災厄の日々 第五話 赤毛の本
近衛教導団の教育施設は、帝都の郊外でもかなり外れの閑散とした場所に建っていた。
ウナギの寝床のような三つの寄宿棟(教官室もここにある)と、二つの大きな講義棟が主な建物である。
講義棟は二枚の屋根板を三角形になるよう組み合わせた〝
講義棟の切妻屋根は深緑色の瓦で葺かれていて、かなり目立つ建物だった。一般には茶や灰、黒といった比較的地味な色の瓦が使われていたからである。そのため近衛教導団の施設は、地域住民から〝
帝国軍の階級章は、赤地の布に黄色の線と星型のバッジの組み合わせだった。ただ、近衛師団だけは赤地ではなく緑地に白線と星となっており、近衛教導団でも同様である。つまり緑は近衛のシンボルカラーで、講義棟をわざわざ緑の屋根瓦で葺いているのもこのためであった。
マグス大佐が高魔研で新魔法の評価試験を受けていた同じころ、その講義棟にある会議室では臨時の教官会議が行われていた。
彼ら教官たちにとって、これは千載一遇のチャンスだった。
〝マグス大佐抜き〟で会議を開く機会を、彼らは熱望していたのである。
何しろ大佐ときたら、どういう情報網を持っているのか恐ろしいほどの〝地獄耳〟であった。彼女に知られずに何かをすることは困難を極め、教官たちはそれを何度も思い知らされてきた。
この半月ほど前にも、事務局長の発案で帝都の会員制レストランに休日に集合して秘密裏に会議を開く計画が立てられたばかりだった。
大佐に気取られぬよう、同室のネフェル少佐にもこの件は知らされていなかった。
ある夜、シャワー室から自分の教官室に戻ってきたネフェル少佐は、マグス大佐が自慢の赤毛に香油を塗って髪を
大佐も身だしなみ程度の化粧は普段からしていたが、こうした髪の手入れをしているのは珍しかったので、少佐は自然に訊ねた。
「あら大佐、珍しいですね。ひょっとしてデートの約束でもあるんですか?」
鏡に向かっている大佐は振り返りもせずに答えた。
「まったく、煩わしいことこの上ないが、私の髪は酷いくせっ毛だから、きちんとセットするには何日も前からこうして手入れをしないと駄目なんだ。
――なんだ、少佐もまだ聞いていないのか?
今度、帝都でも有名な高級レストランで、教務長主催の食事会をやるらしいぞ。
私も女の端くれだからな、そうした場に跳ねまくった髪の毛で出かけて行っては、教導団に恥をかかせてしまうだろう?」
何も知らない少佐は驚いた。
「えっ? 私、そんな話聞いていませんよ! 本当ですかそれ?」
大佐はそこでヘアブラシを机に置き、やっと同室の女性教官の方を振り向いた。
「……それは変だな。
まぁ、確かな筋からの情報なんだが、実を言うと私もまだ正式には聞かされていないのだ。
まさか
ちょうどいい、ネフェル少佐。君から教務長にそれとなく聞いてみてくれないか?」
翌朝、さっそく少佐は教務長室を訪ね、マグス大佐の言葉を伝えた。
ちょうど事務局長と秘密会議の打ち合わせをしていたバッカス少将(教務長)は、「なぜバレた! くそっ、あいつは悪魔の蛇か!」と呻いたまま頭を抱え、事務局長は真っ青になって震え出した。
そんなわけで、大佐が高魔研から突然呼び出されたのは、彼らにとって
彼女は一週間出張する予定だったが、教務長をはじめとする教官幹部は、悪魔のように鼻の利く大佐が予定を切り上げて突然帰ってくることを恐れ、出張初日の午後に急遽臨時会議を開いたのである。
突然自習を命じられた研修生たちは、自分たちの幸運が信じられなかった。嗜虐趣味を疑われるほどの大佐のしごきが一週間なくなる上に、初日の午後がまるまる自習とは!
