悠久の魔導王 第二十四話 ゲルト
『周囲数キロに人の気配はないぞ。ひとまずここは安全だろう』
ユニの頭にハヤトからの通信が入る。
オオカミたちはこの小さな木立に着いてから、休むことなく周囲の偵察に走り回ってくれていたのだ。
「とりあえずは安全みたいだわ」
ユニがそう伝えると、オオカミの背から降りて地面にぐったりとして座り込んでいたマリウスとアッシュは、さすがに安堵の色を浮かべた。
「私は感知魔法の結界を限界範囲まで広げて張っておく。
精度は低くなるが、あの規模の追手なら数キロ手前で確実に捉えられると思う。
『気づいた時には包囲されていました』なんて二度とご免だ」
アッシュはさっそく歌のような呪文を口ずさんだ。
帝国軍追跡部隊の包囲を突破したユニたちは、十キロ近く続いたヒマワリ畑を突っ切り、北寄りに進路を変えて山裾の辺鄙な田舎風景の中を走り続けていた。
アッシュの話では、ヒマワリのゴーレムが一時間くらいは暴れまわって逃走の時間を稼いでくれるらしい。
帝国兵たちが再び軍用犬を先頭にして追跡を始めるころまでには、相当の距離を引き離しているはずだった。
時間は午後二時か三時といったところだろう。
ユニはこのまま日没まで逃走を続け、夜間で一気に差を広げようと提案したが、ライガが頑としてそれに応じなかった。
『俺たちオオカミと違って、お前ら人間には睡眠と休息、それに食事が必要だ。
無理をして居眠りをしたらどうする?
走るオオカミの背中から落ちたら、首の骨を折ってもおかしくないんだぞ!
いいから何か口に入れろ! そして少しでも寝ておくんだ。
これ以上危険を冒して日中の移動を強行するより、よほどましだ』
「だったら、アッシュに回復魔法をかけてもらうわ!
ねっ、アッシュ。それなら大丈夫よね?」
エルフの女王は黙って首を横に振った。
「ライガ殿の言うとおりだ。
回復魔法は傷を癒すことはできるが、蓄積した疲労を消すことはできない。
ましてや精神的な疲労をどうにかするなど不可能なのだよ。
ここはオオカミたちに従うべきだろう」
ユニたちはそそくさと簡単な食事を摂り、添い寝するオオカミたちの体温に守られた状態で二時間にも満たないが深い眠りを貪った。
その眠りを覚ましたのはアッシュだった。
オオカミに両側を挟まれた状態からむくりと起き上がったアッシュは、ユニとマリウスの肩に手をやり揺り起こした。
もう周囲はかなり暗くなっている。
「追手が結界に入ったぞ。
まだ五キロは後ろだ。こちらには気づいていないだろう。
ここは出た方がいい」
ユニは目をこすりながらのろのろとライガの背中によじ登った。
「やっぱり追跡に犬が加わっていると追いつかれるわよね。
でも、少しでも休めたのはやっぱり良かったわ。
どうやら日も落ちたみたいだし、一気に引き離すわよ」
そう言うと、彼女は「ばちん」と両頬を平手で叩き、眠気を吹き飛ばした。
* *
コルドラ山脈を横断する秘密のルート〝裏ノルド道〟へ向かう最短経路を取るとすれば、遮るもののない小麦畑を南下して突っ切るしかない。
ユニたちが採った北の迂回ルートは、人口密度が低く開発を免れた森林が比較的多く残されていた。
オオカミたちの臭いを辿って追跡するマグス大佐たちと違い、ユニたちが夜間に移動する距離はとてつもなく大きかった。
しかし、逃げるユニたちは日中に移動できないという弱点を抱えていた。
それに対して追跡部隊は、二交代制にすれば昼夜関係なく追跡を継続できる。しかも軍の全面的なバックアップを受けられるため、人馬の補給や入れ替えが可能であった。
どんなにユニたちが夜間に距離を稼ごうと、一日の終わりには追跡部隊がアッシュの感知魔法に引っかかるほど肉薄するという毎日が続いていた。
「どげんかせんといかんわ!」
ユニがいら立ち紛れに
「どこの方言ですか、それ」
半ば呆れながら、仕方なくマリウスが相手をする。
ここは郊外の宗教施設(協会)を囲む、いわゆる〝鎮守の
ユニたちは夜通しの移動の後、この木立で身体を休めつつ朝食の用意をしているところだった。
食事といっても、木の実で自給自足できるアッシュは別にして、ユニとマリウスは残り乏しい乾パンのほかは、オオカミたちから分けてもらうウサギ肉を塩焼きにして食べるような毎日で、味気ないことこの上なかった。
彼女たちはもう帝都からはだいぶ離れ、コルドラ大山脈まで半分近くの地点にまで達していた。
しかし、マグス大佐の執念深い追跡を振り切ることができず、軍用犬にオオカミたちの匂いを追跡されるユニたちの状況は徐々に厳しさを増していた。
実際に進路を先読みされて、待ち伏せ部隊が配置されていたこともある。
