悠久の魔導王 第四話 変身

「ドラゴンズ・アッシュねぇ……」

 ざばざばと水音を立てながら、ユニは沼から上がってきた。

 白い肌の上を透明な水玉が弾けるように滴っていく。


『何だ、そりゃ?』

 さして興味なさそうなライガの意識が流れ込んでくる。

「ん? ああ、南カシルで会う予定の人の名前らしいいけど、どう見ても本名じゃないわよね。

 ウエマク様もそれ以上教えてくれなかったし……」

『盗賊とか殺し屋とかが仲間内で使う、あだみたいなもんじゃないのか』

「多分ね。まっ、それも会ってみれば分かると思うわ」


 ユニはそこで思考を打ち切った。

 身体は気持ちよく冷えたし、髪と身体を洗ってさっぱりした。

 背嚢から替えの下着とシャツを取り出して身に着けると、洗濯物を木の間に渡したロープにかけて干し始める。

 まだ日が沈むまではかなり時間がある。布地の薄い肌着類ならすぐに乾くだろう。


 だぼだぼのシャツにパンツだけの姿のユニが鼻歌まじりの上機嫌で働いていると、ハヤトとトキが戻ってきた。

「お帰り。

 結構時間かかったのね。オークの所在は掴めた?」


 二頭はユニに答える前に、沼に顔を突っ込んで冷たい水を凄い勢いで飲みだした。

 喉を潤し満足して戻ってきたオオカミたちは、まだ長い舌をだらりと垂らし、はあはあと息をしている。

 彼らはライガが寝そべっている木陰に逃げ込んで、どさりと身を投げた。よほど暑かったらしい。


 青灰色の毛並みでライガに次ぐ体格を誇るハヤトは、もとは群れに属さないはぐれオオカミだったそうだ。果断な性格だが用心深くもあり、自分から人間に近づこうとはしない。一方のトキはライガの息子で、父親譲りの黒灰色の毛並みをしている。優しく穏やかな性格で人間にもフレンドリーだった。


 あまり機嫌のよくないハヤトがひんやりとした日陰の青草に顔を埋めてしまったので、トキが報告役を務めることになった。

『オークがこの沼周辺を拠点にしていたのは間違いない。あちこちにねぐら跡があったし、臭いがそこかしこに残っていたからね。

 ただ、それはどれも二、三日前の臭いで、俺もハヤトもかなりの範囲を探ってみたんだが、新しい臭いが見つからないんだ』

「ここにはもうオークがいないってこと?」

 トキは頷いた。

『ああ。一番新しそうな臭いをしばらく追ってみたんだが、それは真っ直ぐ西に向かっていた。

 奴が移動したのは間違いないと思うよ』

「……そう、良かった。とりあえず、今夜はあまり警戒しないで済みそうね。

 二人とも、ご苦労さま」


『何が〝良かった〟だ!』

 寝そべっていたハヤトがぎろりと目を開けた。

『俺は気に入らねえな』


 不機嫌そうなハヤトにユニは首をひねった。

「何が気に入らないのよ?

 オークがいなくなったのなら好都合じゃない」


 そこへライガの思考が割り込んできた。

『ハヤトは理屈に合わないのが気に入らないんだよ』

「理屈?」

『わからんか?

 ここは貴重な水場だ。いろいろな動物が集まってくる。

 狩りの下手なオークにとっちゃ、手放したくない狩場だろう。

 それを自ら放棄して、どうして西へ向かったのか――理屈に合わんだろう?』


 ライガの言葉を再びハヤトが引き取る。

『そもそも、なぜオークどもは決まって辺境に出てくるんだ?

 そりゃ、人里に出れば家畜や人間を襲えるだろう。

 だが、それは一瞬のことだ。

 奴らは数日もすれば、みんな村に雇われた召喚士に殺されてしまうんだぞ。

 こんないい狩場を捨ててまで、なぜ奴らは辺境を目指すんだ?

