悠久の魔導王 第二十三話 突破
アッシュの白い手の上には、まん丸で
その
「何よ、何よこれ!
これって人造の〝魔人の心臓〟なんでしょ!
あんたの伯父さんは、これでまた吸血鬼にでもなれって言うの?」
ユニはそう叫ぶと、アッシュの手から小さな宝玉を奪い取ろうとした。
エルフの娘は慌てて宝玉を握りしめると、胸元にしっかりと抱え込んだ。
「頼むから落ち着いてくれ、ユニ!
この石にはそれほどの力はないんだ、本当だ!」
そう言ってアッシュはその場にうずくまった。
そのまま動こうとしない彼女を心配したユニがその顔を覗き込むと、下を向いたアッシュはきつく閉じた目から、はらはらと涙をこぼしていた。
「どうしたの、アッシュ?
具合が悪いの?」
彼女は黙ったまま激しく首を横に振り、しばらくの間声を殺してしゃくりあげていた。
ユニとマリウスは訳がわからず、ただ見守るしかない。
しばらくしてアッシュは突然顔をあげ、盛大な音を立てて鼻を一度すすると立ち上がった。
青白かった顔に血色が戻り、すっかり元気を取り戻したように見える。
「東に行こう!
マリウス、君は対物防御の魔法を張ってくれ。
待ち伏せの帝国兵は私が粉砕する」
慌てたのはユニである。
「ちょっ、ちょっと待って!
アッシュはまだ魔法が使えないんでしょう?
やっぱりその石で何かする気なんじゃないの?」
アッシュは虚をつかれたような顔をした。
「この石で何かを……?
ふふっ、そうか、そうだな!
こいつにもまだ使い道があったんだっけ。
見ていろユニ、マリウス。あの爆裂魔法を放った帝国の魔導士に一泡吹かせてやるぞ!」
今度はマリウスがじれたような顔で呻いた。
「もう謎解きごっこをしているような時間はないんです!
すみません、アッシュさん。
今の状況と、これからあなたがやろうとしていることを簡潔に説明してください!」
ユニも横で「うんうん」と頷いている。
「ああ、それは済まなかった」
アッシュは苦笑いを浮かべると、自分の胸元に手を突っ込んで服(ユニが自分の着替えを貸していた)の中からペンダントを引き出した。
二人の目の前に突き出されて揺れる大きなペンダントトップは、わずかにピンクがかっているものの、透明な水晶のようだった。
「あれ。その色って……?」
ユニが指をさすと、アッシュは大きく頷いた。
「ああ、もうこれは使い物にならない、ただのガラス玉だ。
本物の魔人の心臓ならこうはならない。あれは闇の世界とつながっていて無尽蔵の魔力が供給されているからな。
エルフが造り出したこの
その代わり、所持者が何年もかけて自分の魔力を少しずつ溜め続けることで、どんどん紅くなっていく。
いわばこの石は魔力の貯蔵器なんだ。黒ずんだ紅になるともうそれ以上は溜められないが、それでやっと一度だけ禁呪を使えるようになる。
だが禁呪を発動させるには溜め込んだものだけではまだ足りず、術者から魔力を根こそぎ奪っていくのだ」
アッシュはペンダントを服の中に戻すと、今度は握りしめていた右手を開いて見せた。
その手の中には例の小さな宝玉があったが、色がさっきよりもずっと明るい赤に変化していた。
「この石の大きさでは禁呪を使えるほどの魔力は貯められない。
だが、私の魔力を回復させるには十分すぎる量が込められている。
これは自ら魔導王を名乗るほどのおじさまの力の源なのだ」
「えっ、じゃあ……」
「ああ、そうだ!
今の私は自由に魔法が使える万全の状態だ。
だが、この石の色を見ろ。まだ十分に赤い。
これには、まだ半分以上の魔力が残っている。さすがはおじさまだ」
アッシュの笑顔はどこか幸せそうだった。自分の体内に愛する者の魔力を感じているせいなのだろう。
「ユニは首長国連邦の呪術師が操る巨大な魔人と戦ったと言ったな?