* *
会議室には教務長のバッカス少将、エンデル事務局長をはじめ、マグス大佐を除くすべての教官が集合していた。
事務局長が片隅に備え付けてある金庫の鍵を開けると、事務員が中から資料の束を取り出して配り始める。
資料には「部外秘・要返却」の朱印が押されていた。
普通なら始めにバッカス教務長の挨拶があるのだが、この日はいきなりエンデル事務局長が口を開き、会議が始められた。
「お手元の資料をご覧ください。
これは今期の研修生の平均成績を表にした上でグラフ化したものです。資料1は八月から一月までの上半期、資料2は二月から五月末まで、資料3は通年の平均値と残る二か月の予測値です。
それぞれ比較のため、昨年の平均値と過去五年間の平均値も併記してあります」
資料をめくる音が室内に満ちる中、事務局長は淡々と説明を進める。
「まず資料一をご覧ください。
今期研修生の上半期の成績は、昨年に比べて二パーセントの上昇、五年平均とほぼ同様の数値となっております」
ここで教務長が口を挟んだ。
「上昇と言うが、これは正直言って喜べるような内容ではないのだ。
今期はあの三羽烏、イムラエル、ルーニー、イアコフの三人が突出しておる。
三人の成績を除いた平均値を参考として載せておいた。グラフの破線がそれだ。見たとおり昨年より逆に三パーセント落ちていることが分かるだろう。
要するに今期はあの三人の成績だけで五パーセント底上げされたが、それがなければ平年に及ばなかったということだ」
会議室に重苦しい空気が漂った。
研修生たちの成績については、彼ら教官たちが一番よく知っていたからだ。
事務局長が再び説明を続ける。
「上半期の成績推移も例年どおりの緩やかな右肩上がりで、これも平年とほぼ変わりません。上半期を総括すると、全体の不調を突出した上位者の成績で補い、何とか平年並みを維持した――ということです。
続いて資料二と三を併せてご覧ください。
二月から先月末までの下半期の成績です。
二月はあまり変化がありませんが、三月の第一旬あたりから目に見えて成績が上昇し、四月、五月とその上昇率が急角度で上がっています。
五月まで通した前年比は約二十パーセントの改善ですが、下半期四か月に限って言えば、五十パーセントを超しております。
そしてこの上昇率の変化が続くと仮定した最終予測では、年平均で三十五パーセント、下半期だけで七十パーセント上昇という、常識では考えられない好成績を収めることになります。
これほど短期間での急激な上昇は過去に例がなく、まさしく今期は異常事態だと言ってよろしいかと思います」
会議室の雰囲気はさらに悪くなった。教官たちはいずれも沈痛な表情を浮かべている。
研修生たちが急速な進歩を遂げ、異例の好成績を叩き出している――通常であれば祝杯をあげてもよい、喜ばしい出来事である。
それが彼ら教官たちの指導の賜物であったのならの話だが……。
苦虫を噛み潰したような顔でバッカス教務長が吐き捨てる。
「今さら説明するのも業腹だが、明らかにこれはマグス大佐が挙げた成果だ。
裏を返せば、これまでいかにわれわれが〝無能〟であったか! ――そう言っているのに等しい。
諸君、これは由々しき事態だ」
教務長は事務局長に目で合図をして、控えていた事務員たちを退出させた。
そして教官たちを見回し、やや声を潜めた。
「これは裏の情報であるから口外を禁じるが、マグス大佐は七月いっぱいで異動することが内定している。
軍は大佐に新たな独立部隊を編成させる気でいるらしい。
いいか? 今期はまだいい。
いくら大佐のお陰だとはいえ、研修生の成績が抜群であるのは事実だ。それをとやかく言う輩はいないだろう。
だが、大佐がいなくなった来期はどうなる?
もし、成績がまた元に戻ったら、今度こそわれわれは無能の烙印を押される。
それは火を見るよりも明らかだ!」
バッカス少将は椅子の背もたれに体重を預けて大きな溜め息をついた。
そして目を閉じたまま、弱々しい口調で付け加えた。
「最初から〝腰かけ〟だとは分かっていたが……かき回すだけかき回して、挙句の果てにこんな置き土産を残していくのか、あの悪魔は!」
ネフェル少佐に次いで若い、ある男性教官が末席でおずおずと手を挙げ、発言した。
「その……大佐のやり方は、われわれも見て知っております。
それが好成績の原因なら、そっくり踏襲するというのはいかがでしょうか?」
教務長は「ふん」と鼻で笑った。
「諸君にそれができるか?
