悠久の魔導王 第十六話 氷の刃

 アッシュは太いブナの幹を一気に駆け上がり、十メートル以上もの高さの枝を伝って次の木に飛び移った。

 そのくらいの高さになると、まだ落葉が始まらない今の時期、地上から視認するのは困難であった。

 間伐によって比較的木と木の間が離れているため、互いの木が手を差し伸べ合うように大枝を張っていても、数メートルの間隔があった。

 アッシュは枝先で反動をつけ、「とっ」と跳ねる。

 しなやかな身体が弓のようにしなり、解放されたバネのようにはじけ飛ぶ。

 軽々と次の木の枝に飛び移ると、さらに次の木へと、エルフの娘は樹上を踊るように駆け抜けた。


 森の中にぽっかりと空いた広場の外周を回るようにして、アッシュはツリーハウスのあるミズナラの巨木へと向かっていった。

 地上からは戦闘中の帝国軍兵士であろうか、苦痛にまみれた絶叫が聞こえてくるが、彼女の意識は毛ほどの注意も払わない。

 アッシュはただひたすら、三十年前に姿を消した王のもとへと急いだ。


 ものの数分で、彼女は目的のミズナラの木に飛び移った。

 かなりの高さから地上へ向け、頭から飛び込むように落下し、途中でくるりと回転してツリーハウスのある大枝に音もたてずに着地する。

 その小屋は、西の森のエルフが樹上に立てる家となんら変わるものではなかった。


 一枚の板も使わず、ただ木の枝を編むように組み合わせた壁と床、屋根だけはススキやアシなどのかやかれている。

 出入り口には爽やかな香りを放つ薬草を乾燥させて編んだすだれが垂らされていた。

 アッシュは恐れることなくその簾を跳ね上げて中に入った。


 木の枝で編んだ壁は隙間だらけなので十分に外光が通り、中は思いのほか明るい。

 家の中にはほとんど家具らしいものはない。

 いずれも木の枝や蔓で編んだ小さな棚に茶器と何冊かの本が置かれている、ほかに家具らしいものと言えるのは小さなテーブル、そして座面の高い簡素な椅子が二脚、ただそれだけだった。

 そして、その椅子のひとつに男が腰かけていた。


 長く真っ直ぐな黒髪、彫りが深く端正な顔立ち、やや痩せ気味だが背は高く肩幅が広い。

 身体にはゆったりとした白い薄絹のローブを身に纏っている。

 小さな丸テーブルの上には、手作りの横笛が転がっていた。

 アッシュが見まごうはずはない、それはまぎれもなく彼女の伯父、そして西の森のエルフ王の姿だった。


「お懐かしゅうございます、おじさま」

 アッシュは片膝を床につき、エルフ流の礼をとった。

「ああ、ずいぶんと久しいね。三十年ぶりかな? また会えるとは思わなかったよ」

 王は微笑んで彼女の手をとり、空いている椅子に腰かけさせた。

 アッシュの足は床に届かずにぶらぶらとしている。


「さて、何用かね? わが姪よ」

 王は自分も椅子に座り直すと、静かに訊ねた。

 アッシュは真っ直ぐに王の瞳を捉えたまま即答した。

「言うまでもありません。お救いにまいりました。

 皆が待っております。森へ帰りましょう」


 王は悲し気な顔で首を横に振った。

「それはできない。

 私にはここでまだやることがあるのだ」

「帝国に脅されているのですか!」

 アッシュは語気を強めた。


「違う……ここにいるのは私の意志だ」

「では、何故!」

 アッシュの目に涙が浮かび、声が喉の奥で詰まる。

「なにゆえ、人間に過ぎた・・・魔法を伝えるのですか?

 それは私たち〝調整者〟が最も戒めるべきこと、世界のバランスを崩すことではありませんか?

 本来、魔法は我らの祖先が弱い人間が生き延びられるようにと与えた技術です。

 でも、それはごく限られた範囲だったはず。

 今の帝国が各地で起こしている侵略戦争で、何十万という人間を殺している魔法を、なぜ教える必要があるのです!」


 王の目はますます悲しみを帯びていった。

「……その訳をお前に話すことはできない。

 正統なる西の森の巫女よ。

 そなたはいつか新たな王となって一族を導いていきなさい。

 お前が言うとおり、私はエルフの掟に反した行いをしている。

 この肉体が滅んでも、私の魂魄はもはやエルフの故郷へ帰ることを許されないだろう。

 その罪は私一人が背負えばよい。

 ……だから、……だから私は、お前とともに森へ帰るわけにはいかないのだ!」


 アッシュは王の言葉に俯いて唇を噛んでいた。

 その顔色は蝋のように白く、色を失った唇には血が滲んでいる。

 心の中で恐れていた言葉、決して聞きたくはなかった言葉が、今、王の口からこぼれ出ているのだ。


 アッシュの全身がぶるぶると細かく震えている。

 何かに必死で耐えるように、彼女は力を振り絞って顔を上げた。

 その眼からは涙がとめどなく流れ落ち、顎を伝い、ぱたぱたと落ちて彼女の膝を濡らしていった。


「お帰りいただけないのですね……?

