぞ!」

 夜の座学が終わり、寄宿棟の四人部屋に戻ってきたライアスは宣言した。

「決めたって、何をだ?」

 ロバートは興味がなさそうだったが、同室のよしみで一応訊ねた。


「マグス大佐に復讐するんだ!」

 その言葉に、残りの同室者――ケイネスとトミィも「おや?」と言うようにライアスを注目した。

 ただ、ロバートは薄笑いを浮かべて友人を諫めた。

「やめとけよ、あの教官殿に悪戯を仕掛けた連中がどうなったか、お前だって知っているだろう?」


 彼の言うとおり、それまでも大佐に一泡吹かせようと、研修生たちはさまざまな悪戯を仕掛けたが、大佐はそのことごとくを一蹴した。

 扉の上に黒板消しや濡れ雑巾を挟むなどという単純なものは、すべて見破られた。

 教卓や椅子にヘビ、ネズミの死骸、ムカデやクモといった虫を置いても、大佐は平然としてそれを片付けた。

 ヘビとネズミの時は、腰から抜いたナイフでその場で皮を剥ぎ、肉をさばいた。


「戦場で本隊からはぐれ、補給を受けられない場合、食糧は自給自足となる。

 ヘビもネズミもきちんとさばけば立派な食糧だ。

 ちょうどいい、貴様ら今日は野外実習だ。ヘビとネズミを捕まえてこい。

 さばき方は今、私が手本を見せたとおりだ。

 よく分からん奴には手ずから教えてやる。さばいたら実際に塩焼きにして食わせてやるから楽しみにしていろ!

 それじゃ火を起こすから誰か枝を拾ってこい!」


 その日の実習では女性研修生の悲鳴が響き渡り、数人が気絶し、半分近くが嘔吐した。

 そんな有様だったから、最近は大佐に悪さを仕掛けようとする勇者は激減していたのだ。


「まぁ、聞けよ。いい手を考えたんだ。

 俺たちは当番で教官室の掃除をするから、大佐の部屋の様子も分かっている。

 大佐のクローゼットで鍵がかかっているのは引き出しだけだ。多分、下着が入っているんだろうな。

 大きい方の扉に鍵がないのは確認済みだ。あの中には洗濯屋から戻ってきた替えの軍服や運動着も下がっている」


 ライアスは自然に声を潜めた。ロバートだけでなく、ケイネスとトミィも側に寄ってきていた。

「マグス大佐とネフェル少佐がいない間に教官室に忍び込み、大佐の体操着のズボンに細工をする」

「細工?」

「ああ、股の縫い目の糸をハサミで何か所か切っておくんだ。

 最初はどおってことないが、激しく動くと糸を切ったところから縫い目がほどけていく。そしてしゃがんだりして股に力がかかると『バリッ』と派手な音を立てて裂けるって寸法だ。

 あの威張りくさってる大佐が、俺たちの目の前でズロースを穿いた尻を丸出しにするんだぜ。

 おばさんの尻なんか見たくはないが、大佐だって一応は女だ。これほどの恥はないだろう?」


 得意げなライアスに、ロバートはなお懐疑的だった。

「そんな細工をしたってバレたら大変なことにならないか?

 第一、教官室には鍵が掛かっているだろう。どうやって忍び込む気だ?」


 ライアスはにやりと笑った。

「俺は仕立て屋の息子だからな、その辺は上手くやるさ。

 ズボンの尻が裂けることは珍しいことじゃないし、裂けてしまうとそれがハサミで切ったのか、自然に切れたのかなんて、よほど裁縫に詳しくなけりゃ分かりゃしないよ。あの大佐が『お裁縫が得意です』なんて言うと思うか?

 それと鍵なんだが、当然大佐は自分で持って出るだろうが、予備鍵があるんだ」


 ケイネスも口を挟んできた。

「予備鍵って、教務室の壁に掛っている鍵箱の中だろ?