それらはオオカミの斥候やアッシュの感知魔法でどうにか回避できたが、それによってユニたちの進路が敵の思惑どおりのコースに誘導されているのではないか、という不安がぬぐい切れなかったのである。
「オオカミたちだけだったら、途中何度も取っている休憩がいらないのよ。
それどころか、数日だったら一日中走り続けて犬たちを撒くことだって可能だわ。
つまり、問題はあたしたち人間の方なのよ!」
マリウスが冷静に頷いた。
「そうですね、僕たちが別の移動手段を使い、なおかつそれが匂いを残さないのであれば、別行動を取るオオカミたちが囮となった上に追跡を置き去りにできるでしょうね」
「あたしたち三人が馬車にでも乗れたらなぁ……」
自嘲気味につぶやいたユニに、マリウスが珍しくも好意的に喰いついた。
「……それ、いい手かもしれませんね!」
「えー、そお? でもどうすんのよ? 『帝国から追われてますけど、馬車に乗せてください』って頼むの?」
マリウスはにっこりと笑った。
「この辺で馬車を見つけたら、御者に金を握らせて荷台に乗せてもらいましょう!」
自分で言い出したことだが、ユニは難しい顔をした。
「それって、御者が裏切らないって前提の話よね?
第一、あたしたちを馬車に乗せて大山脈まで行くってなったら、留守にする家族になんて説明するのよ?
家族から捜索願いが出されたらどうするつもり?」
「アッシュさんの精神操作で協力させる……っていうのも、家族や近所まで騙せませんからダメですか。
それじゃあ、馬車を馬ごと買い取っちゃいましょう」
「それこそ不審者だわ」
「無理やり奪っちゃうのは?」
「論外!」
「殺してしまえば〝死人に口無し〟ですよ?」
「却下よ! 断じて却下!」
ユニは溜め息をついた。
「無理だわ。大体こんな辺鄙な街道に都合よく馬車なんか来るわけないし」
ユニたちが現在いる鎮守の杜は、寂れた脇街道からそう離れてはいない。
まだ時刻は朝の七時を回ったばかりだろう。農作業に出る地元民がぽつぽつと現れるころだが、馬車で移動する旅人が通るような道ではない。
ユニの傍らではライガが巨体を地面に伏せ、ユニとマリウスは放っておこうとばかりに眠っていたのだが、その彼が突然目を開いて頭を上げた。
同時にユニも何かに集中して耳を澄ますような表情に変わる。
どうやら周囲の偵察に出ていたオオカミからの通信が入ったようだ。そう察したマリウスはユニの邪魔にならないよう口をつぐんだ。
すでにアッシュが感知魔法による結界を展開済みなので、彼女が何も警告しないということは大人数の追手という可能性は低い。
恐らくは地元の農民でも近づいているのだろう――それはユニとライガの様子に緊張感が感じられないことからも推測されることだった。
通信が終わったらしいユニがマリウスとアッシュの方を振り向いたとき、彼女はにやにやと皮肉っぽく笑っていた。
「どうする、マリウス? 『なんということでしょう!』だわ。
馬車が近づいてくるそうよ……」
寝そべっていたライガがのっそりと起き上がり、街道の方へと歩き出した。自ら様子を確かめに行くらしい。
「本当に来たんですか? 僕らの話が聞こえたわけでもないでしょうに。
冗談はさておき、そうですね……一応、交渉はしてみましょうよ。
話すのは僕がやります。ユニさんは言葉で帝国人じゃないってバレますから、黙っていてください。
アッシュさんはここで留守番を」
ユニとアッシュは頷いた。
最初に馬車を見つけたのはトキのようだった。その時はかなり離れていたので、ヨミが中継する形で連絡が入ったのだが、もう馬車がだいぶ近づいてきたため、今は直接トキとやりとりができる。
ユニとマリウスが街道まで出てみると、それでもまだ馬車の姿は小さかった。
「トキ、馬車に乗っているのは何人?」
『御者一人だ。荷台は空に近い。それから馬じゃなくてロバだな。ロバの二頭立てだ』
「御者の様子は? やっぱり農夫かしら?」
『それなんだがユニ、驚くぞ……』
『おいトキ! 面白いからそれは喋るな』
突然ライガが話に割り込んできた。しかも明らかに笑いを
「ちょっとライガ、あんた何言ってるのよ?」
『とにかく警戒する必要はないぞ。あの御者は知った顔だ。お前が自分で確かめてみろ。
あー、それとマリウスの小僧は下がらせろ。ユニが話した方がいい』
そう言うなりライガの通信は途切れてしまった。
「どうしたんです? 妙な顔をしていますけど」
マリウスが不思議そうな顔で訊いてきた。
「うん、それがね。どうもあの馬車の男があたしたちの知り合いらしいのよ。
ライガが面白がっていて詳しいことを教えてくれないんだけど、あたしが自分で確かめろって。
それとマリウスは後ろに下がっていた方がいいらしいわ」
マリウスも面食らった顔をする。
「はぁ? 帝国に知り合いですか?
