悠久の魔導王 第六話 接触

「それで、帝国に入る手筈ってのを教えてくれる?」

 ユニは主人が運んできた魚料理を頬張りながらマリウスに訊ねた。

 名前の分からない白身魚を香味野菜とともによい匂いのする大きな葉に包んで蒸し焼きにした料理だった。

 包んだ葉を開くと、バターとワイン、それに柑橘類の香りが立ち上って食欲をそそる。


 マリウスは少し顔を曇らせた。

「それが……話を聞けば聞くほど頼りない計画なんですよ。

 ここのご主人も首を傾げていました。

 『ホントにこんなんで大丈夫なのか?』って。

 僕が言いたいセリフですよ」


 いつも楽天的なマリウスがそこまで言うのだ、ユニも不安になる。

「よく分かんないけど、とりあえず話してちょうだい」


 彼は頷いて、ユニの前に書類の束を差し出した。

「これは?」

「ユニさんの身分証とカシル政府が発行した旅券です」

「身分証だったら持っているわよ?」


 マリウスは小さな溜め息をついたが、無理やり笑顔を浮かべて説明する。

「王国が出した召喚士の身分証で帝国に入る気ですか?」

「あ……」

「ご理解ありがとうございます。

 それはルカ大公国が発行したものですね。本物みたいですよ。

 ユニさんには大公国のレリンでくすをしている〝モアレ・ドット〟という人物になってもらいます。

 帝国へは薬学の勉強のため留学しにきたってことにしてください。

 そっちの書類の束は、そのモアレ嬢の経歴書です。持っていけませんから頭に叩き込んでおくこと。いいですね?」


 ルカ大公国は南方にある王国の同盟国で、ユニは商隊の護衛で訪れた際に巻き込まれた魔人事件で、大公とも懇意となった。

 架空の身分証を出してもらうなど容易たやすいことだ。同国北部の都市であるレリンにもしばらく滞在しているから、ボロが出にくいはず……身分証を用意した人物(おそらく黒蛇帝)はそう判断したのだろう。


 身分証の上質な革の表紙には、大公の紋章が金で箔押しされていて、中を開くとモアレなる女性の住所氏名、出自と職業、そしてその身分を大公国が保証するという文言が、祐筆が使う〝いえ流〟と呼ばれる見事な書体で記入されている。

 そして最後に、まったく違う筆跡で大公のおう(デザイン化された署名)が印されていた。


 ユニはぱたりと身分証を閉じると顔をしかめた。

「これを大公国に用意させるのって、距離から考えても相当な時間がかかったはずよね。

 絶対ナイラの事件が片付く前から準備してたわよ。

 最初からあたしに拒否権がないってことは知ってたけど、気分がいいもんじゃないわ」


 彼女はもう一つの旅券も手に取って確かめた。

 こちらも革の表紙つきの上質な羊皮紙でできているが、大公国のものよりはだいぶ簡素に見える。

 中には身分証と同様の事項に加え、帝国への入国目的が記入され、さらに保証人のサインがあった。


「大公国の身分証だけじゃだめなの?

 それに何? この保証人って」

「渡航者はカシルの旅券さえあれば帝国へ入国できます。

 身分証の方は旅券を発行してもらうのに必要なんですよ。

 旅券はカシル政府が出しますけど、二十人いる評議員の誰かに個人保証してもらう決まりになってるんです。

 当然評議員にはそれなりのお金を積まなきゃいけませんけど。

 その代わり、旅券を持った人間が帝国で何か問題を起こしたら、保証した評議員が賠償することになりますね。

 旅券の信用度はそのまま評議員の実力(資産)を反映しますから、誰が保証しているかで入国審査の難易度が変わることになります」


 ユニは少し感心した。なるほどカシルは貿易で立国しているだけある。うまい商売を考え出すものだ。

「それで、あたしの旅券を保証している評議員って、どのくらいのランクなの?」

「序列十四位ですから、あまりよいとは言えませんね」

「計画が頼りないって、このこと?」


 マリウスは黙って頷いた。

「ユニさんだけじゃなく、僕の旅券もそうです。

 多分、入国審査では根掘り葉掘り聞かれますよ。

 なのに偽の経歴書が簡単すぎますし、何だって土壇場になって渡すんでしょう。

 入国は明日の予定ですよ?