あれも魔人の心臓の力の一つだが、その中でもごく初歩的な使い方だ。
この大きさの石でも、それと似たようなことができる。
操れるゴーレムはそう大きくはないし、一定の時間が経てば石の魔力が枯渇して崩れてしまうが、追手の邪魔をするには十分だろう」
「そういうことですか……」
マリウスはやっと納得したようだった。アッシュの魔力が回復したというなら、逃走の希望が見えてきた。
彼はもうすでに東の敵を突破した後の行動について考えを巡らせていた。
「待って、アッシュ。
青の魔人を生み出した時は、二千人の兵士の命を生贄にしていたわ。
まさかとは思うけど、そのゴーレムにも何かの生贄が必要なんじゃないの?」
「そのとおりだよ」
エルフが至極あっさりと肯定したことで、ユニはますます混乱した。
「だって、だってそれって、この場の帝国兵を何十人も殺さなきゃいけないってことなんじゃないの?」
アッシュは笑って首を横に振った。
「確かに、ゴーレムの身体を造るには、この畑の土で事足りる。
問題はその土をつなぎとめる素材が必要だということだ。
この石が心臓なら、土が肉となる。そして生贄の屍が骨となり、その魂が脳となる。
だから畑の土の他に、君の言う大量の生贄が必要なのだ」
「じゃあ、やっぱり……」
開きかけたユニの口元をアッシュの手が制した。
「ここにはもうそれが揃っている。分からないか?
何も屍は人間のものである必要はないんだよ。
いいか、魂を持つのは人間だけではない、あらゆる生物にそれはあるんだ。
今、この畑には爆裂魔法で生命が絶たれたばかりの大量のヒマワリが転がっているだろう。
彼ら植物にだって魂があり、感情があるのだよ。
陽光を浴び、水を吸い上げ、生長する喜び。そして何よりも根源的な欲求である種という子孫を残したいという狂おしい思い。
それが叶う寸前で、無残に打ち倒されたヒマワリの無念が、この場には充満している。
二千人の人間の生贄で造ったゴーレムよりも、よほど忠実に働いてくれるだろうさ」
『おい! 何をしている。犬どもがここに気づいたようだぞ!』
ハヤトの警告がユニを我に返らせた。
「わかったわ! ここはアッシュを信じる。
みんな、オオカミたちの背中に乗って!
一気に東へ駆け抜けるわよ!」
* *
「犬たちが獲物を見つけたようです!」
十メートルほど先を行く、捜索大隊の兵士が大声をあげた。
「場所はどこだっ!」
カメリア少佐のしゃがれた低い声が飛ぶ。
思わず周囲の兵たちが耳を抑えるほど、その声はびんびんと鼓膜を震わせて遠くまでよく通った。
普段は優し気なアルトで話す少佐だったが、戦場では人が変わるのだ。
「この先三十メートルほど先、東南東のクレーターと思われます!」
カメリア少佐は〝ちら〟と大隊長の顔を窺ったが、その顎が微かに縦に揺れたのを確認すると周囲の兵に向けて怒鳴った。
「魔導士隊はただちに距離と方角、風向き、それに気圧を数値化して誤差修正をかけろ!
用意が出来次第、重力魔導士はグラビトンで敵を押さえつけろ!
同時に火属性魔導士は各個にファイアボールをぶち込め!