 まるでそれが本能のようじゃないか……俺はそれが気に入らんのだ』


 ハヤトがこんなに饒舌に自分の考えを語るのは珍しいことだった。

 ユニは彼が使った〝本能〟という言葉が妙に引っかかった。オークは大森林の東端、サクヤ山麓に生じた〝穴〟によって、異世界から転送されてくる存在だ。彼らにとってここは全くの別世界なのに、人里を目指す本能なんてあり得るのだろうか。


 ユニが何か言いかけた時、女衆たちも戻ってきた。それぞれのオオカミたちがウサギを数羽、そしてヨミが大物のイノシシを意気揚々と引きずっている。

 ユニはあまり建設的とは思えない議論を棚上げにして、今夜の食事を優先することにした。

 慣れた手際で獲物の皮を剥ぎ、イノシシの腿肉をひと塊切り取り、あとはオオカミたちに任せる。

 ナガサの鞘をまな板代わりにしてシチューとステーキにする分を切り分ける。残った肉は薄くそぎ切りにして塩を強く振り、焚火の周囲に立てた枝に引っかけて煙でいぶし、即席の燻製肉にする。こうしておけば、夏でも一、二日は腐らずに持ち歩ける。


 人間とオオカミの食事が終わるころには、ようやく日が沈み、周囲が薄暗くなってきた。

 用心のため、二頭のオオカミが交替で見張りにつき、ユニはライガの腹の下に潜り込んで早々に眠りについた。


      *       *


 翌朝、まだ日が昇らなくても周囲が明るくなれば全員が自然に目を覚ます。日が沈めば眠り、昇れば起きるという生活リズムは、辺境で暮らすユニの身体に染みついているものだ。

 昨夜の残り物で簡単な食事を済ませばすぐに出発である。

 いつものように身支度を整えていると、別段準備が必要ないオオカミの方は退屈なのか、ヨミが話しかけてきた。


『目的のカシルまではゆっくりでも明後日には着くわ。またあたしたちは町の外で待ってればいいのよね?』

「そうよ。どうかしたの?」

『当然ライガだんなはあなたと一緒だろうけど、帝国に行ったらそれってまずいんじゃないかしら?』

「それは大丈夫……ああ、そうか、ヨミかあさんたちにはまだ話してなかったわね。

 ちょうどいいわ、ちょっとみんなを集めてちょうだい」


 ユニに頼まれたヨミの呼びかけで、思い思いに暇を潰していたオオカミたちがぞろぞろと集まってくる。

『どしたの? ユニねえ

 ジェシカとシェンカの姉妹が声を揃えて不思議そうな顔をしている。


「えっとね、今回もあたしとライガは一緒に行動するけど、群れのみんなには人に見つからないよう、離れてついてきてもらうことになるの。

 それは分かっているわね?」

 オオカミたちは黙って頷く。


 ライガは国に登録されている召喚獣なので、王国内のどの都市でも中に入ることが許されるが、群れのオオカミたちはライガが私的に呼び寄せた仲間なのでそうはいかない。

 いくら幻獣に慣れている王国民でも、巨大なオオカミの群れが人前に現れたら、簡単にパニックが起きる。

 そのため、こうした森の中を別にすれば、戦いでも起こらない限り、群れのオオカミたちは集落や街道を避けて距離を置き、人に見つからないよう別行動をとるのが常であった。


「だけど今度は帝国に潜入することになるから、ライガを連れていると、あたしが王国の召喚士だとすぐにバレてしまうわ。

 それで、実はウエマク様から魔法の道具のような物を借りているの。

 どういう仕組みかはあたしもよく分からないんだけど、とにかくそれを使うとライガを小さくできるのよ。

 そうすれば飼い犬を連れた一般人ってことで押し通すことができると思うわ」


 群れのオオカミたちに小さな動揺が起きたが、あまり好意的な反応ではない。

『なんか胡散臭いな……。小さくなってもオオカミはオオカミだろう』

 ハヤトが懐疑的な感想を口にした。

「そのへんは見てもらった方が早いと思うわ。

 あたしはウエマク様のところでライガが変身するのを直接見ているけど、みんなも驚かないように、事前に見ておいた方がいいと思うの。

 ライガ、ちょっとやってみて」


 ライガは嫌そうな――というより情けなさそうな表情で嫌々前に出た。

『お前の言うことはもっともだが……今じゃなきゃダメなのか?