 教務室が無人になるなんてことはないし、持ち出すのは無理なんじゃないか?」


 ライアスはますます得意げな顔になった。

「それがだな、実を言うと予備鍵はもう一組あるんだ。

 ――宿直室だよ。夜間巡回当番の教官が泊まる、あの小っちゃい部屋だ。

 巡回の時、いちいち講義棟グリーン・ゲイブルズまで鍵を取りに行くのは大変だからな。

 それでだ。あの宿直室は日中無人で、その上あそこの扉の鍵は馬鹿みたいに単純な仕組みなんだよ。

 ハサミの刃先を鍵穴に差し込んで回す――それだけで開けることができるんだ。これも確認済みだぜ」


 ロバートは溜め息をついた。

「お前なぁ……その情熱を勉強に向けていたなら、今ごろ曹長になってるぞ。

 ……それで、いつやるんだ?」

「明日の体訓に、ちょうどネフェル少佐も補助教官で出ることになっている。

 その時に『朝から腹を下していて我慢できないから、トイレに行って軍医殿から薬をもらってくる』とか言って抜け出せば、時間は十分だろう。

 大佐は地獄耳だからな、迅速に決行あるのみだ。

 明後日の体訓は、また格闘訓練がある。みんな楽しみにしていろよ!」


 ライアスと同室の三人はこの復讐に直接協力はしないが、計画は洩らさないと約束した。

 その約束自体は守られたが、「次の格闘訓練で何かが起こるらしい」という、漠然とした噂は野火のように広がっていった(幸いなことにマグス大佐にまでは届かなかった)。


      *       *


 翌日、ライアスは計画どおり訓練を途中で抜け出し、宿直室から持ち出した鍵を使ってマグス大佐の教官室に忍び込み、首尾よく〝細工〟を施すことに成功した。

 そしてそのまた翌日、ついに運命の時が訪れた。

 その日のマグス大佐はいつにも増して絶好調で、イムラエルとルーニーでさえ、とうとう一本も取ることができなかった。

 大佐は脚を百八十度開脚し、尻を突き出し、派手に動き回っていたが、見守るライアスたちの期待に満ちた目を嘲笑うように、結局何も起きなかった。


 十人以上の哀れな犠牲者の悲鳴と涙と哀願を存分に楽しんだ大佐は、満足したように最後の講評のために演壇に上った。

 四十歳に近い小柄な女性が、百八十センチを超す若者たちを散々に弄ぶ様子を見学させられた補助教官たちは、演壇の後方で「やれやれ」という顔をして整列していた。


 大佐は演壇上で仁王立ちになり、整列した五十八人の研修生を見渡し、口を開いた。

「今日の訓練は、各自なかなかに気合が入っていた。

 その調子で精進を重ねろ。私から一本を取るのはまだまだ難しいだろうが、貴様らは冬に比べれば格段の進歩を遂げている。自信を持ってよろしい!」

 居並ぶ教官も研修生たちも驚いた。大佐が講評で生徒をこれほど誉めたのは初めてだったのだ。

 よほど機嫌がよいのだろう、顔には笑みすら浮かべている。


「ところで最近、貴様らもくだらない悪戯をしなくなった。それは大いに結構なことだが、知恵を絞った悪さを仕掛けられるのは、実を言うと嫌いではない。

 そういう面では少し寂しくもあったのだが、今日は久々に愉快な目に遭った。

 この訓練前のことだが、同室のネフェル教官に運動着を洗濯に出すのを忘れてしまったので貸してほしいと言われたのだ。

 私は予備の着替えも持っていたので、洗濯から戻ってきた運動着を貸してやった。

 そして教官が着替えて部屋を出ようとした時、タオルを床に落としてそれを拾おうとかがんだのだ。

 その拍子に運動着の股が裂け、私は彼女の大きな尻を拝見することとなった。

 人妻であるというのに、淡いピンクに小花模様のなかなかに可愛らしい下着であったぞ……」


 後ろで聞いていたネフェル少佐は耳元まで火を噴いたように真っ赤になってうつむいた。


「私は裁縫などしたことがないので分からんが、少佐が調べたところでは明らかに股を縫っている糸が刃物で切られていたそうだ。

 これを考えるに、貴様らはネフェル少佐のではなく、どうやら私の尻が見たかったようだな。

 そのためにわざわざ教官室にまで忍び込んだとは、見上げた心意気だ!