命令と同時に一般兵は隊列を整えるべく集合を開始し、魔導士隊は目視で算出したデータを魔法式に組み込み、すでに詠唱済みの攻撃魔法に目標値を追加する。
魔導士はこうした五感で捉えた情報の数値化や、それを暗算によって魔法ごとに異なる複雑な演算式に当てはめ、最適解を導き出す能力を当然のように要求される。今、彼らの頭脳は煙を出して焼き切れそうなほど、猛烈に回転しているのだ。
カメリア少佐は、まだ着任したばかりの彼ら魔導士たちの能力をすでに掌握していた。
特に自分自身が重力魔導士であるため、前日に配属されたばかりのミハイル少尉という重力魔導士が、なかなかの逸材であることを見抜いていた。
彼は何故か高魔研から突然異動を命じられてきたことから、今回の事件と何らかの関係があるのかもしれない。
だが、そんなことは彼女にとってどうでもよいことだ。
あの気難しいマグス大佐が、この男の配属に対してはまったく文句をつけなかった。それで十分ではないか。
少佐が睨んだとおり、彼が真っ先に手を高く挙げ、準備が整ったことを知らせてきた。
「よし! ミハイル少尉、貴様が先陣を切……」
カメリア副隊長のよく響く声が、突然に途切れた。
彼女は目を見開き、あんぐりと口を開け、顔を正面に向けたまま横にいるマグス大佐に訊ねた。
「だっ……大隊長! あれは……何かの冗談でしょうか?」
* *
忽然とヒマワリ畑の中に現れた
あくまで〝
まるで三歳の幼児が描き殴ったようなヒマワリの絵。それを具現化したかのような怪物だった。
背の高さはおよそ五、六メートルもあるが、ひょろひょろと細く伸びた胴体(茎)のてっぺんに不自然に大きな頭が乗っている。
それを花と呼んでいいものだろうか、とにかく丸く大きな頭部には、黒土が混じった無数のヒマワリの花が集合し、黄色い団子のようになってゆらゆら揺れている。
胴体は何千本ものヒマワリの茎が絡まり合ってできており、隙間にはやはり黒土がぎっしりと詰まっている。
そしてその胴からは葉っぱの代わりに、鞭のように長い触手が何本も伸びて地面まで垂れさがっていた。
植物なら根に当たる部分は地上に露出して、タコのように八方に延び、不格好な身体を支えるだけでなく、それ自身がうねうねとのたうっている。
何か未知の生物だとしたら、神様のセンスは幼児以下ということになってしまう。
恐らく――いや、間違いなく何らかの魔法によって動いている
目の前に出鱈目な姿をしたゴーレムが出現したことで、最前線の軍用犬部隊はパニックに陥った。
犬たちは恐怖に尻尾を股の間に挟み、小便を垂れ流しながらその場から逃げ出そうとした。
きゃんきゃんと悲鳴を上げて逃走を図る犬たちを抑えようと、捜索大隊から無理やり参加させらていた兵士は必死で引き綱を引いて踏み止まろうする。
しかし大形の軍用犬たちは、後方に控えるマグス大佐たちの方へと人間をずるずると引きずっていった。
捜索大隊の兵と犬たちを護衛していた六人の兵士は、意味不明な
至近距離から放たれたすべての矢は、格好な標的である大きな頭部に命中したが、そのまま黄色い花びらと黒い土くれを撒き散らして貫通した。
ゴーレムにその攻撃が何の痛痒も与えなかったことは明白であった。
ただ、矢を撃ち込むことによって、ゴーレムの怒りを呼び覚ましたという点では意味があったと言える。
理性も感情もなさそうな泥人形から、復讐者特有の熱っぽい激情が明確な意志となって伝わってきた。
どこに目鼻のような感覚器官があるのか分からないが、ヒマワリの泥人形は長い鞭のような腕を何本も振り回し、たちまち三人の帝国兵を絡め取る。
長い腕は悲鳴を上げる兵士たちを頭上の遥か高くに振り上げ、そのまま地面に向けて投げつけた。
十メートル近い上空から、加速度をつけて地面に叩きつけられた人間がどうなるか(例えその地面が柔らかく耕された黒土だったとしても)、第五〇一独立混成大隊の兵士たちは、その実験結果を目の前で見せつけられるはめとなった。
* *
「……何かの冗談でしょうか?」
呆然とした副隊長の問いに対し、大隊長からの返答はなかった。
思わず横を向いたカメリア少佐の目には、高速の多重呪文を唱えているマグス大佐の姿が映った。
少佐は一瞬で正気に戻った。
大隊長はあのふざけた化け物に爆裂魔法を叩き込むおつもりだ。では、私は何をすべきか――!
考えるよりも先にカメリア少佐は割れ鐘のような大音声で怒鳴った。
「対物防御を張れる魔導士は直ちに呪文詠唱に入れ!