 そもそもお金を積めばもっと上位の評議員に保証してもらえるんです。

 そのくらいの資金、黒蛇帝だったら何でもないはずなのに……」


 マリウスの疑念はもっともだ。

 黒蛇帝ヴァルターは経験豊富な男だし、その後ろにはあのウエマクがついている。

 事前に大公国から身分証を取り寄せるほど用意周到な彼らが、そんなかつなミスを犯すだろうか?


「それって、入国審査は形だけで通ることができる――ってことじゃないの?」

 ユニは考え込んだ末に、そう呟いた。

 マリウスも頷く。

「そうとしか考えられません。

 何の保証もありませんけどね」


 ユニはすっかりぬるくなったビールを一気に飲み干した。

「じゃあ、その問題は考えるの止め!

 それで? 龍の灰ドラゴンズ・アッシュとはどうやって落ち合うの?」

「この先のもうちょっと賑やかな通りを歩いていれば、向こうから声を掛けてくる手筈です。

 こっちの風体を伝えてあるみたいですね。

 多分、このチビちゃんがいい目印になるんだと思いますよ」


 マリウスは床で寝そべっているライガを足でつついた。

 ライガはその足に遠慮なく噛みついたが、仔狼の牙では革の半靴はびくともしない。

 もしライガがいつもの大きさだったら大惨事になっていたところだった。


「伝えてあるみたいって、一体ウエマク様はどうやってそのアッシュって人と連絡を取ってるのよ?」

「僕に聞かないでくださいよ」

 マリウスは肩をすくめた。


      *       *


 〝海馬の穴〟を出たユニたちは、もう一本大きな通りに出た。

 もう日はとっぷりと暮れていたが、大通りは立ち並ぶ飲み屋や怪しげな店の明かりで照らされ、街灯がなくても歩くのに困らない。

 上機嫌の酔客たち、男の腕を掴んで店に引きずり込もうとする客引き女たち、煽情的な恰好で物陰に佇み、自分を買う男を待つ女たち、そしてそれをからかう男たち。さまざまな人間で道はごった返している。

 いかにも活気のある港町の盛り場といった雰囲気だった。


 その一方で、店の間の暗い隙間には襤褸ぼろをまとった物乞いが何人もうずくまっている。

 カシルには船の荷物を運搬する沖仲おきなかとして働く者が多い。日当は高いが重労働だし危険な仕事で、腰を痛めたり事故で身体が不自由になる者たちが後を絶たない。物乞いは彼らの行きつく先だった。


 ユニとマリウスは、少し離れてゆっくりと街を流していく。

 ライガは蹴飛ばされないよう、行き交う人を器用に避けながら、ちょこまかとユニの後ろをついている。

 しばらくすると、先を歩くマリウスにすいと女が近づいた。


 頭にフードをかぶり、薄絹のヴェールで顔の半分を覆っているが、そこからこぼれる黒い艶やかな髪やヴェールから透けて見える顔立ちは美しい若い女のものだった。

 身体にはゆったりとした長いローブのようなものをまとっているが、身体の線どころか下着までも透けて見える。さらには太腿からサンダルを履いた足先まで、白い素足を大胆に露出させていた。

 どう見ても春を売る女の風体だったが、〝立ちんぼ〟にしては上玉過ぎる。


 一体今までどこにいたのか気づかないほど、その女は唐突に現れた。

 そしてマリウスの肩にそっと手をかけると、耳元に顔を近づける。

「蛇の手か?」

 微かな囁き声に、マリウスもほとんど唇を動かさずに答える。

「灰だな?」


 はた目には街娼がいい男に目を付けて、一夜の遊びに誘おうとしているようにしか見えない。

 その二人の間に、ユニが強引に身体を割り込ませた。

 彼女はマリウスの腕を両手で抱くように身体を密着させ、娼婦を睨みつけると大声で怒鳴った。

「ちょっと、なに人の男に手を出してんのよ!