そりゃ僕の友人・知人なら珍しくもありませんが、ユニさんの知り合いなんていないでしょう。
ひょっとしてマグス大佐だなんて言わないでくださいよ」
「そっ、それは確かに願い下げね。
とにかく、オオカミたちの様子じゃ危険はなさそうだわ。
知り合いだっていうのなら、馬車に乗せてもらえるかもしれないしね」
そうこうしているうちに馬車はだんだん近づいてくる。
もう荷台を牽いているのが二頭のロバだということも分かるし、御者が全身をマントで包み、フードを目深にかぶった男――それもかなりの大男だということも見て取れた。
やがて互いの距離は十メートルを切るほどに接近し、そこで馬車はぴたりと止まった。明らかに道の真ん中で突っ立っているユニたちを認めてのことだった。
とにかく当たって砕けろで、ユニはマリウスをその場に置いてゆっくりと馬車の方に向かった。
すると突然、街道脇の茂みからライガが顔を出し、道に上ってユニの隣に並んで歩き出した。
「ばかっ! なんで出てくるのよ! あんた小型化の変身もしてないじゃない!」
ライガは聞こえないふりをしているのか、ユニを無視してすたすたと馬車の前へと進んでいく。
その尻尾は大きく横に揺れていた。
御者台の男は驚いたように道路に飛び降りた。
ユニは巨大なオオカミを前にした男が、恐怖にかられて逃げ出すのではないかと危惧したが、実際は逆だった。
男はライガの方に駆け寄ると、感極まったように地面に両膝をついてオオカミの首に抱きついたのである。
「ライガ様! こんなところで出会えるとは! これこそ我が祖神のお導きに違いない!」
男は感極まったような涙声を上げたが、妙にくぐもった音に聞こえた。それはユニがどこかで聞いたことのある特徴だった。
その時、抱きついた男の目深にかぶっていたフードがライガの鼻面に引っかかり、彼の頭が露わとなった。
それは人間ではなかった。
ユニは思わず息を呑む。
逞しい大男の頭部は、ライガと同じオオカミだったのである。
ライカンスロープ――俗に〝狼男〟と呼ばれる獣人の一族だ。
「あっ、あなたっ! 中之島の……!」
思わず洩らしたユニの声に、やっと男は反応した。
「これはユニ様、お久しゅうございます。こんなところでお会いできるとは思いませんでした!」
その男はライガに抱きつく前に明らかにユニを認識していた。彼の礼を尽くした冷静な物言いでそれが分かる。
要するに、彼にとってはライガとの再会こそが重要であって、ユニはついでに過ぎないというわけだ。
「その顔、見覚えがあるわ! ……間違ってたらごめんなさい、あなたバーグルさんの息子さんじゃない?」
獣人は目を細めて口をゆがめた。どうやら笑ったらしい。
「はい、バーグルの息子、ゲルトです。よくお分かりですね!