それ以外の魔導士は攻撃目標を再演算! 修正が済み次第、各個にあの化け物に魔法をぶち込め!
あれでも一応はヒマワリのつもりらしい、火属性魔法を優先して焼き払え!
何でもいいから対物障壁発動までの時間を稼ぐのだ!
一般兵は直ちに撤収して、対物障壁を張る魔導士の周囲に集合せよ!
副隊長の矢継ぎ早の命令に対し、魔導士も一般兵も返事をするわずかな時間も惜しんで、無言のままに行動を開始した。
南北に展開していた一般兵が続々とV字の底にあたる指揮所に集合してくる。
その兵士たちに対し、カメリア少佐は再び怒鳴った。
「貴様ら! 今すぐ兜を脱いで中に土を詰めろ!
ぎゅうぎゅうに詰め込んだら、そこに置いていけ!」
兵士たちは命令の意図を掴めぬまま、言われたとおりに鉄兜の顎ひもを解き、地面に置いて畑の黒土を中に詰め始めた。
十人ほどの兵士が脱ぎ捨てられた兜を手に黙々と作業に当たる中、四十歳前後の中年兵士が声を上げた。
「副隊長殿、命令の意図をお教えください!
私の若いころは命令に黙って従うのが軍隊でしたが、今どきの若造どもは理由を言い聞かせた方がよく働きます!」
彼はサンダースという軍曹だった。戦場では士官学校出の将校よりも、経験を積んだ下士官の方が信頼される。それはあらゆる国の軍で通用する普遍的な真実である。
カメリア少佐は軍曹の上申に笑顔をもって応えた。
「私の最大攻撃魔法であるバリスタには、砲弾となる大岩が必要だがな、ここは何世代にもわたって耕されてきた畑地だ。
いくら掘り返してもそんな大岩は出てこない。
したがって貴様らの兜を圧縮して砲弾を造る。土を詰めるのは少しでも質量を増すためだ。
とっとと作業を終わらせんと、貴様らの身体ごと縮めて砲弾に変えてやるぞ!」
サンダース軍曹は〝にっか〟と白い歯を見せて笑い返した。
「なるほど! さすがは副隊長殿であります!
ひよっこども、納得したら手を動かせ!
一番遅い奴は尻を棍棒で十叩きだ!」
軍曹がドスのきいた声で吼えると、たちまちカメリア少佐の足元には三十個余りの兜が積み上げられた。それぞれにはしっかりと固めた土が詰め込まれている。
少佐は彼らの作業中にバリスタの呪文詠唱をとっくに済ませている。
彼女が腕を軽く振ると、地面に転がっていた兜がふわりと空中に浮かんだ。
そして〝ごとごと〟という鈍い金属音を立て、兜が集まって一つの大きな塊になった。
塊りの中央で強い引力が発生しているのか、塊りの外側から圧縮されているのかは分からないが、兜の曲面がぼこぼこと凹み、全体の体積がどんどん小さくなっていく。
最終的には、直径一メートルほどの金属を黒漆喰で固めたような球体が浮かび上がった。
「そっちも準備ができたか。
……ほう、面白い砲弾を造ったものだな。
では、同時にぶちかましてやるか!」
呪文詠唱を終えたマグス大佐に声を掛けられた少佐は「はっ、いつでも!」と短く答え、前方の不格好な怪物を見据えた。
すでに無数のファイアボールが炸裂してヒマワリの植物部分を黒焦げにし、グラビトンが根や腕の動きを押さえつけている。
少佐が目つきの悪い三白眼をかっと見開き、短く叫んだ。
「死ねっ!」
同時に「ぶんっ」という風切り音を残し、土と兜でできた砲弾がありえない速度で吹っ飛んでいった。
そしてヒマワリを戯画化したようなゴーレムの身体で爆発が連続して発生し、黒土とヒマワリの残骸を煙のように周囲に撒き散らした。頭部に大穴をあけて貫通した兜の砲弾は、そのまま弧を描いて術者のもとへ戻ってきて、再び凄まじい勢いで化け物に向け突進していった。
* *
「何だよ、ありゃ?」
「大佐の悪ふざけかな?」