 声かける相手を間違ってんじゃない?」


 ユニは女の肩を突き飛ばすと、威嚇するように相手の目の前に顔を突き出した。

 思いっきり顔をしかめて舌を出すと、「ふんっ!」と荒い鼻息を浴びせかける。

 顔を離す瞬間、女の耳元で囁いた言葉は誰にも聞こえなかっただろう。


「少し離れてついてきて。監視されてるわよ!」


 ユニはマリウスの腕を抱え込み、彼の身体に頭を預けてくっついたまま歩き出した。

 時々ユニはつま先立ちになって、マリウスの耳元に唇を寄せて何事か囁く。

 そのたびにマリウスもユニを抱きしめて、彼女の耳たぶを咥えるかのように囁き返す。

 どう見ても恋人同士が睦言を囁き合い、女の方が二人きりになりたいと甘えているという、腹立たしい情景である。


 だが、実際に二人の間で囁かれた言葉は物騒なものだった。


「何事ですか、ユニさん?」

「顔を動かさないで周りを見て。

 物乞いの姿が見える?」


 マリウスは素早く周囲に視線を走らせる。

 確かにさっきまでその辺にいた物乞いの姿がない。


「ライガが知らせてくれたの。物乞いたちの襤褸ぼろの臭いと中の人間の体臭が違うって。

 全部で五人。今は移動しながらアッシュを監視しているみたい。

 彼女はついてきてる?」

「ええ、振られてふくれっ面をした娼婦が、未練たらたらで跡を付けてるって感じですね。上手いもんですよ。

 で、どうします?」


 腕を掴んだユニの手にぎゅっと力が入る。

「ヒモつきじゃ帝国潜入どころじゃないわよ。

 人気のないところでライガに片付けさせるわ。

 いつでも防御魔法を使えるよう準備しておいて」

「了解です……が」

「何よ?」

「腕におっぱいが当たっています」

「殺す!」


      *       *


 ユニとマリウスはしばらく歩き続けた。繁華街を抜けると徐々に道端の店はまばらになり、反対に民家が増えてくる。

 通りを行き交う人の数もがくんと減り、次第に闇が色濃くなってくる。

 二人は突然細い小路に吸い込まれるように姿を消した。

 少し遅れて小路に飛び込んできた女の腕を掴むと、三人はそのまま走り出す。

 ここまで来ると、彼らが無関係であるような偽装は意味をなさないのだ。


 小路を抜けて裏通りに出ると、さらにまた小路に飛び込む。

 悪臭を放つドブ沿いに続く細く長い小路を抜けると、もう廃屋や資材置場が点在する町外れだ。

 三人は少し開けた空き地に積まれた廃材の陰に隠れて様子を窺った。


「ライガ、敵は?」

『大したもんだ。きれいに距離を保って追ってきているぞ。

 相手はプロだな』

「あんたは変身を解いてここから離れて。

 奴らがここを囲んだら、背後に回り込んで始末するのよ。

 できるだけ悲鳴を立てさせないでね」


 犬にしか見えないライガが尻尾を振ってユニの命令を聞いているところに、それまで無言でついてきた女が割り込んできた。

「お待ちなさい。

 それは幻獣? しかも魔法がかかっているようですね。

 どうするつもりですか?」


 ユニはライガの正体を言い当てられて少し驚いたが、すぐに自分が召喚士だという情報を女は知っているのだろうと思い当たった。

「ここで敵を排除します」

「殺すのですか?」

 ユニは頷いた。

「とても嫌ですけど、時と場合によります。

 今は生かして返すわけにはいきません」


 女は少し考えた上で首を振った。

「殺すのはかえってまずい気がします。

 ここは私が何とかします。

 彼らを近くまで集められますか?」

「それは可能ですが……。

 大丈夫なんですか?」


 暗闇の中で女の表情はよく分からなかったが、彼女はにっこりと笑ったように思えた。

「それくらいできないで、どうして王を救えましょう?