 あれは自分の意志で自由に元に戻れるが、小さくなってから最低一時間はそのままって制限があるんだ。

 出発が遅れるぞ』

「あら、その程度の時間的な余裕はあるわよ。

 あんた、どうせみんなに見られるのが恥ずかしいんでしょ?

 いい、みんな! ライガが小さくなっても笑ったりからかったりしちゃダメよ。

 約束できる?」


 オオカミたちは真面目くさった顔でうんうんと頷いた。

 ハヤトとトキが能面のような無表情になっているのが気になるが、ユニは満足そうに頷いた。

「ライガ、あんたオスでしょ。

 覚悟を決めなさい、往生際が悪いわよ!」


『そのウエマク様が貸してくれたっていう魔法具はどこにあるの?』

 ミナが疑問を口にした。

「うん、ライガの奥歯に嵌めているから外からは見えないのよ。

 さっ、ライガぐずぐずしないで!」


 ライガは逃げ道がないと諦めたようだった。

『そうかすな。……じゃあ、やるぞ。

 ……本当に笑うなよ?』


 ライガの口元で「かちり」という微かな音がした。

 その途端に彼の姿が蜃気楼のようにゆらりとぼやけ、次の瞬間、そこには生後三か月程度の仔狼が立っていた。


『!!!!!!!!!』

 群れのオオカミたちの間に雷に打たれたような衝撃が走り、一瞬時間が止まる。

 一拍の間を置いて、ヨミ、ミナ、ヨーコ、ジェシカ、シェンカの五頭が一斉にライガに襲いかかった。


『ギャアーッ! なにこれ可愛いぃぃぃっーーーー!!!』

『うそっ! 赤ちゃんだわっ! ライガが仔狼こどもになってるぅ~!』

『じぃちゃんが可愛くなったぁーっ!!!』


 女衆に飛びかかられたライガは、雌オオカミたちの太い前足であっさり仰向けに転がされた。

 身体中をべろべろ舐めまわされ、ふんふんと臭いを嗅がれ、散々おもちゃにされたライガは甲高い悲鳴を上げた。

『きゃん!』

 ハヤトとトキは無表情で耐えていたが、その声を聞くともう我慢ができなくなって笑い転げた。

 特にハヤトは過呼吸を起こして痙攣するほどで、ユニが慌てて顔に水をぶっかける始末だった。


 ヨミはライガの顔を舐めまわしながら、うっとりとした顔をしている。

『あらあらあら、身体が小さくなるだけだと思ったら、本当に仔狼に戻るのね!

 可愛いわぁ~』

 ユニも微笑ましくその様子を見ていた。

「うん、難しいことは分からないけど、この世界に召喚されているのは幻獣の魂だけで、身体は仮のものなんだって。

 ウエマク様は星幽体アストラルボディとおっしゃってたけど、それは魂と結びついたままでも容易に変質させられるんだって。

 だから身体だけ時間を遡ったり、元に戻ったりするのもそう難しくはないらしいわ」


 気の毒なのはライガだった。体格だけでなく力まで幼少期に戻っているので、興奮した女衆に弄ばれても抵抗できない。

 仰向けにされた彼の視界は巨大な雌オオカミの顔で埋め尽くされ、その隙間から青い空が覗いていた。

 その青い空とわずかばかりの白い雲に、黒いしみ・・のようなものが見える。

 ライガは目にゴミでも入ったのかと思ったが、その黒い点はどんどん大きくなってくる。


「!」

 一瞬で強烈な警報アラートがライガから発せられた。

「危ない」といった意味を成す言葉ではない。差し迫った危険を知らせる問答無用の緊急信号だった。

 オオカミたちは間髪を入れずその場から飛びのいた。準備動作抜きの数メートルに及ぶ跳躍だ。

 ヨミは咄嗟に仔狼と化したライガの首の後ろを咥えることを忘れなかった。


 こんな機敏な動作はオオカミだからできるのであって、普通の人間であるユニは警報を受け取っても身体が対応できず、わずかに腰を浮かしただけであった。だが一番近くにいたヨーコが、がら空きになったユニの腹部に頭から体当たりをかましてくれた。