イアコフとイムラエル、二人の若い少尉は互いに顔を見合わせた。
敵が潜んでいるというヒマワリ畑の東端に至ると、細い農道でいったんは畑地が区切られるが、その先もまた当然のようにヒマワリ畑が続いていく。
彼らはその農道から東に五十メートルほどの地点で待機していた。
マグス大佐の爆裂魔法に追い立てられた敵は、ヒマワリに身を隠しながら東へ逃げてくる。
だが、この農道を飛び越えて次の畑に入ろうとする一瞬、彼らの姿は丸見えになるはずだった。
それを少尉たちの部隊は待ち構えている。
情報では、敵はオオカミを引き連れた王国の女召喚士、元帝国軍魔導士の裏切り者、そして女の高位魔導士らしいが、この女は負傷のためか現状魔法を使用できないらしい。
マリウスという敵に寝返った魔導士は、防御魔法においては凄腕らしいがろくな攻撃魔法を持っていないという。
――ならば、こちらは対物障壁を展開しておいてオオカミの攻撃を防ぎ、その上で魔法攻撃をしかければ一方的な殺戮となる。
万が一にも相手が対魔障壁を使用していたとしても、こちらの障壁を解いて
負けようのない場面をお膳立てしてくれた大隊長には感謝しかない。
初めて魔法で人を殺す――これから始まる輝かしい自身の軍歴の一頁目に記されるトピックスとしては、理想的な配慮だとしか言うしかない。
ところが実際の状況はおかしなことになってきた。
彼らの潜む位置からは五百メートル以上離れているが、ヒマワリ以外に視界を遮るものがない農耕地の中に、奇妙なモノが
ちょうど子どもによく与えられる棒付きキャンディー……そう、パイン味の丸く黄色い飴玉が、細い軸の上でゆらゆら揺れているように見える。
遠目からもはっきりと姿が見えるのだ。恐らく近くによれば、その高さは五メートル以上はあろう。
「何かの悪ふざけか?」
若い少尉たちがそう思ったのも無理はない。
しかし、それは夢ではなく現実であった。
一般兵たちもとっくに異変に気づいており、現場指揮官である二人の少尉のもとに集まってきた。
「少尉殿。あれは何ですか?」
「本隊が危険なのではないでしょうか?」
「われわれも駆けつけるべきでは……?」
彼らはいずれも徴兵され速成教育を受けてから一、二年しか経っていない若者たちだった。
一応、戦場は経験しているものの、新兵を激戦地に放り込む間抜けな指揮官はいない。
最初は成功体験で自信をつけさせるようという上司のありがたい配慮で、楽な作戦にしか参加したことのない者たちばかりだ。
むしろ三年以上の軍歴があり、実戦のなかで〝能力優秀〟と判断され、近衛教導団での訓練に抜擢された二人の少尉の方がよほど経験豊富で、年上でもあった。一般兵たちが不安気に頼るのも無理のないことだった。
「論外だ!」
長身のイムラエル少尉が冷たく言い放った。
「われわれが大隊長からいただいた命令を忘れたのか?
別命がないのに配置を放り出したら、敵前逃亡罪で下手をすれば絞首刑だぞ!」
赤毛の少尉の茶色い瞳は、それが冗談でも何でもないことを語っていた。
彼は半年間のマグス大佐から受けた鍛錬(しごきとも言う)で、彼女が臆病風に吹かれた兵をアリ以下の存在として、無表情で踏みつぶす人物だと思い知らされてきたのだ。
「まぁ、あちらには帝国の最大戦力と言われる大隊長がいますし、カメリア副隊長も付いています。まず、心配はいらないでしょう。
残念なのは、副隊長のバリスタが間近で見られないことですね。
大佐のダムドは嫌になるくらい見たから十分ですけど」
イアコフ少尉の人懐っこい笑顔が、次の瞬間真顔に変わった。
「とにかく、われわれは命令どおり……おっと! 来たぞ!