 ……ならば、ならば止むを得ません。

 私は三百歳の成人を迎えました。

 西の森の巫女として、おじさまに代わって私が王となります。

 ……ですから、どうか私に一族に伝わる秘儀をお授けください。

 私がここまで来た第一の目的は、……その継承にあります」


 王はアッシュを見ているようで、その後ろに何か違う光景を見ているような――そんな遠い目をしていた。

「そうか、もうそんな歳になっていたのか……。

 私には、あの秘儀がそれほど大切なものには思えないのだが……それを君に言っても残酷なだけだね。

 よかろう。確かに伝えよう。

 確か伝達の儀式に当たっては、先王から一つの試練を与えられるのが慣例だったね。

 そなたが数千キロの旅をして私のもとまで来たことで、その試練を果たしたということにしよう」


「ん……?」

 ふと、王は何かを思い出したように首をひねった。

「そう言えば、君はどうやって私が帝国にいることが分かったのかな?」


 アッシュは口ごもった。

「それは……やむを得なかったのです。……あの黒蛇に協力を依頼しました」

 王は露骨に顔をしかめた。

「ああ、王国の召喚士が同行しているというから、そんなことだとは思っていたが、やはりそうか。

 ……で、あの蛇は見返りに何を要求したのだね?」


 今度はアッシュが顔をしかめる番だった。

「何も……」

「何も?」

「はい、ただ〝ひとつ貸しだ〟とだけ。

 それと、手助けに召喚士と元帝国軍の魔導士をつけてやるから連れていけと……。

 条件らしい条件はそれだけでした」


 王はますます苦い顔をした。

「召喚士というのは〝ユニ姉〟とかいう娘だね。

 そうか、帝国の魔導士までいたのか……。

 その者たちはちゃんと役に立ったのかね?」


 アッシュは素直に頷いた。

「はい、蛇のことはともかく、ユニとマリウスは危険を顧みずに協力してくれました。

 信用してよい人間だと思います」


 王は「ふん」と微かに鼻を鳴らした。

「まぁ、君がそう言うならそうなのだろう。

 だが、あの蛇が彼らに何と言って寄こしたのか、聞いてみるべきかもしれないよ。

 その機会があったらの話だがね。

 ――すまない、話が逸れてしまった。秘儀の伝授だったね。

 さぁ、こちらへ来なさい」


 王は立ち上がると、アッシュに向けて手招きした。

 彼女もまた椅子から滑り降りると、素直に伯父の前に立つ。

 王は自分より背の低いアッシュのために少し前かがみとなり、両手をそっと彼女の肩に添えた。

 そのままゆっくりと引き寄せると、おのれの顔をアッシュに近づけ、額を彼女の額にぴたりとつけた。

 その間、王は低い声で歌うように呪文を唱え続けている。


 王の両腕がアッシュの背中に回され、彼女の身体はぴったりと男の胸に圧しつけられる。

 額をつけたままの彼女の顔は、自然に上を向くかたちとなり、心地よい陶酔の中で頭の中に得体のしれない意識が流れ込んできた。

 それは王の意識というより、遠い昔から代々積み重ねられてきた、一族の意志とでもいうようなものだった。

 膨大な知識と切ない悲しみがごちゃ混ぜになった〝思い〟の奔流が、次々と彼女の中に注ぎ込まれ、窒息してしまうのではないという恐怖すら感じられた。


 やがてその意識の奔流は唐突に途切れた。

 王は額を離し、改めてアッシュの身体を抱きしめると耳元に囁いた。

「これが一族に伝わる〝秘技〟と言われるものだ。受け取ったね?」

 アッシュは何も言えないまま、こくりと頷いた。


「君はこの瞬間をもって、西の森の新たな王となった。

 私のことは忘れて、一族を導くのだ。分かったね?」


 抱き寄せられた男の広い胸は、とても懐かしい匂いがした。

 アッシュの父は、彼女が百歳になる前に病死した――少なくとも彼女自身はそう聞いている。

 それ以来、幼い彼女にとって伯父は父親代わりであった。

 何度この胸で涙を流しただろう。

 何度この胸で眠ったことだろう。

 何度この胸で甘い夢を見たことだろう。


 幼いころの懐かしい郷愁と、少女のころの淡い恋心が一度に甦ってくるような、不思議な安心感を抱かせる匂いと感触に、アッシュは酔いしれていた。

『私のことは忘れて……』そう〝おじさま〟はおっしゃった。

 しかし、彼女は素直に頷くことが、どうしてもできなかった。


 閉じた目蓋から溢れ出る涙を、男の胸に押しつけて止めようとするかのように、彼女は強く顔を埋めたまま、絞り出すように囁いた。

「どうしても……私と一緒に帰ってはくださらないのですか……?」

 すでに王の座をアッシュに譲った男は、何も答えずにただ彼女の黒髪を撫でるだけだった。


「……どうして、おじさまだけが苦しむのです?

 なぜ、おじさま一人が罪を背負わなければならないのですか?」

 悲痛な声が男を責めたてても、やはり答えは返ってこない。


 アッシュは男の胸に添えていた両手を彼の背中に回し、初めて自分から相手を抱きしめた。

 そしてかすれたような声で今一度囁いた。


「私が……、私がお救い申し上げます」


 男はやはり黙ったまま、ゆっくりと首を振った。

 それでもなお、彼女は繰り返した。


「いいえ! どんな手段をとっても、必ずこの手・・・でおじさまをお救いします!」

 男の背に回した腕に力がこもる。


 男は右手で圧しつけられていたアッシュの顎に手をかけ、そっと上を向かせた。

 そして酷く悲し気な瞳と微笑みを浮かべた顔をゆっくりと彼女に重ねる。

 血の気が失せ冷たくなった唇が、アッシュの震える唇を塞いだ。


 まるでそれが合図だったように、男の背中に回していた彼女の右手がぴくりと動く。

 その手には、いつの間にか鈍く青白い光を放つ短剣が握られていた。

 魔法で現出させた〝氷の刃〟アイス・ダガー――刃の厚みが一ミリほどしかない薄い刀身だが、それはミスリルの短剣をしのぐ強靭で鋭利な魔法武器であった。

 アッシュの左手が男の心臓のあたりをまさぐり、そこへ右手の〝氷の刃〟が静かに沈みこんでいった。

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