 そんなに見たいのなら、その勇気に免じて特別に見せてやる! 少佐ほど若くはないが、垂れてはおらんぞ! よおっく見るがよい!」


 マグス大佐は大声で宣言すると、壇上でくるりと〝回れ右〟をした。

 そして尻を研修生の方に向けて突き出すと、そのまま勢いよく運動着のズボンを足首まで引き下ろした。

 しかもズボンだけではなく、その下の白いズロースまで一緒に下ろしたのである。


 小柄な割にはよく張った大きな白い裸の尻であった。

 たっぷりとした柔らかい脂肪に包まれながら、鍛えられた筋肉が全体をきゅっと引き締め、微塵も垂れていない。

 その蠱惑的な丸い尻が丸見えの状態で突き出され、あろうことか大佐はぺちぺちとその尻を手の平で叩いて見せた。

 女性研修生たちは思わず顔を覆い、小さな悲鳴を上げた。


 慌てたのは演壇の後ろで整列していた補助教官たちだった。

 生徒たちに裸の尻が見えているということは、その反対側に立つ教官たちにはもっとまずい所が見えてしまっていたのだ。

『あ、……やっぱり下も赤毛なのか』


 たっぷり十秒も尻を晒した後、大佐はズボンを引き上げて研修生の方に向き直った。

 そして八人の女性研修生たちの方を睨んで怒鳴った。

「そこの女ども!

 戦場で生き残るいい方法を教えてやるからよおっく聞け!」


「武器を失い、敵に迫られたら躊躇ためらわずにズボンを下ろして股を開け!

 なんなら両手で広げて尻の穴まで見せてやれ!

 どうせ貴様らのことだ、ろくに男も知らんだろうから、さぞかしくさい臭いが広がるだろう。

 だがどういう訳か男というものは、そのくさい×××を見せられると、顔か竿か、どちらかを突っ込もうとする。

 もし敵兵が顔を股ぐらに突っ込んで舐めようとしてきたら、貴様らの尖った爪で敵の首の頸動脈を掻き切ってやれ!

 もし敵兵が竿をおっ立てて突っ込もうとしてきたら、陰嚢を掴んで金玉を握り潰してやれ!

 これは多少不細工でも確実に効果がある、貴様ら若い女の特権である!

 軍に入った以上、恥ずかしいだの何だのとわめくことは許さん!

 ここにいる男どもは全員徴兵検査でM検エムけん(陰部検査)を受け、自分のモノを衆人の目に晒している。

 貴様らも軍人となった以上、男に後れを取るな! 覚悟を決めるのだ! 分かったか!」


「分かったか?」と言われても、さすがにうら若き女性たちは青ざめた顔で声も出せず、頷く者すらいなかった。

 大佐は「ふん!」と鼻を鳴らすと、今一度怒鳴った。

「今日はこれまで! 解散!」


      *       *


 このいわゆる〝尻事件〟は、近衛教導団におけるマグス大佐の伝説として(下の毛も赤かったという話を含めて)語り継がれることとなった。

「自分は近衛教導団で、マグス大佐の生尻を見た」という自慢話は、その年の選抜研修生にとって、絶対に外れることのない十八番おはこの持ちネタとなったのである。

 ちなみに、事件の首謀者がライアス軍曹であることは、複数のタレコミからあっさり大佐の知ることとなったが、不可解なことに彼が罰せられたという話は伝わっていない。

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