 蛇の手の者よ、私を信じなさい」


 ユニはちらりとマリウスを見た。

 彼も黙って頷く。


「ライガ、相手はどうなってる?」

『上手く身を隠して囲んでいるな。様子見ってとこだろう』

「隠れている場所を教えてちょうだい。

 もし一人でも逃げようとしたら捕まえるのよ。できれば殺さずにね」

『殺す方が早いし簡単だぞ』

「あたしはあんたちに人殺しはさせたくないのよ。忘れた?」


『面倒くさい奴だ……』

 オオカミはそう言い残して闇の中に姿を消した。何だか嬉しそうな口調だった。


「マリウス、呪文は終わってるんでしょ? 気づかれないように対物障壁を張ってちょうだい。

 奴らが飛び道具を持ってたら避けられないわ」

 ユニはそう囁くと、大きく深呼吸をして廃材の陰から一歩前に出た。

 いつの間にか手には抜身の山刀ナガサが握られている。


「そこで隠れている五人の者!」

 大声で呼びかけると、ライガから聞いておいた相手の位置に向かってナガサの切っ先を向ける。

「そこ! そこ! そこ! そこ!

 それに、そこだ!」


 暗闇の中から微かに相手の動揺が伝わってくる。

「隠れていても無駄だ。こちらにはお前たちが丸見えだぞ」


 ユニはひと呼吸置いて再び声を張り上げる。

「私たちは金で雇われた護衛だ。

 それなりのものを出すと言うなら、この女を差し出そうじゃないか。

 交渉する気があるなら、姿を現せ!

 もし、ここでやり合うというならそれもいいだろう……。

 お前たちがどれほどやるのか知らんが、少なくても半分は道連れにしてやるぞ!」


 ユニの言葉が終わるかどうかという間際に、暗闇の奥から「ブンッ」という弓弦の音が同時に鳴った。

 次の瞬間、ユニの目の前で弾き飛ばされた短弓の矢が三本、乾いた音を立てて地面に転がる。

 マリウスが展開した対物防御障壁に阻まれたのだ。


「ずいぶんと安く見られたものだ。交渉は決裂か?」

 ユニが凄惨な笑顔で三たび声を張り上げると、少し間を置いて闇の中から声が聞こえてきた。


「待て、そうくな。

 今のはお前たちを試しただけだ。

 女を渡すと言うならいいだろう、金で済むのなら交渉しようではないか」


 そう言うと、暗がりから男たちがゆっくりと現れた。

 一応は片手を挙げているものの、懐や背中に隠したもう片方の手に得物を握っているのは明らかだった。

 いつの間にか物乞いに変装した襤褸ぼろは脱ぎ捨てられ、その代わり全身を黒っぽい衣装で包み、ついでに殺気もたっぷりと纏っている。

 五人の男たちはユニの数メートル手前で立ち止まった。

 互いに槍や剣が届かない間合いである。


 それを待っていたかのように、ユニの後ろから女が前に出てきた。

「これでいいの?」

 追い越される瞬間にユニが囁くと、彼女は小さく頷いた。


 男たちは目当ての女が出てくると思っていなかったのだろう、ぎょっとした表情を浮かべながら、警戒を一層強めた。

 上空の月からのわずかな明かりに照らされて、女の剥き出しになった白い足が浮かび上がり、男たちの目が思わず惹き寄せられる。

 そして女の顔の下半分を覆う薄いヴェールがふわりと膨らみ、形のよい唇から鈴のような声が洩れた。


 だが、その場にいた全員が少なくとも彼女が何か歌のような言葉を発したことだけは理解したが、誰もその意味が理解できなかった。

 男たちが呆けたように女を見守っていると、再び彼女が言葉を発した。

 今度は誰もが理解できる、中原の言葉だ。


「あなたたちは誰に何を命じられて私を監視していたのですか?」

 五人のリーダーらしい男がのろのろと答える。

「情報部から、不審な密入国者の情報が入ったから監視するよう言われた。

 接触者がいたら両方捕らえて、正体と目的を聞き出せと……」


 女は少し意外そうな声でさらに訊ねる。

「私を知っていたのですか?」

 男は大儀そうに首を横に振った。

「聞いたのは船の名と女だということだけ。

 船から降りた女は三人。お前だけ上陸後の行動がおかしかった……」


 女は自分の迂闊さを後悔するかのように溜め息をついた。

「では、あなたたちは私のことも、今日起きたことも忘れなさい。

 船から降りた女たちに不審な行動はなかった。

 いいですね」


 男たちは全員頷いた。

「帰りなさい」

 女の言葉に従い、彼らはぞろぞろと引き上げ、闇の中に消えていった。

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