 小柄なユニの身体は見事に吹っ飛ばされ、派手な水音を立てて沼の中に落ちた。


 ライガの警報が鳴ってわずか一、二秒で、ユニたちがいた草地は空っぽになった。

 空から一直線に落ちてきた黒い塊りは、地面に激突する寸前でぶわっと爆発するように広がった。

 巨大な翼が大きく羽ばたき、急制動を掛ける。

 同時に黒光りする巨大な鉤爪が、無人となった青草と土くれに突っ込まれ、何も掴めないまま虚しく引き上げられた。

 黒い塊りは一瞬ホバリングするように空中に留まり、次いで大きく激しく羽ばたきして再上昇しようと試みる。


 しかし、敵の逃走を許すオオカミたちではなかった。

 その場を一瞬で飛びのいたオオカミたちは、即座に反撃の態勢を取っていた。

 黒い塊りが空中で停止した瞬間を逃さず、灰色の塊りが咆哮をあげて一斉に跳躍し飛びかかる。

 巨大なオオカミたちは、その凶悪な顎に捉えた獲物を決して離さない。

 敵の翼に、喉元に、腹に、背にがっちりと牙を潜り込ませ、ばきばきと骨を噛み砕き肉を抉る。


「ケエェェェェーーーッ!」

 周囲に鮮血が飛び散る。

 聞くに堪えない不気味な悲鳴を上げながら、オオカミたちの体重で浮力を失った敵は地面に引きずり降ろされた。

 その時点ですでに勝敗は決していた。

 敵を押さえつけたハヤトが、改めて喉元に牙をたて、ごきりと首の骨を折ってとどめをさした。


「うわぁ……、ずぶ濡れだわ」

 ユニがぶつくさ言いながら沼から上がってくる。

 彼女を吹っ飛ばした張本人のヨーコが済まなそうな顔で駆け寄ってきた。

『ごめん、ユニ。咄嗟のことだったの。大丈夫?』


 ユニは笑ってオオカミに答える。

「水の中に落ちたから平気よ。こっちこそ助かったわ。

 ありがと、ヨーコさん」


 ユニはオオカミたちに囲まれ、ぼろ雑巾のようになっている敵の元へ歩み寄った。

「これって……ハーピーかしら?」

 ユニの側に寄ってきた仔狼姿のライガがふんふんと臭いを嗅いで答えた。

『そうだろうな。あっちの世界で飛んでいるのを見たことはあるが、こっちじゃ初めてだな』


 ハーピーは身体は人間の女で、肩と腰から先が鳥という合成獣キマイラの一種である。

 ユニも知識として知ってはいたが、見るのは初めてだ。

 魔導院では美しい女性の顔と豊満な乳房を持ちながら、貪欲で不潔な怪物だと教わったが、現実は全く異なる存在だった。


 頭は確かに長い髪を生やした女性のようではあるが、目が極端に離れている。

 ちょうど人間のこめかみに当たる部分にぎょろりとした猛禽類の目がそれぞれついている。

 息絶えて半開きになった口は耳元まで裂けており、中にはびっしりと細かい牙が幾重にも生えている。

 両胸の膨らみは乳首すらないただの肉瘤であった。

 確かに遠目に見たら、半裸の美しい女性だと想像してしまうだろうが、近くで見ると吐き気を催すような醜い化け物にすぎない。


「オークやゴブリン以外にも〝穴〟は時に変わった幻獣を吐き出すって言うけど、こんなのが出てくるとは世も末ね」

 ユニの独り言にハヤトが振り返った。

『こいつがここを狩場にしたせいで、オークが追い出されたのかもしれないな……』


 腐臭を放つハーピーの死骸は、水場を汚染しないようオオカミたちが引きずっていき森の中に放棄した。

 いずれ森の小動物や昆虫が腐肉を始末をしてくれるだろう。


 ライガが小さいままだとユニがその背に乗れないので、その間に彼女は濡れた衣類を着替えて干し、オオカミたちは木陰で血に汚れた毛並みを舐め取り、入念に毛づくろいをして時間を潰した。

 ライガが元の姿に戻り(女衆は不満げだった)、ユニたちが出立したのは日の出から四時間近く経った午前九時を過ぎたころだった。

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