人間は俺たちの顔の見分けがつかないものですが、さすがはライガ様の召喚主でいらっしゃる。お見それしました」
ゲルトと名乗った獣人は、胸に片手を当て、うやうやしく頭を下げた。
しかし、獣人が再び顔を上げた時、その表情は一転して厳しいものとなり、ユニの後方に控えていたマリウスを睨みつけた。彼の唇はめくれあがり、牙がむき出しとなっている。
「ところで、そちらの帝国人の匂いには覚えがあります。
あの〝赤毛の魔女〟の配下でしたな。
どうしてライガ様やユニ様とご一緒なのでしょう?」
ユニは慌てて二人の間に割って入った。なるほどライガがマリウスを下がらせろと言ったのは、こういうことだったのか。
* *
もう一年以上前のことである。
ユニは王国軍の参謀副総長アリストアに命じられ、アスカとともにボルゾ川下流の帝国領〝中之島〟へ向かった。
その島にはオオカミの獣人族が暮らしており、彼らの聖地とされる場所でオークの召喚実験をするため、帝国軍は特殊部隊を送り込んでその地を接収しようとした。
しかし帝国軍は待ち構えていた獣人族の襲撃で全滅、その死体が王国領に流れ着いたことでユニに調査が命じられたのである。
部隊の全滅を受けて、帝国はマグス大佐を指揮官とした強力な魔導士部隊を編成して派遣、聖地を守ろうとしたユニたちとの戦闘になった。
結局、帝国側の召喚実験が失敗したことから、マグス大佐は獣人族と和睦した。
その条件として、獣人族の
拘束されたバーグルは、自らの最期の見届け人として息子のゲルトを指名し、マグス大佐らとともに帝都に向かった――そこまでがユニが知る獣人たちの消息である。
マリウスは当時帝国軍魔導中尉として、マグス大佐の部隊に参加していた。いわばゲルトにとっては親の
* *
「ゲルト、落ち着いて。彼の名はマリウス。
確かにあの時はマグス大佐の部下として行動してたわ。
でもその後、彼は帝国軍を脱走して王国に亡命したの。
今は私と行動をともにして、一緒に帝国軍とも戦っているのよ」
ユニの言葉にゲルトは疑いの姿勢を解かないまま、渋々頷いた。
「まぁ、ユニ様がそうおっしゃるのであれば……。
ところで、ライガ様もユニ様もどうして帝国に? それもこんな辺鄙なところで何をしておられるのですか?」
ユニは思わず吹き出した。
「その質問……そっくりそのままあなたに返すわ!
ここじゃなんだから、あっちの茂みで話しましょう。群れのみんなもあなたと会いたがっているわよ」
* *
ゲルトは木立の中でオオカミたちの手荒い歓迎を受け、実に幸せそうだった。
彼ら中之島の獣人族にとって、ライガたち幻獣界のオオカミは、彼らが神とあがめる祖先たちが仕えている神聖な存在だったのだ。
そして、エルフであるアッシュもまた彼を驚かせ、大いに喜ばせた。
獣人たちの伝承では、彼らの故郷である幻獣界においてエルフとは友好関係を築いており、エルフはしばしば獣人に恵みを与え、怪我をした者を魔法で治療してくれたと伝えられていた。
もちろん、この世界で本物のエルフに出会った獣人は、ゲルトが初めてである。
「中之島が獣人族の
ゲルトはエルフに対してどう礼をとってよいか分からなかったのだろう、人間風に片手片膝をついて平伏した。
「
私は黒森のエルフにして西の森族のエルフ王、人の世界ではアッシュと名乗るものです。
ユニからは簡単にしか聞いていませんが、あなたの父君は勇敢な族長であったとか。
そのご子息に会えたのは私の喜びとするところです。
この世界においても、エルフと獣人が友情を築いていけたのなら幸甚と申せましょう。
ただ、今は父君のご冥福を祈るばかりです……」
エルフの心のこもった答礼にゲルトは感激しきりであったが、最後の言葉で彼は首をひねった。
「……そうか、ユニ様たちがご存知なわけがないですよね。
俺の親父、バーグルは生きております」
「えっ! どういうことなの? 帝都で処刑されたんじゃなかったの?」
ユニの驚きはオオカミたちにも即座に伝わった。
彼らはゲルトの言葉を、ユニの思考を通して受け取ることができるのだ。
オオカミたちも共に戦った獣人の長の消息には無関心でいられない。
「そうですね、ユニ様は私がここにいる理由をお尋ねになりましたが、その答えにもなる話です。
少し長いですが聞いていただけますか」
そう言うと、ゲルトは中之島でユニたちと別れてからの話を語り始めた。
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