イムラエル! オオカミは放っておけ、召喚士を殺せば幻獣は消えるぞ!」
イアコフの言うとおり、前方のヒマワリ畑から次々に巨大なオオカミが飛び出してくる。
このオオカミたちは斥候を兼ねた先頭集団なのだろうが、帝国側は農道から十分な距離を取って身を潜めている上、風向きも待ち伏せ側に有利な状況である。
巨大な獣たちはこちらの存在にまったく気づかぬまま農道を一気に飛び越え、畑に突っ込んできた。
続いてヒマワリの中から後続のオオカミが飛び出してきたが、こちらは最初のオオカミたちより格段に大柄で、しかも背中に人間を乗せている。
帝国の敵に間違いない。
対物障壁を展開したイアコフが声をかけるまでもない。
イムラエルは無言のまま巨大な火球を数メートル手前に現出させ、敵のただ中へと放った。
直径二メートルほどの火球は狙った地点で爆散し、十メートルほどの範囲のすべてを焼き尽くす。
マグス大佐が目を付けただけのことはある、尋常ではない魔力保持量から繰り出された攻撃魔法は、並みの魔導士のそれを数倍する威力を持っていた。
狭い農道をジャンプしたオオカミが、まだ宙に滞空している絶好のタイミングでイムラエル必殺の魔法が襲いかかる。
しかし、彼の放った火球は敵のはるか手前で一瞬にかき消されてしまった。
まさかとは思ったが、敵は対魔障壁を展開している――イアコフ少尉はとっさにそう判断した。
「放てっ!」
金髪の少尉が鋭い声で命を下す。これも想定内だ。
装填した
一般の帝国歩兵が装備する携帯用の弩ではない。専任の弩隊が使用する大型の凶器である。
百メートル以上の距離で騎士が装着する
強力な張力のため、装填には歯車式の装填具をハンドルで何十回も回さないと次の矢をつがえることができないが、その時間的弱点を補うための三列横隊である。
十本の太い金属矢が恐ろしい速度で敵を襲い、それが間を置かずに三度繰り返された。
今度こそ、敵はオオカミごと串刺しにされるはずだった。
しかし、彼らの確信めいた笑みは一瞬で驚愕の表情に変わった。
撃ち込まれた矢は、すべて敵の数メートル手前で弾かれ、ばらばらと地面に落下したのである。
「そんなバカなっ!
魔法と物理攻撃を同時に防いだ? まさか絶対防御が使えるのか!
だが、あの高位魔法を短時間で詠唱できるはずが――」
――イアコフの絶叫は、彼の記憶とともにそこで途切れた。
実際のところ、マリウスはアッシュに言われたとおり、対物障壁を展開していたに過ぎない。
イムラエルが放った火球を消滅させたのは、エルフの攻撃魔法であった。
魔導王ネクタリウムに与えられた紅い宝玉によって、その魔力を十全に取り戻したアッシュは、風魔法によって彼女らの周囲に強力なつむじ風を巻き起こした。
そう、それは単純な渦巻く〝風〟であった。
ただし、エルフの体内から引き出された膨大な魔力によって、秒速百メートルを凌駕するエネルギーを得た〝暴力〟である。
別種の攻撃魔法が衝突した時、その優劣は魔法に込められた魔力によって決定される。
エルフ――それも西の森の女王となった正統なる巫女の魔力からすれば、人間の魔導士などネズミ程度の存在である。
ファイアボールは暴風によってかき消され、跡形もなく霧散した。
そしてその暴風は、待ち伏せていた帝国軍部隊を根こそぎ地面から引っこ抜き、あっという間に晴れ渡る空へと吹き飛ばした。
無人となったヒマワリ畑を、ユニたちとオオカミは一直線に走り抜けた。
彼女たちは後ろを振り返らなかった。
もし振り返っていたら、青い空から黒い点となってばらばらと落下してくる兵士たちと、爆裂魔法とバリスタによって身体の大半を粉砕されながら、無尽蔵に散らばっているヒマワリの残骸と畑の黒土によって、何度でも再生して荒れ狂う奇妙なゴーレムの姿を見ることができたことだろう。
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