事務局長! マグス大佐の赴任以来、訓練中の事故はどれだけ増加した?」
エンデルはすらすらと答える。
「この四か月で骨折などの重傷者が六名、捻挫や脱臼、数針縫う裂傷などの中等傷者は延べ二十四名、併せると研修生全体の過半となります。
ちなみに前期六か月では、軽傷者が五名のみとなっております」
「後期の軽傷者は何名なのだ?」
バッカス少将がいらいらした口調で確認すると、事務局長は肩をすくめた。
「あまりに多すぎて統計を取るのを諦めました」
教務長はこめかみを指で押さえながら教官たちを睨みつけた。
「もう一度聞く。諸君にあの赤毛の狂犬の真似ができるか? あいつは生徒の命など屁とも思っていない。
研修生だって彼女の異常なしごきには、明らかに不満を募らせている。
それでも奴らが大佐についてきているのは、彼女が帝国の英雄――〝爆炎の魔女〟だからだ。
諸君が同じことをやってみろ。たちまち反乱が起きるだろう。それこそ責任問題だ」
教官たちは黙り込んだ。
そのタイミングを見計らっていたように、バッカス少将の隣りに座っていた副教務長のオーランド准将が「教務長、そろそろ……」と声をかけた。
「ああ、ジェイムス君(准将のファーストネーム)。頼む」
バッカスはそう答えると、両方のこめかみに手を当てて下を向いてしまった。頭痛がするのだろう。
豊かな白髪をきれいに撫でつけた准将は立ち上がった。
痩せて背が高く、肩幅も広い。
彼は自分の手提げ鞄から書類の束を二つ取り出し、左右に分かれて座る教官たちの前に一冊ずつ置いた。
「すまんが時間がない。どこでもよい、一項目を読んだら次の教官に回してもらいたい」
教務長たちに近い手前の二人の教官はそれぞれに書類を手にした。
二百枚以上はある書類は端に穴を開けて紐で綴じ、簡単な厚紙の表紙でくるんで本のようにまとめられている。表紙には手書きで「マグス大佐講義録」と書いてあった。
「『講義録』だと? 大佐は座学を受け持っていないじゃないか……」
そう言って適当な頁を開いた最初の教官は、やはり手書きでびっしりと埋められた文字を目で追い始めた。
「何だこれは!」
左右二人の教官は、同じように小さく叫ぶと、後は書類の内容にたちまち没頭した。
貪るように頁をめくっていく教官に、准将は注意を与える。
「教官、そこはもう別の項目です。次の方にお回しください」
言われた方の教官は目を血走らせて哀願した。
「待ってくれ! もう一項目だけでいい、続きを読ませてくれ!」
副教務長は首を横に振った。
「駄目です。何度も言いますが時間がありません。
いずれ写しは全員にお配りしますから、今は諦めてください」
いさめられた教官は渋々手製の本を隣の同僚に回した。
彼らが回し読みをしている時間を使って、オーランド准将はこの本の正体を明かした。
「これはある研修生から、私が一昨日に借りたものです。
私と教務長はこれを読んですぐ事の重要性に気づき、事務員に指示して写しを取らせましたが、時間がなかったのでまだ一冊しかできておりません。
さっき言ったように、いずれ人数分を書写させてお配りする予定ですから、今は概要確認に留めて速やかに回覧してください」
「さて、読んだ方はお分かりでしょうが、これは研修生がマグス大佐に提出したレポートを日付順に集めた物です。
最初のレポートは、大佐が赴任直前に臨時教官として現れた時にルーニーが書いたものですから、おそらく最初からの全レポートが揃っていると思われます。
最初のレポート提出はネフェル教官が代理で受け取っていたと聞いていますが、間違いありませんか?」
末席に座っていて、まだ本が回ってこないネフェル少佐は立ち上がって答えた。
「はい、そのとおりです。
マグス大佐は受け持ちの訓練中に大きなミスを冒した研修生をその場では叱らず、後で教官室に出頭させるのが常です。
最初の一言二言は叱責なのですが、後は失敗の原因の分析、実戦の中で起きた似たような事例の解説、同じ失敗を繰り返さないための回避技術、あるいは訓練方法などを事細かに、しかも分かりやすく生徒に言い聞かせています。
そしてそのレポートを提出するように指示するのですが、確かに横で聞いていても感心するような実戦的なアドバイスばかりです。
私自身、半分も知らない、あるいはできていない技術なので、週に二、三回はある生徒の呼び出しは私の楽しみでもありました。
そのレポートを書き写した――それもすべてが揃っているのならば、お金を出してでも欲しいと思います」
それを聞いた准将は溜め息をついた。
「その話をもっと早くに聞きたかったですね。
私が研修生から聞き取った限りでは、どうもこのレポートを最初に写し始めたのはイアコフだということです。
ほぼ同時にイムラエルが参加し、すぐにルーニーも加わったようですね。
レポートの清書、あるいは校正を手伝うと言って提出者の部屋を訪ねては、事前に控えを取っていたみたいです。
成績のトップを争う彼らが熱心にやっていたことですから、すぐに他の研修生たちの噂になってこの書写が広まりました。
われわれだって一読すれば分かります。これは恐ろしく貴重な講義録です。
もちろん選抜された優秀な研修生たちも、それを感じ取ったに違いありません。
今や彼らの全員が、自分で書き写した講義録を持っています。
知っていましたか? 研修生たちは休日の夜、談話室に全員が集まって、その週に提出されたレポートの勉強会を行っていることを」
准将が見回すと、顔を上げた教官たちはみな首を横に振っていた。
「彼らはレポートの感想や疑問点のみならず、これをヒントにして思いついた独自の工夫や技術、訓練法などを話し合っているそうです。
みんな写しを二部制作して、一部はこうした勉強会に使ったり、頼まれれば人に貸すこともするそうですが、もう一部には自分なりの工夫や感想をびっしりと書き込み、それは勉強会で発表するもの以外、決して他人には明かさないと言っていました。
優秀な選抜研修生が、こんな宝の山を手にして競って勉強しているのです。成績が上がらない方が不思議でしょう。
ついでに言えば、困ったことにマグス大佐の実戦技術や提言には、現在われわれが教えている教本を真っ向から否定する事例が多数含まれています。
教本を元にしたわれわれの講義と、マグス大佐の経験から得られた結論とで、研修生たちがどちらを信用しているか、言わずとも分かるでしょう。
私だって大佐の説を信じますよ」
副教務長は皮肉な笑いを浮かべた。
そのころには、ようやく回覧が末席まで届き、読み終えた教官たちは興奮で顔を赤くしながら隣席の教官と感想をささやき合っていた。
「とにかく、これで光明が見えた!」
教務長の大声に、教官たちの私語がぴたりと止む。
「これまでのものはもちろん、今後、大佐に提出されるレポートは事務局において書写し、研修生に配るものとする。
そして大佐異動後の来期には、これを印刷・製本して近衛教導団の正式な副読本として採用する。
これを活用すれば、今期ほどではないだろうが、少なくとも平年の成績は軽く凌駕できるだろう。
異議はあるか?」
教務長の問いかけに、全員が首を横に振った。
この決定は、大佐が戻ってきた後に彼女の了解を取り、全研修生に伝えられて大いに歓迎された。
彼らにしてみればもう一、二冊は控えが欲しいのだ。しかし二百枚を超す(しかも毎週二十枚近く増えていく)講義録の書写には膨大な時間がかかるため、それができずにいたのだ。
教導団としては、毎回のレポート書写の時間を他の勉強に振り分けられるというメリットと、その配慮によって教官たちへの信頼を少しは回復できるだろうと考えたのだ。
しかし実際には、配布分を当てにして新たなレポートの書写を行わない研修生は一人もいなかった。
教導団からの配布は、レポートの提出から三日程度遅れるからだ(研修生は六十人近かったから無理もない)。
生徒たちは新しいレポートを一刻も早く読みたかったのだ。楽だという理由でライバルに遅れを取ることを許容する者が、そもそも研修生に選抜されるはずがなかったのである。
* *
マグス大佐が近衛教導団を離れた後、この講義録は実際に印刷・製本され(帝国では鉛活字による活版印刷が始まっていた)、正式な教材として活用された。
一応、建前としては副読本だったが、最初の年からメインテキスト扱いで、正規の教本の方が副読本というのが実態となった。
本の題名は研修生たちが仮に付けていたものが採用され、『ミア・マグス講義録』となった。
教導団の図書館や各教官には赤い革表紙に金箔押しの文字、本文は天金(紙の上部に金箔を貼る製本技術)を施した特装版で、研修生に配られるものは厚紙赤表紙に黒文字印刷の軽装版だったが、いずれも赤い表紙だったため、いつしか『赤本』と呼ばれるようになり、さらにマグス大佐のトレードマークである赤毛にひっかけて『赤毛の本』と呼ばれるようになった。
近衛教導団で印刷・製本された『赤毛の本』は特にグリーン・ゲイブルズ(緑の切妻屋根)版と呼ばれた。後に、それとは別に各項目に解説を加えた増補版が出版されたが、赤い表紙は踏襲されたため呼び名はやはり『赤毛の本』だった。
この増補版は魔導士官学校や軍大学でも採用され、長い間魔導士必携の一冊として親しまれることになる。
『赤毛の本』は、ミア・マグスの名を不滅にした事績の一つとなったが、そのきっかけを作ったのがイアコフ・ホフマン魔導曹長であったことまでは、さすがに後世には伝わらなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます